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日本で最初にオアシスを使ったデモンストレーションを行ったディーン夫人の肖像

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Hortense Dean (神奈川県花き業界沿革史1967) ディーン・トラウト・スクール・オブ・フローラル・デザインという学校を経営。  第一園芸株式会社で1960年代からホテルオークラなどで花き装飾にたずさわり、退社後には花の専門学校でも教えられた山本晃氏が書いた『ニューフラワーデコレーション』新樹社 1974(昭和49)年、のなかで、山本氏は、昭和32年(1957年)に来日されたホーテンス・ディーン夫人による青山生花市場での講習会の際に初めてオアシスをというものを見た衝撃を書き残している。山本さんはこのとき「目を見張ったオアシスの出現を、未だに忘れることが出来ない」と記している。永島四郎氏もこのときは現場にいた。主催したJFTDの創立者、会長の鈴木雅晴氏は永島氏にたいして「あなたがずっと言い続けてきた時代になりましたね」と声をかけねぎらったという(『種子を蒔き育てし人々』1998)。 *山本晃氏は永島四郎氏の直弟子として氏の著作の制作にも深く関わった。著作『ニューフラワーデコレーション』では日本の戦前戦後のフラワーデザインの歴史が詳述されている。 実は、このデモンストレーションに先立つ1954年、ディーン夫人は小原流のいけばなを学ぶために来日しており、青山市場でデモを行っている。このときが日本で最初にオアシスを使った実演だという。グラジオラスをつかった「グラメリア」の技法も見せたそうである。通訳はフラワーデザイナーの村田ユリさんであった。 もう一つ、ディーン夫人の肖像が見つかったので、画像を抄録する。 昭和37(1962)年、盛花記念館と家元会館の開館記念式典での様子だという。家元夫妻のすぐとなりに立っていることからも小原流にとってアメリカにおける重要な人物であったことが想像できる。背が高い女性だったようだ。 『盛花と小原流』 小原豊雲 主婦の友社 1963(昭和38)年 『フラワーデザイン12か月』 マミ川崎 マコー社 昭和43(1968)年 p138 『IKEBANA international』issue No5 1959 1959(昭和34年)の小原流主催の講演と実技の会 「アメリカの装飾いけばな」

いけた立華の水換えはどうするのか~水抜きと水打ちの道具

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 明治以前の日本のいけばなでは、いろいろな道具が開発され利用されていた。 今日は、一時代を築いた「立華」のスタイルでいけあげた花の水換えをどのようにやっていたのかについて見てみたい。 立華だけでなく、他のいけばなや装飾についても同様だが、「一度設置したら動かせない」ものに対して、一定期間の鑑賞が求められる場合、どのように水換えをするのかということだ。小さいものならば、いったん花器から花だけを抜いて、メンテナンスしてから再度いけなおすことができる。しかし、立華のように、花器のなかに「こみわら」を入れて、それに深々と真の枝を挿し、その他の花材もしっかりと入れてあるものはそう簡単にはいかない。現代のアレンジ装飾も同じで、飾られた場所に水をこぼしたり汚すことの出来ない場所での水換えには、ポンプのように花器から水を吸い上げて出す道具が必要なのだ。 現代では灯油を移し替えるポンプ、通称「シュポシュポ」のようなものがよく利用されている (正式には「石油燃焼器具用注油ポンプ」みたいな名前があるようだ)。 下に示す図は『頭書 立花指南』の「立華諸道具訓蒙図彙」から 【水抜き】 ヒタヒタに水を入れた器から水を抜く道具 器に筒を突っ込んで反対側(出口)にある小さな突起穴を少し吸うことで水が引き出され水圧で流れ出るような仕組みだと思われる。 水抜きの使い方は、まずいけたあと、飾る場所にセットしたら水をしっかりと入れる。水際が見せ場になるので、水もヒタヒタに入れていく事が多い。その際、いけたときに混ざった小さな花材ゴミが浮かび上がってくるので、そのようなものを少しずつ取るのはとてもたいへんだ。それで、この水抜きが活用される。水と一緒にゴミも流しだすようにする。 飾ったあとの水換えの際には、器の底の方に沈殿する汚れたものも一緒に吸い出すようにするのがよいという。植物は吸い上げるだけでなく、けっこういけ水に茎からの分泌物が出てきて水を汚す。ので理にかなっていると思われる。 『頭書立華指南』 水抜きに関して、『立花資料集成』には、別な本も紹介されている。そこには、「水抜きを使うときには、まず空で一吹きすべし」、とある。それは、この小さな穴の中にムカデ(百足)が隠れていることがあるからで、いきなり吸い込むとたいへんだからだという。 また客人などの前でいける場合は、筒に口をつけていろいろやるのはかっこ

