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1911年(明治44年)頃、欧米では、花瓶と同じ花の花びらをテーブルに散らす、新式の花瓶いけスタイルが流行

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一番最初の口絵 シャクヤクで有名なイギリスの種苗会社、ケルウェイ・&・サンズのカタログから採られたものではないか? テーブルに花びらを散らしている。 【欧米では、新式の花瓶いけのスタイルが現れてきていて、花瓶の下に、花びらをわざと散らして、花瓶とテーブルを一体化する工夫をしている 1911年頃】 【中国の挿花法は自由な投入れと考えてよいが、花の水揚げ法については、日本のいけばなよりもはるかに詳しく実践的に研究され、しかも広く公開されている】 【日本の盆栽鉢が中国から輸入され珍重されている。これらの鉢は中国では日本向けに製造されているものであり、もしそうでないとしても、あのような樹木を植えるのではなく、草物などの小さな植物を植えるためのものであり、大きな植物は深い鉢で養成する。なので盆栽鉢、盆は、日本への輸出向きに製造されていると思われる→重要な証言。この時代から昭和のはじめにかけて現在のような盆栽の形式、いわば「国風盆栽」のかたちが定まりつつある。】 明治44(1911)年の前田曙山『花卉応用装飾法』 4、西洋の盛花術 5、支那の挿花術 以上の部分をテキスト化しました。 ※文中で、「支那」という言葉がたくさん出てくるが、時代の表現としてそのままとしています。 *********************** 四 西洋の盛花術 盛花の不文律  西洋には一定したる有文の花道は無い。勿論盛花に就いての書冊は沢山有るが、必ずしも一定不変の方式が有るのでは無い。詰り美しく盛りさえすればよいとしてある。  切った花は何処迄も切った花で、之を日本の如く根のあるかのように見せるというのでは無い。紅黄紫白様々の花を配合よく盛り上げて観賞する迄で、あたかも支那に於て仏前に花を供する時と一般である。  日本と西洋と挿花法の根本に甚だしき相違あるは国人の嗜好を異にする点も有るが、畢竟は家屋の建築が、預って其因を為して居る。西洋室には床の間も無ければ、違い棚もない。座さずして立つ。之が日本と甚だ違うのみならず、多くの場合に花は四方から眺める必要を生む。日本のように正面一方さえよければ済むというのではない。後ろへも廻られるとなると、手品師も手品の種の隠し所がなくなるから、大いに工夫を変えねばならぬ。其結果として、花は低く扁平(ひらた)く盛る事になって、孰(いず)れから見ても、裏表が無いよ...

なぜ、洋花、和花などと分け隔てようとするのか? 『花卉応用装飾法』明治44年

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 なぜ、洋花、和花などと分け隔てようとするのか? 前田曙山『花卉応用装飾法』明治44年 ※この時代、関西では小原流流祖、小原雲心が研究・考案した洋花も和花も使う日本式の盛花(小原式国風盛花)が広がりつつあったが、 関東にはまだ小原流が進出しておらず、普通に「盛花」と言えば、西洋花卉装飾の卓上アレンジメントやバスケットフラワーのことを指している。 いけばなの古い流派は、洋花を下品だとして、禁忌の対象とし、いけばなに用いることがなかった。 *********************** 花の応用  右は単に葉のみについて言うのではない(※この文章の前に、葉の応用という項がある。国内自生種、外国原産の植物、その園芸品の葉を躊躇することなくよいものはどんどん西洋式盛花に利用することを述べている)。花に於ても理屈は同じである。必ずしも横文字が付く花でなければ盛花にならぬという道理は草を分けても不幸にして発見されない。  萩でも桔梗でも桜草でも、はたまた梅、桃、桜、海棠というように、在来からある東洋的の花でも盛花の資格を欠いて咲き出でたのではない。不幸にして事理(じり)を解さぬヘッポク者(しゃ)流に使用されないに過ぎぬ。  全体、今温室の名花として松の位に座るものでもあながちヨーロッパ原産のもののみではない。むしろアジアから輸入されたものが多い。聞くが如(ごと)くんば、日本の種苗商の目録にある四季咲き桜草、すなわちプリムラ・オブコニカだの寒桜草と呼ばるるプリムラ・サイネンシス(※シネンシス)などは、元(もと)南清の原産で、いたるところの山野に自生していたのであったが、それを自国の温室に持ち帰って栽培に努めた結果、全く野生を矯(た)めて生まれ変わったようにしてしまった。それであるから、今日では日本に来ても温室でなければ越冬せぬなどと贅沢を言うのである。  斯の如くお手近の花が欧米へ渡って巧みに栽培された結果、それが逆輸入となると反って西洋原産のように思ってハイカラ者(しゃ)が一も二もなく珍重するなどは実に滑稽に近い。 日本でも伊勢菰野(こもの)の湯の山に産する岩桜(プリムラ・トサエンシス)などを栽培したなら、寒桜草などより更に一層の美しきものが変出されるに違いない。岩桜、小岩桜、羯鼓草(※鞨鼓草)等桜草科の植物は植物中の美人系に属するものであるから鞠養(きくよう)次第で傾...

