和辻哲郎 巨椋池の蓮 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 2月 16, 2025 巨椋池の蓮 和辻哲郎 1950年 新潮8月号初出1930年ころの巨椋池『伏見区誕生70周年記念誌』から青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49883_45588.html リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です 大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事 11月 04, 2024 花の都に花の村 一年間に切潰(きりつぶ)す花代二百五十万円 甲斐園治 『新公論』28(4)春季倍号から 1913(大正2)年4月 タイトルの切潰す、は、消費するというような意味。 明治末期から大正へ、時代の変わり目のすごいレポート。日本では温室でのカーネーションやバラ切花の営利栽培が始まったばかり。 日本経済はこの後、ヨーロッパの戦争の影響で好景気があり、その後、大不況があり、関東大震災があり、というふうに大きな波にさらされるようになります。 ※日本の花産業は、関東大震災を境に、アメリカ式の大型温室による生産革命とセリをやる花市場による流通革命が起きます。その状況を生み出す前史が、この明治末期から大正の前期の好景気の時代になります。 ※大正はじめの1円は現在の4000円という説あり。とりあえず、この文章に出てくる金額は3~4000倍にしてイメージしてみるといいかもしれません。3円は1万円から1,2000円。 ※注 文中最後に近いところの藤の記述で「野田フジ」の本場、野田を下総野田と書いているが、大阪の野田が発祥の地であるので、勘違いしているのではないか? ※このテキストの下に実際のページ画像があります **************** ▲花エー、花エーと鋏をチャキつかせ(※注 ハサミを開け閉めして音を出しながら売り声をかけて歩いた)、来る日毎日、八百八町を流し、僅か二銭の仏壇花を切る光景のみを見た人には、それほど花屋の全盛を解し得まい、花エー花エーは僅かに花の都の序幕に過ぎない、植木屋にて取扱う、鉢、庭物の分は先づ別とし東京市内十五区にて切り潰す花代一ヶ年二百五十万円(※注 約100億円)と聞いては、花屋も満更馬鹿にはならぬ。 ▲花屋の全盛 は一面に、花の都を語るのである『花を栽(う)えない東京にドウして其んなに花がある』此疑問に対しては普通の物資と同じく花屋にも、一種の問屋(といや)ありて花の都と花の村との連絡を取って居るのだと答うれば足る。 ▲問屋 として地方より荷を受け、或は仲買人との間に取引ある主なるものは、花太(下谷)花長、長松(南千住)花源(三の輪)花百、花十(深川)花久米、花彦、花常(浅草)花幾(本所)花次、花直(芝)等にして、昔は江戸の城下に卸しの外は一切小売をせぬ問屋は十三軒と極まって居たが、今は無茶苦茶で、間屋は大に小売を行(や)り、甚しきに至り... 続きを読む
作庭からいけばなが生まれた?~いけばなと庭園の歴史的関係 3月 05, 2022 植木屋 下草屋 作庭(3点とも人倫訓蒙図彙から) 【いけばなと庭園】 (『いけばな辞典」大井ミノブ編著 東京堂出版1976) この両者は自然を素材として、それを生活のなかにとりいれて、身近に楽しむ造形表現としたところに、共通した自然観の所産ということができる。千利休が満庭に咲く朝顔の美しさを、床に飾った一輪の朝顔によって象徴的に表したのを見て、豊臣秀吉がその意表をついた創意に感嘆したという話は有名である。その真偽は別として、これはいけばなと庭園との関連を端的に語った話として興味深い。 「宗清花伝書」に、前栽について、「此花は、庭などに花ある躰なり。にわをうけて立つべき花なり。」とのべているが、いけばなと庭園とは相互に規定しあって成立している。 