大井ミノブ氏による花屋の歴史 『いけばな辞典』

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 花屋の図 『生花早満奈飛』から 大井氏は、「子供」が花を買いに来ていると述べているが、男性の身長と比べても大人の女性なのではないだろうか。 江戸時代の成人男性の平均身長は160センチ以下だし、女性も150センチ以下。なので、絵図の女性も子どもには思えない。 江戸東京博物館  https://bit.ly/3tiOdkb +++++++++++++++++++++++++++++++ 【 花屋 はなや 】 いけばな辞典 大井ミノブ編 東京堂出版 1976(昭和51)年 生花商ともいい、草花を商売とする店をいう。 その成立は江戸時代初期であるが、いけばなが成立した室町時代には、花材を花園に求めたり、あるいは「足でいける」といったことばどおり、山野を歩いて花材を求めたものである。 狂言の「真奪*(しんばい)」にも、立花(マツ注:りっか)の真を求めて山に出かける光景が描かれている。これが江戸時代初期、立花が流行し、花材の需要が多くなるにつれて花屋の出現をみた。 京都郊外の泉涌寺山や、清閑寺山に行って枝振りの面白いのを切って販売している(「土産門 上」〈『雍州府志』*巻六〉。また花屋を屋号としていた庄左衛門(「隔蓂記」*明暦四年七月七日・一五日)という商人が金閣寺の住僧、鳳林承承章のもとに草花を届けている。 これが、立花の隆盛をみた元禄期(一七世紀末)には、京都市中に、立花の下草屋や、草花を振売する商人があらわれた(「人倫訓蒙図彙」元禄三)。とくに、立花にかわって生花(マツ注:せいか・しょうか)が流行し、いけばなが大衆化した江戸時代中期以降、立花(マツ注:ママ、草花では?)の需要はいっそう、増加した。 安永ごろ(一八世紀後期)、江戸近郊の農村に、花卉栽培が盛んとなり、切り花として出荷している(「江戸名所図会)。 寛政ごろ(一八世紀末)に、「 どぶの坊 ほどに花屋は生るなり」という川柳があるが、花屋は販売のほかに、草花をいけることもあったようで、それを、どぶの坊(池坊に対し)程度と風刺しながら結構、ちょうほうした様子である。 このような商売ぶりからも花屋は繁昌したので、天保六年(一八三五)刊の 「生花早満奈飛*」のさし絵に、活花、挿花、生花会のポスターを飾った花屋に、子供が花瓶を持って買いに来ている場面がある (マツ注:図参照、子供なのだろうか?) 。 このほか、仏事や祭礼な