明治末期の兵庫県の園芸 日本有数の園芸王国であった兵庫県の神戸市および川辺郡、武庫郡、明石郡の三郡の状況がわかる好資料

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大正元年(1912年)『兵庫県の園芸』兵庫県農会 から ******************************* 観賞植物  本県に於ける観賞植物の栽培は甚だ盛にして其産額亦少なからず之が主なる栽培地は川辺郡を最とし次て神戸市及び武庫明石飾磨(※しかま)の各郡にして各特異の点を略述すれば川辺郡にありては古来より盆栽及び庭園用樹の栽培進歩し神戸市は近時盆栽業竝に和洋花卉類の露地温室の両栽培盛となり武庫郡にありては古来より在来花卉を近時に至り西洋草花の温室培養をなすに至りたり其他明石飾磨等に於ては和洋花卉類を栽培するも未だ寮々たるの感なきにあらざるなり(※いまだわずかなものでしかない)  今主要なるもの二、三に就て之が沿革培養の概況を摘述せん 第一節  川辺郡に於ける盆栽 (一)沿革  川辺郡内に於て本業の最も盛なるは長尾村にして其盆養起源は甚だ古く口碑の伝ふる所によれば豊臣氏の時代より既に本業に従事せしものありたるが如し其後徳川幕府の時代に於て農民は穀類殊に米作を以て主業とし天職となす可き布令あり之が栽培を禁制せられたることありしも由来当地は比較的人口凋密土地極めて瘠薄にして生産力に乏しく玄米の収穫の如き一反歩僅かに一石内外に過ぎざるため農家経済豊かならず農村の頽廃年を追ふて甚敷為に米作は漸次衰運に傾くに至り之に代ふるに盆栽業の振興を醸すに至れり  明治維新後観賞植物の需要頓(にわか)に増加するに至りたれば層一層本業の発達を著しからしめ専業とするもの続出し産額大に加はり山本村の如き全村観賞植物を以て覆はれたるが如き有様にして遠く欧米地方に迄輸出せらるゝの盛況を呈せり (二)地勢風土  長尾村は大阪を去る西北五里の処に位し背後に長尾山を背ひ西は六甲の山脈を以て巡らされ南方に向つて傾斜せり  土質は軽き埴質壌土乃至壌土にして肥沃なりと云ひ難きも気候温暖中和冬期積雪を見ること殆んど無く夏期は高温にして降雨時々至り植物の生育に適す (三)盆栽と植物  以前にありては尺寸の盆中に小天地を作り山水の美を移し栽へたるものなりしも漸次世の風潮と共に本業も亦変遷を来し単純なる盆養をなすに至れり而して其種類は多種多様にして殆んど盆養に供し得らるゝものは総て網羅せられざるなく観花植物観葉植物観実植物の全部に亘れり今主として培養せらるゝ種類名を列挙すれば左の如し  松...

なぜ昔の花屋はグラジオラスを「ブル」と呼んでいたのか

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  「ブルは東京方面にてグラジオラスの異名」と書いてある。 清吉は薫花園の園主、鈴木清吉の名前。グラジオラスをメインに打ち出しており、 「清吉ブル」は花屋にとってのブランドとなっていた。 でも、なぜブルなのかは不明のまま。 昭和2(1927)年の記録 昭和2年 『全国著名園芸家総覧』から https://dl.ndl.go.jp/pid/1036762 ※明治以降、グラジオラスは早い時期から輸入され人気になっていく。グラディオルス、グラディオラス、グラジオラスなどと表記された。和名では唐菖蒲が一般的で、のちに、星龍という名称が出てくるが、これも由来がわからない。

