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東京府農事試験場時代を振り返る、森田喜平氏による 日本の明治大正時代の温室園芸について

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 『東京都農業試験場60年史 』 (本館新築落成記念)  東京都農業試験場 1959(昭和34)年 ※巻末の見習生、練習生、名簿によると、森田喜平氏は明治41年入場者として名前が記載されている。森田氏はその後、新宿御苑に務めたのち、23歳のときに再び農事試験場に技師として採用され5年をここで過ごした。戸越農園に務めたのはその後で、大正7年に主任として迎えられている。 明治・大正の温室花卉研究 森田喜平  中野の試験場の温室は、日露戦後、日本の国運発展を祝して開催された東京博覧会に出品されたものを、東京府に移管建設したのが始まりだった。明治41年5月には大雹害があり、鶏卵大の降雹で大破したこともある。そのころ、新宿御苑には福羽(※逸人)博士設計の最優秀温室が建立となり、実利的花卉栽培が発足した。中野の試験場では、メロン、トマト、バナナ、ぶどうを始め、カーネーション、バラ、フリージア、ゆり等の切花、シクラメン、プリムラ、アマリリス、洋蘭及び熱帯観葉植物の栽培を始め、私はその係を拝命した。当時の場長は作間余三郎氏で、鈴木孝太郎技師の指導をうけた。  当時は温室花卉園芸の如きは、貴族富豪時の試験場としては、種芸・蔬菜・果樹等の主食重要時代で、花卉は、農家間でも、府議員間でも、趣味的園芸として重きを置かれなかったものである。しかし、間もなく駒沢に府立園芸学校ができ、大阪府・愛知県などにも温室設立となって、その師範となった。そのころは、農務省の興津園芸試験場よりも、中野の府立試験場の温室が随一だったのである。温室は、中央に山形の間口1間半、奥行2間半の両屋根式とし、東西に幅1間半の片屋根式の長い室を配し、中央にはバナナ室、東方にぶどう室と繁殖室など合計百余坪で、暖房は温水の多管式加熱罐で、室内開閉器は英国式に造られていた。  大隈伯及び岩崎弥太郎男の園芸技師として英国に学んだ林修己先生(後の千葉園芸校講師)に、週1回の指導をうけたり、品種も毎年英仏から入れるなど、その栽培は欧州式で、現在の米国風とは変ってておった。  場長も作間先生から難波五百麿氏に変り、農家としても副業が盛んになり、専業者もでき、価格も高価で、メロンやキウリ・ナスの促成、ぶどうの室内栽培などのほか新品種の花卉も盛んになった。当時、芝公園に催された関東園芸博覧会や上野公園の大正博覧会には、バナ...

2003年、スズキフロリスト、鈴木昭社長による「温室村80年」の記事  来年は温室村100年か

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 『農耕と園芸』連載「花もよう」 2003(平成15)年11月号 スズキフロリスト鈴木 昭 ※鈴木昭氏の父上は、鈴木譲氏。東京農業大学の講師もされていた。鈴木氏は、大正9年から12年以前、神奈川県の組合立赤羽根園芸試作農場で試作をしていたが、その後温室村に移った(別な方=甲賀春吉さん、寒川で最初の温室経営者となった人、が引き継がれたそうです)。温室村では早期に創業されたうちの一人。吉田鐵次郎氏のみどりやフローリストの創業(昭和3年※)にも参画している。 ※『実際園芸』1929年12月号にみどりやフローリスト1周年との記載あり https://ainomono.blogspot.com/2022/11/1-22197000-79123-1415-2-45115621000834.html https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_5.html ※鈴木昭氏が生まれた頃の鈴木農園の温室など https://ainomono.blogspot.com/2022/10/210.html ※玉川温室村で最初に温室を建てたとされる荒木石次郎氏は大正12(1923)年12月だった https://ainomono.blogspot.com/2022/11/1970_27.html %%%%%%%%%%%%%%%%%%% 玉川温室村80年  今年は 玉川温室村80年 ということを聞いたので少し書いてみたいと思う。  正確には東京都大田区田園調布4丁目の多摩川沿いに 大正12年頃より カーネーションを栽培する温室が建ち始め、 最盛時には30軒の栽培家があった と記憶する。実は私はその中の1軒である 鈴木農園に昭和元年に生まれ、子供時代を過ごした ので断片的な記録で、もし、正確な資料等があれば補筆、または訂正をさせていただきたい。  それ以前の日本のカーネーション栽培は、新宿御苑であるとか、特殊な場所と、特別な篤志家(土肥氏?※)等によって栽培されていたが、米国カリフォルニアで温室経営を学ばれた犬塚(※卓一)氏と藤井(※権平)氏が中心となって上記の田園調布で集団栽培が発足したと聞いている。(※マツヤマ注 土肥氏ではなく土倉氏では?)  温室を建てて、組織的に生産するということになれば、建築費、種苗費、労働力も必要とすることから...

