大正12年12月20日(木)、有楽町駅すぐ(日比谷側)埼玉銀行の地下にて、高級園芸市場が営業を開始 すぐにスバル座あたりに移る
●今から99年前、関東大震災から3か月少し経った12月20日(木)に「フラワーマーケット(高級園芸市場)」の最初のセリ取引が始まった。当時を知る湯浅四郎氏(東京農産商会社主)によると場所は有楽町のスバル座あたり、埼玉銀行(現りそな銀行)の地下を借りてスタートした、と述べている。
湯浅四郎氏の東京農産商会は、主に球根植物に特化した種苗商として営業をしており、蒲田に農場を持ち、東京の有楽町の駅前(銀座側に出て、今のイトシアあたり)に売店を構えていた。有楽町をよく知っている人物だった。
1、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災により、東京の花問屋のほとんどが営業できなくなり、花の生産者は、東京での出荷先がなくなってしまった。そこで生産者は、かねてから議論していたように、自ら花市場を設立することにした。
※市場設立の母体となったのは大正7年にできた「大日本園芸組合」
宇田明氏のブログに詳しい(資料「世田谷の園芸を築き上げた…」)
※北米西海岸の日系人園芸家たちは、カリフォルニアで花市場を創業していた。
これを、1921(大正10)年、日本の花生産者、野口秀(=佳伸)、岩本熊吉両氏が渡米し花市場を視察している。(豊明花きHP)
※震災当時の銀座、京橋あたりのようす
2、場所は有楽町駅の日比谷公園側の出口を出てすぐの「スバル座」(有楽町一丁目)付近にあった埼玉銀行の地下を借りてスタートした。
「埼玉銀行(※現りそな銀行)の地下室を借りたが、どうも地下室ではあまりせまい。そこでスバル座の所に出て、焼けた跡のバラックを借りて発足した」(湯浅)
つまり、
当初、銀行の地下を借りて始めたものの、すぐに地上のバラックに場所を移した、ということである。(その場所は戦後、「丸の内スバル座」が開業した場所で、さらに火災のため「有楽町ビル」に建て替えられた。雑誌の対談時点で、湯浅氏は、バラックのあった場所はスバル座のあたりだと話している。有楽町駅を出てすぐの場所。現在スバル座はないが、有楽町ビルは存在します)
これを裏付ける資料として、
東京、三田の老舗花店「花銀」の小西銀次郎氏は、当時のことを振り返って「日比谷のバラック」だった、と書き残している(「東京花一代記」)。日比谷というのは、有楽町の日比谷公園側だからだと思う。あくまでも最寄り駅は日比谷駅ではなく、有楽町駅だ。※都営地下鉄日比谷駅は1964(昭和39)年に開業しているので当時は存在していない。
※『実際園芸』昭和7年1月号に伴田氏(「切花の生産と出荷法(一)」第12巻1号)には、「東京市麹町区有楽町一丁目四番地にて営業を開始した」と記されている。これが「日比谷のバラック」の地であるかもしれない。現在のミッドタウン日比谷がある場所である。
3、その後、少なくとも一度「東京市南佐柄木町4番地(実園昭和2年7月号、同事務所内に日本ダリヤ会が所在)」という地番の地に移転している。
『園芸人名録』昭和3(1928)年に掲出の広告 「南佐柄木町4」
これは、創業から4、5年後(昭和2、3年頃か)に六本木のゴトウ花店の世話で銀座裏通りに市場らしい体裁を整えたという(小西)。場所は当時の京橋区南佐柄木町4番地だという。地区が「京橋区」であったため、「京橋の高級園芸市場」あるいは誤って「京橋花市場」「京橋市場」などと呼ぶ人もいるが、それは、現在の大田市場、花の仲卸「京橋花き」につながる別の市場である。実際は西銀座に所在し、最寄り駅は有楽町駅と新橋駅である。
※高級園芸市場の立ち上げには、花屋、小売も関わっていて、とくに六本木の後藤午之助(後藤洋花店)と日本橋の紅葉山喜三郎(花喜三)の両巨頭、銀座の千疋屋が重要な役割を果たしたという。
区画整理で現在と同じ新しく広い道路(都道405号外堀通り)ができ。市電も通るようになった。市電の停留所は「「銀座西六」、目の前。
