山崎正和「盆地の芸術・私生活の芸術」  『日本人の美意識』1974 から


*****『日本人の美意識: ゼミナール』 山崎正和ほか 朝日新聞社 1974から抄録*******

 盆地の芸術・私生活の芸術  山崎正和


文化と環境の関係


前回は、日本の美意識を支える人間関係についてお話ししたのですが、きょうのテーマは、それに引き続いて、日本の美とその文化的な環境ということにしぼってみたいと思います。文化的環境といいますと、大きく分けて、一方に自然の環境があり、他方に、いわば社会的環境と呼ぶべきものがあるということになりましょう。その両面から日本の芸術、および日本の美が育ってきた条件、ないしは地盤というものについて、若干の試みをまじえて私見を申し述べてみるつもりです。ところで環境ということを考えようとすると、まずそれに先立って問題の考え方について、若干の注意をしておかなければなりません。


文化と環境、あるいは歴史と環境の関係については、これまで多くの学者がさまざまに考えてきましたし、また常識のレベルでも多くの人々が広く考えている問題だといえるでしょう。いかなる文化といえども、白紙の状態、あるいは抽象的な空間の中に生まれてくることはないので、必ず一定の性格を持った場所、すなわち環境の中に生まれてくるわけであります。ところが、そうはいうものの、環境と文化、あるいは環境とその中に生きる人間の関係というものは、常識で考えるほど簡単な問題ではありません。


ふつうわれわれの文化、あるいは人間は、環境の産物であるというふうに考えられがちであります。しかしながら、文化は確かに環境を場所として成立しますが、場所として成立するということは、あながち文化が環境の産物だということにはならないわけであります。なぜかといいますと、まず第一に、環境とその中に生きる人間との間柄は、常識で考えるほど簡単に区別が出来ないからです。たとえば、私がここにいて、この周りにある空間が私の環境である、と明快にいえれば問題は簡単なのでありますが、それが必ずしもそういうふうには割り切れないわけです。


いったい、人間の主体が、どれだけの広がりを持っており、どこからそれを取り巻く環境が始まるのか、人間と環境とのあいだに明確な境界線が引きにくいからです。早い話が、私の肉体ですが、これがいったい私の主体であるのか、私の環境であるのか、考えてみるとなかなか複雑なのであります。なるほど私は肉体を持ってこの気候の中に生活し、この空間的な構造の中に生きている、という場合は、肉体は私の主体の一部でありましょうが、しかし考えてみると、私が何かの行動を起こそうとする時、私の肉体は、一面、外的な条件だといっても間違いないわけです。私がたいへん運動神経に恵まれて、丈夫な肉体を持っていれば、私はスポーツマンになれたかもしれません。しかし残念ながらそういうものに恵まれないので、ものを書くような商売を選んでしまったという場合に、肉体というのは私にとって環境に過ぎないわけです。


ある人が健康であるという時、いったいそれは主体の状態であるのか、あるいはその人にとっての環境の状態であるのか、これもなかなか一概には言い切れません。胃の悪い人は、とかく憂欝な顔をして憂欝なことを考えており、肺病の人は、とかく繊細な神経の持ち主になるといった場合に、健康というのは人間の環境だといえるかもしれません。


そうすると、いったい私の主体、人間の主体というのは、どこから始まってどこで終わるのか。人間から肉体を取り除いた残りのもの、俗に精神とか心とか呼びますが、それが人間の真の主体かというと、そうともいいがたいわけです。


ある人間が、ある感情的な性格を持っている、気質を持っているということは、ひょっとすれば、その人の環境であるかもしれません。生まれつきかんしゃく持ちであったり気が短いということは、その人が主体的に選び取った条件だとは必ずしもいえないのであって、それはその人の環境だといえるかもしれません。


思想や世界観といったものですら、実は人間にとって外的な環境といえる側面があるので、人間が一つ一つの具体的な行動を選ぶ場合には、その人の思想が否応なしに条件になり、また逆に必要があれば、思想を取り換えたり、捨てたりすることもあり得るわけです。


そうしてみると、いったい主体というのは何であるのか。私の衣装を剥ぎ取り、私の肉体を剥ぎ取り、私の感情や性格を剥ぎ取り、私の何もかもを全部剥ぎ取ってしまっても、純粋な私というものにたどり着くことは出来ないので、こういう考え方を続けてゆきますと、いわば猿がらっきょうをむくようなことになってしまいます。


一方、逆に考えてみて、人問が、たとえば一軒の家を建ててその中に住んでいる場合、この家は、明らかに彼の環境であるように見えます。しかしこれも単純にはいえないわけで、むしろ家というものは、人間の住み方の表現であり、住み方ということは、その人の姿勢の表現であり、人生に対する熊度の表現なのですから、ある意味では家はその人の主体的な存在の部分である、といえるかもしれません。


ですから、個人というようなわかりやすいものをとり上げてすら、人間の主体とその環境というものは一概には区別出来ません。いわんや文化をつくり出している民族とか、あるいは国家といったものを考えた場合、その主体と環境のあいだは非常に区別がしにくいわけです。確かに一民族は、それなりに独特の性格を持った文化をつくり上げますが、それをつくり上げた単一の意志というものを主体として認めることはむつかしい。民族のような大きな集団が、一つの方向を選び取ってゆく場合に、そこにはさまざまな外的条件が、知らないうちにはいり込んできます。人間個人が事を決定するよりも、民族が事を決定する場合のほうが時間もかかるし、空間もよけいに必要でしょう。そうすると、その分だけ主体の内部に、いわゆる環境が浸透して境界をあいまいにしてしまう可能性もまた大きいわけです。


ところで、こうした理論上の困難にもかかわらず、われわれがあるものを環境であると呼び、あるものを環境でないとして、そこに常識的な区別をしていることは事実です。そういうことがなぜ出来るかということを考えますと、人間には行動の目的というものがあるからだということがわかります。先ほどのように、ただ抽象的に、何が主体であり、何が環境であるかと考えてみると、猿のらっきょうむきになってしまいます。しかし一定の行動の目的というものを立てた場合を考えますと、比較的明快に、何が環境であるかということがわかります。たとえば、いまここで私がみなさんたちにお話をしていて、みなさんがノートをとるために必要な環境は、明るい光というものであります。ところが、この中で居眠りをなさりたい方にとっては、この明るい室内というのは、まったくじゃまな存在、すなわちマイナスの環境であります。居眠りもしないし、別にノートもとらない、ただ瞑想にふけっているという方にとっては、この部屋の明るさは、あってもなくても、どちらでもいいものであります。すなわち、その人にとって明るい光というのは、環境ではないわけであります。


