【十四日会】大平洋戦争が始まる10年前から月に一度陸軍関係者から情勢を聞き園芸界の指針を見定めていた石井勇義氏のすごさ
『実際園芸』第17巻8号 昭和9年12月号
我が国固有の園芸品種の保存について 石井勇義
はしがき
我が国は古くより園芸技術の進んでいた国であり、鑑賞や趣向の上にも独自の立場で進んで来たために、今日までも固有の園芸品種が栽培されていたことは申すまでもないが、今日時勢の推移とともに、旧来のものが漸次に失われてゆく傾向にあるが、これは花卉のみならず、地方特産の蔬菜に於ても、果物に於ても同じようである。これらの園芸作物のうち、商品価値の低きものと、花卉にありては切花などにならず、実用性に乏しいものから先に失われてゆくようであるが、園芸作物の品種は必ずしも実用性のみをもって価値づけてしまうわけにはゆかぬものが多いので、二、三の意見を述べさせていただき、歴史的の存在である旧来の品種の保存を全国的に残さんがためにこの筆を執るに決した次第である。
花卉類について
我が国の花卉園芸が徳川中世の頃より著しい発達を遂げて世界的に誇るべき幾多の貴重なる品種を残しているが、この花卉の品種も昔時に比して全く衰潮にあるかというと、決してそうばかりではない。日本花きの品種の実在現況については、かつて本誌上に極くあらましを述べたことがあるが、私は品種保の必要を強調する意からして再び繰り返す次第である。園芸品湯のうちで最も保存の困難なるは庭木、花木の類である。花卉類にありては蔬菜の場合とは品種出現の動機が異なり、これを歴史的に考えてみても、流行と切り離すことが出来ない。即ち、一花卉の流行がめぐって来るたびごとに急激に新品種が作出されているし、同時に諸方に散在していた品種が収集されている。近い例をもって見ても、卷柏(いわひば)などは、昭和二年頃までは一、二の培養家を除いてはほとんど旧来の品種は絶滅したのではないかと考えられていたが、あの流行のために、一年を出でぬうちに百数十種が繁殖培養されることになり、昭和に於ける流行時代のを現出したが、遺憾ながら流行の範囲が狭く趣味者の数も多くなかったので、一局部の流行に止ったが、しかしあの当時多数の品種が一時に出現したのは決して偶然ではなく、清水氏という特殊なる保存家があったために、あれだけの品種が昭和の時代まで伝え得たのである。そこで、流行によって多数の品種の出現する動機をつくることは喜ばしきことであるが、一方に流行を超越して保存培養してゆく篤志家がなくてはならない。流行の波に乗って蒐集培養する人々は多くは植物を愛せず、物質を欲する営利家であるから流行が一度衰潮に向かえば、その品種の保存などとということには意外に冷淡であるのが普通であるから、品種の保存は営利家以外の特殊なる愛好者に待たなければならない。卷柏の品種なども全く一歩を過ぎれば絶滅というところにあったのである。
萬年青の如きも今日相当多数の品種があり、鑑賞的に発達している点に於ては、ほとんどあらゆる芸が見られるまでに達しているが、所謂人気品種以外の在来品種の保存が必要であると思う。それには組合が特殊培養家に委嘱して保存の法を講ずべきであると考える。これは今後の品種育成の上から考えても、品種を研究する上からも必要なることである。
また皆川(※治助:椿花園)氏の「つばき」なども全く営利を超越しての蒐集の一例である。即ち実際の蒐集者である先代の皆川氏は雨傘の製造を業とし、傍ら「つばき」に趣味をもち、当時駒込伝中の植木屋の未だ残存した時代であったために、「つばき」の蒐集家であった伊藤伊左衛門の収集品を譲り受けて基礎をつくり、それと同時に東京を中心として、変わった「つばき」のあるを聞けば乞うて挿し穂を譲り受けたとの由で、同氏が全く趣味の立場から収集したものが、今日百五重余種の保存となり、当主の治助氏がこれを営利化しているが、まず関東を中心として徳川末期に現れた品種の大部分は同氏によって保存されているようである。「つばき」の品種数の多数に載っている書は寛文年間の『稿本花壇綱目』で、これに四百九十種掲げられているから、単に数字的に考える時は、今日の倍以上に達するわけであり、当時の盛んであった事実を窺うことができる。
