神奈川県におけるカーネーション生産の沿革 大正時代の横浜・富岡地区および昭和初期の東京・玉川温室村生産者の影響


『神奈川のカーネーション』第23回全国カーネーション研究会記念誌
 昭和57(1982)年1月 
編集:神奈川県農政部農業技術課 
発行:第23回カーネーション研究会運営委員会


 1. 神奈川のカーネーション生産の歴史


(1) 大正時代

 神奈川県においてカーネーションがいつから栽培されるようになったかは定かでないが、大正初期に現在の横浜市金沢区富岡で加藤嘉助氏が露地栽培をはじめた記録が残っている。昭和2年にその近くで温室栽培をはじめた武内喜三氏によると、その当時すでに加藤氏は立派な温室でカーネーション栽培を行なっていたという。昭和2年における富岡、杉田、中原地区(現磯子区)の温室栽培者が19戸、栽培面積が7000㎡という記載から判断して、横浜市の南部地域では大正後半にはカーネーション生産がかなりあったことがわかる。

 試作的には、大正7年、当時の藤沢市の湘南花園の大矢好治氏大正9年から12年の間、組合立赤羽園芸試作農場において鈴木譲氏およびその後を継いだ甲賀春吉が栽培した。鈴木氏はその後温室村に移ったが、甲賀氏は昭和3年から寒川町でカーネーション栽培の先駆者として生産をはじめた。

 また平塚市の野島貞司氏(大正14年)、落合鶴吉氏(大正15年)は営利栽培を行なったが、スリップス、ダニに苦労し、永続はしなかった。


(2) 昭和初期

 昭和4~5頃までに神奈川県の各地でカーネーションの栽培がはじまった。導入経過は明らかでないが、現在の厚木市千頭の三留氏、愛川町中津の関戸氏、足立原氏、難波欽之助氏などが栽培をはじめ、海老名市では河原口の宮本尚治氏、中新田の守屋亀吉氏などが生産に乗り出した。この厚木、海老名グループは、平塚農業学校の卒業生が中心になったようで、座間市の片野氏などとともに出荷組合を形成し、1日おきに宮本氏の宅に荷を集め、横浜市場を中心に出荷していた、ほとんどの方が故人のため不明な点が多いが、スペクトラム、ピンクスペクトラムを主体とし、昭和15~6年頃まで共同出荷を行った。昭和2年発行の海老名村村勢一覧表にも記載があるところから、大正末期からの生産があったことが推測できる。中心になったのは海老名の宮本氏(最盛時は1000㎡井出謙治氏および厚木(千頭)の三留氏のようであるが、厚木の難波欽之助氏は宮本氏より栽培歴は古いという。このグループには昭和8年から黄金井栄治氏が加わった。昭和の初期、宮本氏の温室には各地から視察に来る人が多く、苗の出荷も盛んであった。(秦野に最初に導入された苗は宮本・井出氏から)。 また寒川では前記の甲賀氏が昭和3年から、平塚では眞壁簾氏が昭和4年から栽培に手を染めている。

 一方、川崎市の栽培の起源は土倉龍次郎氏(菜花園)の二子(現在の川崎市高津区溝ノ囗)への移転からである(昭和4年)。土倉氏は切花、品種改良の他、苗販売を兼ねて生産者の指導にも当ったようで、本県のカーネーション生産に極めて大きな刺激を与えた。

 川崎市における昭和8年末までの温室の現状は次のとおりである。

 

 園 名    坪数   建設年次    地 区

 菜花園       80  昭和4年  溝の口、二子

 鈴木農園     300      6年   北見方

 斉藤農園     300      6年   宮 内

 閉山農園     300      7年   宮 内

 簑口農園     300      7年   北見方

 東 農園     150      7年   北見方

 加藤フロリスト 80         8年   溝の口

 高山農園     150      8年      溝の口


 この他柿生、宿河原等を加えると、鈴木譲氏が調べた溝の口、川崎北に2000坪の生産があったという報告は納得できる。当時の品種は白系ではハーベスター、アイボリー、赤はスペクトラム、ピンクのピンクスペクトラムおよびエンチャントレスが中心であった。

