昭和初年のユーカリ栽培について 日本のフラワーデザイナーのパイオニア、吉田鉄次郎氏の取り組み


グリーン・エージ3(12)1953年12月号 森林資源総合対策協議会



晩年と思われる吉田鉄次郎の肖像 口数の少ないきまじめな人であったという
花業界のさまざまなイベント、勉強会などに貢献し戦前に表彰されている。
(『フラワーデザインライフ』1977年10月号から)

※著者の吉田鉄次郎は、生産分野よりもフラワーデザイナーのパイオニアの一人として知られる。吉田氏は明治の終りに渡米し、20年にわたり園芸と花き装飾の現場を経験し、大正15年に帰国し、その後昭和3年から新宿にあった「みどりやフローリスト」の支配人を務めた。恩地剛、永島四郎、池上順一氏らと並ぶ日本のフラワーデザインのパイオニアである。以下、『園藝探偵』1によると、次のように紹介されている。

「当時、新宿にあった「みどりやフローリスト」は、アメリカ帰りの吉田鉄次郎を支配人として生産者が出資してつくられた日本のフローリストの模範となるように期待されそれを実現した店舗だった。吉田鐵次郎は明治の終わりころに渡米、在米二十年をサンフランシスコとオークランドで過ごし栽培、小売、卸、輸出入を学んで大正15年に帰国している(池上順一「南加花商組合史」1933、P375)。花は十分にあるのに、それを西洋風にしっかりと装飾に利用できていないと感じた。そこで在米中からの知り合いである玉川温室村の長田(おさだ)伝と相談し、文華園主田島堅吉(東京農大卒※日下氏によると、ベルリンオリンピック三段跳びメダリスト田島直人氏の兄だという)、双葉園主長谷信容、鈴木園主鈴木譲(東京農大講師※銀座のスズキフロリスト社長、鈴木昭氏の父親)らとともに合資のみどりやフローリストを四ツ谷区新宿2丁目に開いた。これが昭和3年10月だったという。田島氏は専務として内外の事務にあたり、吉田は支配人として仕入れや販売を担った。花は先の温室村の生産者から直接仕入れることができた」。
※文華園は麻布区三軒家町28(『園芸人銘録』昭和3)

※吉田氏について『フラワーデザインライフ』などで紹介をした仙台の日下惣冶郎(一志)氏は東京府立園芸学校で学び、吉田の店でアルバイトをしていたという。その後地元に帰って同じ「みどりやフローリスト」を開業しJFTDやNFDの設立時に尽力した。
※南加花商組合史(国立国会図書館デジタルコレクション・図書館/個人送信)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213108

吉田氏は、長く生産にも関わっていたので、花屋の仕事をするときにも植物をたいせつに取り扱っていたという。当時は、ブリキ缶のようなものに杉枝などを逆さまにつめて花をアレンジしていたが、みどりやフローリストでは、缶につめものにするタマシダでさえ、葉を傷めないように、注意深く缶につめていたという。(『フラワーデザインライフ』1977年10月号)

●吉田鐵次郎氏は昭和3年の『実際園芸』12月号でクリスマスの装飾について書いているが、ここでは「吉田熊次郎」という表記になっているので注意が必要。ほかにも13巻7号(1932年12月号)の「鐵治郎」という表記もある。
●花の宣伝について 吉田鐵次郎  『実際園芸』昭和七年1月号(1932年)



※吉田氏は『実際園芸』24-11 昭和13(1938)年11月号に「ユーカリプタスの話」という記事を書いている。(未見)

●吉田氏は帰国後まもなく郷里でユーカリを植えていた。
●花屋をはじめたのは、その後だった。
●約20年をかけてユーカリに関わり研究していた。
●郷里に畑をつくっているので、親族や知り合いが管理していたのかも
●ユーカリはドライにするなどしていたと書かれているので、花屋の仕事にも利用していたのかもしれない。
●戦後は荒廃した森林の復活や木材需要の急増に応えるため、ユーカリの有望性が注目されていた
●静岡県の花木生産で、古くからのユーカリの産地がある、ということは何か関係があるのではないか。

※別人であるが、千葉県房総半島で「東京ナーセリー」という名前で園芸事業をしていた人がいて、『実際園芸』等では「吉田欽二郎」表記のものがいくつか見受けられる。



ユーカリ造林の経験   吉田鐵次郎(鉄次郎)


