投稿

和辻哲郎 巨椋池の蓮

イメージ
巨椋池の蓮  和辻哲郎 1950年 新潮8月号初出 1930年ころの巨椋池 『 伏見区誕生70周年記念誌』から 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49883_45588.html

巨椋池に蓮の開花の音を聞きに行ったという話 小原豊雲さん(27歳)とグレゴリー・コンウェイ氏(25歳)の思い出

イメージ
  (『日本の花』小原豊雲 1967) 蓮   小原豊雲(1908年9月29日 - 1995年3月18日*1935年の夏は27歳) *コンウェイ氏のいけばな指導は、小原流史の年表では昭和11年の夏となっている。 巨椋池の歴史(1933(昭和8)年から1941(昭和16)年にかけて実施された国営の干拓事業により消滅。) https://www.keihan.co.jp/navi/kyoto_tsu/tsu202406.html 蓮と言うと、われわれには、第一に仏教的な面と結びついて蓮が浮かんでくる。 古い仏像の台座という台座は、蓮の花がデザインされた蓮台であるし、仏前に供花されている、銅で作られたり、乾漆塗りで金色に塗装された蓮花などは、直接だれしも目にするところであるし、仏画の中の花にいたっては、もはや蓮づくしと言っても過ぎることはない。直接目にふれるだけでも、このように結びつきの深いものだから、花の世界でも蓮をいけるときは、どうしても抹香(まっこう)くさい感じがしたり、特定な宗教的ふんいきからぬけられないのが、一般であるだろう。 蓮はエジプト原産の花で、インドを経て仏教の伝来とともに日本に渡来したのではないかと、私は思う。先年エジプトを旅したときに、サッカラのピラミッド内部の壁画や、アジアンタの洞窟内の壁画の中に、明らかに蓮の花や葉の姿が認められ、それが当時においても神聖視される花であったらしいことを知った。むろん仏教では、蓮を至上の花としているし、同時に泥の中からよごれなく清純な花を咲かせることを、人間社会の様相になぞらえる気持ちが強く蓮にははたらいたにちがいない。 日本の古いいけばなが、半僧半俗の同朋衆や、池坊系の僧侶たちによってになわれていたことを思えば、こうした考え方がいけばなのうえに反映されないわけはなく、したがって、古い花の立華や生花において、そのつぼみ、開花、実の姿、あるいは巻き葉、開き葉、枯れ葉の中に、過去、現在、未来の三世を仮託し、また人の一生にたとえる見方があったとしても不思議はない。 しかし、小原流で蓮を扱うときは、あえて宗教的な面にとらわれず、夏の涼しげな水草素材として、写景的に水辺の情趣を描写するためにとり上げる。あるいは、中国絵画に描かれたような画趣をねらって、蓮本来のおもしろさを生かすくふうをしているのである。 雄略天皇につい...

重森三玲 日本文化にあらわれた花の一覧表 いけばなと他の日本文化との相関に着目せよ 1967年

イメージ
◯日本のいけばなは、「ネイチャー・ベースド・カルチャー」視点で展開していった他の分野(祭り、演劇、建築、庭園、絵画、工芸)をいけばなと等しく参照して、作品として創造していくことが必要だった。 1967年 重森三玲の「日本の花と伝統文化」および「日本文化にあらわれた花」の一覧表 (『日本の花』小原豊雲 1967) 日本文化にあらわれた花      重森三玲 日本の花と伝統文化 日本では松や竹のように、花を賞しないものまで花として考えているので、「いけばな」でもそのようにとり扱われている。お互いにわたしたちは、それでけっこう納得しているのだが、欧米人にはまったく通じないことであり、不思議なことだと考えられている。 それだけではなく、「花咲爺」の童話に出てくるように、枯木に花を咲かせることが「いけばな」のうえでは考えられている。また日本は、四季自然の変化が通常なので、四季に咲く花も、繁茂する葉も、まことに変化が多く、しかも美しい。それらの植物が季節のおりおりにしたがって「いけばな」にされてきたから、花とともに葉も賞美の対象として同格に扱われている。場合によっては、葉が花以上に美しいものとしてとり上げられたから、葉だけのものも、花として扱われたのである。そしてまた、枯れた幹や枝にも別な意味での美しさがあるから、これまた花として扱われてきたのであった。枯木に花が咲くのではなくて、枯木そのものが花なのである。だから扱いしだいでは、枯木に花が咲くという表現が可能なのである。 上古では、神が天にいますものと考えられた。その天にいます神が、地上にくだって、人々に幸いをもたらすためには、天に最も近い高山に降臨されると考えていたから、高い山に神がいますものと考えるに至った。そして、その高い山の樹木には神が宿られるという考え方もできて、その樹木を神として崇敬するに至った。だから、上古の時代では、種々な草木を神としての対象と考えたり、神をまつる方法の中にとり入れたのであった。 神をまつるために、神の心を慰めることが第一だから、草木を髪に飾ったり、手に持って踊ることが起こる。それが神楽や田楽や、猿楽となり、のちの時代には能楽となり、歌舞伎となり、舞踊となった。 それだけではなく、人々の日常の生活のうえで建築物を作り、室内の装飾のためには絵画を生み、建築物の外には庭園を設けた。さらにまた、室内装...