あるものが、人間にとって環境であるかないかということは、人間がどういう目的を持っているか、ということによって決定されるわけです。たとえば、漁業を営もうとしている民族にとって、海というのは重大な環境であります。しかし牧畜を事としている民族にとって、海というのは環境ではないわけです。そういうものが、かりに目の先にあったところで、それは彼にとって何ものでもないわけで、具体的な例は歴史の中に幾らでも見出されます。


たとえば近代産業がここまで成長するためには、石油が不可欠の条件で、石油が採れるという環境があってこそ、近代産業は成立したといえましょう。しかし、その近代産業は石油が豊富に採れる中東地方で始まったわけではなく、逆にその外からはいり込んできたものでした。言い換えれば、中東の人たちが、西ヨーロッパの影響を受けるまでは、彼らにとって石油はまったく何の環境でもなく、要するに存在しないものに過ぎなかった。中東の人たちが近代文明というものを受け入れて、よかれあしかれ産業をつくろうとした時に、あの石油が重大な環境になって生み出されてきたわけです。といいますと、何か環境は人間がつくるものだというふうに聞こえるかもしれませんが、ここでまた次のやっかいな問題が頭をもたげてきます。すなわち、そういう目的意識をいったい人間はどのようにして持つのかという問題で、それを考えると、やはりその目的意識を人間に持たせるための、よりよき条件というものが考えられるわけです。


近代産業というものが生まれてくるについては、数々の歴史的、自然的条件が西欧社会に用意されていた。もしそういうものがなければ、単に頭のいい人が、一つ一つ機械や技術を発明したところで、決して近代産業は生まれなかったでしょう。そうしてみると、人間の目的を生み出しているのはけっきょくのところ環境だ、という理屈も成り立ちます。


ここで、ふたたび議論は循環し始めるわけで、人間が目的を持った時に自然は環境になるのであり、その目的意識を生み出させたものは環境である、という循環が成立します。ですから、こういうふうに考えてゆきますと、文化と環境の関係の問題は一見解決不可能に見えるのですが、これはどうやら考え方の方法それ自体に問題があるようであります。


民族が持つ独特な感受性


私たちは、いま人間とか環境というものを、一つの目に見える実体として考えて、その上でそれがどういうふうにかかわり合って、どちらが先かというように考えてきたわけです。鶏と卵の存在をまず考えて、両者のどちらが先かという議論をしてきたわけです。そうすると問題は無限にややこしくなって、考えが行き詰まるということがわかってきたわけです。


それでは、それ以外に考え方がないかというと、実は二つの実体の存在から考え始めるのではなく、逆にその両者の関係それ自体から観察を始める、という方法があるようです。環境というものが左にあり、人間というものが右にあって、それがぶつかって、そこに何らかの関係が生じるというふうに考えるのは、いわば古い考え方です。現代では、いろんな問題を考える場合に、まず一つの関係があって、その関係の中からぶつかり合う二つの実体が生まれてくるのだ、という逆の考え方をする場合が多いのです。環境と人間という場合にも、環境と人間、それぞれそのどちらよりも前に何ものかがあって、それが環境と人間を一度に生み出してきた、というふうに考えることは出来ないであろうか。どうやらそれは可能らしいのであって、実際そういうふうに考えている学者も何人かいるわけです。


その場合に、最初に存在するものは何かといいますと、いわば人間の根源的なイメージであります。言い換えれば文化の根底に横たわっているところのイメージでありまして、そのイメージがどのようにしてわかるかというと、一民族の神話、あるいは比喩―もののたとえ、という形で、社会全体の中に表現されているわけです。


神話や比喩というものは、それをつくり出した原始時代の人たちにとって、いわば世界のすべてであったわけです。古代の人間は、何が人間であり何が自然であるか、何が主体であり環境であるか、というような区別からものを考え出したのではないのであって、まず最初に、ある一つのイメージを持ったわけです。


そのイメージというのは、現代のわれわれの言葉でいえば、自然環境にかかわるものの見方であるといえましょう。たとえば海というものについて、ある民族は、それを冒険の世界として思い浮かべ、そこは人間の戦場であるというふうに考える。また別の民族は、海をいわば永遠の死の世界、永遠の静寂の世界として眺め、そこに出てゆくことは、人間にとって最後の安らぎを意味していると考える。海という同一の自然が、はじめからそういう意味を帯びた存在として見えているわけです。


まず海という自然的実体、物理的な実体というものが先にあって、それをどう見たかというのではなくて、最初に、海についてある種のイメージが存在する。そしてその上でそういうイメージを持つ人間と、そういうふうに見られる海というものが、逆にあとから対立して生まれてくるわけです。


話が少し哲学的になってしまいましたが、同じ山があり、同じ海があっても、その持っている意味、あるいはそれが与える表情というものは、受け取る民族によってさまざまだということであります。そして、さまざまな民族が見ている山や海が、同一の山であり、同一の海であるということは、実は、あとから考えた人工的な結論に過ぎないといえます。


最初の真実というのは、それぞれ違った海の表情であり、山のイメージであって、それが深く人間の文化というものを決定しているのではないか。人間の歴史と文化をつくり出してゆくのは、いわゆる人間主体というふうなものでもなければ、いわゆる環境というものでもなくて、その両者をとも生み出す根源的なイメージ、それ自体が文化の性格をつくっている、という考え方があるわけであります。


具体的な例を挙げてご説明したほうがわかりやすいと思いますので、今世紀のはじめごろに活躍したドイツの文化人類学者の例を挙げることにします。この人はレオ・フロベニウスという学者で、アラブ・アフリカの砂漠の文化の研究をしていた人であります。


彼は、人間の文化のタイプを二種類に分けたのですが、第一種類が、いわゆるアラブ・アフリカの砂漠の文化であり、二番目がフロベニウスみずからが育った、いわゆる西欧の文明であります。両者のあいだには根本的な違いがあるわけですが、その違いは、この宇宙空間というものをどういうふうに見るか、そのイメージの違いであるということをプロベニウスは発見したわけです。彼は自分の研究した砂漠の遊牧民たちは、この世界を、ちょうど閉じられた一つの洞窟であるかのように思い浮かべているといいます。