着眼の動機


  私は、アメリカに二十年を暮らした。この間ほとんど花卉園芸、花卉装飾に終始したため、ユーカリを知る便宜を得た。私は、自分ではじめてユーカリを造林したのが昭和二年で、この園芸の経験で役立ったように思う(※帰国してから)。ところで、私が昭和二年にユーカリ造林を志したのは、在米中に、日本で苗木屋を営んでおった者から、ユーカリの種子をたのまれて、二、三回送ったのがきっかけであった。それいらい私はユーカリに興味をもち、研究をはじめた。日本には、私は大正十五年に帰ったが、そのさいユーカリの種子を持って帰り、ユーカリ造林の第一歩を踏み出すことになった。いまここに、ユーカリの有望と思われる点をあげれば、 

 第一 ユーカリは発育が非常に旺盛であり、三年たてば一人前の樹木となる。 

 第二 中途切りしても新芽が出て、また、それが相当に発育する。

 第三 一度造林すれば牛永久的のものであると思われる。

 第四 葉からユーカリ油(グログラス(※ママ)種に限る)が採取でき、また、この油の用途が多い。

 第五 保健上にもよく、また、湿地を乾燥する力がある。

などであるが、ともかく私は、将来、何かの役に立つ木として希望をもって今日に至った。昭和六年濠洲メルボルン大学のリヤードブル博士のユーカリにかんする新聞発表の意見を見て、なお一そう関心をたかめ、前途に光明をもったものである。

 

盛土が成功のもと


 さて私は、このユーカリ造林の最初には、グログラスの種子を函に蒔き、発芽して本葉の出た一寸から一寸五分ぐらいのものを苗圃に直植して置き、つぎに造林する土地の準備に取りかかった。その当時、クヌギ林を伐採した傾斜地を求めたが、その土地が余りに急傾斜なので、この傾斜をゆるめるため、その上段の畑地の土を用いで盛土し、それに造林した。この盛土が偶然に成功したように思う。というのは、後年、他の山に造林して失敗したことから。始めて、この盛土で整地して植つけたことが成功であったことがわかった。土地の凖備もでき上ったので、植込の手続となり、育苗地から苗の掘りおこしをはじめたとき、直根が長かったため、移植の困難に遭遇した。私は、在米中には播種、苗木の性質、移植等のことは研究しなかったので、いろいの人の意見をきいて、直根を傷つけず掘りおこし移植するほかないと思った。ところが、掘りおこしに着手してみるといかにせん、直根は一尺以上(苗は三―四尺)もあったので、掘りおこしは容易でなかった。完全に掘り取ることもできない苗もあり、手数のかかることおびただしかった。それでも、ようやく傾斜地と上段の畑地に百五十本余の苗を移植したが、この移植にあたっても、造林に素人の私としては、実に苦労した。また、傾斜地は盛土のこととて、降雨にあって土の流れることを防ぐためいろいろ工夫もした。


移植後の苦労


移植後の成績ついては、苗を掘りおこすとき直根の完全なものは活着し、不完全なものは枯死した。しかし。傾斜地と上段の畑地で約一反歩の土地であったので、余りに間隔が広すぎたことも枯死した原因の一つであると思う。風でよくゆさぷられることも考えて、ユーカリの造林は一坪に一本が適当と思われる。

 枯死した苗が相当数あったため、なお一そう間隔が広くなりすぎて、補植の必要を痛感した。そこで、いつかは、何かの参考になろうと思い、グログラスでなく、成長が早いといわれる口ストラタとビミナリスの種子を米国から取りよせて苗をつくった。苗をつくるにあたり、以前の失敗があるので、種々考えた結果、私が園芸にたずさわって来た関係から、鉢で育苗することにした。米国の種苗会社のカタログを調べてみると、ユーカリ苗木の価格表に、何インチ鉢、何フィートの苗、値段いくらととあるのを見つけたので、これは鉢で育苗せねばなるまいと決心したのである。それで、先ず二寸鉢で育て、さらに四寸鉢に移して育て上げ、最初の植込後一年たってから補植したところ、その補植の苗は一本か二本だけ残って、他は全部枯死してしまった。この一、二本残った苗も二年後には枯死して、補植の分は全滅して、結局、最初の残存した苗が成長したことになったわけである。そこで補植するときは最初植込の翌年すぐなれぱ可能であるが、一年後の補植は不可能であることがわかった。その理由は、最初残存した苗が成長が早いため。根が十分に張り、このため補植がさきの根に負けで枯死したのであろう。それは小苗のときは直根が長く延びるが、一たん植付けて、根付き成長すれば、横根が相当張るからである。この実例は他にもたくさんあった。