1958年、アメリカでいけばなが大流行していた時代に「花のいけ方」を紹介するテレビ番組があった

イメージ
リッチモンド・ニューズ・リーダー 1958年3月8日号  ※リッチモンドはバージニア州の州都 ※8チャンネル、WXEX-TVは、NBC系列局(1965年にABC系列に)として1955年~1990年まで続き、現在はWRIC-TVとなっている。 フラワーショーでアレンジメントが紹介される 春の訪れを待ちきれないガーデナーたちは、今週から始まる「How to Arrange Flowers フラワーアレンジメントの方法」という新番組でテレビの前で夢見ることができる。この番組はWXEX-TVで火曜日から放送される。(午後2時15分、チャンネル8)。 このテーマを扱う番組としては初めての15分間の番組では、この時期にガーデナーたちの想像の中で咲き誇る、大きく完璧な形の花々を数多く紹介する。全米的に有名なフラワー・エキスパートのJ.グレゴリー・コンウェイ氏が番組に登場し、花々を完璧な形のアレンジメントに仕上げる数多くの方法を実演する。 コンウェイ氏は毎週、特定のアレンジメントの作り方を実演し、どの花をどこに配置し、いつ配置するかを視聴者に示している。また、同じ原則が他のアレンジメントや他の花にも適用できることを説明し、13週にわたるこのシリーズは、このフラワーアレンジメントの芸術における完全な基礎コースを構成している。 コンウェイ氏は13回の番組のうち10回を特定の花に費やしているが、その他にも多くの人気花を取り上げている。取り上げられた花は、ダリア、バラ、チューリップ、ジニア、マリーゴールド、ヒナギク、スズラン、グラジオラス、菊、カーネーション、カンナなどである。3回の番組では、特別なテーマを取り上げている。西洋各時代風のアレンジメント、日本の風景(盛花、盆景)、果物や野菜のアレンジメントである。 Richmond News Leader, Number 19805, 8 March 1958 J. GREGORY CONWAY Arranging Featured in Flower Show Gardeners impatient for the arrival of spring can dream at their television sets this week with the start of a new series called "How to ...