横浜市周辺、港南地区の花づくり 笹下地域を中心に 鈴木清吉と薫花園など

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『港町百花繚乱』2008 から 横浜の花づくりの歴史 港南区 笹下地域 鈴木清吉、薫花園 大正一四(1925)年 戸部 横浜生花卸売市場の開設(震災の2年後)。 昭和六(1931)年 上大岡 港南花市場の誕生。 笹下の東福寺に昭和40年、「花塚」建立 港南生花商組合 **************************** 『港南の歴史 区制10周年記念』港南の歴史発刊実行委員会 1979年 花の生産と販売  「畑は道一杯に芳香を放って果しなく続いたまるで絵の様な素晴らしい風景でした」。これは昭和二年六月、日下小学校附設実業補習学校教諭として赴任した今井ウタの感想である。  明治四五年(一九一二)編纂された久良岐郡大岡川村「郷土誌」は、花の栽培についてつぎのように記している。「生業 一般二農業ニ従事スレトモ横浜市二接近セルヲ以テ諸種ノ業務二従事スルモノ漸ク多キニ至レリ、殊二農業者ハ各自ニ小規模ノ蔬菜園芸ヲナシ又花卉類ヲ栽植シ日々婦女子ヲシテ少許宛ヲ龍二入レテ背負ハセ横浜市中ニ行商セシム、其数少クモ毎日二・三拾人ヲ下ラズ、多キトキハ百人以上ニ達ス、土人之ヲ背負𡏱(しょいびく(※土へんに累))卜称シ各戸其収益少ナカラズ。物産 馬鈴薯・蔬菜類 草花類 百合 パイスケ 笟(*たがという漢字だが、笊ざるでは?) 植木を産ス。」※パイスケは天秤棒で担ぐ一対のかご=バスケットという言葉が語源  また「横浜市史稿」は「裾からげの地味な着物に、色襟をはづかし気に覗かせ姉さん冠りの手拭も鄙びやかに、藁草履を穿き、背負った龍の中には野菜物を充たし、季節々々の色花を莚包みとした荷藁も軽ろげにお花お花と呼び歩く、素朴な田舎娘と、小魚類を板台に入れ、𡏱籠(びくかご)に乗せて背負ひ、無雑作な束ね髪に筒袖姿甲斐々々しく、戸口々々をめぐり歩く年増女とは、開港頃から明治に亘り其中期頃を全盛として可成り長い間、横浜市中の景観に和やかな色彩を投げたふたつの点景であった。花売娘は、港一里余程の陽恵みに潤された、大岡、笹下、日野、田中、栗木等の部落の丘や山懐ろに、四季とりどりに咲く僚爛の草花と畑幸の品々とを籠荷にして、市中を売り歩く娘さん達である。年増、老婆も交っては居るが、大方は花恥かしい乙女が多い。町人はこれをお花やさんと呼んでいる。」と当時の風俗をのべている。  「神奈川県花卉業界沿革史(※神奈川県...

昭和28年、1953年当時の「染めの花」の流通についての雑誌記事 戦前の「マジック・ダイ」にも触れている。

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 『農耕と園芸』1953年7月号 営農相談のページに寄せられた「着色した切花」についての回答。回答者は、戦後の花業界を官の方で支えてくれた農林省の加藤要氏。 ************************* 切花の人工着色 問   近頃、生花商の店先に水色や青色のカーネーションを見かけますが、これは着色したものでしょうか、(東京都中野区田村エツ子) 答   これは、生花商の手で着色しているものもありますし、生産者が着色して市場に出荷しているものもあります。カーネーションのほかにはハナショウブなども、よくこれを赤く着色したものが売らられ、また、スズランなどは、若い人が机の上に挿した花を赤や青に着色をして面白がっているのを見かけることがあります。  これは、よく見ると花弁の脈のところがすじに色がついているので判りますが、切花をいける水に染料やインキを溶かしておいて吸わせたものです。  しかし、これはどんな染料でもよいわけではなくて、直接染料や媒染染料は花が吸上げません。普通毛染、または絹染酸性染料が適当でこれを溶した液に切花を挿込んでおくと、容易に吸上げて着色します。  この酸性染料のうち、アシド・ローダミン(紅色)、キノリン・イエロー(黄色)、パテント・ブリュー(青色)の三色を用意すれば、これを配合してどんな色にも着色できます。  カーネーションの切花に使いますと、摂氏二○度前後の温度で、五~一〇分ぐらいで見事に  また、カーネーションの茎の根元を二本に割いて、それぞれ赤と青というように違った色の液に挿しておくと、一つの花が半分が赤で半分が青というようにすることもできます。  バラ、サザンカ、サクラなどの木物も、一晩ぐらい浸しておくと着色します。  このように、染料を吸わせて着色した切花は、着色しないものにくらべてかえって花保ちがいいのも便利です。  前記の着色用の染料は戦前「マジック。ダイ(魔法の染料)」といって売出されていましたが、今は染料屋で求めることができます。 (回答 加藤要 農林省特産課) 参考「マヂック・ダイ」のこと https://ainomono.blogspot.com/2024/06/75.html https://ainomono.blogspot.com/2024/06/75_30.html