これは一見奇妙な話でありまして、砂漠というのは、ご承知のように、山も谷もなく、目をさえぎるもののない、延々と広がった空間であります。ところがそこに住んでいる人たちは、自分たちの環境を洞窟だと考えた。砂漠でありますから、ちょうど空を見上げると、人間は円く地平線に囲まれて、地平線が四方八方に見えるわけで、その上をすっぽりと大空のドームがおおっているように見えます。なまじ山だの森だのがないだけに、世界は非常に単純に、地平線の上に円いドームがかかっているように見えるわけです。彼らは遊牧民ですから、次々に移動してゆきますが、移動するにつれて、やはりこの大きなドームは、彼らにくっついて移動してくるわけです。どこまで行っても、そのドームの外に出られないことは、これはいうまでもありません。おかげで彼らは、その大きなドームを―つまり空を天井として。大地を床にしたこの大きなドームを家だと考えた。そういう比喩を歌い込んだ原始的な歌を、フロベニウスはこの民族の文化の中に見つけたのだそうであります。


そして、彼らはテントの中で暮らしていますが、そのテントは彼らにとって建築ではなくて、むしろ衣服の一部であるというふうに思い浮かべられているのだそうであります。彼が研究した砂漠の民族は、そのテントを輪を描いて円形に建てならべるのですが、なぜ円形に建てるかというと、それ自体が、いまいった大空のドームを象徴しているからです。その形を摸倣して、彼らは永久的な建築を建てる場合にも、好んで円形のプランを用いた。その伝統が脈々と生きて現在にまでおよび、その結果、砂漠文化の基本的な建築様式は、中庭式であるというわけです。ドイツ語でインネン・ホーフといいますが、アラブ地方一帯では中庭式の建築がおもなる様式になっているというわけです。なるほどそういわれれば事実でありまして、中東の建築から、西のほうへ行ってスペインあたりまで、この中庭式の、つまり外側に家があって庭が中にある、いわば洞窟型の住宅形式というものが普及しております。


それに対して、それでは西欧人が空間をどういうふうに考えているかというと、ちょうどこれの逆だとフロベニウスはいうわけです。空間というものは、どこまでも、無限に開けた開放空間であり、壁も屋根もない無限の広がりだと考えられている。それを象徴するかのように、西欧の基本的な建築は、外庭式(アウセン・ホーフ)であり、庭を家の外側にめぐらした様式をとっているというのです。ところで真ん中に家を建てて、周りに庭をつくる、ということは、いわば精神の勢いとして、人間が内から外へ向かって広がろうとする勢いを示している。それに対して、中東からアフリカに至る砂漠の文化の場合、人間の心は、外側から内に向かって閉ざされる傾向を持っている。空間を囲い取って、その中に沈潜し、そこから外へ出ようとはしない、そういう精神状態をつくり出しているというのです。


その結果、アラブの文化は、きわめて求心力の高い、中へ中へと沈潜する性向を示し、ある意味では保守的な、ある意味では変化に乏しい性格をつくり出している。それにひきかえ西欧の精神は、いわば探求の精神となり、外部の限りない空間をどこまでもきわめたいという誘惑に駆られる性質を持つわけです。それにしたがって、どこまでも自己を拡張しようとする精神は、一方で冒険的な旅行者を生み出し、科学的な探求というものを生み出し、さらにフロベニウス自身はそういってませんが、政治的な拡張、侵略といった方向にも傾きやすい性質を持っているといえるでしょう。


この場合に問題になっているのは、現実としての自然空間、現実としての自然環境そのものではありません。なぜならば、アラビヤの空間といえども、現実的には無限に広がっているわけで、むしろ砂漠の空間のほうが、われわれには無限という印象を与えるかもしれません。


現に、ヴォーリンガーというドイツの美術史学者は、エジプトおよびアラブの空間を、逆に無限空間として説明して、その無限への恐怖がエジプトの文化の抽象的で限定的な性格を決定したのだ、というふうに説明している。ヴォーリンガーとフロベニウスとでは、現実の解釈について正反対の説明をしているのですが、この場合、どちらが正しいか、ということを私はいおうとしているのではありません。フロベニウスの分析は、あるいは間違っているかもしれません。彼は文化人類学者として、いちおうのフィールド・ワークをやって、こういう結論を出したのですが、文化人類学は日進月歩の学問ですから、いまでは違った結論が出ているかもしれません。


問題は、彼の理論の中味が当たっているかどうか、ということではなくて、その方法および目のつけどころであります。つまり、それぞれの民族は、全体として一つの独特の感受性を持っており、言い換えれば、根源的なイメージを持っているということです。そのイメージに写った世界が、かりに洞窟というものであるとすれば、そのイメージが彼らの文化を決定してゆくのだ、という考え方であります。


現実に空間が広いか、狭いかということが文化を決定するのではなくて、ある民族が文化の形成段階で抱いてしまった根源的なイメージが、いわばその文化のその後の性格をつくり出している。すなわち、このイメージを通して見れば、現実の自然はおのずから洞窟に見えることになるし、またそういうふうに見る人間のほうも、おのずからある種の行動のパターンというか、行動の傾向を持つに至るわけです。いわば洞窟という根源的なイメージが、アラビヤの環境をつくり出し、同時にアラブ人の人間主体を生み出した、というふうにいえるわけです。


ちなみにこういう考え方は、フロベニウスがただ独り主張しているわけではなく、西欧の学問史の中にはいろいろこれに似たタイプの発想が出てきております。『西洋の没落』という本を書いてたいへん有名になったシュペングラーという学者がいますが、このシュペングラーも、実はフロベニウスの影響を受けながら、西洋の文明をさらに二つに分けて、全体として三つの文化類型というものを考えています。シュペングラーに深入りする必要はないので簡単にいいますと、彼はヨーロッパの文明を、アポロン的なタイプとファウスト的なタイプ、というものに分けるわけです。


アポロン的というのは、これは要するにギリシャの文明の特色で、まず明快な輪郭を持ち、そして量塊ともまとまりを持った、いわば透明な世界を愛する精神であります。


それに対してファウスト的というのは、ヨーロッパの古い民話「ファウスト」にあらわれるような、ああいう動くもの、流れるもの、あるいは爆発するようなエネルギッシュな拡張の意志を指すのですが、これが主として北ヨーロッパの文明を貫いているというわけです。シュペングラーによれば、西洋の文明は、この二つの精神から成り立っていて、明快にして動かないもの、すなわち幾何学によってあらわされるような側面と、流動的でダイナミックな、つねに中心から外へ向かって拡張してゆく側面との葛藤を示しているということになります。


