大井ミノブ氏による花屋の歴史 『いけばな辞典』
花屋の図 『生花早満奈飛』から
大井氏は、「子供」が花を買いに来ていると述べているが、男性の身長と比べても大人の女性なのではないだろうか。
江戸時代の成人男性の平均身長は160センチ以下だし、女性も150センチ以下。なので、絵図の女性も子どもには思えない。
江戸東京博物館 https://bit.ly/3tiOdkb
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【 花屋 はなや 】 いけばな辞典 大井ミノブ編 東京堂出版 1976(昭和51)年
生花商ともいい、草花を商売とする店をいう。
その成立は江戸時代初期であるが、いけばなが成立した室町時代には、花材を花園に求めたり、あるいは「足でいける」といったことばどおり、山野を歩いて花材を求めたものである。
狂言の「真奪*(しんばい)」にも、立花(マツ注:りっか)の真を求めて山に出かける光景が描かれている。これが江戸時代初期、立花が流行し、花材の需要が多くなるにつれて花屋の出現をみた。
京都郊外の泉涌寺山や、清閑寺山に行って枝振りの面白いのを切って販売している(「土産門 上」〈『雍州府志』*巻六〉。また花屋を屋号としていた庄左衛門(「隔蓂記」*明暦四年七月七日・一五日)という商人が金閣寺の住僧、鳳林承承章のもとに草花を届けている。
これが、立花の隆盛をみた元禄期(一七世紀末)には、京都市中に、立花の下草屋や、草花を振売する商人があらわれた(「人倫訓蒙図彙」元禄三)。とくに、立花にかわって生花(マツ注:せいか・しょうか)が流行し、いけばなが大衆化した江戸時代中期以降、立花(マツ注:ママ、草花では?)の需要はいっそう、増加した。
安永ごろ(一八世紀後期)、江戸近郊の農村に、花卉栽培が盛んとなり、切り花として出荷している(「江戸名所図会)。
寛政ごろ(一八世紀末)に、「どぶの坊ほどに花屋は生るなり」という川柳があるが、花屋は販売のほかに、草花をいけることもあったようで、それを、どぶの坊(池坊に対し)程度と風刺しながら結構、ちょうほうした様子である。
このような商売ぶりからも花屋は繁昌したので、天保六年(一八三五)刊の「生花早満奈飛*」のさし絵に、活花、挿花、生花会のポスターを飾った花屋に、子供が花瓶を持って買いに来ている場面がある(マツ注:図参照、子供なのだろうか?)。このほか、仏事や祭礼などの年中行事によって需要は拡大した。
さらに明治期に入り、洋花*の輸入や、盛花*の誕生、女性の不可欠の教養としてのいけばなの奨励などで、花屋はますます盛んとなった。
大正一一年(一九二三)の東京大震災を契機として、生花市場が開設され花材の生産、販売が合理化され、飛躍的な発展をとげ花屋は大都市から地方都市まで普及した。
しかし昭和六年の満州事変後の戦時体制のもとに、花よりも弾丸といわれ、昭和一六年一二月、太平洋戦争に突入、戦時体制が強化すると、洋花の名も日本語を使い、ダリヤをてんじくぼたん、カーネーションをオランダなでしこ、マーガレットをみゆきぎくとよぶようになった。昭和一八年一一月、花卉栽培禁止令が出るに及んで、花屋はどん底におちいった。
それが、昭和二〇年の終戦、もはや戦後ではないといった昭和三〇年の経済成長、国民生活の向上、いけばなの多種多彩な発展によって、花材の需要は激増するとともに、いけばな教授とむすびついて、花屋の経営上の安定をもたらした。
今後における花材の多様化、花卉園芸の進歩を考えると、花屋のいけばな界に及ぼす影響の甚大さ、その役割の重さが想像される。(大井ミノブ 日本女子大学教授・文学博士)
●真奪…しんばい、 狂言、二百番のうちの一つ。立花を題材とした唯一の作品。(中略)室町時代、立花の会が方々で流行した当時のこと。それに出品する真を求めて大名が、太郎冠者を供にして京都郊外の東山に出かけるところからはじまる。その途中、たまたま出会った男の所持した真がみごとであったため、大名が所望する。(以下略、大井)
●雍州府志…ようしゅうふし。山城国(京都府)の地誌。著者は黒川道祐。貞享元年(一六八四)刊。一〇巻。(以下略)
●隔蓂記…かくめいき。江戸時代初期の日記。三〇巻。著者は京都鹿苑寺(金閣)の住持、鳳林承章(一五九三~一六六八)である。承章の寛永一三年から寛文八年の遷化の年まで三四年間にわたって、執筆したもの。(中略)その出自の関係から後水尾天皇をはじめ、宮門跡、公家、僧侶などと交流も多く、さらに上層町人とも親交があった。(中略)承章はとくに立花を愛好し、自らおこなうとともに立花会にも参加している。(中略)承章が「立花見物町人方々衆来也」(貞応三)というように立花を享受する町人層の広がりをします記事もみられる。承章は、宮廷立花が町人層に移る過渡的な役割を演じたともいえる存在で、そうした見からも、本書を高く評価することができる。刊本に『隔蓂記』(全六巻)がある。(大井)
●生花早満奈飛…いけばなはやまなび。いけばな書。生花早学ともいう。一〇編あり。初編の著者は南里亭喜楽、二編以後は暁鐘成。天保六年(一八三五)から嘉永四年(一八五一)まで漸次刊行。(中略)初心者の入門書。(中略)しつけのおけいこごととして、いけばなが奨励されるにつれて、江戸時代後期、流派にこだわらない手軽な指導書が盛んに刊行されたが、本書もその一つである。内容は、生花一般について、いけ方、心得、秘伝、故実など多くの挿絵を掲載し、説明も懇切である。(大井)
●洋花…ようばな。西洋種の草花。江戸時代、オランダから長崎に渡来したが、本アク的に輸入されたのは明治以降である。明治四年の「近頃はやるもの」に、牛肉、豚肉、人力車などとともに、「異国の草花」として洋花がみえる。チューリップ、ヒヤシンスなどの洋花があたかも文明開化の象徴のごとく人々の目に映り、よろこばれたが、当時、いけばなは伝統的な形式を守り、洋花のような新しい花材をうけいれようとはしなかった。しかし、その後における日本のめざましい近代化について、洋花への関心も高まり、日露戦争後、さかんに洋花の温室栽培が行われた。とくに、建築が洋風化をたどり、生活様式が変化するにともなって、それにふさわしい花材として、色彩ゆたかな洋花が注目され、いけばな界も漸くこれをとりあげる機運となった。その先駆的役割を果たしたのが小原雲心で、洋花もつかい盛花という新しいいけばな形式を創案した。これを画期として、自由花への道が開かれ、大正、昭和にかけて洋花の使用が促進された。(大井、以下略)
●盛花…いけばな様式の一つ。広口の浅い花器にいけたいけばなをいう。明治時代中期、小原雲心は色彩豊かな洋花をはじめて花材にとりいれ、それをいける工夫として水盤形式の花器を創案し、盛るという手法を使って、盛花という新しいいけばな様式を創案した。(以下略、大井)