 現在の大産地である秦野市では昭和8年から生産がはじまった。高橋濤平氏と望月市郎氏の二人が海老名市河原口の宮本氏から苗を導入し、東京温室村(田園調布)の並木信太郎氏の技術指導を受けた。これが契機となり、昭和10年にはこの他北村正夫、田中保太郎、深谷文雄、桐山政吉、川和知自氏が加わり、並木氏の指導のもとで十日会を結成し、10日に一度研究会を開催した。当時は無加温栽培であったが、長野県の栽培増にともない、昭和11年から加温を開始した。

 また中郡大磯町では菜花園の見習生であった近藤操氏が昭和9年から、東京フロリストの見習生の榎本音吉氏は昭和10年からカーネーション栽培に従事した。近藤氏は菜花、桃山、紫宸殿、泰山など菜花園の品種を導入し、榎本氏は東京フロリストからレディ、アイボリー、ビクトリーなどを導入して栽培した。なお榎本氏は秦野の生産者にも苗を供給した。

※東京フロリストは砧にあった長田傳氏の園芸場

 昭和10年から12年の間に本県の温室面積は飛躍的に増大し、新らしい生産者が続々と花き栽培に加わった。大産地の川崎市では12年当時、温室総面積20,000m㎡に達し、このうちカーネーションを8割としても16,000㎡、横浜30,000㎡、海老名、秦野他7,000㎡を合わせると60.000㎡に達する全国一の産地であったといえる。

 第2次世界大戦の激化にともない、花は不急不要のものとして退けられたが、その間昭和15年に横浜市の井野喜三郎氏によって育成されたコーラル(ベティルーにノース・スターを交配し、その個体にスペクトラムを交配したという説と。ベティルーにノーススターとスペクトラムの花粉を同時受粉させたという説がある)は、昭和16年頃新スペと称して横浜市富岡で栽培され市場で好評を拍していた。その後秦野市の桐山広保氏の所に持参したという (昭和17年)。昭和18年から戦時下にもかかわらず秦野ではコーラルが栽培され、伊勢原など近隣の花屋に出荷されていた。桐山氏、三杉健三氏などが持ちこたえていたという。


(3) 戦後の動き

 戦争の終結とともに進駐軍の需要にともない、カーネーション生産は復活した。この当時は正確な統計がないため明らかでないが、秦野市では昭和20年に16人の人がカーネーション生産を再開し、1,132坪(3700㎡)1戸平均233.31㎡という記録がある。その後急速に生産者は増加し、昭和30年には37戸、15,289㎡に達している。当時の農林統計によれば、全国のカーネーションの温室総面積は148.167m'、その中で神奈川県は42,078,3(28. 4%)、秦野市が10.3%を占めていることになる。主要品種はピーターフィッシャーが40%強、コーラル30%、ローズコーラルが17~8%を占めていた。ローズコーラルは望月掟氏の交配実生であり、桐山宏保の選抜したホワイトピーターも栽培されていた。

 一方川崎市においては戦前に30戸以上、20,000㎡以上あった温室は壊滅状態となり、終戦後に残った温室は手塚農園、越畑農園、大久保農園の3戸にすぎず、残った苗もなく戦後の復興は遅かった。22年頃から秦野、二宮方面から苗の導入をはかり、昭和23年頃からピーター、コーラルの生産がはじまった。

 最初に復興した毛塚農園では、カーネーション苗が充足するまではユウギリソウやカラーなどを栽培した。昭和25年頃より急速に温室が増加し、30年当時には戦前を越す20,000t前後に達した。また寒川町では昭和25年以降、それまでスイートピーを生産していた大久保、臼井氏などがカーネーションに転換し、昭和30年には10戸、6,600㎡の生産があった。