この場合に、外界をまとまりで見るか、あるいは流れでとらえるか、動かない形として見るか、ダイナミズムとしてとらえるかということは、それぞれの民族、それぞれの国民の持っている、いわば感受性の癖だといっても結構です。とにかくその感受性は誰がつくったのか、ということは、もはや問題になりません。むしろそういう感受性が、そういう民族をつくり出し、そういう感受性が、その民族を包んでいる環境を意味づけたのだというほかはありません。


ところで、これだけの準備をととのえた上で、われわれの日本の文化というものを眺めてみると、どういうことになるか。これからお話しすることは、決して現在の学問の世界、あるいはジャーナリズムの世界において、定説として認められている事柄ではありません。むしろ私自身の仮説をお話しして、みなさん方の今後のお考えの刺激にしていただければと思うだけです。


盆地の中で育った日本の文化 


さて、フロベニウスの着眼点は、それぞれの民族が空間に対して持っている固有の感受性でありました。その空間感覚とでもいいますか、空間に対する感受性が、日本人においてはどうなっているかを考えてみますと、一つの面白い事実にぶつかります。というのは、近世に至るまで、日本の都のある場所、文化と政治の中心のある場所は、ほとんど盆地であったということがわかります。日本には、狭いながらも平野があり、あるいはもっと険しい山岳地帯があります。しかしどういうわけか、日本の都というのは、平野にも山岳地帯にもつくられないで、盆地の中につくられました。いちばん古いのは、もちろん飛鳥の都ですが、これは飛鳥三山をひかえた盆地のような地形の中につくられました。都はその後、奈良盆地に遷り、そしていうまでもなく、山城盆地に返ってくるのですが、その間、第二首都というべき鎌倉幕府もまた鎌倉盆地につくられています。その他、全国にいわゆる小京都と呼ばれる文化の中心地が幾つか生まれますが、そういう場所はたいてい盆地で、真ん中に川が流れるという独特の地形を見せています。もちろん、現在の日本の大都市は、いずれも平野にありまして、東京、名古屋、大阪というふうに、広い場所に出来ていますが、それが出来てきたのは、むしろ近世―この三百年ばかりのあいだのことであります。


単に論理的に考えますと、都を盆地の中につくった理由は、よくわからないというほかはありません。単に防衛上の理由をいうならば、どうも飛鳥の盆地などというのは、たいして防衛に役立ちそうにありません。しかも鎌倉にせよ、京都にせよ、山が防壁になって、本当に実戦に役に立ったというような記録はほとんどありません。一方、盆地の外に都をつくる実力がなかったかというと、これも事実に合わないので、現に古く難波にも都をつくりましたし、滋賀にも都をつくったのですが、どういうわけか、日本人はたちまちそれを放棄して、また盆地の中に帰ってしまうのです。どうも私の考えでは、これはそういう実利的な、あるいは現実的な自然条件によって、日本人が盆地を選んだのではなくて、盆地というものに対する独特の感受性があったのではないか、という推察が成り立ちます。


つまり、盆地に囲まれた空間の中で、目前に山を眺めることによって自分の位置関係というものが明確になり、そこで初めて安心して落ち着けるような感受性があったのではなかろうか。どうやら日本人は山が好きでありまして、啄木の歌にも、「ふるさとの山にむかいて言うことなし」という言葉かありますが、ふるさとというのは、伝統的に向こうに山の見える場所なのであります。


そしてその場合注目すべきことは、日本人が盆地の中につくり上げた都、および建築は、諸外国の都や建築に比べると非常に脆弱だということであります。造形感覚の上で弱々しく、よくいえば繊細なのであります。日本の都は、もちろん中国の模倣から出発したわけで、長安の都を日本に写そうとしたのですが、中国の大都会で発達した城壁というものは、ついぞ日本の都会には生まれませんでした。西洋の場合にも、都会というものは城壁があるに決まったもので、たとえばフィレンツェというイタリヤのルネッサンスの町がありますが、そこに行きますと、いまでも丘の上に延々と城壁の跡が残っております。考えてみますと、フィレンツェは盆地でありまして、真ん中にアルノ川という川が流れて、地形ははなはだ京都に似ております。にもかかわらず、その盆地の上にさらに城壁をこしらえて、彼らはそれを人工的に囲い込まれた空間につくり変えています。これに対して日本人は、盆地があればそれで安心してその上に城壁をつくろうとはしなかったのです。


さらに、これは多くの建築学者が指摘していることでありますけれども、日本の都市にはその中心になるような広場というものがありません。古代ギリシャには、アゴラという広場があって、そこへ人々が集まっていろんな議論をする。それがまたギリシャの民主主義の誕生の地になったのだ、という説もありますが、確かに西洋の都市には必ず広場があります。そしてその広場から道が発達して、都市の基本構造をつくっている。しかし、日本の伝統的な都会の中に広場という感覚はまるでありません。つまり外側のかたい甲羅もなければ、真ん中の中心もない。構造としてはきわめて不安定な、いわばやわらかい構造を持っているのが、日本の都市であります。


そして面白いことに、広場がない代わりに、日本人は道を広場の代わりに使ってきたわけです。昨今では都会がだんだん高層化してきて、そういう風景は少なくなりましたが、つい最近まで、夏になれば路地に床几か何か持ち出して、夕涼みをするのが日本の夏でありました。道というのは人間が通るだけの場所ではなくて、人が会ったり、あるいは場合によっては、夜店などを出して、ちょっとした商売をするような場所ですらあったわけです。中心がない代わりに流れがあった、というのが日本の都市の大きな特色であります。


このことと、日本人の盆地に対する愛着の傾向とは、どこかで相補っているような気がします。つまり周りに現実の山があり、盆地という明確な境界線が引かれている以上、その中でさらに明確な構造を持った、かたい都市をつくり上げる必要がなかったのではないか。というのは私の想像であります。その都市の中にいる人間は、いわば母胎の中に包まれたように、ある種の心理的な安心を保証されている。そうやって安心している限り、家屋とか、あるいは都市というものは、まるで人間にとって衣装のようなものになるわけで、西洋人、あるいは中国人が考えるような建築という観念は、生まれてこなかったのではないかとも考えられます。


その証拠に、日本の住宅建築、あるいは神社、仏閣の建築ですら、たいへん繊細であって、悪くいえば脆弱なものが多い。東大寺の大仏殿などというのは例外ですが、日本の建築に巨大さというものを誇示するような例はきわめて少ない。西洋の建築でも、中国の建築でも、ともかく巨大であるということは、建築の大きな条件でありましたが、日本の場合、巨大さを誇ることは悪趣味として受け取られてきたようです。


