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1907年の切花装飾への金網の利用について ガートルード・ジーキル『Flower decoration in the house』の記述から

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ガートルード・ジーキル(Gertrude Jekyll, 1843-1932)は、英国の有名な 園芸家、作庭家。ほかにも画家、工芸家、著述家としても活躍した。 このジーキルの著作の中に、切花による室内装飾について詳しく書かれた著作がある。 今回は、この1907年に記された本の中から、花留め、とくに、金網(針金を器械で六角形に編んだもの)の利用について書かれた部分を紹介する。 *イギリスでの金網利用の花留めについての記録としては貴重なものだと思う。 *日本での金網の普及は、明治末から大正にかけて海外からの輸入品から国産が出回り始めて最初は養鶏用から利用が広がったと思われます。少なくとも、明治末年の宮川紫外、前田曙山の花卉装飾案内書ではまったく触れられていません。 ガートルード・ジーキル『Flower decoration in the house』 https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=wu.89038499380&seq=1 ⚫️ジーキルは、自由に花を挿すことを求め、切花の室内装飾に新しい潮流を生み出した人物。花器に自由自在に花を挿すには、しっかりとした花留め(メカニックエイド)が必要。 そのためにいろいろな工夫をした。重要なことは、それらの花留めは鑑賞者から見えないようにしなければならない。花留めを見せないようにセットして、花の茎が自然に立つように「正確な配置の心地よさ(comfort of accurate placing)」を追求した。 ⚫️ジーキルは、金網以前に、木の枝(※いけばなでいう、「配り」)や「竹や籐を割って 交差させた格子状の支え を壺口にかけそれに針金で茎を留める」とか、太めの針金(脚として使ったり丸めたり)や、帯状の鉛を丸めたものを花器の底に沈めて、そこに茎を当てて花留めとするような工夫をしていた。これは、当時の多くの人が普通にやっていたことではないか、と想像する。 ⚫️そのうえで、ジーキルは「亜鉛メッキの金網」を器に入れ、上下二層になるようにセットして花留めとして利用していた。水を汚さないのでクリーンな花留めとして高く評価していた。強度・再利用性・清潔さに優れており、他の方法(コケや砂、枝や鉛の帯など)よりも優れていると明言しており、手間も大きく省けて便利な道具であったと思われる。 ⚫️...

アメリカでいけばなを広めた功労者、山本とも子の足跡

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  『Flower Arranging』 Better Homes and Gardens 1965(第2版)より(初版は1957年) 【米国で強制収容所から解放された日本人を安全な場所へ動かして定住させようという計画と実行】 アリゾナ州リバーズ、ギラ川強制収容所。サンフランシスコ元PTA会長、現運河婦人クラブ(収容所内の婦人クラブ)代表の山本夫人がエレノア・ルーズベルト夫人に花束を贈呈する。日付 1943年4月23日  Wikimedia Commonsから 華道家、山本とも子の場合 ※カリフォルニア州サンフランシスコからアイオワ州デモインへ AIしらべ 1. 西海岸での敵意と危険 1942年の強制立ち退き後、西海岸(日系人の多いカリフォルニア・オレゴン・ワシントン州)は「軍事的に危険地域」とされ、日系人は収容所へ送られました。 1944年12月、最高裁判決や大統領命令により収容解除が認められると、徐々に西海岸に戻る人も出ましたが、戦争はまだ終結していませんでした。 帰還した人々は 石を投げられる、雇用拒否される、店で買い物を断られるなどの被害を受けた記録が多数残っています。とくに日米開戦で家族を失った人々の感情が強く、日系人差別は根深かったのです。 ※セーフウェーだけは、日本人を差別せず食料品、日用品を売ってくれたという。 --- 2. 内陸都市での「再定住」 そのため WRA は「内陸部での resettlement(再定住)」を強く奨励しました。 シカゴ、デトロイト、デンバー、**デモイン(アイオワ州)**などは、比較的安全かつ受け入れ態勢がある場所とされました。 デモインは中西部の保守的な町でしたが、Better Homes and Gardens(Meredith Publishing)や地元ガーデンクラブといった文化人ネットワークがあり、教育・文化活動に日系人が溶け込みやすい環境でした。 --- 3. 山本とも子の場合 山本とも子は収容所を経て、デモインに再定住。 これは「西海岸に戻るよりも安全」という当時の判断に沿ったものです。 さらに、Fae Huttenlocher(BHG 副編集長、Founders Garden Club の重鎮)のような強力な支援者がいたため、地域での受け入れは特別に良好でした。 茶室を拠点に華道・茶道を紹介する活動...