https://karuchibe.jp/read/10184/
※ここで治助氏の父を伊左衛門としているのは、正しいのかどうか不明(伊藤伊左衛門と同じ名前になってしまう)。
次に、上野(※己作)氏の「もみぢ」の品種が駒込伝中の伊藤伊左衛門氏のものが安行の算盤の師匠であった某氏の趣味の蒐集となり、これが現在の上野氏に伝わって、今日なお百五十余種が保存されていることになったものである。
多数の花卉についてかかる事例を述べると限りがないが、かかる特殊家によって保存されて来たものが将来はどうなるか、今後はいかなる方法によって保存すべきか、これを明治時代に比し、時勢の推移、園芸家の経済事情等により、異なった方策を建てねければならない。今後の園芸品種の保存について、これを個人的になすべきか、団体、公共等の力に俟つべきであるかということを第一に考えなければならない。
従来とても学校、富裕階級の蒐集家等により、いろいろの花卉が蒐集培養されたことは非常に多いが、十分に保存培養の目的を達してますます品種の蒐集上効果をもたらした例は稀である。京大の菊池(※秋雄)博士は「花卉の蒐集と培養は予算ではなくその人を得ることだ」と言われていたが全く同感である。学校、植物園等に於てもその人を得ることが第一である。公共的に品種の保存されている例としては小石川植物園に日本桜草の品種の蒐集されている如きもその一であるが、学校等において、花卉品種の蒐集保存を計ろうとする場合には、まず培養家に神技にも等しき特殊なる技術者を得ることである。通り一遍の助手や農夫をしてその衝に当たらしめたのでは決して実績はあがるものではないことは明らかである。当事者にその人を得、培養者が壺にはまってはじめて保存培養の目的が達せられると考える。
東京府園芸学校の盆栽やいろいろの園芸品種が石川(※保太郎)講師によって培養されているごときはその一例であろう。
団体としての保存
次は団体的に品種の保存を計る問題であるが、これについても必然的に起る問題は、培養管理者にその人を得ることである。その場合の手段として一つの団体で共同苗圃式に品種園をうくり、団体で交代的に管理をするというようなことは考えられぬでもないが、筆者はそれでは十分の目的を達することは困難であると考える。それよりも更に有効なる方法は、団体内の最適任者に委託管理として十分の補助の下に行わしむることがよいと考える。その場合には地方的の有力者とか名誉的の委託であってはならない。その品種を正視し得る技術者でなければならないと考える。地方的に発達している品種の保存はこうした確たる方策の上に永久的の施設方法を講ずべきの時であると思う。一例を示すならば、新潟県下で育成された牡丹の品種、紫金牛の品種、百両金の品種は発祥地の新潟県花卉球根協会が適当の当事者を選定し補助を給して保存を計画するとか、兵庫県下で育成された牡丹の品種はその地方でやるというように、久留米つつじ、東京堀切の花菖蒲、伊勢の花菖蒲、熊本の肥後芍薬、肥後菊、肥後山茶、熊本花菖蒲というように数え来るとそれぞれの特産地が郷土的に保存を必要とするものが相当にある。また園芸学校などに蒐集保存していった方がよいものもあるが、花卉によっては学校ではなし得ないものもあると思う。通り一遍のことはできるとしても、その品種として遺憾なく培養してゆくためにはそれぞれ特殊なる技術者を要することになり、予算の上から許されない事情が起るのではないかと思われる。またその特殊の土地以外では培養の極めて困難なる物もあろう。石斛(せっこく)の品種、花百合の品種の如きもその一例であるが、これも科学的の研究が進み、設備も十分の施設をして気象的変化にも抗しうるような設備をするならば邦内のものはすべて一ヶ所に蒐集し得るかもしれないが、現在までの経験的技術のみにてはほとんど不可抗力かと思われる難物が相当にあると思われる。
