山崎正和「盆地の芸術・私生活の芸術」 『日本人の美意識』1974 から

*****『日本人の美意識: ゼミナール』 山崎正和ほか 朝日新聞社 1974から抄録******* 盆地の芸術・私生活の芸術 山崎正和 文化と環境の関係 前回は、日本の美意識を支える人間関係についてお話ししたのですが、きょうのテーマは、それに引き続いて、日本の美とその文化的な環境ということにしぼってみたいと思います。文化的環境といいますと、大きく分けて、一方に自然の環境があり、他方に、いわば社会的環境と呼ぶべきものがあるということになりましょう。その両面から日本の芸術、および日本の美が育ってきた条件、ないしは地盤というものについて、若干の試みをまじえて私見を申し述べてみるつもりです。ところで環境ということを考えようとすると、まずそれに先立って問題の考え方について、若干の注意をしておかなければなりません。 文化と環境、あるいは歴史と環境の関係については、これまで多くの学者がさまざまに考えてきましたし、また常識のレベルでも多くの人々が広く考えている問題だといえるでしょう。いかなる文化といえども、白紙の状態、あるいは抽象的な空間の中に生まれてくることはないので、必ず一定の性格を持った場所、すなわち環境の中に生まれてくるわけであります。ところが、そうはいうものの、環境と文化、あるいは環境とその中に生きる人間の関係というものは、常識で考えるほど簡単な問題ではありません。 ふつうわれわれの文化、あるいは人間は、環境の産物であるというふうに考えられがちであります。しかしながら、文化は確かに環境を場所として成立しますが、場所として成立するということは、あながち文化が環境の産物だということにはならないわけであります。なぜかといいますと、まず第一に、環境とその中に生きる人間との間柄は、常識で考えるほど簡単に区別が出来ないからです。たとえば、私がここにいて、この周りにある空間が私の環境である、と明快にいえれば問題は簡単なのでありますが、それが必ずしもそういうふうには割り切れないわけです。 いったい、人間の主体が、どれだけの広がりを持っており、どこからそれを取り巻く環境が始まるのか、人間と環境とのあいだに明確な境界線が引きにくいからです。早い話が、私の肉体ですが、これがいったい私の主体であるのか、私の環境であるのか、考えてみるとなかなか複雑なのであります。なるほど私は肉体...