『世田谷の園芸を築き上げた人々』(1) 冒頭部分 明治から大正、戦前までの世田谷園芸史の概略

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  『世田谷の園芸を築き上げた人々』  城南園芸柏研究会 湯尾敬治 1970 目次 一、明治後期より大正の園芸 二、大正中期以後昭和中期迄の園芸組合の推移状況 1荏原園芸同好会 2荏原園芸組合 3大日本園芸組合 4高級園芸市場 5世田谷花卉園芸組合 三、都立園芸高等学校 四、石川保太郎先生を語る 五、三井戸越農園 六、深沢地区の園芸 1谷岡安久氏 2谷岡一夫氏 3杉浦英夫氏 4米川佳秀氏 5谷岡国光氏 6佐伯 登氏 7鏑木善次氏 七、弦巻及び其の周辺の園芸 1榎木一郎氏 2榎本秀作氏 3榎本金松氏 4東村守真氏 5田中優二氏 6佐藤 享氏 7棚綱堅一氏 八、温室村の園芸 1森田喜平氏 2間島五郎氏 3犬塚卓一氏 4伊藤東一先生を偲ぶ 5桜井政雄氏 6宮崎鎮三郎氏 7加藤昇之助氏 8植松 清氏 9島崎 一氏 10荒木石次郎氏 11秋元藤夫氏 12小杉 直氏 九、奥沢地区の園芸 1早川源蔵氏 2鈴木省三氏 十、野毛地区の園芸 1桜井 元先生 2奥田佑一郎氏 3小田 茂氏 4梅本栄寿氏 十一、砧 地区の園芸 1加藤武男氏 2菅原山二氏 3藤田晴久氏 十二、甲州街道地区の園芸 1石綿光太郎氏 2直井銀次郎氏 3村田永楽園 4玉木幾太郎氏 5西脇俊一氏 6花形市五郎氏 7世田谷の枝物 十三、目黒地区の園芸 1小杉喜四郎氏 2中島国治氏 3辻 亀吉氏 4久保田好雄氏 5久保田宗良氏 十四、世田谷、目黒の盆栽 1竹内真一氏 2増井徳三郎氏 3関 重朝氏 4三島園 5小出信吉氏 6小林喜義氏 7青山惇穀氏 8谷岡宣映氏 十五、世田谷の洋蘭 1大場守一氏 2合田弘一氏 3島田蘭園 4高橋蘭園 5西原正一氏 6岡本佑二氏 7大和田農園 十六、山切物語り 十七、世田谷園芸の現状 十八、今後の世田谷園芸 十九、城南園芸柏研究会 二十、私の園芸観 二十一、まとめ 一、 明治後期より大正の園芸 「この項は石川(※保太郎)先生をはじめ、世田谷区史、或は先輩諸氏のお話しを参考としてまとめたものである。」  わが国の園芸は江戸中期から興って来たものであり、それは一部の大名や、富裕階級の趣味的なものが多うかったのである。それが本格的な園芸に発展してきたのは明治後期からであり、世田谷をはじめ目黒、大田地区で盛んになったのは大正に入ってからである。この地区は陸軍々隊が多く、軍馬の副次的生産である馬...