 かくて、そのご最初植込の残存苗が成長をつづけつつあるとき、間隔が大きかったためか、暴風雨で三、四十本たおれ、また、電線接触のために二、三十本伐採した。昭和十九年からユーカリの葉を製薬会社へ送ことになったので、原木を上部より三回ほど切下げ(約四十尺一五十尺)たが、その切下げ程度の具合か立枯れも出て何本かを失った。このときもいい経験をえたといえる。食糧難の当時には上段の畑地を一部伐採もした。

 しかし、いろいろの苦労と経験から、ユーカリ造林はできうるという自信をえたように思う。


失敗した造林


十五年から十九年にかけ、自宅より徒歩で五十分ほどの山に約六百本近くを植つけた。ここは町の方よりいくらか寒冷地であったが、残念にもほとんど枯死してしまった。わづかにのこっている何本かも成長は普通でなく生育がよくないので、結局.この造林は失敗であった。この失敗については一度専門家の意見もききたいと思っている。この失敗についでて、私がその原因を素人なりに考えていることは、杉、檜を植込むと同じように簡単にやったことであったろうと思う。すなわち、雑草の中に定植し、植込後除草もせず、杉、檜を育てるように取扱ったことが失敗の主たる原因であったと考えている。

 この失敗から前述のように、盛土して造林するほうがよいと、偶然ではあるが結果的にわかったのである。盛土するということは開墾してから定植し、除草を行ったと同様になるからである。

 このように、私はユーカリ造林については、これまで相当大きな犠牲を払ったが、この失敗によってまた非常に貴重な経験もえたので、将来のユーカリ造林上、なにかの参考にもなろうと思うので二、三の点をあげてみる。

 第一は苗は鉢で育てること、ただし、これは大量造林の場合には相当研究の余地があることもちろんである。第二は土地をある程度開墾して植付けることである。第三は植付後二ヵ年間は除草すること、第四はある一部のものには支柱をも用意することなどである。

 これらのことは従来、杉、檜その他の造林の習慣からいえれば煩わしい感じがし、費用と手数もかかるように思われるが、私は、これくらいのことは大した苦痛ではあるまい。それというのも、杉、檜が三十年ないし四十年をへて役に立つのに、ユーカリは杉、檜の年限の半分以下で、杉、檜に匹敵する成長を見られ、その差による利益はばく大であろう。

 なお、地質は一度根がつけばどんな地質でも差支えないと思う。また一日中、光線をうけなくても、たとえ半日でも、何時間かでもあたるところでもよい。乾燥地、湿地いずれをえらんでもよい。もつとも、これらの条件で発育の程度に遅速はあろうが、これとて大した差はあるまいと思っている。


一年に一丈のびる


昭和二年の造林後、私は東京で花屋を経営していたが、戦争が苛烈となった昭和十九年に東京を引揚げて郷里の静岡県に帰えり、ユーカリの葉を日蔭干として貯えたり、苗を育てて希望者に無料で頒布したりしていたが、終戦後、諸官庁や小・中学校等の新改簗にあたり庭木用として、年来のユーカリ樹推奨に乗出した。

 去る九月十二日には柴田林野庁長官をはじめ静岡県の林務部、課長等ユーカリ造林に関心をもたれる方に三十数名が、私の造林地を視察された。その節、私は清水市の簡易裁判所へご案内した。この裁判所には、昭和二十六年六月に、二十五年に植えた苗四十本、九月に二十六年に植えた苗二十本を植付けたが、これは本当にユーカリ樹の本質を十分に発揮して生育している。私は一年に六、七尺のびるものと信じておったが、この裁判所の判事さんの話では、優に一丈はのびるとのことで驚いたしだいである。

 日本において、これからユーカリの造林を盛ならしめるためには、私の考えではたくさんの種類を造林するよりも、成長の最も早いもの、用途の多いもの等をえらんで造林することが望ましいことと思う。なお、或種類を集めて研究材料とするなどのことは專門家に任せるべきで、私としては、来年度はグロブストと同様に成長が早くて用材となる口ストラタを試作して見たいと思っている。      (静岡県庵原郡蒲原町居住)


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