戦争が終わって日本で最初に行われたいけばな展「窓花展」のこと

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 ●『花に生きる 小原豊雲伝』 海野弘(うんのひろし) 平凡社 2010(平成22年)年 ●『いけばなへの招待』 下田尚利・重森弘淹 村山書店 1958(昭和33)年 ●『盛花と小原流』 小原豊雲 主婦の友社 1963(昭和38)年  参照 『花道周辺』小原豊雲 河原書店 1950年 から https://ainomono.blogspot.com/2022/03/blog-post_85.html 1945年、8月15日、日本は終戦を迎えた。それから1ヶ月もたたない9月(日付不明)に戦後はじめてのいけばな展が行われた。場所は、神戸大丸百貨店のショーウィンドウである。花をいけたのは、小原流三世家元、小原豊雲氏。 ●いちばん最初にいけたときには、背景に中山岩太氏の写真が使われていた。 ●いけかえの際に、背景が井上覚造氏の絵画作品(焼け跡のスケッチ)に変更された。 ●井上覚造氏は豊雲氏の3歳年上で兄貴分として、生涯の友として親しくつきあったという。豊雲の長女で小原流を支えた雅子氏(1940年~)は、井上氏のことを「おじちゃん」と呼んでいたほどであった(海野弘『花に生きる』p201)という。 ●新即物主義的、モダニズム写真の系譜をアメリカから日本に持ち込んだ中山岩太という人物との関連と、なぜ、中山の写真から井上の絵に途中で代わったのか、という疑問が残る。 以下、当時の写真が掲載されている資料をここに抄録する。 背景の写真は、戦前日本のモダニズム写真を代表する写真家中山岩太の作品。焼け跡が写されたものだったという。花をいけかえる際に、下の写真の井上覚造氏の絵と替えられた。『盛花と小原流』 小原豊雲 主婦の友社 1963(昭和38)年 写真右ページの作品が「窓花展」でいけかえ後の展示の様子。背景は井上覚三氏の抽象絵画。左ページの写真は、昭和24(1949)年5月に大阪大丸で行われた小原豊雲氏による本格的な個展のようす。「海底の幻想」がテーマだったという。45年の作品にはない前衛的な作品に変わっている。前衛いけばなが関西を中心に動き出していた頃の作品。のちに5世家元、小原宏貴家元は2009年、これら2つの作品のイメージを再構成し「神戸ビエンナーレ2009」のプレキャンペーンとしてウインドウを使った展示を行っている。 『いけばなへの招待』 下田尚利・重森弘淹 村山書店 1958(

昭和30年代に愛された多彩な創作花器の作家、菅原万之助について

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 菅原万之助という陶芸家について知ったのは、永島四郎さんの著作による。 当時、三井倶楽部やホテルオークラで一緒に働いていた先輩に聞くと、みな「マンノスケさんの花器」と親しげな呼び名でいろんな場面で実際に使っていたものだという。永島四郎さんは、戦前の「婦人公論花の店」時代にも「工芸」や「民芸」に造詣が深く、お店で花を並べる花器にも民芸の器、壺などを利用していて、たいへんに趣味のいいお店だったようだ。 第一園芸で昭和30年代に永島四郎氏とともに仕事をした下田桂さん(ブルーメンガルテン)の所蔵する作品。マジョルカ風の味わいが素敵な花器。三井倶楽部やホテルオークラで、このような花器を使って花をいけていた。 このマンノスケさんが誰かというのも調べたが、残された資料がとても少ない。菅原という名字であることもようやくつきとめたくらいであった。陶芸関係の雑誌に記事を書いていた。鎌倉に長く在住していたが、後年に益子に移ったというが確かなことはわからない。 ●永島四郎氏は『園芸手帖』昭和34(1959)年2月号の「装飾随想」私の花器(4)で次のように述べている。 (この年に行われた蘭友会の展示会に挿花を2点出した。一つは丹波の水瓶に花をいけた。)「もう一つの甕は鎌倉の友人菅原万之助氏の作品で、この花をさした前日に鎌倉から届けられたものであった。  菅原氏は仙台を故郷とし、軟陶の花器製作に生涯をかけ、今は鎌倉浄妙寺の先きの泉水橋橋畔の山かげにカマをもって製作に余念なき人。筆者の三十年来の友である。形に色に絵に新を求めてとまるところを知らぬごとくである。  今回の壺も私の好む壺の一つであって、素焼の時に見て、好みの色を依頼し、焼きあがる日を待ちわびたのであった。後で聞けば火の調子が悪く、失敗作であったらしい。 ************************ ところが、この菅原万之助氏の作品がたくさん使われている本があることに気づいた。 これは、いけばな池坊の重鎮、立華の名手として名高い藤原幽竹氏による『洋花の生花』(ようばなのしょうか)という本である。1955(昭和30)年に主婦の友社から発行された。前衛いけばなや洋花を使った盛花形式の「自由花」がブームになっている時代に、伝統を誇る池坊でも、古くから伝わる美しい花形(かぎょう)を守りながらも、新しい花材を用いて新しい空間に適した花を提案