最後に蒐集についての私見を述べると、近時日本花卉の品種を蒐集しようとする計画や趣味者が多くなりつつあることは喜ばしき事実と考えるが、品種の識別についてよほど深長に考うる必要があると思う。現在その道の生き字引的の蒐集家の実在するものにありては、それを基礎にして文献的の調査と相俟ってある程度正確を期することはできるけれども、そうした便宜のないものに至りては品種の正確を期するためにはよほど困難を感ずることである。例えば、花梅の品種の如きも、平尾氏の如き生き字引の培養家が居らるる間はまず同氏によって難問はたいてい解決し得るが、これを事実を知らずに文書のみによって判定することはよほど危険があると思う。何となれば従来の花卉品種の説明(主に徳川時代のもの)は極めて簡略にて、今日から見れば記述が非科学的であり、そのものを相当に知っている人々には簡略ではあるが要点をつかんでいるので判別はできるのであるが、未知識者には全く役に立たぬものが多い。科学的に品種そのものを正しく記載することはできるが、それが果たして旧来からの品種に当てはまるかどうかということには不安が伴いやすいことになる。
新品種の育成
保存のことのみを述べてきたが、これと同時に日本花卉の新品種の育成を計らなければならない。品種の蒐集保存の目的は、今日の品種の基本種を保存してゆこうという歴史的の意義も存するが、同時に今後の新品種育成の母本として役立たしめ、花卉鑑賞上の推移を知る参考ともなし得るはずである。今日日本花卉の品種は特殊のものを除いては極めて出現が少ないが、現在の遺伝学や育種学の基礎の上に立ちて合理的に行ったならば旧来のものよりもさらに優良なる品種が能率的に作出し得るわけであるから、その方面にも進まなければならぬと考える。しかしそれに対して考えることはそのものを十分に正視し得てはじめて着手し得ることである。理論的には相当に頭に入っているものが実際上では旧来の品種を凌駕する如き品種を育成し得ないということは十分にそのものを把握していない証拠であると同時に、花卉の優良品種を選出し得る人は、当事者が鑑賞眼の発達した人であり、基本的には絵画芸術的天分をも有するということがよほど重大な事柄であると考えている。筆者は花卉の育種家とその人の美的感念、鑑識眼の高下その他について実例的に注意を払って来た結果にこうした事実を結論的に考えるようになった。
新品種育成の目的は徒らに数量を多く作出することよりも、数は少なくとも真に優秀なる品種を育成するにあると考える、五百種の駄物を作出するよりも五十種の価値ある品種を作出するの勝れるは申すまでもない。花卉にあっては殊にその感を深くする。今ひとつ不可思議に考えられることは、育種学を修めた専門家よりも、全くそうした基礎知識を有しない当業者が手数を要せずに専門の学者よりも優秀なる品種を選出する事実である。今日の新品種の育成には育種学の知識を必要とし、そうした基礎の上に立たなければ好結果を得られないことは明らかであるにも関わらず、往々にして反対の結果を招来することは、育種家は理論方法には長じていても、育成すべきそのものに暗く、真に堂に入っておらなかった結果と思われる。花卉にありては新種の育成技術は容易であっても、そのものが、どの程度まで園芸界から尊重されるかということは難しい問題である。花卉実生家とその作出品種の関係を事実の上から考えてみることは興味が多い。
果樹や蔬菜に品種保存