そこには、もちろん素材の問題もあるはずで、日本の建築が木造で、石材を多く使わなかったということも原因の一つになりましょう。しかしそれにしても、同じように木材を使った中国の建築に比べてもはるかにこまやかで、悪くいえば、ちっぽけなのが日本の建築です。しかも、日本人が石造建築をつくらなかった理由は、いまだによくわからないというのが本当のところであります。石がなかったわけではありませんし、石を細工する技術がなかったわけでもない。早い話が、仁徳天皇陵をはじめとして、古代の墳墓というものは、巨大な石によってつくられています。そういうものを動かす土木工事、ならびに建築技術を、日本人は充分知っていたにもかかわらず、石造建築は発達しなかった。だとすればそれは空間に対する根本的な感受性が違っていたのではないか、というのが私の予想なのであります。


面白い例は日本の庭園でありまして、みなさんもよくご存じのように、日本の庭園には借景という技術があります。これは具体的には、遠くにある山を自分の庭の風景の一部として取り入れて、そして全体を一枚の絵として眺めようという技術であります。近景である自分の庭と、遠景である山とのあいだの中景の部分を、木を植えたり、あるいは小高い土手をつくって、隠してしまう。山と自分の庭のあいだにある薄汚いものを見えないようにして、山と自分の庭とを直結しようというのが「借景」の技術であります。


これがなぜ日本的であるかというと、まず第一に、一つの風景をつくる基本になっているものが山だということで、この山はしばしば盆地の輪郭を形づくっている外壁でもあります。その外壁を基準にして、自分の現在立っている位置を確認し、つねに山との関係において自分の住まう空間をつくり出すわけです。この態度は、その山に囲まれている空間を、論理的かつ抽象的に眺める、あるいは客観的に眺めるという精神とは正反対のものだといえましょう。


もし客観的、合理的に考えれば、自分の庭の隣にはお隣の庭があり、そのまた向こうには誰かの家があり、そのまた向こうには公園があるというふうになっているはずであります。そしてもしそうだとすれば、人間はそれぞれの建築のあいだの調和ということを考えなければなりません。そういう考え方を推し進めてゆきますと、行き着くところは、都市の真ん中に一つの中心を置いて、その中心と外郭とのあいだを、きちんと合理的に割り出して、区分して、全体を整然たる形にまとめ上げるということにならざるを得ません。西洋の都会、あるいは中国の都会というのは、そういうふうにして出来上がっているわけです。


日本も若干そのまねをしましたけれども、たちまち自分の本音が出てきたわけで、自分の庭と遠景との関係はありますが、中景、つまり隣との関係は存在しないのであります。それを重ねてゆけば、当然のことながら、現在の恐るべき都市の混乱、都市計画の乱雑さというものも生み出してしまうことになりましょう。


ついでに悪口をいうならば、日本人はいまだに平野を取り扱う感覚を養っていないのではないかと思われます。東京とか大阪とか名古屋とか、大きい空間になればなるほど、都市計画はめちゃくちゃであります。また、われわれが家を建てる場合に、自分の庭はたいへんきれいにしますけれども、その庭と前の道、あるいは隣の家との関係はあまり考えない。もし考えるとすれば、はるか向こうにある山と、自分の庭との関係だけを考えるのがつねで、借景的なセンスはいまだに生きているともいえるのです。


それを少し哲学的に誇張していえば、西洋人の空間、あるいはフロベニウスのいうアラブ的な空間というのは、いずれにせよ一つの単一の世界であります。アラブ人にとっては閉鎖的な世界でありますが、閉鎖的な世界は一つしかあり得ない。一方、西洋人の空間は無限に開かれてますが、無限に開かれているものは、また一つでしかあり得ません。いずれの場合も世界空間は単一なのであって、その空間から人間が出てゆくということはないわけです。アラブ人にとっては、人間が移動すれば空間がついてくるわけです。西洋人にとっては、空間は無限でありますから、どんどん進んでいっても、その果てというものはない。しかし日本人にとって、世界は複数の空間が乱立して、とびとびにある鎖(くさり)のようなものではないか、というのが私の仮説です。


幾つかのまとまった単位―これは盆地がその原形でありますが、それが幾つも幾つもつながっている。その空間を出たりはいったりして、われわれは暮らしているのではないか。そういう感受性が、たとえば自分のうちと人のうちの関係ー自分のうちのことは大事にしますけれども、他人のうちのことはあまり考えない。自分の家を建てる時に、隣の家との美的な関係というようなことはあまり考えないで建てる国民性にもつながっていはすまいか。


現代の文明の批評に深入りすることは、仮説を冗談にしてしまう恐れがありますが、少なくともいろんな意味で、この空間の感覚というものが日本の建築、あるいは都市というものの構造を、近世の初頭までは決定してきたように思われます。


日本文化の「私」的性格


話はたいへん長くなってしまいましたけれども、以上は自然環境という面から考えてみた一つの仮説であります。次に日本の芸術、あるいは文化を考える場合に、社会環境という側面を考えてみなければなりません。社会環境についても、自然環境と同じことがいえるのでありまして、ある意味では、もっと問題が複雑だというべきかもしれません。つまり、社会環境というのは、文字どおり人間がつくっているもので、人間そのものが構成しているわけです。しかしながら、人間には自由に自分の社会環境を変えられるかというと、そうはゆかないのでありまして、ある種の社会変化を行うためにも、その社会環境に彫響される、制約される、という非常に複雑な関係になっております。


それだけのことを頭に置いて、日本の問題にいきなりはいってゆきますが、西洋の文化の在り方、あるいは中国の文化の在り方と比較して、日本の文化のいちじるしい特色は、まず文化の中央集権化がきわめて弱いということであり、第二に、文化の階級制というものが、はなはだ乏しいということであります。もちろんこれは比較の話でありまして、日本に文化の中央集権性がまったくないとか、あるいは階級制が欠如しているなどといっているのではありません。諸文化の中で、いちじるしくその程度が少ないといっているわけです。


たとえば、中世までの西洋においては、社会の上層の人たちと、下層の人たちが話す言葉すら違っていたというケースがあります。上層の人たちはラテン語でしゃべり、下層の人たちはそれぞれの方言でーーすなわち現在の国語のもとになっている言葉でしゃべっていた。小説のことをロマンといいますが、ロマンというのは要するにロマンス語のことなので、ラテン語ではなくて、ロマンス語で書かれた文学をロマンといったわけです。