 このように昭和30年における生産は、川崎、秦野、寒川で本県の大部分を占めていたことになる。


(4) ピーター・コーラル全盛時代

 昭和30年代に入り神奈川県のカーネーション生産は急速に伸展した。秦野市ではその後順調に生産者がふえ、昭和40年には126名、54,000m'で10年間に面積で3.3倍、生産者数3.4倍になった。また寒川町では昭和30年代に爆発的伸びを示し、30年10戸、33年18戸、昭和40年には50戸30,000m'に達し、秦野市とともに本県の2大産地としての地位を確保した。この背後には戦前からの施設園芸の基盤があったに、スイートピーおよびハウス野菜からの転換が相次いだためである。とくに秦野のコーラルに対し、ピーターフィッシャーの産地として著名であり、他県産地への苗の供給基地としてもてはやされた。 この他、伊勢原、茅ケ崎、厚木、足柄などでも新規生産者が続出した。

 このような産地のバックアップの下で、県園試における研究成果は高く評価され、とくに昭和36~7年に発表したピーターフィッシャーの系統選抜試験は、カーネーションの品種系統の分化という意味でも極めて重要な研究であった。

 ピーター系、コーラル以外の品種は、シム系を中心としてアメリカ、アルゼンチンなどから紹介され試作されたが、当時はメリクロン技術が未確立であり、ウイルスによる生産の不安定さから十分普及するには至らなかった。

 このように産地が拡大して行く中で、川崎市においては昭和30年から大手の生産者がバラ、観葉に移る人が多く、また新規の生産者はシクラメン等の鉢物を指向したため急速に減少した。


(5)大輪産地への移行(全盛時代)

 昭和40年代に入り、シム系品種が関西を中心として導入され、本県においても先進的な生産者によって導入がはかられた。 しかしながら、必ずしも優良品種が導入されたとはいえず、ウィルスの汚染もあって安定していなかった。一方市場ではシム系の品種の評価は高く、「神奈川は品種的に遅れているのではないか」という焦操が生産者のみならず、関係機関の間にも渦巻いていた。昭和42年、大船植物園ではアメリカ、オランダなどから数多くの品種を切花で導入し品種検討会を開催した。 この中で十分検討した後。アメリカ(ヨダー杜)オランダ(スタフェーレン社)から8品種の苗を輸入、園芸試験場において栽培検討をした上で県下3か所の増殖ほ場で穂を取り、毋本用として生産者に配布した。この実行はカーネーション生産者の各地の代表者によって構成された委員会によって行なわれ、神奈川カーネーションのシム系への移行に非常に重要な役割を果した。昭和44年、45年に配布された苗から判断して、2年で60万本の新らしい品種が普及した計算になる。園試では苗の増殖にかかわる母本の栽培法、穂の貯蔵方法等について小沢博氏を中心に品種の変遷にともなう技術革新のための研究を続けた。一方大船植物園においては、何年かの試行の後、ウイルスフリー化の技術を確立し、昭和47年からは前述の委貝会の協力により。毎年10.000本以上の無病苗を母本用として生産者に配布し、現在にいたっている。

 昭和40年代の前半は、コーラル・ピーターからの大輪への移行にともない、数々の技術革新が行なわれた。また大量流通、大量消費の時代を迎え、通い箱からダンボール箱へという出荷手段の変化など、経済の高度生長と結びついた激動の時代であった。この時期に大規模経営、省力化等のために導入された技術には次のようなものがある。

 潅水の自動化(昭和41~42年)、ミスト装置の定着(昭和44年頃)、土壌診断による施肥改善(昭和42年)、蒸気消毒の導入(昭和42年)。

 この他45年にはフラワーネットが導入されている。

 このようにして全盛時代を迎えたカーネーション生産も、規模こそ拡大したとはいえ、昭和39年から出はじめたいちょう細菌病による枯死、連作による土壌の理化学の悪化、各種補助事業による他県産地における生産の伸びによる価格の低迷などの他、これまで他県からの研修生に頼っていた大規模生産者が、労力面で苦労をするなど、先進地であったがゆえのジレンマが表面に現われて来た。昭和43年頃からはバラヘの移行が相次いだ。