1911年(明治44年)頃、欧米では、花瓶と同じ花の花びらをテーブルに散らす、新式の花瓶いけスタイルが流行

イメージ
一番最初の口絵 シャクヤクで有名なイギリスの種苗会社、ケルウェイ・&・サンズのカタログから採られたものではないか? テーブルに花びらを散らしている。 【欧米では、新式の花瓶いけのスタイルが現れてきていて、花瓶の下に、花びらをわざと散らして、花瓶とテーブルを一体化する工夫をしている 1911年頃】 【中国の挿花法は自由な投入れと考えてよいが、花の水揚げ法については、日本のいけばなよりもはるかに詳しく実践的に研究され、しかも広く公開されている】 【日本の盆栽鉢が中国から輸入され珍重されている。これらの鉢は中国では日本向けに製造されているものであり、もしそうでないとしても、あのような樹木を植えるのではなく、草物などの小さな植物を植えるためのものであり、大きな植物は深い鉢で養成する。なので盆栽鉢、盆は、日本への輸出向きに製造されていると思われる→重要な証言。この時代から昭和のはじめにかけて現在のような盆栽の形式、いわば「国風盆栽」のかたちが定まりつつある。】 明治44(1911)年の前田曙山『花卉応用装飾法』 4、西洋の盛花術 5、支那の挿花術 以上の部分をテキスト化しました。 ※文中で、「支那」という言葉がたくさん出てくるが、時代の表現としてそのままとしています。 *********************** 四 西洋の盛花術 盛花の不文律  西洋には一定したる有文の花道は無い。勿論盛花に就いての書冊は沢山有るが、必ずしも一定不変の方式が有るのでは無い。詰り美しく盛りさえすればよいとしてある。  切った花は何処迄も切った花で、之を日本の如く根のあるかのように見せるというのでは無い。紅黄紫白様々の花を配合よく盛り上げて観賞する迄で、あたかも支那に於て仏前に花を供する時と一般である。  日本と西洋と挿花法の根本に甚だしき相違あるは国人の嗜好を異にする点も有るが、畢竟は家屋の建築が、預って其因を為して居る。西洋室には床の間も無ければ、違い棚もない。座さずして立つ。之が日本と甚だ違うのみならず、多くの場合に花は四方から眺める必要を生む。日本のように正面一方さえよければ済むというのではない。後ろへも廻られるとなると、手品師も手品の種の隠し所がなくなるから、大いに工夫を変えねばならぬ。其結果として、花は低く扁平(ひらた)く盛る事になって、孰(いず)れから見ても、裏表が無いよ...

なぜ、洋花、和花などと分け隔てようとするのか? 『花卉応用装飾法』明治44年

イメージ
 なぜ、洋花、和花などと分け隔てようとするのか? 前田曙山『花卉応用装飾法』明治44年 ※この時代、関西では小原流流祖、小原雲心が研究・考案した洋花も和花も使う日本式の盛花(小原式国風盛花)が広がりつつあったが、 関東にはまだ小原流が進出しておらず、普通に「盛花」と言えば、西洋花卉装飾の卓上アレンジメントやバスケットフラワーのことを指している。 いけばなの古い流派は、洋花を下品だとして、禁忌の対象とし、いけばなに用いることがなかった。 *********************** 花の応用  右は単に葉のみについて言うのではない(※この文章の前に、葉の応用という項がある。国内自生種、外国原産の植物、その園芸品の葉を躊躇することなくよいものはどんどん西洋式盛花に利用することを述べている)。花に於ても理屈は同じである。必ずしも横文字が付く花でなければ盛花にならぬという道理は草を分けても不幸にして発見されない。  萩でも桔梗でも桜草でも、はたまた梅、桃、桜、海棠というように、在来からある東洋的の花でも盛花の資格を欠いて咲き出でたのではない。不幸にして事理(じり)を解さぬヘッポク者(しゃ)流に使用されないに過ぎぬ。  全体、今温室の名花として松の位に座るものでもあながちヨーロッパ原産のもののみではない。むしろアジアから輸入されたものが多い。聞くが如(ごと)くんば、日本の種苗商の目録にある四季咲き桜草、すなわちプリムラ・オブコニカだの寒桜草と呼ばるるプリムラ・サイネンシス(※シネンシス)などは、元(もと)南清の原産で、いたるところの山野に自生していたのであったが、それを自国の温室に持ち帰って栽培に努めた結果、全く野生を矯(た)めて生まれ変わったようにしてしまった。それであるから、今日では日本に来ても温室でなければ越冬せぬなどと贅沢を言うのである。  斯の如くお手近の花が欧米へ渡って巧みに栽培された結果、それが逆輸入となると反って西洋原産のように思ってハイカラ者(しゃ)が一も二もなく珍重するなどは実に滑稽に近い。 日本でも伊勢菰野(こもの)の湯の山に産する岩桜(プリムラ・トサエンシス)などを栽培したなら、寒桜草などより更に一層の美しきものが変出されるに違いない。岩桜、小岩桜、羯鼓草(※鞨鼓草)等桜草科の植物は植物中の美人系に属するものであるから鞠養(きくよう)次第で傾...

