育種家とフラワーデコレーター 永島四郎  1956

日本のリンドウの育種でたいへん大きな貢献をされ、現在はバラの育種家として知られる吉池貞蔵氏(岩手県花巻市在住)に、2016年にお話をうかがう機会があった。

その際、吉池さんの師である永島四郎さんが、吉池さんを家に招いて話をしたことがあったのを思い出されて、そのときのことを永島四郎さんが「蘭業組合報」昭和31(1956)年に書いた、というその現物を見せていただいた。

その記事を抄録する。(文中のY君が吉池貞蔵氏)

この小文には、育種家「伊藤東一」氏の名前が出てくる。永島さんは、伊藤東一さんとは、千葉の園芸高校時代に同級生だったのではないか、と吉池さんがお話されていた。娘さんの結婚式でブーケを頼まれるほどなので、たいへん親しい間柄だったようだ。永島氏の著作『花のデザイン』のなかにある中輪キクのブーケはもしかしたら、伊藤東一さんの娘さんの結婚式でつくったもの、あるいは、それと同じデザインのブーケだったかもしれない。

※参照 伊藤氏と永島四郎氏は同級生だったことがわかった。 https://ainomono.blogspot.com/2022/02/blog-post_1.html




永島四郎氏の肖像 『花露記 永島四郎先生追悼集』 1967年(昭和42年)から


 育種家とフラワーデコレーター 永島四郎  蘭業組合報 昭和三十一年二月号 No.58


 育種家とフラワーデコレーターとの関係、二者相互のあり方について、自分の考えを伊藤東一君に語つたことがあります。伊藤君はこの問題に対して非常に熱心な態度を示してくれました。そうして亡くなる最後まで忠実にこの問題を考え、よく個々の作品について私の意見を求められたものでした。私も亦真面目に私の考えを述べ時には注文もだしたものでした。伊藤君は育種家として、立派な仕事を残して逝かれたことはこと新しく云うまでもない事でありますが、伊藤君の育種家として育種した態度の一つを、私は育種に志す若い友Y君に書こうと思いたつたのです。

 それは育種家とデコレーターとは非常に密接な関係をもつて、お互に交流しあはねばならないということであります。苦心して育種されたものが、学問的には意義があつても、デコレーターの立場から、つまり実際消費の側からみてそれ程価値のない場合もあり、育種家からみてさまでもなき事、又は全く気付かれないことで非常に装飾的に重要な問題もあると云う事であります。

 千葉大学園芸学部の浅山教授のストックの研究に於て、ストックの照り葉と綿葉の問題―これは同教授から実物を見せられて意見を問われた―は学問的には重要なものであつてもデコレーターの側から云えばむしろその重要さは花であつて、穂の長さ、個々の花の密着度、花の色等がより重要なのであります。西洋風の花卉装飾では、花は色として絵の具として扱うことと、花は花、葉は葉をという考え方から、緑という色は、特別に葉のみの美しいものから選び用いるのが普通なのであります。もつとも日本的のさし花の場合は、時により照葉を可とし、綿葉を避ける場合もあり得ると思いますが、このような細い神経を使う場合は先づ極めてまれと云つてよいと思います。

 伊藤君の作出の一つであるグラジオラスピエロの場合も、伊藤君からいろいろ相談があり、自分は一見よしとみたのであれを使つてバスケットを作りグラジオラス展に展示しました。九州福岡市那珂川川畔に落成したホテル日活の開店披露のカクテルパーテーにはわざわざピエロを日航機で運んで用いました。あの花は非常に印象的な色と模様をもつて居り、このような用途にはうつてつけの花であります。明るいよい意味のジャズ的な感覚をもつこの花はきつとアメリカ人の共鳴をよぶだろうと私は思いました。はたしてアメリカからあのような呼びかけがあり、値段のことについても伊藤君から意見を聞かれたと記憶して居ります。輸入菊についても一々の花について私の意見をきかれた。名称を思い出せないが、白の中輪でいかにも外国の育種家でなくては作出されないような非常にハイカラな花型をもつ花で、私はこの花を使つていくつかの結婚花束を作りました。たしか伊藤君の愛嬢の結婚花束はこの花を使つて私が花束を作りました。あの時の伊藤君の笑顔は今もありありと眼に浮かびます。それは人間の最純粋なよろこびの顔であつたと思います。

 教育大学の岡田教授の電照栽培のアスターに付ては、昭和28年の8月号の園芸手帳に私は詳しく自分の実験経過を書きアスターの電照栽培に感謝と推奨の言葉を述べました。しかしその後電照栽培のアスターはあまり市場に出ない。市場に出ないところをみると市場に人気がないのかも知れません。電照栽培による2月3月のアスターは園芸手帳に書いたように、季節に咲くアスターのもつ欠点を全く除去して居る点ですばらしいものなのです。アスターは明治期に日本に渡来してこのかた花屋に“仏のからげ花”として貶められて以来未だにその不当の評価が続いて居るらしい。これは花屋にデコレーターが居ない為であります。日本の花屋にはデコレーターが居ないということは、日本に本格のフロリストがないということになるわけであります。日本に花だけの育種家協会というものがあるかどうかわかりません。ないとしてもこれは必ず結成されるべきだと思います。フラワーデコレーター協会もそのうち結成されると思います。そして、この二つの協会員が正しく交流するという事になつたら、どんなに幸でしょうか。聞くところによると花木の育種はまだそう手がつけてないとか云うことですが、どこにもする仕事は山のようにあるわけであります。

 この文章を書き終えたところに昨日当のYくんが遊びにくてくれました。Y君は遠いところをわざわざ研究中のストックを持つて私に見せに来て下さつたのです。その時中央線のあの寒い富士見駅近方でのフリージヤ促成栽培の話はひどく私の心をひきました。まだ早春とは云われないけれども早春らしい暖かな陽のさす室に、真実に文字どうりの清談に日曜の半日を過しました。その時私はY君に猫柳の研究を御願いしました。銀という色は猫柳以外にはさしあたり日本にはないのです。猫柳については、猫柳のみについて私の考えていることをあらためて書いてみたいと思います。



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