1966年、アメリカで発行された花屋のスタッフ向けの教科書 デザインと花店営業の基本を学ぶ

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 【1966年、アメリカで発行された花屋のスタッフ向けの教科書】 ※高校生および、高卒くらいの若者に向けて実際に花や資材をつかって勉強する講座のための教科書 国の機関が作成したもの https://eric.ed.gov/?id=ED023919(先生用) ※右側にダウンロードボタンがあります。 ※165頁で7メガバイトほどあります。 ※鉢物ラッピングや花束、コサージュの基本、花屋のレイアウトやお店の管理業務全般について解説されています。 ※生徒用 https://files.eric.ed.gov/fulltext/ED023920.pdf 1966年7月5日から22日にかけて造園園芸研究所に参加した教師陣による実地試験を経た本教師用マニュアルは、ペンシルベニア州立大学農業教育学部が開発した一連の教育補助教材の一つである。 内容は以下の課題領域を含む: (1)小売花店業における職業機会の探求、 (2)花・植物・装飾資材の用途と特性、  (3) 花と装飾材料を用いたデザイン、 (4) 花の配置の活用、 (5) 商品陳列と販売、 (6) 小売花店経営。 学生用教材VT 007 271に加え、本資料の各単元末尾には教員向け提案・参考文献、推奨学習活動、推奨実習先、サンプルテストを収録。本教材は、大規模人口密集地近郊の学校向けに開発され、農業教師・商業教師・流通教育教師によるチームティーチングでの使用を想定している。コース期間は6週間から1学期まで変動可能。対象は小売花店への就職を希望し、園芸分野での職業体験機会を有する高校上級生または卒業生。コース試験を含む。(DM) ●出版の経緯と背景 出版主体: ペンシルベニア州立大学農業教育学科(Pennsylvania State University, Department of Agricultural Education) 支援機関: 米国教育省・成人職業教育局(Office of Education, Division of Adult and Vocational Research) 発行年: 1968年 契約番号: OEC-5-85-014(連邦補助契約の一環) ●試行: 1966年7月のランドスケープ・ホーティカルチャー教師研修で試用され、フィードバックを受けて完成。 ●内容の特色 本書は高校上級...

動画「日本のユリ」 貴重な記録映像 要保存

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  これは、とてつもない作品です! https://youtu.be/QtzvwGoi9_M?si=UVMVqiGd-w6CwHg2 大船フラワーセンターは1967年開業とのことですから、 おそらく1960年代末から1970年代に制作されたものでしょう。 名著「日本のユリ」の清水基夫先生監修の傑作です。 現在では撮影できない原生地の様子や祭りの風景が出ています。 たいへんに参考になります。 最後の数分に、昔のゴトウ花店が出てきます。

『瓶花挿法』 明治10(1877)年 細川潤次郎(吾園)による、文人花(ぶんじんばな)の虎の巻 現代語訳

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  国立国会図書館デジタルコレクション 『瓶花挿法』細川潤次郎(吾園、十洲)明治10年12月 (『瓶花插法』) https://dl.ndl.go.jp/pid/860971/ 十洲全集から『瓶花挿法』 https://dl.ndl.go.jp/pid/1021175/1/409 ●『瓶花挿法』をテキスト化して、書き下し文と現代語訳をつけたPDFを作成しました。 細かい間違い等、いくつもあると思います。ご自身の責任でDLして活用してください。 https://drive.google.com/file/d/1CtzhfEKgA6CwT1V-QTRVoXwuzwnhnM6v/view?usp=sharing 参考 袁宏道の『瓶史』に登場する植物をまとめて分析した資料 『瓶史草木備考 上下』 明治14(1881)年 PDF、htmlファイルで閲覧可能 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo09/wo09_00071/index.html

JFTD(日本生花商通信配達協会)がはじまったいきさつについての伝説

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 【JFTD 日本生花商通信配達協会発足の伝説について】 六本木のゴトウの鈴木雅晴氏がGHQ関係の外国人からリーダーズダイジェストのFTDに関する記事を見せてもらったことをきっかけに、日本でも組織しようと動いて、1953年4月に発足した。 というふうに言われているのですが、 どんなに1945~50年あたりの記事を見てもみつかりません。 そのかわりに、 1953年の秋(JFTD発足してすぐ)の記事は見つかりました。 この記事は、まだ始まったばかりで加盟数が少ない時代に、 FTDやJFTDの仕組みについて案内をするよいテキストになっただろう と推察できます。まずは、日本のすべての都道府県に加盟店をおいて、 どんどん増やす。日本で通信配達のネットワークを作り、海外と結ぶことで、 海外からの注文ももっともっとたくさん受けられるようになる! つまり―― 「戦後間もない頃に英語版 RD を読んでインスピレーションを得た」という形で語り継がれたけれど、実際には、1953年9月号の Frank J. Taylor 記事が最初に出会った“決定打”だった。 JFTD が正式発足する同年のタイミングで、加盟店勧誘やビジョン説明のための格好の資料として、この英語記事(+日本語版抄訳)を活用した。 後年になるにつれ、その出来事が「もっと昔に読んで発案した」という形で記憶や物語として整理されていった。 こういう「創業期の印象的な記事=後に発案の源とされる」パターンは企業史でもよく見られるという。特に Reader’s Digest のような、当時影響力の大きい一般誌の記事は、社外向けの説得材料にもなりやすかったはず。 ●フランク・テイラーによる記事制作の時代背景など 確認できる史実 1. 英語版 Reader’s Digest における 1953年の記事 1953年9月号の Reader’s Digest に掲載された Frank J. Taylor の記事(“Their Business Is Blooming”)が、Interflora(FTD系の国際花配送ネットワーク)について書かれていた初出といってよく日本語版1953年11月号に抄訳されたものは、この英語記事がベースになっている。 2. FTD・Interfloraの業界的背景 マーキュリーのマークや「Say it with ...

