高級園芸市場のはじまり(T12)とそのきっかけとなった大日本園芸組合の誕生(T7)のいきさつについて(『世田谷の園芸を…』)

 

『世田谷の園芸を築き上げた人々』湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970 


大日本園芸組合ができるとき、二つの動きがある。

ひとつは、温室および促成栽培園芸家の系統である。東園出身で促成野菜をやっていた早川源蔵、同じく促成野菜の品川大井村の豪農、倉本彦五郎(この人は多数の旅行記を出している作家でもある)、温室経営、日本のカーネーションの父、土倉龍次郎が会談をしている。

もう一つは、流行のダリヤ栽培を手掛ける人たちである。

いずれも、切花の流通ルートがきちんと整備されていないことに不満を持っていたと思われる。

せっかくよい花、日本国民に喜ばれる花をたくさん育てる技術も気持ちもあるのに、中間業者がいいかげんな値付けをし、決済もダメダメであった。

日々たんせいして育てている生産者はアホらしくてやってられない。

これをなんとかしないと、自分たちの仕事に未来はないと考えていた。

転機は大正12年9月に起きた関東大震災のあとに訪れた。

高級園芸市場のはじまり

https://ainomono.blogspot.com/2022/12/121220.html


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大日本園芸組合  (※温室経営者を中心に大正7年頃に誕生)


(前略)

以上述べて来たこととは別に、大正六年頃三井家の農園が(※東京府荏原郡)平塚村戸越にあった(※戸越農園)。そこの主任をしておられた森田喜平氏の紹介で、早川源蔵氏が、倉本彦五郎(※荏原郡大井村字原の豪農、多数の旅行記あり)、土倉竜二郎(※龍次郎)両氏と今後の園芸界のことについて語り合う機会を与えられた。

その頃、国民新聞社に勧業部があって、ダリヤの切花品評会が盛んに行われていた。そこに太田氏と篠原氏がおられ、当時、ダリヤで有名であった野口(※秀)氏(何れも故人)と会合し、花卉園芸の現在及びその将来について話し合った。これとは別に伴田四郎、大沢(※幸雄)、野口(※秀=佳伸)、赤松(※堀の内萬花園主 赤松憲定氏?)、木村重孝、大場守一などの諸氏が、大日本園芸組合設立の構想を練ったのであった。こうした動きが各地に起り、前記の諸氏により数度の略議を重ねた結果、大正七年頃この組合が誕生したのである。

※どうも、ダリヤ関係者が数多く関わっているようである。国民新聞社でのダリヤ切花品評会の場にいた太田、篠原の二人や野口、赤松氏らがいる

※木村重孝氏は、湯浅四郎(東京農産商会)、井田秀明、石飛太吉(トドロキ花園)らとともに『園芸人名録』(昭和3)を制作した園芸通信社社員に名を連ねている

※『園芸人名録』によると野口秀は、大井町4795「北秀園」主。太田は深沢292(駒沢町)「清華園」の太田清太郎氏か?


事業として、機関紙の発行、外国種苗の購入、講演会の開催などを計画、着々と実行に移して行った。

これより述べる、高級園芸市場組合の設立も、本組合幹部が中心となって研究されたものである。


高級園芸市場


大正十二年九月、突如として起った大地震は関東一円に大きな被害を与えた。特に東京市と横浜はひどく、十万余の人命を奪われ旧市内の大半は灰燼と帰したのであった。罹災者は絶望と不安のどん底に沈み、流言誹語が飛びかい、一部には暴動の起こりそうな気配さえ感ぜられたのである。

併し日本人固有の不撓不屈の精神はよくこの惨禍から立上り、それと同時に全国から救援の手がさし延べられ、三、四年にして生れ変った大東京が建設された。勿論政府も日本の首都として将来の発展を考慮し、その復興に総力を注いだのであった。

こうした破壊から建設に移行する過程に於ては当然、資本や物資の流通が盛んとなり、経済一般の成長が起り市民の日常生活にもこれが影響し、物心両面に亘ってゆとりが出来たのである。花卉の需要も年毎に増加し、それと同時にその取引き機構に不満を感じて来たのである。

この機を逸せず大日本園芸組合では生産者の花卉園芸市場の設立を計画し、大正十三(※正しくは12年)年、現在の西銀座に、高級園芸市場を開設したのであった。取引き品目は一般花卉の外、温室ブドー、メロンその他高級果菜であり、手数料は組合員五分、非組合員は一割であった。市場責任者は組合長の烏丸(※光大:みつまさ)氏、理事長は伴田四郎氏、セリ台は石山顕作氏であり、小浦氏は帳付けをしながら宿直を兼ねていたのであった。当時私(※湯尾敬治氏)は榎本一郎農園に働いており、朝早くから小浦氏を叩き起したものである。静岡ばら園は毎日のように五百本位のばら切花を汽車で運び込んでいた。炭俵で包んだ荷を大風呂しきに包み肩に背負って朝早く私と同じ頃市場へ着いたのである。

その頃の主たる荷主の名を挙げれば、

カーネションー大塚、藤井、加藤、荒木、土田、鈴木、の諸氏であり、

バラ一二項園、長田(※おさだ)、静岡ばら園、

其の他の切花―榎本、早川、小杉、深沢地区の諸氏外に足立地区の鴨下、小池、

其の他、メロン、トマト―榎本、荒木、中井、青木、

これらの諸氏が優秀なものを出荷していた。

このような状態で生花市場の価値が業界に認められ漸次各地区に開設されたのであった。その主なるものは芝生花市場、日本橋、神田、下谷、上野、青山、渋谷、氷川、大森、都立園芸市場など多くの生花市場が生れ生産者もその選択が自由になり、出荷も容易になったのである。ふ

この頃のエピソードとして大場守一氏の語る所によれば、高級園芸市場の市況状態を、神田、芝、日本橋の生花問屋から「間者」を派遺して、毎日調査したそうである。

この高級園芸市場も、第二次大戦のあおりを受け、二十年の歴史を残して閉鎖せざるを得なくなったことは、これを築いた先輩諸氏の悲しみであった事と思われる。

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