『東京府志料』にみる村の物産 大田区の場合

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  『東京府志料』 第3  東京都総務局文書課  1951 ※大田区の特産としては、蔬菜類のほか、麦わら細工、多摩川の砂利などのほか、北蒲田村の夏菊が記載されている。花はここだけ。北蒲田村は梅屋敷があった地域。 梅屋敷についてに解説サイト http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_26.html 蒲田から多摩川を渡って川崎市馬絹へ移転していく https://www2015.otakaki.co.jp/blog/ceo/archives/2010/08/23.html 大田区立郷土博物館の常設展示では、【 『東京府志料』 にみる村の物産】という展示があり、明治5年時点(江戸時代末期~明治維新ごろの状況)の各村の産物の概要がわかるという。  「 明治5 (1872)年 、陸軍省の求めを受けた東京府によって、府下各村の沿革や現勢の調査が行われ、『東京府志料』が編纂されました。この資料には、各村の地勢、戸数、人口、田畑の規模、土性、物産などが記録されています。大森村や不入斗村には麦わら細工、下丸子村には多摩川の砂利が物産として記録されているなど、資料から当時の各村の特徴がわかります。」 村名、主な物産、田の規模、畑の規模 不入斗 米、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、菜種、冬菜、春菊、胡瓜、紫蘇、茄子、番南瓜(カボチャ)、高菜、唐菜、海苔、濁酒、 麦藁細工   41町5畝4歩/17町8畝10歩 新井宿 米、陸稲、大麦、大豆、小豆、大角豆(ササゲ)、粟、黍、蕎麦、胡麻、菜種、蜀黍(モロコシ)、菜、茄子、野飼葵(ミツバ)、胡羅匐(ニンジン)、芋、葱、莱 菔 (ダイコン)、波稜菜(ホウレンソウ)、胡瓜、春菊、梅子、柿實、柚實、枇杷、濁酒 39町25歩/57町5畝7歩 大森 米、大麦、大豆、菜、茄子、胡瓜、 海苔 、蘋藻(※水草、藻、不勉強のため意味が不明)、清酒、濁酒、醤油、水油(※液状の油)、味噌、 麦藁細工 104町3反5畝20歩/77町2反2畝11歩 市野倉 米、大麦、小麦、大豆、小豆、莱 菔 、菜、茄子、芋 9町5反5畝1歩/15町3畝23歩 堤方 米、大麦、大豆、小豆、粟、黍、蕎麦、茄子、菜、芋、莱 菔 、蜀黍、濁酒 35町4反4畝19歩/10町4反6畝17歩 北蒲田 米、大麦、 夏菊 、生姜、莱 菔 、茄子、胡瓜、濁酒、白酒、 麦藁細工 5...

大の園芸好きで知られた子爵、伊集院兼知氏による明治の園芸界の思い出  昭和10年

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 1935(昭和10)年2月号 第18巻2号 ※参考 岡見義男氏に回想 https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_75.html 伊集院兼知子爵の明治の園芸回顧談 明治から今日まで 趣味園芸界の回顧 帝国愛蘭会会員 子爵 伊集院兼知 ◇私が園芸に趣味を持った当座 我が国に於ける園芸の著しく発逹したのは大正になってからであるが、その始りは非常に古いものであって、私達の知らぬ事が多い。それで私が園芸に趣味を持ち、いろいろな草花を作り始めたのは日清戦争の当時であるから、明治ニ十七八年の頃である。既に四十余年前のことであるので、確なる事は云うことが出来ぬが、記憶にある二三の問題に就いて述べて見ることにしよう。勿論話は断片的になるが、然し当時の概略の園芸を知ることが出来るであろう。 明治ニ十七八年頃の園芸と云うと先ず思い出すのは新宿御料地(現在の新宿御苑)大隈邸、及び小石川植物園である。新宿御料地では花卉は云うまでもなく、種々な蔬菜類も栽培されていた様に覚えている。その当時は私は草花は美しいものだと思っていたし、またベゴニアとかペペロミア等の観葉植物にも多大な興味を持っていたのである。私が草花を作り始める前には猟の事でお務めをして居った関係で、良く新宿御料地の鴨場に行ったものである。それがいろいろした縁で故福羽子爵と知るようになり、いろいろ草花の話を聞いたが、福羽さんの謂われるには、「草花を作るのなら寧ろ始から蘭を作るのがよい。蘭は花卉では最高等なものであるから終局は蘭を作ることになるからである。即ち無駄をせぬ事になるので有る」と云われたが、然し当時は蘭を作るとしても容易に手に入れることが出来ないし、また余程熟練した者でなければ栽培し得るものではないと間いていたし、自分もそう考えていたので、一般の趣味園芸家と同じようにゼラニウムとかヒヤシンス等の球根物を作り始めたのである。 以上の様な機会からして私は園芸に手を染めたのであるが、その時分米国で園芸学校を卒業して帰朝された 河瀬春太郎氏(注:父は県知事を歴任した実業家の河瀬秀治) が丁度の 私の旧臣 で 大崎 に 妙華園 と云う花壇を作られたので、時々此こを訪れては草花栽培や、その他蘭の事なぞに関していろいろ話を聞いて大いに得る所があった。また私が特に忘れられないこと...