とくに、寸庭に千山万岳を構築した枯山水の庭園は、一瓶のうちに大自然の美を抽象化した立花と、その象徴的手法において相通ずる関連がある。 作庭の伝書である「作庭記」に、「すべて、石ハ立る事はすくなく、臥ることおほし、しかれども石ぶせといはざるか、石をたつるにハやうやうあるべし。」と、庭に石組するにあたって、石をふせるとか、石をすえるとか、おくとかいわないで、すべて一括して、 「石をたてる」 といったとのべている。 いけばなの場合も同様に、「花をたてる」という言葉が、室町時代、立花の総称として使われている。立花は、花を花瓶にまっすぐにたてる供花的様式に起源するが、「仙伝抄」によると、いけるとか、なげるとか、いれるとかいうような種々の技法をふくめて、「花をたてる」といっている。 この 「石をたてる」「花をたてる」といったことばからも、また、これに参加し活動した人物が同じ阿弥号をもつ人々であったことからも、その深い関連が観取される が、それを、「遠碧軒記」は具体的に次のようにのべている。 「 立花は本、作庭より出た事なり。相阿弥、東山雙林寺の内の文阿弥が庭をも作る。さて浄土寺の庭は、此、相阿弥なり。それより立花の事を工夫に始む。今の砂の物は島の心にて略なり。立花は山水をうつす。(中略)池の坊も相阿弥の伝にて庭と立花とをかねたり。 」と、 立花が作庭に起源をもつ といい、さらに 立花は山水をうつし、砂の物は庭を簡略化した姿 とし、 相阿弥は作庭の技術を立花に応用した と、 庭園の影響 を説いている。また、 池坊が作... 続きを読む
泉鏡花の忘れ得ぬ花体験 枯れても惜しくて2階から散華した 11月 15, 2024 すばらしい花束をもらった若者が、園芸にドハマリしていく!その若者の名は泉鏡花。鏡花29歳のころの回顧。 泉鏡花の小文 前田曙山(まえだ・しょざん、小説家、園芸家、本名は前田次郎)との交流 「曙山さん」 明治四十(1907)年九月 泉鏡花『新小説』9月号に掲載された作品 かがなふれば早や五歳(いつとせ)がほどにあひなり候(※かがなう=指折り数える)。八月末の事なりき。我が長屋、神楽坂の裏に、三月四月(みつきよつき)店賃の滞りの、重き瓦を荷ひて、実(げ)にこそ三伏の暑さに苦しみ候をりから、貴兄の来臨を辱(かたじけな)うし、其の節、一束の花を賜り候。美しさ夢の如く、昼寝の顏の恍惚(うっとり)して、君が顏と花の色とをみまもりつつ、唯是は、是は、と申候のみ。 折から向かう堤防の草の中に、汽車の煙の晴間にもほの見ゆる、常夏のなほざりがなるさへ、其の名を知らず、葉の姿をわきまへず、桔梗、荻は、百花園にてながむるもの、おいらん草、蝦夷菊は、縁日の植木屋が店にて見るもの、と合点したる事なれば、頂戴したる草花の、其の名を知りたるは一つもござなく、打水の雫ながら、斜めに差置かれ候(そうろう)縁側に、恰(あたか)も腕白が買立ての金魚に見入りたる体(てい)に頬杖して、さながら御土産の産地品名を、目(ま)のあたり相(あい)ただし候如き不躾(ぶしつけ)を顧みず、此の紫は、此の真紅は、此の絞りは、此の斑入なるはと、一々御尋ね申候。何々なりけむ、花の名も此方(こなた)に些(さ)の下稽古なき者には、なかなかに覚えられ申さず、其の半ばは忘れ候が、枝ひまわり、天神花(※マリゴールド)、姫天神花、大蓼(おおたで)、紅蓼、天竺牡丹、芙蓉など、中にも俗物の眼を驚かし候は、紐鶏頭の振袖の丈にも余んぬる五尺の紫に候ひき。 はじめて花瓶の要を感じ、貴兄がお帰りを見迭り候、其の足にて勧工場(かんこうば)に駈けつけつつ、暑さの折からなればこそ薪(たきぎ)の代を棒にふってーーこれは此處だけのお話ながら、白瀬戸の大花瓶、少々其の……日くづきにて、格安大割引と云ふのを購ひ、一揆の小頭張抜砲(こがしらはりぬきづつ)を引抱へ、馳せ戻り、さて御心深く枝のふりもおもしろく根揃ひに御結ばせなるを、其のまま手活(いけ)と仕り、成金流の威勢を示して、おれがのだ、と床に据え、視(なが)むれば見れば其の風情、申すもなかなかにて... 続きを読む