しかし、こういう現象は、日本にはかつてなかったことであります。貴族たちは少々むつかしい言葉を使い、町の人たちはやさしい言葉を使っていたかもしれませんが、異質の二つの国語が使われるというようなことは起こらなかった。むかしからよくいわれていることでありますが、『万葉集』という歌集はたいへんユニークな歌集であって、同じ歌集の中に、天皇の歌から地方の守備隊の兵隊、すなわち防人(さきもり)の歌までいっしょにはいっています。中世になっても、貴族たちがサロンをつくって歌会や連歌会をやりますと、町の人たちも、さっそく「花の下の連歌会」などといって、農民や商人仲間が集まって、楽しく連歌をつくっています。この場合、もちろん歌の作風に若干の違いはありますが、しかし同じ連歌であることに違いはないわけです。また、能がいわゆる民族芸能とでもいうべき段階から、宮廷の芸術にまで広がってゆくのに、わずか人間の一代の時間しかかからなかった。つまり世阿弥の父親である観阿弥の一生のあいだで、それだけの大きな変化が簡単に起こりました。


さらにはなはだしい例は幾らでもあるので、平安時代の末期に、後白河法皇という政治的にもなかなか面白い法皇がおられたのですが、この人は自分のお屋敷に神崎の歌女を呼んで、彼女だちからこの当時の流行歌、すなわち今様(いまよう)を習ったといいます。神崎の歌女というのはれっきとした売春婦ですが、それを日本の最高権威者が自分の宮廷に呼び入れて、しかも徹夜で喉がかれるまで歌を習ったというわけです。法皇はその歌を「梁塵秘抄」という一冊の歌集につくり上げて、それが現在古典文学として残っております。こういうさまざまの現象は、日本の文化の階層制の弱さというものを非常によくあらわしているといえましょう。


もう一つ別の面から考えますと、西洋の文化を生み出す中心は、いつも公の世界であったということに気づきます。公の世界とは、具体的にいいますと、宮廷と教会で、町の広場で、これが西洋文化の七割から八割方の部分をつくったといえる。音楽は宮廷音楽、ないしは教会音楽として生まれたし、絵画といえば、宮廷や教会を飾る大壁画でありました。町の広場には立派な建築が建てられ、非常に大きな記念碑的な彫刻がつくられました。それはすべて公の場所であります。


面白いことに、演劇や舞踊というものでさえも、たちまち公の場所の公の行事になってしまいます。西洋の劇場は、王さまや貴族たちが、いわば公式の儀式の一部として出かける場所であって、現代の西ヨーロッパはもちろん、社会主義社会でさえその伝統が残っています。モスクワのボリシォイ・オペラなどというのは、外国の公式のお客さんがあると、クレムリンの主人たちが連れてゆく場所であります。そこには偉い人が坐るためのロイヤル・ボックスというものがちゃんとあって、場合によっては、相手国の国歌なども演奏する、という形式が出来ています。


それに対して、日本の文化をおもに育てていたのは、「私」の世界です。中世末期からとくにその傾向が強まるのですけれども、それ以前にも、きわめて私的な性格の強いのが日本の文化です。平安朝の女房文学というものがありますが、女の人たちが小説を書き、小説に合わせて絵巻物をつくり、そしてそれを鑑賞したのは彼女たちの私室でした。「源氏物語絵巻」というのは、決して堂堂たる壁画でもなければ、記念碑的彫刻でもありません。あくまでも女の人たちとその恋人が、自分の居間でひっそりと楽しむための絵本であったわけです。もちろん、その場所は貴族の屋敷であり、宮廷の一部であったかもしれませんが、その中のきわめて私的な場所、私的な部分で文学や絵画が生み出された。また中世の歌の会、茶会というものも、宮廷ではなくて、それぞれの貴族の個人的な家庭で行われたものです。


それから近世にはいってくると、圧倒的な、重大な意味を持つのが遊郭であります。ギリシャの古代は別でありますが、日本の遊郭ほど文化的な売春業は他に例がないのでありまして、その世界は、むしろ趣味的な洗練を競い合う場所にすらなったわけです。遊郭を素材にして、あるいはそれを場所にして、日本の歌舞伎も成長したわけですし、さまざまな音楽もまたこの遊郭を中心に生まれたわけです。さらに為永春水の小説も、蜀山人の狂歌も、またこの遊郭がなくては成立しなかったといえるでしょう。とくに日本の芝居は、先ほどの西洋の場合とちょうど正反対でありまして、劇場というのは「私」の世界であります。天皇や将軍が、堂々とロイヤル・ボックスにお出ましになる世界ではなく、それどころか、侍が行く時には、どことなく後ろめたい思いで、武士の体面をなげうって行く世界でありました。遊郭もまた同様で、そんな所に二本差しでいばってはいってゆくと、町人に田楽(でんがく)だとからかわれるわけです。そこでいばっている人は、もちろんお金があって、趣味のいい人で、決して腕力の強い人や、位の高い人ではないのであります。


こういう二つの違いというのは、日本の芸術にもいろいろと影響をおよぼしている。芸術をいう前に、生活文化の面を考えてみますと、面白いことに、日本には大宴会というものが生まれてこなかったようです。西洋人は宮中の大宴会というものを発明しましたし。中国人も公式の宴会がたいへん上手です。宴会といえば、すぐ思い浮かぶのは、キラキラときらめくあのシャンデリアでありますが、シャンデリアのもとには大広間があって、その大広間にイブニング・ドレスを着た男女が集まってきます。そこでテーブル・スピーチがあり、乾杯があり、全体がたいへん儀式ばっていて、しかも大がかりであるのが西洋の宴会です。


それに対して、日本人というのはそういう公式の宴会の伝統を、ほとんど持っていません。日本人は乾杯ということをやらないで、その代わりに献酬ということをやる。「お流れちょうだい」といって、膝ではっていって、偉い人から杯をもらうわけです。宴会が公式な行事であり、そこにたくさんの人が集まる場合には、一同が仲よくするためには、当然杯を高く上げて「乾杯」と叫ぶのがいいに決まっています。しかし宴会が、たいへん私的な集まりであって、人間と人間が肌で温め合うような関係を持ちたければ、お互いの杯を交換するのがいいに決まってます。また日本人は、テーブルスピーチというものを生み出さなかったし、シャンデリアの代わりに、行灯(あんどん)しか発明しませんでした。その上、面白いことに、イブニング・ドレスというものも、発明しなかったのであります。つまり、イブニング・ドレスに着替えるくらいなら、さっさと浴衣(ゆかた)姿になってしまうわけで、このことは、日本文化の特色を考える上でなかなか大事なことではないかと私は思っています。