戦前の日光、金谷ホテルの温室とそれを管理していた高木辰太郎氏について 1936(昭和11)年

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 日光金谷ホテルの温室について 『実際園芸』第20巻2号 1936(昭和11)年 金谷ホテルの全景 金谷ホテルの第一温室 園芸主任の高木辰太郎氏 第二温室のプリムラ 日光・金谷ホテルの温室園芸 ―宇都宮市― 中島恒夫 日光は我が日本の有する誇りの一つである。世に『日光を見ぬ中は結構とは云われない』と言い伝えられるのも宜なる哉である。我々の諺が日光国立公園に遊ぶ時、此の諺の意味をはっきりと認識するであろう。幽遂にして壮大且つ端麗なる自然美と、精緻の限りを盡くす人工美との婚前たる融合の美しさに日光に於てのみ許されたる古今独歩の境地であろう。われわれは深く日光の自然美に打たれ、その輪奐(りんかん)の美を絶賛せずにはいられぬのであり。  日光国立公園が世界的ならば我が金谷(かなや)ホテルもまた世界的に知名なものである。金谷ホテルは神橋畔(しんきょうはん)の高台に位し、日光の自然美を最も良く活用しているものと云えるであろうが内外の紳士淑女が客として接待する大ホテルであるから、その設備が総てに於て整っている事は云わずもがな実に東洋一のホテルと称する事が出来よう。今次ぎにその設備の主なるものを拾って見るならばー―。  温室二棟、自家用発電所、自家用畜産場、スケートリンク、養魚場、プール等、到れり盡くせりの感があるではないか。  此の中、我々の興味を有するのは、その園芸施設の規模内容の如何である。筆者は一日同ホテルを訪ひ、親しくその施設を観る機会を得たのでここに写真と共に掲載して一般に御紹介したいと思うのである。  温室は第一温室と第二温室とに分れ、第二温室二十五年前に建設されたものであるから、もう相当に古い歴史を有する訳である。この温室はホテルの大玄関に向い、左側の小高い所に在り、型はスリーコオーターとイーブンスパンの一室に分かれているが、暖房の装置としては、石炭を焚くボイラーと煉炭ボイラーとの一つが設備されているのである。此の温室には主として観葉植物、即ち椰子、ゴムノキ、ネフロレピス(※タマシダ類)、アジアンタム、アスパラガス、ベゴニア、棕櫚、洋蘭等が栽培されて居り、室温は厳寒の候と雖も最低五十度(華氏、約10℃)を降った事が無いそうであるから、まことに常夏の園にさまよい込んだような感じを抱かされるのである。  次ぎに第二温室はホテルより約六町程離れた梅屋敷と称するとこ...