戦後の花器 淡島ガラス(雫ガラス)と中川幸夫の小作品

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 昭和33(1958)年『いけばなへの招待』(下田尚利、重森弘淹 村山書店)に掲載された中川幸夫氏の作品が3点ある。このうち2点は「淡島ガラス」と記されていた。 淡島ガラスを検索すると、淡島雅吉という作家の名前が出てくる。後年には桑沢デザイン研究所の講師をされていたということは注目したい。 東京文化財研究所  https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9502.html 作品のタイトルは「ひしめき」 花材は、カラーと枯アンスリウム  解説は下田氏か重森氏か不明。「動物的ななまなましさ」 作品のタイトルは「かまきり」 花材はユーカリ 「生命感にみちた形体を発見」を思いのままに消化した作者によるユーモラスな表現。水を充たしたガラスの中で植物が拡大して見えることをたくみに利用している。 こちらは、有名な作品 タイトルは「悪の華」 器を一切使わない構成。

戦後の「創作花器」について

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 海外のフローラルアートと日本のいけばなとを比べるとき、日本の花器の種類(型・材質・色・デザイン)の多様性はずば抜けている。ときには作品の価値に決定的な役割を果たす場合も少なくない。大量生産のものもあれば作家ものもたくさんある。 これは戦前にすでに動きがあった。 ●戦前に動き出した新しい花器について 安達潮花 https://ainomono.blogspot.com/2022/02/13.html ここで紹介するのは戦後のいけばなブームのさなかに出された『いけばなへの招待』1958のなかにある記事である。大和花道会の下田尚利氏と評論家の重森弘淹氏による著作。タイトルのように初心者に向けて書かれた手引書だが、それゆえに分かりやすく解説してある。一般的でどんな場所にも使えるいくつかの花器を紹介したあと、「創作花器」や自作の花器にチャレンジしてみると面白い、と誘う。この時代のいけばな書には、このようなDIY的なアドバイスが多い。まだまだモノが手に入りにくかったり、使えるお金に制限がある若者に、工夫することを勧めている。 器を変えることで、「新しいスクリーンによる映画」のようにいけよ、というのである。 ●いっぽうで、あまりにも工芸的な手の込んだものであったり奇抜な絵付けでは花がひきたたないので、シンプルなものがよいという作家もいる。 ●基本の花器は、1、水盤、2、皿、3、鉢、4、壷あるいは瓶、5、コンポートをあげている。