山崎正和「盆地の芸術・私生活の芸術」  『日本人の美意識』1974 から

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*****『日本人の美意識: ゼミナール』 山崎正和ほか 朝日新聞社 1974から抄録*******   盆地の芸術・私生活の芸術   山崎正和 文化と環境の関係 前回は、日本の美意識を支える人間関係についてお話ししたのですが、きょうのテーマは、それに引き続いて、日本の美とその文化的な環境ということにしぼってみたいと思います。文化的環境といいますと、大きく分けて、一方に自然の環境があり、他方に、いわば社会的環境と呼ぶべきものがあるということになりましょう。その両面から日本の芸術、および日本の美が育ってきた条件、ないしは地盤というものについて、若干の試みをまじえて私見を申し述べてみるつもりです。ところで環境ということを考えようとすると、まずそれに先立って問題の考え方について、若干の注意をしておかなければなりません。 文化と環境、あるいは歴史と環境の関係については、これまで多くの学者がさまざまに考えてきましたし、また常識のレベルでも多くの人々が広く考えている問題だといえるでしょう。いかなる文化といえども、白紙の状態、あるいは抽象的な空間の中に生まれてくることはないので、必ず一定の性格を持った場所、すなわち環境の中に生まれてくるわけであります。ところが、そうはいうものの、環境と文化、あるいは環境とその中に生きる人間の関係というものは、常識で考えるほど簡単な問題ではありません。 ふつうわれわれの文化、あるいは人間は、環境の産物であるというふうに考えられがちであります。しかしながら、文化は確かに環境を場所として成立しますが、場所として成立するということは、あながち文化が環境の産物だということにはならないわけであります。なぜかといいますと、まず第一に、環境とその中に生きる人間との間柄は、常識で考えるほど簡単に区別が出来ないからです。たとえば、私がここにいて、この周りにある空間が私の環境である、と明快にいえれば問題は簡単なのでありますが、それが必ずしもそういうふうには割り切れないわけです。 いったい、人間の主体が、どれだけの広がりを持っており、どこからそれを取り巻く環境が始まるのか、人間と環境とのあいだに明確な境界線が引きにくいからです。早い話が、私の肉体ですが、これがいったい私の主体であるのか、私の環境であるのか、考えてみるとなかなか複雑なのであります。なるほど私は肉体...

風流一生涯 西川一草亭のこと

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  ● 西川一草亭 『盆庭と盆石』創亓社 1936 から ● 藤浪和子 西川一草亭先生  『新文明』 12(11) 1962年11月号 ※藤浪和子(物集和子 1888~1979) 小説家。  青鞜社設立発起人の一人だが挫折のため青鞜社については生涯ほとんど語らなかったという。父親は国文学者の物集高見、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。夏目漱石に師事しもの書き修業をした。 ● 小原豊雲 『花道周辺』 1950から 西川一草亭のこと  故西川一草亭は、大正の末から昭和にかけて大きい足跡を遺した花道人であった。例の「牡丹切って一草亭をまつ日かな」の句を夏目漱石が作ったのは、この人の名を世に高からしめているが、それよりも、世の多くの芸術家や財界人とも交り、それらに伍す位置を示したのは、新しい驚きを世に与えた。他の花道家との交りはなく、云はゞ別格のようなものであったが、それでいて花道そのものゝ位置を社会的に定めた功績は大きい。  その花展は、京阪神の大邸宅をかりてよく行はれたが、百貨店を用いて行はれる花展とは別の趣きのものであった。その行き方は、今日に行はれている新しい花の創作というよりも、いけ花の中に流れてゐる精神をつかみ、それを新しい時代の生活に生かさうとしたものである。又、これによって、いけ花の趣味を深めて味はせる役割を果した。さう云ふ精神的意味でいけ花を普及した人であった。  この西川氏の活動があった時、その反面に、吾々は、作品としての新しい花の研究をすゝめていたのである。何れにしても、その仕事は、現代花道の動きにとって大きいプラスであった。近世にあってはとにかく西川さんである。  その西川一草亭さんがなくなった時は、未だ二代の在世中であったが、私はその意をうけて弔意を表しに京都までいった。生前に直接の交際があったわけではないが、その死を悼んで態々弔意を表したのである。その時も、あれだけ社会的に活動していた人であるから、葬式は定めて盛大なものであらうと予想していたが、家の中に這入ると、何も特別のものはなく、床の間には、故人の絶筆であった「風流之人」といふ一行がかゝり、それに、白いアマリリスの花が僅かに手向けられていたのみである。葬儀の形式も、普通のお焼香ではなく、一輪の花を霊前に捧げる方法であった。会葬の人々は、新しい手桶の中に入れられ...

和辻哲郎 巨椋池の蓮

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巨椋池の蓮  和辻哲郎 1950年 新潮8月号初出 1930年ころの巨椋池 『 伏見区誕生70周年記念誌』から 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49883_45588.html