戦前戦後、大阪いけばな界の重鎮、河村萬葉庵氏の花

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 『万葉流のいけばな』 主婦の友社 1957(昭和32)年 食卓の花   私の思うこと  この頃、食卓に向かったときに、こんなことを思う。それはいけばな芸術論のようなものであろう。早い話が鯛の姿焼きや干鰯の素焼きなどは、どうやら自然いけばな、具象的作品というところかもしれない。なるべく魚そのものの姿を崩さないで、食膳に供するわけである。味付けもなるべく自然のままである。ただ、焼いてあるということは、人工加工である。  ところが、刺し身となると、鱗も目玉も尻っぽもない。まったくの人工化である。生の味は、自然に最も近い。それでいて、姿は完全に魚の形ではない。人為による一種の造形化された姿相である。さしずめ前衛花とでもいうところであろうか。生きた味に近くとも、姿は確実に改組されている。湯豆腐となると、これまた材料とまるっきり異なる。丸い小さな豆は、大きな四角い軟らかなものと変化して、豆であったことすら疑わしいほど完全に変形されている。新造形とでもいうのだろうか。  ニュートンのりんごのように、活花の芸術論の立派な証明が、魚のおつくりから生まれるかも知れない。わたくしは作家であって、そうしたものは、学者や批評家にまかせておけばよいのだが… 素材 とげ珊瑚、霊芝、松樹(皮むき黒塗)、からたち(白塗り) 器は前衛調 作意と手法 皮を剥がれても、個性のある松のよさは失われない。求心的な構成の住まいを作っている一組の夫婦―霊芝ととげ珊瑚の心理表現といったもの。 家つきの霊芝が、ともすると、女王のようなとげ珊瑚の発散するヒステリックな態度(かたたち)に追われて、恐妻家のように見える。だが、これで両人うまく納まっているようだがら「めでたし」である。あえて、外からとやかくいう筋はない。これもこの家の家風であろうから。 造形的にいって、一種のコントラストであろう。 葉と実    私の思うこと  ものには出合いというものがある。つまり相性というものであろうか。似たもの夫婦といわれる類かも知れぬ。  この相性というもの、形も姿もまるきりちがっていて、それでいて合うのだから不思議である。八八の花札を見ると、松に日の出に鶴、あるいは梅に鶯、萩に猪など、どの一枚を見ても実に感心する。絵がうまいというのではない、その出合いのよさというものだと思う。 いけばなも多分に、出合いのよさを考えねばなら...

古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その4

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● シリーズ★古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その4 1、『横浜の花の歴史を語る』 制作・発行 横浜市緑政局 発行年月日 1973年3月 古老が集まった「歴史的座談会」 横浜の花の歴史と先駆者の努力を後世に伝え残したいという目的で昭和48年に制作された『横浜の花の歴史を語る』を読む企画の最終回。この座談会は昭和48年3月、古老、ベテラン8名を集めて行われた。みな明治、大正、戦前の昭和について、横浜の花について知る人たちばかりで、もう二度と聞けないエピソードが記されている。今回は最終回、要点を示してまとめてみたい。 出席者について 1、脇 治三郎 83才 磯子区広地 生産、小売り(海外で学び、大正の初めに帰国し草花の生産を始めた。本連載62回、84回で登場の脇金太郎の子息。脇金太郎は腕の立つ造園家でありながら、外国船員相手に草花を売り込み人気を得ると明治12年には8坪ほどの小温室を建てて栽培を始めた。メキシコに出かけて大量にサボテンを入れたことでも知られる。) 2、加藤太市郎 82才 金沢区富岡町 生産 3、小島亀吉 75才 緑区北八朔町 生産 4、鈴木吉五郎 74才 金沢区富岡町 園芸家(山野草) 著書多数 5、岡本宇吉 73才 中区麦田町「大和生花店」神奈川県生花商組合連合会会長 6、中村隆吉 67才 港北区新羽町 生産 7、横山清治 67才 中区曙町 生花店「花松(相松)」 8、稲波泰吉 59才 南区唐沢 横浜植木株式会社取締役 司会 横浜市緑化センター所長 徳植末樹 ************************************* 1、明治初年の花の小売商は、いまだ自然採取を中心に農家の庭先の花木や草花を集めて売る、「山切り」をしていた。需要が拡大してくるにつれて、農家への栽培委託や、自ら生産に入るもの、人を使って集めて小売商に売る仲買人が出てきた。また、その仲買人、問屋から仕入れて販売に専念する花商が増えていった。 2、こうした経緯のため、花の小売商は、枝物や花の商品の見極めができるだけでなく、花木の仕立てや荷造り、輸送に関するエキスパートでもあった。新規に生産を始める農家は、こうした花商から仕事の仕方を教わっている。 3、東京では隅田川の河口に近い場所に花問屋が集まり、堀切や西新井付近の農家が花を持ち込んでいたというが、西では...

