2003年、スズキフロリスト、鈴木昭社長による「温室村80年」の記事 来年は温室村100年か
『農耕と園芸』連載「花もよう」
2003(平成15)年11月号 スズキフロリスト鈴木 昭
※鈴木昭氏の父上は、鈴木譲氏。東京農業大学の講師もされていた。鈴木氏は、大正9年から12年以前、神奈川県の組合立赤羽根園芸試作農場で試作をしていたが、その後温室村に移った(別な方=甲賀春吉さん、寒川で最初の温室経営者となった人、が引き継がれたそうです)。温室村では早期に創業されたうちの一人。吉田鐵次郎氏のみどりやフローリストの創業にも参画している。
https://ainomono.blogspot.com/2022/11/1-22197000-79123-1415-2-45115621000834.html
https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_5.html
※鈴木昭氏が生まれた頃の鈴木農園の温室など
https://ainomono.blogspot.com/2022/10/210.html
※玉川温室村で最初に温室を建てたとされる荒木石次郎氏は大正12(1923)年12月だった
https://ainomono.blogspot.com/2022/11/1970_27.html
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
玉川温室村80年
今年は玉川温室村80年ということを聞いたので少し書いてみたいと思う。
正確には東京都大田区田園調布4丁目の多摩川沿いに大正12年頃よりカーネーションを栽培する温室が建ち始め、最盛時には30軒の栽培家があったと記憶する。実は私はその中の1軒である鈴木農園に昭和元年に生まれ、子供時代を過ごしたので断片的な記録で、もし、正確な資料等があれば補筆、または訂正をさせていただきたい。
それ以前の日本のカーネーション栽培は、新宿御苑であるとか、特殊な場所と、特別な篤志家(土肥氏?※)等によって栽培されていたが、米国カリフォルニアで温室経営を学ばれた犬塚(※卓一)氏と藤井(※権平)氏が中心となって上記の田園調布で集団栽培が発足したと聞いている。(※マツヤマ注 土肥氏ではなく土倉氏では?)
温室を建てて、組織的に生産するということになれば、建築費、種苗費、労働力も必要とすることから、経済的にゆとりのある方々が多かったように思う。個人的なお名前を出すことをお許しいただければ、華族御出身の烏丸(※光大ミツマサ)さん、食品大手の国分(※清三郎)さん、軍人出身の田中(※文作)さん等々で、所謂、農家出身の方は記憶にない。話は逸れるが、約2km多摩川上流の戸越農園は三井財閥の一部門であったことと共通するように思える。
イギリスの貴族園芸と、アメリカの大量生産温室が、日本で融和した形であったとも考えられる。
当時を回想してまず思い出すのは、冬は林立する煙突からモクモクと吐き出す暖房用の煙である。石炭を使っていたが、今のような自動式でないので、夜中に必ず父が起き出して石炭を補給していたのを思い出す。暖かい蒲団に寝ていても外気温が下がると気がつくし、雪の晩は徹夜で鑵(かま:ボイラー)を焚いていたものだった。
夏は用土の入れ替え(ベンチ作りであった)とペンキ塗りがあり、過ってガラス屋根の桟を踏み外して、大怪我をし、私の家の電話で医者を呼んだことも覚えている。
日中は激しい労働が続くが夜は収穫した力-ネーションを色別に20本ずつ束ねていた。最初に5本揃えて、その上に5本、さらに4本、3本、2本、1本と束ねると三角形の20本束ができるので、花がよく見えて、数も数えやすい形で、これは家の園丁さんの発案と聞いている。これを1.5mx30cmx20cmの木箱に5束入れて、当時、銀座にあった高級園芸市場にトラックで出荷したものだった。市場では20本の束をせり人が振りながら競(セリ)をしたもので、トントンと片手で木槌をたたいたので、トンもの(洋物)といったと聞いている。
もう1つ思い出すのはツル割れの処理である。現在使われているツル割れ防止のリングがなかったので、1本1本、V字型のピンで割れたツルを止めたものである。(※マツヤマ注 ツル割れ=ガク割れか?ツル割れという用語はリンゴなどの果実に用いられている)
このような苦労もあったが、暇な時期には、作業台で卓球を楽しんだり、佐渡出身の園丁さんが先生で、佐渡おけさの踊りを習ったりしていた。
