昭和30年代に愛された多彩な創作花器の作家、菅原万之助について

 菅原万之助という陶芸家について知ったのは、永島四郎さんの著作による。

当時、三井倶楽部やホテルオークラで一緒に働いていた先輩に聞くと、みな「マンノスケさんの花器」と親しげな呼び名でいろんな場面で実際に使っていたものだという。永島四郎さんは、戦前の「婦人公論花の店」時代にも「工芸」や「民芸」に造詣が深く、お店で花を並べる花器にも民芸の器、壺などを利用していて、たいへんに趣味のいいお店だったようだ。

第一園芸で昭和30年代に永島四郎氏とともに仕事をした下田桂さん(ブルーメンガルテン)の所蔵する作品。マジョルカ風の味わいが素敵な花器。三井倶楽部やホテルオークラで、このような花器を使って花をいけていた。


このマンノスケさんが誰かというのも調べたが、残された資料がとても少ない。菅原という名字であることもようやくつきとめたくらいであった。陶芸関係の雑誌に記事を書いていた。鎌倉に長く在住していたが、後年に益子に移ったというが確かなことはわからない。

●永島四郎氏は『園芸手帖』昭和34(1959)年2月号の「装飾随想」私の花器(4)で次のように述べている。

(この年に行われた蘭友会の展示会に挿花を2点出した。一つは丹波の水瓶に花をいけた。)「もう一つの甕は鎌倉の友人菅原万之助氏の作品で、この花をさした前日に鎌倉から届けられたものであった。

 菅原氏は仙台を故郷とし、軟陶の花器製作に生涯をかけ、今は鎌倉浄妙寺の先きの泉水橋橋畔の山かげにカマをもって製作に余念なき人。筆者の三十年来の友である。形に色に絵に新を求めてとまるところを知らぬごとくである。

 今回の壺も私の好む壺の一つであって、素焼の時に見て、好みの色を依頼し、焼きあがる日を待ちわびたのであった。後で聞けば火の調子が悪く、失敗作であったらしい。

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ところが、この菅原万之助氏の作品がたくさん使われている本があることに気づいた。

これは、いけばな池坊の重鎮、立華の名手として名高い藤原幽竹氏による『洋花の生花』(ようばなのしょうか)という本である。1955(昭和30)年に主婦の友社から発行された。前衛いけばなや洋花を使った盛花形式の「自由花」がブームになっている時代に、伝統を誇る池坊でも、古くから伝わる美しい花形(かぎょう)を守りながらも、新しい花材を用いて新しい空間に適した花を提案することが求められていると感じていた。そのような時代に出された意欲的な作品集、参考科書である。

この本では、「生花(しょうか、せいか)」のスタイルを保ちながら観葉植物のグリーンや洋花を取り入れたモダンな作品が多数掲載されている。そこに、菅原万之助氏の創作花器がたくさん使われていた。見方を変えると万之助花器のカタログのようでもある。

以下、作品ページを掲載する。

ひとことでいうと、多彩である。形も釉薬の使い方も多様性があり、絵付けも大胆であるところに特徴がある。藤原幽竹氏のようないけばなの重鎮にも愛用され、永島さんのようなフラワーデコレーターにも重用された、稀有な作家である。

この記事を書いたあとに、石巻日日新聞のサイト「石巻ニューゼ」にて、菅原万之助氏について本人の写真とインタビューとともに詳しく掲載されていた。昭和50年2月25日の記事である。

 菅原氏は永島四郎氏が住んでいた中野で陶芸を学んでいた。その頃からの知り合いなのかもしれない。また、戦後になって、勅使河原蒼風氏が気に入って使うようになって他の作家にも広がったとある。やっと理解されるようになった。

「花をいける者と常に闘いだ。向こうは私の作品が花持ちならないらしい。使いこなそうとして躍起になってくる。だから私も困らせようと使いものにならないやつを作る。それがまたいいと言う」と語っている。陶芸家といけ手が競いあっているのがとても面白い。


https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2795884827143777&id=417849484947335












(この作品は作者名がないが、作風が万之助氏のものではないかと推測しています)





石巻日日新聞 昭和50年2月25日火曜日

使いこなすか困らせるか
陶芸家菅原翁大いに語る


 石巻公民館でさる二十二日から三日間個展を開いた石巻市出身の陶芸家菅原万之助さん(七五)は、ことし来日するエリザベス女王をお迎えする迎賓館に飾る花器の製作者に決定しており、マジョルカ風といわれる明るい地中海的な作風で、華道各流家元から好んで使われている有名な作家だが、会場で次のように語った。
 ――菅原さんの作品はマジョリカ風といわれ、地中海の小島にしかない作風と極めて似ていると聞く。確かに明るく得意な形をしているが、作品かその土地に接したことはあるのか――
 「どこにも出かけたことがないただ正倉院の御物の中にあるツボはシルクロードを通って来た西域文化の影響を受けており、それをヒントに私は作風を生み出したわけで、直接の接触はないが、どこかでつながることはつながるだろう。しかし私独自で生み出した作風だ」
 ――ところで出身は石巻市の――「住吉(尋常)小学校を大正三年に卒業し、一時石巻日日新聞社に勤めていた」
――そこから陶芸に進んだ動機は――
 「いや、陶芸に入る前に、文学が好きで上京し、文学青年として自然主義や白樺派の文学運動に加わった。著名な人の文学にも私の作品からのヒントもある。二十九歳の時にドイツの陶芸技術の本と巡り会い、小学校時代から粘土をこね回して来たが、目がさめたような気持ちがして各地の窯場を訪ね歩いた」(周囲から初めて聞いた、との声)
 ――初めて窯を●(*築)いたのは――
 「初め東京の中野で手ほどきを受け、同所で板橋からかわら粘土を荷車で運んで焼いたが、東京大空襲で焼け出され、神奈川県大和市に移り次いで鎌倉に移った。戦争でぜいたくだからと陶芸を禁止された一年半は毎日“焼き物を焼けないなんて生きていても仕方がない”と思い、何度も自殺を考えて暮らした」
 ――万之助焼として一躍有名になったのは鎌倉でのころだと聞くがそれは戦後のことか――
 「その通りだ。それまではぜんぜん理解されなかったが、勅使河原蒼風さん(草月流)など一流の華道人に認められてからうるさくなった」
 ――華道に前衛的な新風が吹き込まれたのと、菅原さんの作品がマッチしたのではないか――
 「変わった作品をつかいこなしてやろうとしたのだろう」
 ―石巻でも窯を築いたと聞くが――
 「北上●●の西条太郎社長や●●江さんの肝いりで●町の山根に窯を築いたのは十三年ばかり前のことだが、三ヶ月位しかいない」
 ――それから現在の栃木県益子に移ったのか。その理由は――
 「益子には土がある」
――菅原さんの作品は花をいけて美しさを発揮するというが――
 「花をいける者と常に闘いだ。向こうは私の作品が花持ちならないらしい。使いこなそうとして躍起になってくる。だから、私も困らせてやろうとして、使いものにならないやつを作る。それがまたいいと言う」
 ――菅原さんの話は増々熱がこもって行ったが、最後に自分の作品を「石巻の小僧っ子が土こねをしていた。そのままが魅力」と語たり、迎賓館向けの作品も「建物などを考えて作っていたら、おべんちゃらになる」と「あべこべに困らせよう」と精魂込めて製作中と近況を述べた。

(写真)話に熱のこもる菅原万之助翁


石巻日日新聞のサイト「石巻ニューゼ」のFacebookサイトから

●『小原流挿花』1955年8月号 に掲載された広告




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