4、高級園芸市場は、有楽町駅前スバル座あたりから南佐柄木町(後の西銀座)に移転したが、「震災復興土地区画整理事業」による道路(都道405号外堀通り)の拡張のため町の半分が削られるような状態になった(昭和5年には住居表示も変更され町名も消滅)。
5、この区画整理のために、高級園芸市場は改築移転し、外堀通りに面した「銀座西6丁目1-6」(現在は中央区銀座6丁目)にて終戦時期まで営業した。
すぐ近くの電通銀座ビル(昭和8年完成)のようなコンクリート製の耐震・防火建築が「復興建築」の代表であろうが、これ以外にも「バラック」建築やいわゆる「看板建築」(道路に面した部分だけが耐火性材料で洋風、立派に作られた和風建築)もこの時代の復興建築に含まれている。高級園芸市場も「看板建築」の一種だと思われるが、将来を考えて、おそらく、耐震、防火、耐火性のある材料で作られたのではないだろうか。これが、写真に残る市場の姿だと思われる。また電車通りを挟んで斜め前には国民新聞社があった(震災で焼滅し大正15年に再建した。震災前、国民新聞社には勧業部があって、ダリヤの切花品評会が盛んに行われていたというので園芸家にはよく知られた場所だと言える。)。
『実際園芸』昭和4(1929)年2月号
※たぶん移転改築すぐの写真だと思われる
ハイグレードを表すH、F、Mを組み合わせたマークに注目。
数年前に撮影した跡地のようす
電通銀座ビル側から数寄屋橋(旧SONYビル)方面を望む
現在の住所で見ると、丸源15ビルか新堀ギタービルの
あたりになる(東京都中央区銀座六丁目5番地11あるいは12)。
現在、市川バラ園のメゾン銀座店が近くのビルに入っているのは
なにかの縁なのかもしれない。
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.45.55.842N35.40.6.030/zoom/11/?data=meiji
高級園芸市場から徒歩10秒という近さにある電通銀座ビル このビルの1階に永島四郎氏の「婦人公論花の店」があった。上の写真を撮影した場所から振り返って見るとこのビルが目の前です。(このビルの外壁はよくファッション誌で背景として使われています。)
高級園芸市場は、日本で初めての花市場だ。競売制(セリ)で価格を決めるのも日本で最初におこなった。高級園芸市場組合という生産者がつくった市場であることも重要だ(組合長・烏丸光大、理事長・伴田四郎)。この市場の誕生によって、震災前までの花問屋による不透明な取引を改善し需要と供給のバランスに見合った取引、品質向上に大きな力を発揮する。のちに同じような花市場がつぎつぎと全国につくられるきっかけとなった。
温室経営者が中心となって生まれた市場
設立の中心になったのは現在の大田区や世田谷区で温室を営む経営者や、とくにのちに田園調布の多摩川沿いにあった玉川温室村をつくる生産者たちで、カーネーションやバラ、メロンなど自分たちがつくる温室栽培の洋切花・果物を中心に質の高いものを扱うという気持ちがその名称に含まれているようだ。花の他にメロン、ブドウなど高級温室果物、促成栽培のトマトなども扱った。市場の責任者は組合長の烏丸光大(みつまさ)氏、理事長は伴田四郎氏。(※「トモダ」)セリ台は石山顕作氏だった(「世田谷の園芸を築き上げた…」)。
参考資料
伴田四郎氏について
伴田氏は生産、市場の活動の他に全国各地を講演し行く先々で花卉産業の発展に大きな貢献をされた。昭和9年には有栖川宮記念厚生資金から表彰されている。(「実際園芸」第16巻5号・昭和9年4月号ほか)
※先述のように、高級園芸市場から数メートルしか離れていないところに、現在も残る電通銀座ビルがある。ここのビルの1階角に、昭和10年の春、「婦人公論花の店」が開業する〈上図)。日本のフラワーデザイン界のパイオニア的存在である永島四郎氏が経営を担った。市場との関係の非常に深かったと思われる。地方から出てくる花屋や生産者はこの店をのぞいていたようである。(「花露記」)
有栖川宮記念厚生資金での表彰
『有栖川宮記念厚生資金選奨録. 第2輯』