「園芸趣味」を創り出し大衆化した文人、前田曙山(まえだしょざん)の著作関係全仕事解説 登山、写真、高山植物の栽培、花卉装飾、園芸雑誌の主宰、大衆小説の泰斗

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  執筆中の前田曙山 ダンディな人であったという。 『私の大衆文壇史 』(青蛙選書) 萱原宏一 青蛙房 1972から 前田曙山は、明治後期から大正、昭和にかけての園芸ブームを牽引した最大の功労者の一人。若い頃から大衆小説の人気作家となり、生涯にわたって作品を書き続けた。後期の作品はいくつもの映画の原作となり、多くの人に愛された。 曙山は、登山家や写真家としても日本の先駆けであり、その名を残している。 植物学でも牧野富太郎に師事してよく学び、高山植物の採集や栽培にも力を入れた。東京・向島の大きな園芸会社の役員を務め、わかりやすい言葉で植物や栽培することの楽しさを伝える『園芸文庫』14巻や『高山植物叢書』などを表した。高山植物の栽培はブームとなり、それらの花をモチーフにした小物が流行したという。 明治後期には『園芸之友』という雑誌を主宰し、園芸文学、園芸小説というジャンルをつくり、物語を読むことで自然と園芸知識が身につくようなものを世に送り出している。 前田曙山が記した「明治年間花卉園芸私考」(『明治園芸史』 p505~ 日本園芸研究会編 1915)は、明治期の花卉産業の貴重な記録となっている。 以下、曙山の全仕事の概要がわかる資料をここにテキストとして記録する。 ひとつ、曙山の誕生日は明治4年11月21日であるが、明治6年になって西暦に改暦されたので、実際は1872年1月1日生まれとなっているので、よく、1871年11月21日生まれ、と書かれたりしているが、間違いである。 『現代大衆文学全集』第5巻 前田曙山集 平凡社 1927 **************************** 『近代文学研究叢書』 第四十七巻 昭和53(1978)年5月31日発行 昭和女子大学近代文学研究室・著 昭和女子大学近代文化研究所・発行  前田曙山は小説家。本名次郎。明治四年十一月二十一日(1872年1月1日)、東京日本橋馬喰町の旧郡代屋敷で父圭璋(静岡県士族)、母波奈の次男として生まれた。陸軍大将になる夢を抱いて陸軍予備校に入学したが素志を変えて中退、私立の日本英学館に学んだ。兄太郎(香縁情史)が硯友社同人であったことから文学への目を開かれ、明治二十四(1891)年「千紫萬紅」に処女作「江戸桜」を発表して文壇に登場した。春陽堂の編集記者として活躍するかたわら次々に作品を発表...

明治34(1901)年、ロンドンでツムラトウイチ(山中商会)という人物により日本の盆栽を詳しく紹介する講演が行われていた。

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  【ツムラ・トウイチという人物は謎のまま】 『小林憲雄伝:国風芸術盆栽の恩人』日本盆栽協会 編 日本盆栽協会1978 の58ページに、明治34年=1901年の11月13日、ロンドンにおけるJapan Society主催の第11回集会において、ツムラトウイチという人が Japanese Dwarf Treesという題目で講演をされた、ということが記されている(同協会第6号に多数の写真入りで紹介されている、と記している)。これらの写真は「幻灯」を使って会場で映されたものらしい。 ・宮沢文吾『盆栽』1922、岩佐亮二『盆栽文化史』にも、同様の指摘があり、どちらも「津村東一?」と記している。宮沢氏は、この報告が英文で盆栽の全体的な解説をした最初の文献になるのではないか、と書いている(外国人による報告はそれいぜんからいくつもある)。 ネットで次のようなサイトを見つけたので概要をメモしておきます。 https://www.magiminiland.org/1900Refs/Tsumura.html 「矮小樹木」『日本協会会報』より  (DeepLにて自動翻訳しました。)  「矮小樹木」 ツムラトウイチ著、M.J.S.(1901年): ※MJSは日本協会会員の意と思われる。 (※元注 論文の著者は発表後まもなく日本に帰国したため、校正を提出する機会がなく、また不明瞭な箇所について著者から情報を得ることもできなかった。そのため、それらの箇所は削除せざるを得なかった。--[編集者]) 「空想は形であふれかえっている。 それゆえ空想は空想的なのだ。」 『十二夜』第1幕第1場  ※元注 ツムラ氏のようなヴィクトリア朝の作家の冗長な文体に慣れていないウェブサイト読者のために、RJBは記事の読みやすさを考慮して、いくつかの見出しと注釈を挿入しました。       日本人が優雅で美しいと思うものが他の国々でも賞賛されていることを知るのは、日本人にとって常に喜ばしいことです。そこで、私は特に喜んでお伝えしたいと思います。私たちの芸術家たちが美しくしようとしている矮性樹が、女王陛下(※元注 アン女王。ヴィクトリア女王は同年1月22日に死去→アレクサンドラ(アリックス)女王では?)に賞賛されていることを。女王陛下のご厚意により、王室の宮殿に...