つまり西洋の文化というものは、教会でお祈りをするとか、宮廷で勲章を授けるとか、そういう純粋に公式の行事と、それから純粋に私的な集まりとの中間のところに出来ている、ということであります。人間の関係の面からいえば、宮廷で政治の議論をし、あるいは学会で学問の議論をしているような世界と、それからうちでひそひそと夫婦げんかをしている関係の中間のようなものがあるといえる。適度に儀式ばっていて、適度にくだけている場所、そういう、いわば人間関係の中間距離とでもいうべきものが西洋にはあって、それを母体にしていろいろな文化が生まれているような気がします。

(※マツ注 サロンやクラブの文化?パブやカフェ文化?)


イブニング・ドレスというのは、象徴的な例だと思って挙げたのですが、人間は昼間は昼間の、純粋に公的なドレスを着ているわけです。軍人なら軍服を着ているでしょうし、役人は法服を着ているでしょうし、王さまは王冠とガウンを身につけているでしょう。そして夜は誰でも寝巻きを着て寝るわけですが、西洋ではその中間にイブニング・ドレスというものがあって、そのドレスにふさわしい世界がある。ですからその時間に行われるテーブル・スピーチというものは、ある程度儀式ばっていて、ある程度ユーモラスで、ある程度親しみ深いものでなければなりません。


どうも日本の場合には、この人間関係の中間距離というものがなかったようで、そのことが芸術にも文化にもいろんな彫響を与えているような気がします。いいとか悪いとかいう価値判断をしているのでありませんが、日本人にとっては、恐ろしく儀式ばった形式そのもののような昼間の世界が一方にあり、もう一方に徹底的にくだけた、肌でくっつき合っているような夜の私生活があって、その中間がなかったという感じがするのです。会社の宴会などでも、何か四角ばった挨拶をしてから、それではもちろん満足出来ないので、二次会へ行ってどんちゃん騒ぎをするという習慣が今日まで続いています。


面白いのは、日本の雑誌には座談会というものがたくさん載っていて、どうも日本人は座談というものが好きだといえそうです。ところでその座談の口調というものを考えると、これはたいへんくだけていて、しばしば意味がわからないほどくだけたものが雑誌に載っていたりします。そうかと思うと、どこかの鉄道の開通式などというところでは、偉い人が読む祝辞は、味もそっけもない、きわめて形式的なものになるという傾向が見られます。そういうことが、日本の芸術の上にどんな影響をおよぼしたか、これも一つの仮説でありますけれども、いちばん大きな影響を受けたのはドラマではないかと思います。


西洋のドラマには雄弁というものがあります。フランスの古典劇を見ても、イギリスのシェイクスピア劇を見ても、登場人物はたいへん雄弁で堂々たる美文調でしゃべっています。しかしその美文調は、お役人の祝辞や王さまの演説のような、そういう形式主義では決してないので、そこにちゃんとした人間の感情がかよっている。そうかといって、肩を抱き合ってひそひそとしゃべるような、卑小さや脆弱さもないわけで、一種の儀式的な張りを持っている。あれはまさに人間の中間的距離をつなぐ言葉であるという気がします。


それに対して、日本の芝居の中では、この雄弁というものは育たなかったようで、一方で歌になってしまうかと思うと、他方ではつぶやきになってしまう。しかもいちばん肝心なところは、しばしば何もいわない沈黙の「間(ま)」になってしまうのですが、それでも腹と腹で感情が伝わって、お客がちゃんと涙を流してくれるという次第です。


そういえば、日本の文学、あるいは日本の美術や音楽は、すべてどことなく小さくて、繊細でかわいらしいという評判を聞きますが、そのこともいま申し上げた公の文化と私の文化、という東西の対比の中から説明がつく面が多いのではないか、という気がするわけです。


もう一つ、今度はそういう社会環境、あるいは自然環境に当然支えられているのでありましょうが、文化それ自体が持っている傾向が、また文化に対して環境として働くのであります。ということは、日本の芸術および文化というものは、非常に重層的に重なっていて、たくさんの層を持っているという現象であります。


また西洋との比鮫になりますが、西洋の場合には、歴史が一本の糸のようにつながっています。もちろん糸からいろいろな枝葉が出ている、あるいはところどころで二本の糸がからみ合ったりしますが、太い一木の軸が伝統を形成し、歴史を貫いていることは疑えないわけです。言い換えると、歴史の中で新しいものが生まれてきますと、つねにその新しいものが古いものを内に吸収して大きくなってゆくわけです。演劇の例を挙げますと、かつてイタリアにコメディアデラルテという喜劇がありました。これは日本の狂言に似てもう少し粗野なものでありますが、それが非常に盛んでありました。やがてフランス人のモリエールという喜劇の天才があらわれて、これがコメディアデラルテからいろいろなものを吸収しました。吸収するとコメディアデラルテは歴史的な名前は残して消え去り、いわばモリエールの中に吸収されて生き残ったわけです。モリエールとならんでコメディアデラルテが並立しているわけではありません。


ところが日本の場合、たとえば能や狂言が成立したあとで、歌舞伎が生まれてきましたが、しかし、歌舞伎は能や狂言に対していっこうに新しい芸術として自分を位置づけていないのであります。歌舞伎の中で能、狂言は決して発展的解消を遂げなかったばかりか、両者のあいだに有機的な関係というものさえ生まれないわけです。


もちろん芸術の歴史、文化の歴史を考える場合に、過去のものは新しいものによってつねに否定されるとは限りません。その点が自然科学の歴史とは違うのでありまして、自然科学の場合でしたら、新しい正しい学説が生まれれば古い学説は発展的に解消される。しかし芸術の場合、一般的にいって、新しい芸術が生まれたからといって古い芸術が決して解消されたりはしません。ピカソがいかに傑作を描いたからといって、レンブラントの値打ちが一文たりとも滅るわけではないのであります。


しかしそうはいうものの、西洋の場合には、古いものと新しいものとのあいだに、ある生きた関係、有機的な関係が生まれてきます。ですからそれぞれの特色あるスタイルというものは、「歴史的な様式」というふうに呼ばれるわけです。ある時代にはこのスタイルが栄え、ある時代にはこのスタイルが栄えた。そのあいだに変遷があったというふうにいえます。日本の場合にも、そういう流れがまったくなかったとはいえませんが、しかし非常に不思議なことに、西洋なら歴史的様式になるはずのものが、日本の場合にはジャンルになって、横にならんでゆくわけです。