明治末期の兵庫県の園芸 日本有数の園芸王国であった兵庫県の神戸市および川辺郡、武庫郡、明石郡の三郡の状況がわかる好資料

イメージ
大正元年(1912年)『兵庫県の園芸』兵庫県農会 から ******************************* 観賞植物  本県に於ける観賞植物の栽培は甚だ盛にして其産額亦少なからず之が主なる栽培地は川辺郡を最とし次て神戸市及び武庫明石飾磨(※しかま)の各郡にして各特異の点を略述すれば川辺郡にありては古来より盆栽及び庭園用樹の栽培進歩し神戸市は近時盆栽業竝に和洋花卉類の露地温室の両栽培盛となり武庫郡にありては古来より在来花卉を近時に至り西洋草花の温室培養をなすに至りたり其他明石飾磨等に於ては和洋花卉類を栽培するも未だ寮々たるの感なきにあらざるなり(※いまだわずかなものでしかない)  今主要なるもの二、三に就て之が沿革培養の概況を摘述せん 第一節  川辺郡に於ける盆栽 (一)沿革  川辺郡内に於て本業の最も盛なるは長尾村にして其盆養起源は甚だ古く口碑の伝ふる所によれば豊臣氏の時代より既に本業に従事せしものありたるが如し其後徳川幕府の時代に於て農民は穀類殊に米作を以て主業とし天職となす可き布令あり之が栽培を禁制せられたることありしも由来当地は比較的人口凋密土地極めて瘠薄にして生産力に乏しく玄米の収穫の如き一反歩僅かに一石内外に過ぎざるため農家経済豊かならず農村の頽廃年を追ふて甚敷為に米作は漸次衰運に傾くに至り之に代ふるに盆栽業の振興を醸すに至れり  明治維新後観賞植物の需要頓(にわか)に増加するに至りたれば層一層本業の発達を著しからしめ専業とするもの続出し産額大に加はり山本村の如き全村観賞植物を以て覆はれたるが如き有様にして遠く欧米地方に迄輸出せらるゝの盛況を呈せり (二)地勢風土  長尾村は大阪を去る西北五里の処に位し背後に長尾山を背ひ西は六甲の山脈を以て巡らされ南方に向つて傾斜せり  土質は軽き埴質壌土乃至壌土にして肥沃なりと云ひ難きも気候温暖中和冬期積雪を見ること殆んど無く夏期は高温にして降雨時々至り植物の生育に適す (三)盆栽と植物  以前にありては尺寸の盆中に小天地を作り山水の美を移し栽へたるものなりしも漸次世の風潮と共に本業も亦変遷を来し単純なる盆養をなすに至れり而して其種類は多種多様にして殆んど盆養に供し得らるゝものは総て網羅せられざるなく観花植物観葉植物観実植物の全部に亘れり今主として培養せらるゝ種類名を列挙すれば左の如し  松...

なぜ昔の花屋はグラジオラスを「ブル」と呼んでいたのか

イメージ
  「ブルは東京方面にてグラジオラスの異名」と書いてある。 清吉は薫花園の園主、鈴木清吉の名前。グラジオラスをメインに打ち出しており、 「清吉ブル」は花屋にとってのブランドとなっていた。 でも、なぜブルなのかは不明のまま。 昭和2(1927)年の記録 昭和2年 『全国著名園芸家総覧』から https://dl.ndl.go.jp/pid/1036762 ※明治以降、グラジオラスは早い時期から輸入され人気になっていく。グラディオルス、グラディオラス、グラジオラスなどと表記された。和名では唐菖蒲が一般的で、のちに、星龍という名称が出てくるが、これも由来がわからない。