剣山は使わない~花留めに関する山根翠堂の考え方 昭和3年

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 前回にひきつづき、山根翠堂の思想について見てみようと思う。 資料は、『投入盛花講座 : 別名盛瓶花講習録』 山根翠堂 みどり会出版部 1928(昭和3)年である。 山根翠堂氏は剣山を使わない。いろいろな花留めの道具があるなかで七宝型を推薦している。七宝型は花を挿すときにコツがいるが、慣れるとかなり自由にいけられるようになると述べている。 剣山という道具は明治の後期から大正時代に現れた道具で、その由来がはっきりしない。欧米の花卉装飾で使われるピンの付いたホルダーをもとにして日本で考案されたものだとか、安達潮花が大正時代に改良をした記録があるとか、いろいろ言われているが、その由来の逆コースで欧米にも輸出されていたようだ。このあたりのところは、また次の機会にゆずる。 花屋の仕事場では昭和30年代まで能率と保持力優先で剣山を用いる装飾が多かった。籠花には、ミズゴケやヒバ類をつめたオトシを使っていた。これらは、昭和30年代にはフローラルフォームに少しずつ代わっていった。初期のフローラルフォームは高価でオモテウラで2回以上利用した。準備のために給水させるのに時間がかかったという。現在は、すぐに給水して使える。一方で、化学製品を使いたくないというフローリストも増えており、またかつてのような花留めを利用することになるかもしれない。 盛花の花どめ  盛花の花どめはかなり多くの種類があります。従来の水盤(砂鉢、馬盥など)の生花に用いられて居りました、亀、水、轡、五徳、蛇籠、六角、七宝形などを始めとし、亀にヒントを得て作られた陶器製の鯉、蛙、蟹、エビなどや、水と蛇籠に暗示されて作られた、同じく陶器製の渦及び格子並びに六角の変形など種々雑多であります。その上に、純素人用にとて挿花の何物なるかを理解する事の出来ない野蛮人が作った剣山と称する(地獄の針の山の様な花止めで、如何に考へても可憐な草木を挿すには余りにもふさわしくない。精神的にも実際的にも)多数の釘を鉛で固定したものまであります。これだけ沢山にある花どめの中で、何れを選ぶかと云うことがこの研究の第一の問題であります。私は盛花用花止め選択の標準として、左の七つの条件を持ち出したいのであります。  一、かなり重量のあるものであって而も余り大きくないもの  二、なるべく器械的でないもの、そうして簡単なもの  三、不自然でないもの、その上に

山根翠堂、いけばな入門者の心構えについて

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 大正期にわきおこったいけばなの自由花運動の急先鋒としてその意思をつらぬいた山根翠堂氏が書いたいけばな入門書に、おけいこに望むものの心構えが書かれている。新しいいけばなへの変革にかける山根氏の心意気が感じられる一文を紹介する。当時は、床の間が花をいける主戦場である。 紹介する本は『投入盛花講座 : 別名盛瓶花講習録』 山根翠堂 みどり会出版部 1928(昭和3)年というものの。これは国立国会図書館のデジタルコレクションに入っているので、閲覧、ダウンロード可能。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028975 花をいける前の段階の部分を以下に抄録する。まず、花をいける場所づくりから丁寧に説明していて、そこがとても重要だと指摘しているのが興味深い。 『盛花瓶花講習』  講師 山根翠堂   *読みやすく漢字や仮名遣いをなおし、改行をしています 一、実習の準備  只今より瓶花と盛花の講習をいたします。講習にさきだちまして申し上げたいことが無いでもありませんが、既に皆さんは、拙著「新時代の挿花」その他を御愛読下さって、瓶花と盛花に対する私の考え方の大体を御存じの筈でもありますし且つ講習の内容が思ったよりも長くなりそうでありますから、前の言葉の一切を略しまして、直ちに実習の準備をして頂くことにいたしました。 一番で最初に、無地かそれに近い壁か襖を背景に選んで下さい。挿花は色と線の調和を生命とする芸術でありますから、色の単純な、線の細い、あっさりとした模様の襖でさえ出来るだけはさけたいのであります 。まして座敷の庭に面して花器を持ち出すなどは絶対に避けなければなりません。庭の植込の色や線が背景になるなれば、花材の選択やその配置にどれくらい不都合であるかは説明を要しないことでありましょう。でありますから、やはり屏風か襖か壁をバックに選んで下さい。少し大げさでありますが、青、萌黄、こげ茶、などの内で貴方が一番よいと思はれる色のモスまたは白の木綿でバックを作るなどは更に面白いでしょう。 かくして背面に、眼障りになる色や緑のない講習の場所が出来ましたらそこをすっかり片づけて、気もちのよいまでに掃除をして下さい。この 掃除をすると云うことは何んでもない様でありますが実は非常に大切なことで掃除の有無が直ちに心の落つきに影響し作品を支配しますから、どうせ