花卉品種の保存の必要であると同じようにそれぞれ特産の蔬菜や果物の旧来の品種を保存してゆく必要があると思う。まず蔬菜を考えると、一面急速に営利品種が単純化されてきた結果、商品価値乏しき品種は市場から全く駆逐されたごときであるが、これを需要者の側、特に趣向の方面から考えるときは全く物足らぬ状態に傾き過ぎた結果一方では特殊なる品種を求めてきたようである。東京においては一流デパートの食料品部、二幸、さかえ屋、八百屋の一流の店舗等に特殊な蔬菜の品種が多く見られるようになった事実から見ても明らかである。京都で僅かに作られている辛味大根を、東京の一流料理店が自慢的に用いているなどもその一例である。筆者も旅行するごとに、その土地の特殊な蔬菜について多少調べているが、一県に一つや二つの特殊な品種が作られているようである。これらの多くは品質的に大方優れているものが多いが、これを経済的に考えると、少量であれば珍重されるが多量生産には適しないところから生産は漸次に減少してゆく一方であるし、将来絶滅に向かうものが多いと考えるが、果樹と異なり蔬菜の品種を交雑させずに保有してゆくことはよほど難しい問題であるが、これはどうしても地方的に保存を計るより他にないと思う。根菜類の変わった品種の最も多いのは、京都であると思うが、一般の蔬菜書などに見られぬものに実に珍しい良質のものがあるようで、こうした特殊な蔬菜を再認識する必要があるとともに良質のものは保存を計るべきであると思う。
近時の大衆生産の傾向は品質よりも形の大なるものとか、外観の見事なるものに傾いてゆき、品質がいくら優れていても形の小さいものや、外観の良くないものは奨励しないという単調なる方法でゆくことは指導奨励の立場にある者の一考をようするところであると思う。
果樹にありては自分は一つの郷土的の興味をもっている。旧来から郷土的に発達した品種は、やはりその地方として保護培養してゆくべきであると思う。果樹園芸の急速なる発達をなした我が国に於てはほとんどかくれた優良品種というものはないかも知れないが、よしんばその品種が商品価値の上からはあまり優れておらないにしても、一つの郷土愛という立場からも保存する必要があると考えるのである。
吾人がその生え立った郷土について愛着を感ずる大きなる力は、子供の時から口にして来た土産の果物であり、その地方の蔬菜についての記憶は何時までも脳裏から去らぬものの一つである。最近郷土愛とか自己の出生地を忘るるなというような叫びが社会的になってきた今日、園芸を通じて郷土を懐古することには尽きぬ楽しい思い出があり、郷土愛の観念もそこに起るように考えられ、祖国愛の観念は祖国の固有の園芸品を通じて呼び起こされるような気がする。
◇
私は昭和六年以来、愛国の同志とともに陸軍省調査班と新聞班の援助の下に「十四日会」なるものを起こし、毎月十四日に九段なる偕行社に会合して陸海軍のそれぞれ専門家から国防に関する講話を聞くことを今日まで続けてきているが、そうした愛国思想を深くした一つの動機をなしているのは、私自身としては園芸を通じての郷土愛、祖国愛からも導かれているのである。日本国民はこの大日本帝国の国土を離れてはどうしても生存のできない国民である。それほど祖国を愛し、執着のある国民性であるから従ってそれぞれの生まれた郷土に対しても極めて愛着の心情が深いのである。この郷土への愛着の懐古は郷土特有の花卉であり果物であり、野菜である。あるいは郷土風景である。この郷土愛が大となっては祖国を熱愛する心情となり、国防思想の淵源をなしていると考えている。それが皇室宗敬の国民精神とともに、今日世界をリードせんとする日本精神をなしているところである。
こうしたことを考える時、郷土的に発達している園芸の保存ということは国民精神に及ぼす影響の点から考えても、保存とともにさらに進んでその発達を期すべきであると考える。
(十一月十五日夜半)※昭和九年
※九段の偕行社は、靖国神社の鳥居前にあった。陸軍唯一の公認将校団体の会館
http://jshian.jp/moijan/ikou/tokyo/ikou-kaikousha.htm
https://www.ndl.go.jp/scenery/data/215/
※日本の近現代の園芸普及に貢献した前田曙山氏も十四日会に参加していた
『実際園芸』昭和16年6月号から
参考 昭和16年3月号