横浜市周辺、港南地区の花づくり 笹下地域を中心に 鈴木清吉と薫花園など

イメージ
『港町百花繚乱』2008 から 横浜の花づくりの歴史 港南区 笹下地域 鈴木清吉、薫花園 大正一四(1925)年 戸部 横浜生花卸売市場の開設(震災の2年後)。 昭和六(1931)年 上大岡 港南花市場の誕生。 笹下の東福寺に昭和40年、「花塚」建立 港南生花商組合 **************************** 『港南の歴史 区制10周年記念』港南の歴史発刊実行委員会 1979年 花の生産と販売  「畑は道一杯に芳香を放って果しなく続いたまるで絵の様な素晴らしい風景でした」。これは昭和二年六月、日下小学校附設実業補習学校教諭として赴任した今井ウタの感想である。  明治四五年(一九一二)編纂された久良岐郡大岡川村「郷土誌」は、花の栽培についてつぎのように記している。「生業 一般二農業ニ従事スレトモ横浜市二接近セルヲ以テ諸種ノ業務二従事スルモノ漸ク多キニ至レリ、殊二農業者ハ各自ニ小規模ノ蔬菜園芸ヲナシ又花卉類ヲ栽植シ日々婦女子ヲシテ少許宛ヲ龍二入レテ背負ハセ横浜市中ニ行商セシム、其数少クモ毎日二・三拾人ヲ下ラズ、多キトキハ百人以上ニ達ス、土人之ヲ背負𡏱(しょいびく(※土へんに累))卜称シ各戸其収益少ナカラズ。物産 馬鈴薯・蔬菜類 草花類 百合 パイスケ 笟(*たがという漢字だが、笊ざるでは?) 植木を産ス。」※パイスケは天秤棒で担ぐ一対のかご=バスケットという言葉が語源  また「横浜市史稿」は「裾からげの地味な着物に、色襟をはづかし気に覗かせ姉さん冠りの手拭も鄙びやかに、藁草履を穿き、背負った龍の中には野菜物を充たし、季節々々の色花を莚包みとした荷藁も軽ろげにお花お花と呼び歩く、素朴な田舎娘と、小魚類を板台に入れ、𡏱籠(びくかご)に乗せて背負ひ、無雑作な束ね髪に筒袖姿甲斐々々しく、戸口々々をめぐり歩く年増女とは、開港頃から明治に亘り其中期頃を全盛として可成り長い間、横浜市中の景観に和やかな色彩を投げたふたつの点景であった。花売娘は、港一里余程の陽恵みに潤された、大岡、笹下、日野、田中、栗木等の部落の丘や山懐ろに、四季とりどりに咲く僚爛の草花と畑幸の品々とを籠荷にして、市中を売り歩く娘さん達である。年増、老婆も交っては居るが、大方は花恥かしい乙女が多い。町人はこれをお花やさんと呼んでいる。」と当時の風俗をのべている。  「神奈川県花卉業界沿革史(※神奈川県...

昭和28年、1953年当時の「染めの花」の流通についての雑誌記事 戦前の「マジック・ダイ」にも触れている。

イメージ
 『農耕と園芸』1953年7月号 営農相談のページに寄せられた「着色した切花」についての回答。回答者は、戦後の花業界を官の方で支えてくれた農林省の加藤要氏。 ************************* 切花の人工着色 問   近頃、生花商の店先に水色や青色のカーネーションを見かけますが、これは着色したものでしょうか、(東京都中野区田村エツ子) 答   これは、生花商の手で着色しているものもありますし、生産者が着色して市場に出荷しているものもあります。カーネーションのほかにはハナショウブなども、よくこれを赤く着色したものが売らられ、また、スズランなどは、若い人が机の上に挿した花を赤や青に着色をして面白がっているのを見かけることがあります。  これは、よく見ると花弁の脈のところがすじに色がついているので判りますが、切花をいける水に染料やインキを溶かしておいて吸わせたものです。  しかし、これはどんな染料でもよいわけではなくて、直接染料や媒染染料は花が吸上げません。普通毛染、または絹染酸性染料が適当でこれを溶した液に切花を挿込んでおくと、容易に吸上げて着色します。  この酸性染料のうち、アシド・ローダミン(紅色)、キノリン・イエロー(黄色)、パテント・ブリュー(青色)の三色を用意すれば、これを配合してどんな色にも着色できます。  カーネーションの切花に使いますと、摂氏二○度前後の温度で、五~一〇分ぐらいで見事に  また、カーネーションの茎の根元を二本に割いて、それぞれ赤と青というように違った色の液に挿しておくと、一つの花が半分が赤で半分が青というようにすることもできます。  バラ、サザンカ、サクラなどの木物も、一晩ぐらい浸しておくと着色します。  このように、染料を吸わせて着色した切花は、着色しないものにくらべてかえって花保ちがいいのも便利です。  前記の着色用の染料は戦前「マジック。ダイ(魔法の染料)」といって売出されていましたが、今は染料屋で求めることができます。 (回答 加藤要 農林省特産課) 参考「マヂック・ダイ」のこと https://ainomono.blogspot.com/2024/06/75.html https://ainomono.blogspot.com/2024/06/75_30.html