明治になって、歌舞伎を新しくしようというので、新派というものをつくったわけですが、新派というのは新しい歌舞伎、つまり新派歌舞伎であったはずです。ところがいつのまにか新派というのは一つの独立したジャンルになってしまい、さらにその上に新劇というものが生まれたのです。しかし、新劇が生まれたからといって、新派も歌舞伎もいっこうに発展的解消は遂げなかったし、新劇が歌舞伎をどれぐらい継承して、どれぐらい発展させたかというとはなはだ疑問で、要するに「新劇」という一つの新しいジャンルが生まれただけです。最近ではアングラとか、あるいは前衛とかいう演劇が生まれてますが、これもまただんだん一つのジャンルになろうとしつつあります。


さらにひどいのは、明治になって西洋の絵画がはいってくると、これが「洋画」というジャンルになり、これに対して「日本画」のジャンルが生まれました。日本の文部省が大まじめにこの制度を採用して、芸術大学に行きますと、今日でもなお洋画科と日本画科が設けられています。日本画といえば日本の絵画史全部を含むはずですが、その内部の様式的発展ということはいっさい考えないで、日本画という一つのジャンルをつくってしまったのです。


文学史を考えましても、日本に最初にはいってきた歌の形は、おそらく中国の漢詩でありましょう。その漢詩は、延々明治のはじめまで生き延びてきましたが、その間に、日本固有の短歌が生まれ、互いに何の彫響も受けることなく、そのまま続いています。やがて短歌を半分に切った俳句が生まれましたが、その結果、短歌は少しも衰えていません。


このことは、日本人の芸術に対する感覚に、何らかの影を落としているような気がします。というのは、これは場合によっては、一人の人間が自分の感情を表現するのに幾つかのジャンルを同時に使うことが出来るということだからです。実際、江戸時代以前の人々は、違ったさまざまなジャンルを自由に選ぶことが出来たようで、美術の場合でいうと、司馬江漢という人がいますが、この人は驚くべき才能の持ち主で、大和絵風の絵も描けば、宋画風のー中国画風の墨絵も描く。四条派風のリアリズムもこなせば、ついでに、当時はいってきた洋画もたしなむというありさまです。そういうジャンルは、それぞれ背後に深い文化的な奥行きを持っているわけで、中国絵画を選べば、その背後にある中国文化を知らねばならず、西洋画を選べば近代合理精神という非常に大きなバック・グラウンドを身につけなければならないわけです。そういう事情に日本人が無知であったはずはないのですが、不思議にそういうことには無頓着に、いろいろな世界に等(ひと)し並みに付き合っている。


そういう作家は司馬江漢に限らないので、ある意味でいうと、吉田兼好などという人もそういう人であったかもしれません。彼は歌人であって、神道に関係し、仏教の坊さんで、有職故実の学者であって、そして評論家である。『徒然草』という作品の中には、彼の関心が実に多様であったことを示す文章がいっぱいつまっています。国語問題を論じているかと思うと、木登りの名人の話を熱心に紹介したり、子供は多いほうがいいかとか悪いとか、家庭評論家のようなことを書いているかと思うと、何だかたいへんむつかしく人間の死に方について論じていたりします。彼もまた、そういう文化の重層性の中で生きていた人です。


このことはいったいどういう彫響をおよぼしているか、私はこれ以上の仮説を重ねるつもりはありません。あえてヒントだけをいうならば、どうもそういうことが、いい意味でも悪い意味でも、芸術に対して日本人の遊びの精神、悪くいえば遊び半分の態度を生み出しているのかもしれません。どうも日本の芸術の中には、たいへん装飾的な面が強いということがよくいわれます。確かに尾形光琳を見ても、先ほどの司馬江漢を見ても、どこか装飾性という言葉であらわされるような側面が強いことは事実だといえましょう。精神性が乏しいというのではなくて、精神というものに対して、少し距離をおいて付き合っているという感じがするのですが、考えて見れば文化そのものに対しても、いろんな文化に付き合って、われわれはたいへん付き合いがいいようであります。


きょうのお話は、いろんな側面から考えようとして、かえって問題をあちこちに散らかしただけのことになったかもしれません。私白身の仮説を申し上げることが多くて、定説というものをご紹介することが少なかった点を申し訳ないと思っております。


いずれにせよ、日本の美、あるいは日本の文化ということを、日本人がまじめに考えだしたのはつい先ごろからであります。それぞれの専門領域においては、日本の歴史、あるいは日本の文学ということについて、長年の学問の伝統があることは疑う余地もありませんが、しかし日本人全体、あるいは日本文化全体というものを、総合的に、一つのまとまりとして眺めるようになったのはごく最近のことであります。明治以米、日本人は西洋のことを学ぶのには熟心でありましたが、そのあまり日本のことは忘れていました。戦争中はその裏返しで、たいへんファナティック(※マツ注 狂信的)に、たいへん政治的に、わけもなく日本精神を讃美する時代があったのですが、それが戦争の敗北によって、底の底までたたきつぶされて自信を失った。ようやくいまになって、そのどちらの極端でもない、バランスのとれた観点から、日本を見直そうという作業が始まったわけです。


それにつけては、むしろ日本人よりは、日本を研究した外国人たちの功績が大きいだろうと思います。アメリカ、あるいはヨーロッパの日本学者たちが、客観的かつ冷静な立場で行ってくれた、いろいろな業績というものがあって、われわれもまたそれをやっと使えるようになってきているわけです。


私の行き届かないお話を弁護するために、責任を他に嫁しているようでありますが、本当に日本美の問題などというのは、これから日本人が考え始めようとしているところであります。言い換えれば、定説などというものはまだないといってもいいわけでありまして、みなさんそれぞれが、今後自分でお考えになっていただく過程で、きょう私が申し上げた単なる思いつきや予想が、幾らかでも刺激になれば幸いだと思います。(48・4・17) 

(※マツ注 1973年4月17日)

このブログの人気の投稿

東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です  大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事

明治34(1901)年、ロンドンでツムラトウイチ(山中商会)という人物により日本の盆栽を詳しく紹介する講演が行われていた。

泉鏡花の忘れ得ぬ花体験 枯れても惜しくて2階から散華した