育種家、伊藤東一氏の履歴 永島四郎との関係
日本を代表する花の育種家、伊藤東一氏の履歴について、詳しい資料があることを知った。
永島四郎と同じ明治28年生まれで、大正4年から7年にかけて千葉園芸専門学校に在籍していることから、永島四郎や穂坂八郎、加藤光治、小山重氏らと一緒に学んでいたと思われる。永島四郎氏は肺を病んでいたので、休学した時期があるのか、卒業は大正10年の卒業となっている。伊藤氏は卒業後大正8年まで同校の助手をつとめていた。昭和30年(1955)年7月19日に逝去。
●歌人・埴科史郎(永島四郎)の歌集『北風南風』から
伊藤東一君を憶ふ二首(昭和30年)
病みながら指図してアマリリスの交配をせしめし君の心をぞ思ふ
ピンクダホデル作出の歴史の如くにてアマリリス交配の結果見ざりき
●伊藤氏作出のグラジオラス「ピエロ」という品種に関連して 永島四郎と伊藤東一との関係(伊藤氏の娘さんの結婚式のブーケに「ピエロ」を使ってたいへんに喜ばれたという逸話)
https://ainomono.blogspot.com/2022/02/1956.html
●このほかに、伊藤氏ではないかと思われる2首を記す
高砂百合と鉄砲百合の交配の今年の成果を祈りてまたむ
スタックの交配に年ふる君みればわれは汚く老いほけにけり
伊藤東一氏の履歴が詳しく書かれた資料は『木曾山林資料館研究紀要 第2号』 令和2年度(2021年3月)にある。山口登氏による「園芸家の伊藤東一は木曽山林学校の元教師」という論文である。
椎野昌宏氏の『…パイオニア』の本には生年不明となっていたので、この資料で初めて生没年が明らかになった。
さまざまなルートを使って、この偉大な園芸家の職歴をたどった素晴らしい成果だと思います。
この時代に、木曽の山林学校では、卒業生や教職員のその後の消息をよく記録されていたと思う。同窓会的なものなのだろうか。非常に役立つ記録となったと思う。
●伊藤東一氏の職歴に、千葉高等園芸学校を卒業後、同校で助手をし、大正8年から11年にかけて「台湾の製糖会社の農場長として赴任」とあるところが気になる。のちに台湾から「タカサゴユリ」を導入するが台湾時代の知識が生きたかもしれない。
●東京大田区の蒲田時代というのは東京農産商会につとめていた時代(椎野2017)。
"木曾山林資料館研究紀要 | 木曾山林資料館"
http://kisosanrin1901.org/2721-2/
参考
日本花菖蒲協会"会報43号"
http://www.japan-iris.org/No43/mokuji43.html
●『日本園芸界のパイオニアたち』椎野昌宏 2017
※伊藤東一氏の業績が詳しく紹介されている