古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その3

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● シリーズ★古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その3 1、『横浜の花の歴史を語る』 制作・発行 横浜市緑政局 発行年月日 1973年3月   古老が集まった「歴史的座談会」 横浜の花の歴史は、日本の近代園芸史の第1ページ目を飾る重要な項目である。横浜の花の歴史と先駆者の努力を後世に伝え残したいという目的で昭和48年に制作された『横浜の花の歴史を語る』を読む企画のその3。この座談会は昭和48年3月、古老、ベテラン8名を集めて行われた。みな明治、大正、戦前の昭和について、横浜の花について知る人たちばかりで、もう二度と聞けないエピソードが記されている。今回の企画は、何週かに分けて連続して可能な限り全体を通しで読んでみようというものである。引用部分の量が多いので、次回は要点だけを示しこの企画を終えることにする。 出席者について 1、脇 治三郎 83才 磯子区広地 生産、小売り(海外で花づくりを学び、大正の初めに帰国し草花の生産を始めた。本連載62回、84回で登場の脇金太郎の子息。脇金太郎は腕の立つ造園家でありながら、外国船員相手に草花を売り込み人気を得ると明治12年には8坪ほどの小温室を建てて栽培を始めた。メキシコに出かけて大量にサボテンを入れたことでも知られる。) 2、加藤太市郎 82才 金沢区富岡町 生産 3、小島亀吉 75才 緑区北八朔町 生産 4、鈴木吉五郎 74才 金沢区富岡町 園芸家(山野草) 著書多数 5、岡本宇吉 73才 中区麦田町「大和生花店」神奈川県生花商組合連合会会長 6、中村隆吉 67才 港北区新羽町 生産 7、横山清治 67才 中区曙町 生花店「花松(相松)」 8、稲波泰吉 59才 南区唐沢 横浜植木株式会社取締役 司会 横浜市緑化センター所長 徳植末樹 ■花き生産の発展 その2 【稲波泰吉】脇さん、ハナショウブの生産は、あれは明治30年に。 【脇治三郎】花ショウブ(三英、六英)の起こりはね、仲見世ですよ、磯子の。あれは横浜植木が指導して栽培させたんですよ。あれがショウブの輸出の初めです。 【稲波】そのショウブ園は36年に蒲田へ移っているんですね(※現在の蒲田小学校、たいへん有名な菖蒲園で、最寄りの場所に後から駅ができたと言われている)。だから、今のお話のように蒲田という所が(※切花栽培が)非常に盛んな所だったし、みなさ...

古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その2

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  誠文堂新光社「子供の科学」を創刊した原田三夫と「民衆花壇」 横浜の古老による座談会記録を読む企画の第2回め、……なのだが、この記事を書くために、読んでいた別の資料、『世田谷の園芸を築き上げた人々』(城南園芸柏研究会 湯尾敬治1970)のなかに、大正8年頃、「民衆花壇」という花店が芝にでき、温室を鶴見に置いて生産と直売を行う事業を始めた、そこに、現在の大場蘭園の創始者である大場守一(しゅいち)が主任として勤めだした、という記事を発見して驚いた。「民衆花壇」…どこかで聞いたことがある、あ!それは、誠文堂新光社の看板雑誌である「子供の科学」(大正13年創刊)の創刊に関わり、初代の編集長を務めた原田三夫の自叙伝『思い出の七十年』(誠文堂新光社1966)に出てきていた。164ページから169ページにかけてその記述がある。この店は大金持ちの青年、西条軍之助という人物が民衆の心を慰め美しくするための花屋で「民衆花壇」と名付けられた。この事業の手伝いを原田がやったという。生産は鶴見の農場でやるのだが、明治期にアメリカに留学して園芸と装飾を学んだ恩地剛(※弟は有名な版画家、恩地孝四郎)が引受け、その伝手で小田原の辻村農園にいた大場守一を引っ張ったということのようだ。原田三夫は店に立ったという。開店の時は北海道大学時代の恩師、有島武郎から花環が贈られた。店は西条の邸宅があった芝佐久間町(現在の新橋駅と虎ノ門の間くらい)の近くだったという。原田が同じく辻村農園にいた石井勇義を恩地から紹介されて出会うのはそのしばらく後のことである。大場守一は、鶴見の農園で働くが、のちに独立し同じ鶴見で生産を開始しており(同じ場所で開業、とあるので民衆花壇の後を引き継いだのかもしれない)、この出会いはたいへんに興味深いことだと言えそうだ。 話がだいぶそれた。それでは、昭和48年に制作された『横浜の花の歴史を語る』を読む企画のその2を始めたい。この座談会は昭和48年3月、古老、ベテラン8名を集めて行われた。みな明治、大正、戦前の昭和について、横浜の花について知る人たちばかりで、もう二度と聞けないエピソードが記されている。今回の企画は、何週かに分けて連続して可能な限り全体を通しで読んでみようというものである。 出席者について 1、脇 治三郎 83才 磯子区広地 造園、生産、小売り(本連載62回、84...