遊びでは、毎年夏には、大きな舟を2艘借り切って、同業者全員で多摩川で鮎釣りをしていたことを思い出す。当時はまだ、現在の東急線の鉄橋付近の堰のない頃で、川遊びは盛んに行われ、鮎の大型なものがよく釣れたものである。
夏の花火も思い出深く、2尺玉が多く、3尺玉も上がっていた。その頃は、目黒駅に夏になると3尺玉(模型?)が飾られていたのを覚えている。何か昔語りになってしまったが1930年代当時、東洋一といわれた日本のカーネーション栽培が、玉川温室村で行われていたことを知っている人も少なくなった。 (東京・銀座)
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
※【ガク割れ】補正 アメリカでは1907年には専用のクリップが開発され大量に使用されていた
https://ainomono.blogspot.com/2022/11/split-carnationbaur-carnation-clip.html
■『カーネーション生産100周年記念誌編集委員会』日本花き生産協会カーネーション部会 2009(平成21)年 鈴木昭氏の寄稿文
田園調布温室村のこと
鈴木 昭(スズキフロリスト会長)
日本のカーネーション100年のお祝いを伺い、関係の皆様に深く感謝を申し上げると共に現状を考えて感無量のものがあります。・・・と申しますのは実は私の父、鈴木 譲は現在の大田区田園調布(当時通称、田園調布温室村)でカーネーション栽培を致しており、昭和元年(1926年)に私がそこで生まれたと言う経緯があります。
おぼろげな記憶を辿りますと、父は大正末期にこの地に約300坪のガラス温室を建てカーネーション栽培を始めております。昭和の初期、現在話題になる昭和4年(1929年)の大恐慌の時代ではありましたが、カーネーション温室は恵まれた状況にあったように憶えています。多摩川の堤防沿いに約30棟の温室が並び、当時東洋一の温室村として活躍していました。冬には暖房用のボイラーで石炭を焚き、煙突から黒煙がモクモクと出て工場地帯のようだった事を思い出します。
夏は、温室のベンチの土の入れ換えで園丁さん(当時は作業する人をこう呼んでいた)達が裸で汗を流して一輪車で土を運んでいました。用土は牛糞と畑の土とを交互に積み重ねて成熟させて(*た)ものを使っていました。また、夏の裸は温室の屋根ガラスの清掃で誤って転落しガラスの破片が体中に刺さって大怪我をした事もありました。逆に厳寒期には暖房用の石炭を一晩中交替で焚いていました。当時はまだ自動の加温装置はなかったように思います。
カーネーションの出荷については共同のトラックで東京銀座の高級園芸市場に朝早く運んでいたことを記憶しています。セリ価格は1本3銭~5銭位でしたが当時としてはほぼ採算が合ったようで、生産者と言うより経営者と言った感じで余裕のある人が多かったようです。
温室村全体で組合を作っていて、親睦行事として近くの多摩川で大きな和船2隻を借り切った鮎釣りで、それを毎年子供達は楽しみにしていました。
作物としては殆どカーネーションが主体で、中にはバラ・デンドロビュウム等を取り入れた人もあり、カーネーションの裏作としてフリージャー・カラジューム・メロン等の作付があったように記憶しています。
昭和10年(1935年)を過ぎると戦時色が厳しくなり、何事も非常時と言う事で窮屈な時代となり花の栽培は食糧増産とは関係がないので白い目で見られるようになってきました。私は昭和12年(1937年)に神奈川県藤沢市へ転出しましたが、田園調布温室村も徐々に縮小されていったと聞いています。また、当時は燃料の配給が毎年先細りとなり軍用、食糧増産以外の物は認められない風潮となっていました。
昭和20年(1945年)の終戦時には殆ど廃業されたと聞いていますが、間島農園さんが温室を継続されています。そして戦後洋花ブームになって若い時代に温室村で技術を覚えられた方々が地方で活躍していると言う話を聞いて力強く思います。
世界に目を移すと本家のアメリカでもニューヨークやロスアンゼルス近郊で始まった温室園芸が、段々と地方の適地に移動し現在は更に南へ移動して中南米、特にコロンビアにカーネーションの栽培は移っていると聞いています。ヨーロッパでも都市近郊から地中海沿岸、又はオランダに生産が集中し更に南下してスペインや中近東、アフリカに産地は移っています。
日本の温室カーネーションの栽培の歴史を思い、更に21 世紀のカーネーションを考えるとき中国・マレイシア・インド・ベトナムを含めてアジア全体の生産·流通を考えなければならないと思います。