(6) 石油ショックの影響

 こうして全盛時代を迎えた神奈川のカーネ-ションも、統計的に見ると戸数では昭和46年の383戸をピークに、生産面積では昭和48年の260,000m'を最高に減少傾向をたどりはじめた。最大の理由は石油価格の値上にともなう経営の困難性であるが。それ以上に特長的なことは生産者の老齢化と施設の老朽化であった。昭和40年頃の材木の質が悪い時期に建設された温室が老朽化し建替えようとする時に、後継者不在のため新築をしないという例が多く、単なる経営の困難性だけからは判断できない側面を含んでいる。この他省燃料作目としてのスィートピー、鉢物への移行、大面積生産者のバラヘの移行なども減少傾向に拍車をかけた。しかしながら現在栽培中の200名を越す生産者は2回にわたる石油ショックやさまざまの困難を乗り切って自前で経営を確立して来た筋金入りの人々であり、温室以外にビニルハウス(無加温)を上手に組み合せて経営の合理化をはかっている。今こそその実力が明らかになる時期ではなかろうか。


(7)流通(輸送・出荷方法)について

 昭和初期(4~5年頃)までは生産そのものが個人単位であったため、駅までは自転車または徒歩、それからは汽車を利用した。その当時の出荷先として古老の話に出て来るのは高級園芸市場、神田園芸市場などである。その当時の取引は市場、小売に関係なく相対取引であり。まさに袖の下で指の数を数えて価格が決ったという。この取引方法は昭和12年まで続いている。横浜、川崎は比較的市場が近く、交通も便利であったため個人出荷が続いたが、他の地域の茅ケ崎、平塚、厚木などでは便利屋に頼っていた。

 海老名、厚木では昭和初期から河原口に集荷して、それを便利屋に頼むという共同出荷体制がとられ、寒川では昭和10年にすでに自動車輸送が行なわれた。昭和12年、中央卸売市場法の改正とともに市場におけるセリ取引が開始された。昭和14~5年頃は自動車の普及もあり、各地で自動車便による輸送がふえて来た。しかし昭和15年以降、不用、不急物資の自動車便は許されなくなり、市場での取引も混乱して、再び汽車利用による個人輸送に頼らざるを得なくなった。 

 戦後の流通の歴史は農協の歴史でもある。しかしながら、農協組織が軌道に乗るまでの混乱期の切花出荷は現在では想像出来ないほどの苦労があったという。数人共同で定期券を買って交替で束京に運ぶ場合や、便利屋を月給制でやとい、定期券と風呂敷、自転車を与えた例、花屋が生産者の所に運びに来るなど、あらゆる輸送方法を駆使することにより解決された。県西地域では平塚の眞壁氏が昭和29年、その当時はやり出した三輪車(くろがね号)で束京まで花き輸送を開始したが、これが契機となって第一花き出荷組合が平塚・寒川の生産者により発足し、現在に至っている。また秦野市においては30年頃までは午後2時頃までに大秦野駅前の集荷場にかごに入れて集められ、午後3時過ぎの貨車で発送された。この荷が夕方に新宿駅に到着し、新宿駅から各市場まで市場の手によって配送されていた。その後昭和35年頃までは、やはりカゴが使われたが、夕方5時頃組合事務所に集められトラック輸送する方法に変って行なった。

 カーネーションをはじめとする花きの共同輸送体制は昭和30年頃から各地ではじまった。それまで各花き生産組合で行なった出荷を農協が取り上げるようになり、木箱(通い箱)による輸送が一般的になったのもこの時期である。出荷方法は個選で個人の意志により出荷先(市場)を指定し、農協(寒川、秦野、横浜など)、第一花き出荷組合(平塚、二宮、横浜など)、運送会社(海老名、三浦半島など)により集荷場所から市場まで運送された。通い箱は帰り車で運ばれた。これらの方法は現在まで続いているが、昭和44年からはダンボールを取り入れ、県下統一した名称、「神奈川のカーネーション」として出荷されるようになった。

 一方昭和46年からは寒川、海老名、厚木を中心とした生産者は南関東花き流通センターが東京から引荷をするための往路を有効に利用するために荷を運びたいという申出に同意し現在に至っている。(並河 冶)


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