将軍に付き従い室町文化をリードした「同朋衆」とはどんな人たちだったのか 同朋衆と時宗

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  ○ 『武家文化と同朋衆:生活文化史論』 村井康彦 筑摩書房 2020年 室町時代は、足利将軍家15代、250年の歴史がある。14世紀の前半から16世紀の後半までという長い期間、南北朝の分裂を収めたものの各地の守護大名の動向に気を配りながらの運営で、どの将軍の時代にも常に敵がいた。将軍の権威が弱かった、と言われる。後期には家臣に暗殺されるなど混乱を極め、10年におよぶ応仁の乱は京都の街を焼き尽くし、戦国時代の幕を開いた。こうした波乱の時代にあって、サムライのトップである将軍が、歌を詠み猿楽を愉しむような「公家化」が目立つのは、ひとつには天皇、朝廷の力を幕府に近付けようという策略もあったと言われている。同朋衆は将軍の側についてよく働いた。 同朋衆はどこからやってきたのか 同朋衆という名称が現れるのは、足利尊氏のあとを継いだ2代義詮(よしあきら・在職1359〜1367)の時代だったという(1358年の記録)。少なくともそれ以前には同朋衆は存在した。その後、室町幕府の体制が確立していくなかで職制が整備、拡充され、東山文化をつくりあげた義政の時代にピークを迎える。最終的には、戦国の世となるにしたがって将軍の権威失墜、将軍家で蒐集してきたお宝、「東山御物(ごもつ)」の流出などが重なり、これらに付随していた同朋衆の存在意義、役割が衰退していった、ということである。 同朋衆の源流は、時宗の僧侶、信徒(時衆)である、という。「法体で阿弥号を持つ」という絶対条件は時衆と重なっている。時宗は一遍上人により、1275年に始められた。法然・親鸞の始めた浄土教の流れをくみ、踊り念仏によってすべての人が救われると説き、各地を布教して回った。公家、国家のための仏教から武家、民衆のために起きた鎌倉仏教のひとつとされ、地方の武士や農民に広まっていた。 時宗は、早くから葬送に関わり、野辺に遺棄された遺体を埋葬し供養していた。こうしたことから戦に出る武士との間に深い関わりができていた。「同朋同行」という仏教用語が同朋衆の名前のもとになったという説があるように、時衆は武士に付き従って、戦場に赴くことも珍しくなかったという。時衆は僧兵のように武器を持って戦うことはしなかったが、「金瘡(きんそう・刀による傷)」の治療に長けており、危険な戦地に同行し、傷ついたものの治療と亡くなった人の看取り、埋葬、供養を行っ

栗崎曻 私が影響を受けた人たち

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 『花たち』栗崎 曻作品集 文化出版局 1980 定価3,500円  *栗崎氏43歳頃、氏の最初の作品集 ●表千家茶道家、原久子氏と栗崎氏 https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_1_12c.html ●栗崎氏の祈りの花(ほかにも記事あり) https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_1_12b.html ●鯨岡阿美子氏については「ウィキペディア」に項目あり この本の中に文章を寄せている人たち 1、出会いの花 小原豊雲(いけばな小原流家元) 2、栗崎さんのお花 杉村春子(女優) 3、栗どのの花形口伝 流正之(彫刻家) 4、花底蛇(かていのじゃ) 向田邦子(脚本家) 5、美は猥褻である!? 三宅菊子(ライター) 6、「花」の縁起 古波蔵保好(評論家) 生花助手 上野ひろ子 栗崎曻氏の著作 『花たち : 栗崎曻作品集』 文化出版局(1980) 『飾花』 文化出版局(1984) 『酔花 : 栗崎曻作品集』 文化出版局(1990) 『栗崎昇の花の教科書 - 花の心を知る』 マガジンハウス(2002)

育種家、伊藤東一氏の履歴 永島四郎との関係 

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日本を代表する花の育種家、伊藤東一氏の履歴について、詳しい資料があることを知った。 永島四郎と同じ明治28年生まれで、大正4年から7年にかけて千葉園芸専門学校に在籍していることから、永島四郎や穂坂八郎、加藤光治、小山重氏らと一緒に学んでいたと思われる。永島四郎氏は肺を病んでいたので、休学した時期があるのか、卒業は大正10年の卒業となっている。伊藤氏は卒業後大正8年まで同校の助手をつとめていた。昭和30年(1955)年7月19日に逝去。 ●歌人・埴科史郎(永島四郎)の歌集『北風南風』から 伊藤東一君を憶ふ二首(昭和30年) 病みながら指図してアマリリスの交配をせしめし君の心をぞ思ふ ピンクダホデル作出の歴史の如くにてアマリリス交配の結果見ざりき ●伊藤氏作出のグラジオラス「ピエロ」という品種に関連して 永島四郎と伊藤東一との関係(伊藤氏の娘さんの結婚式のブーケに「ピエロ」を使ってたいへんに喜ばれたという逸話) https://ainomono.blogspot.com/2022/02/1956.html ●このほかに、伊藤氏ではないかと思われる2首を記す 高砂百合と鉄砲百合の交配の今年の成果を祈りてまたむ スタックの交配に年ふる君みればわれは汚く老いほけにけり 伊藤東一氏の履歴が詳しく書かれた資料は『木曾山林資料館研究紀要 第2号』 令和2年度(2021年3月)にある。山口登氏による「園芸家の伊藤東一は木曽山林学校の元教師」という論文である。 椎野昌宏氏の『…パイオニア』の本には生年不明となっていたので、この資料で初めて生没年が明らかになった。 さまざまなルートを使って、この偉大な園芸家の職歴をたどった素晴らしい成果だと思います。 この時代に、木曽の山林学校では、卒業生や教職員のその後の消息をよく記録されていたと思う。同窓会的なものなのだろうか。非常に役立つ記録となったと思う。 ●伊藤東一氏の職歴に、千葉高等園芸学校を卒業後、同校で助手をし、大正8年から11年にかけて「台湾の製糖会社の農場長として赴任」とあるところが気になる。のちに台湾から「タカサゴユリ」を導入するが台湾時代の知識が生きたかもしれない。 ●東京大田区の蒲田時代というのは東京農産商会につとめていた時代(椎野2017)。 "木曾山林資料館研究紀要 | 木曾山林資料館"  http://

桜井元のシクラメン ウォードの箱の記録

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 「ウォードの箱」は、植物輸送に画期的な改善をもたらし、国際的な移出入を実現させた歴史的な発明である。これは、ナサニエル・バグショー・ウォードが1834年に実験航海を成功させ発表したところから利用が広まった。 ウォードの箱は、上の図のようなイラストが数多く紹介されているが、とてもおしゃれなインテリア風のイメージがある。ところが、実際に船に載せられて活躍したものは次に示す画像にあるようにものすごく無骨な姿をしており、何があってもびくともしないような作りになっている。長い陸路や海路をへて相手先へ届けられた。 ● 画像は、以下のサイト(ハーバード大学 アーノルド樹木園)と同じ https://arboretum.harvard.edu/stories/the-wardian-case-how-a-simple-box-moved-the-plant-kingdom/   1904年、ジャワ島のボゴール植物園から植物を送るために使われたインドネシアの現地労働者が作った特別なワーディアン・ケース。Nationaal Museum Van Wereldculturen所蔵。 1910年頃、パリのJardin d'Agronomie Tropicaleでウォーディアン・ケースに入れた生きた植物を送る準備をしているところ。画像提供:Bibliothèque historique du CIRAD.  https://www.modernaustralian.com/news/2331-how-the-wardian-case-revolutionised-the-plant-trade-%E2%80%93-and-australian-gardens ウォードの箱の歴史や利用について詳しく書かれた本がある。昨年出版されたもので、数多くの写真が掲載されていた。 Luke Keogh 『The Wardian Case』2020 ウォードの箱の有効性が確認された後、いろいろな人が改良に取り組んだようだ。 とくに英国は世界中に広がる植民地の植物園ネットワークを活用し、多様な植物をキュー植物園に集めた。キューや巨大な園芸商たちもプラントハンターを派遣している。こうした人達がウォードの箱を活用した。 プラントハンターたちは、箱を持っていけないので現地でこの箱を製作し本国へ届けなければ