東京府農事試験場時代を振り返る、森田喜平氏による 日本の明治大正時代の温室園芸について
『東京都農業試験場60年史 』 (本館新築落成記念) 東京都農業試験場 1959(昭和34)年
明治・大正の温室花卉研究
森田喜平
中野の試験場の温室は、日露戦後、日本の国運発展を祝して開催された東京博覧会に出品されたものを、東京府に移管建設したのが始まりだった。明治41年5月には大雹害があり、鶏卵大の降雹で大破したこともある。そのころ、新宿御苑には福羽(※逸人)博士設計の最優秀温室が建立となり、実利的花卉栽培が発足した。中野の試験場では、メロン、トマト、バナナ、ぶどうを始め、カーネーション、バラ、フリージア、ゆり等の切花、シクラメン、プリムラ、アマリリス、洋蘭及び熱帯観葉植物の栽培を始め、私はその係を拝命した。当時の場長は作間余三郎氏で、鈴木孝太郎技師の指導をうけた。
当時は温室花卉園芸の如きは、貴族富豪時の試験場としては、種芸・蔬菜・果樹等の主食重要時代で、花卉は、農家間でも、府議員間でも、趣味的園芸として重きを置かれなかったものである。しかし、間もなく駒沢に府立園芸学校ができ、大阪府・愛知県などにも温室設立となって、その師範となった。そのころは、農務省の興津園芸試験場よりも、中野の府立試験場の温室が随一だったのである。温室は、中央に山形の間口1間半、奥行2間半の両屋根式とし、東西に幅1間半の片屋根式の長い室を配し、中央にはバナナ室、東方にぶどう室と繁殖室など合計百余坪で、暖房は温水の多管式加熱罐で、室内開閉器は英国式に造られていた。
大隈伯及び岩崎弥太郎男の園芸技師として英国に学んだ林修己先生(後の千葉園芸校講師)に、週1回の指導をうけたり、品種も毎年英仏から入れるなど、その栽培は欧州式で、現在の米国風とは変ってておった。
場長も作間先生から難波五百麿氏に変り、農家としても副業が盛んになり、専業者もでき、価格も高価で、メロンやキウリ・ナスの促成、ぶどうの室内栽培などのほか新品種の花卉も盛んになった。当時、芝公園に催された関東園芸博覧会や上野公園の大正博覧会には、バナナを主としたメロンのコレクション、トマト、キウリ、ナスの3月出品(参考品)が農学者間に話題となり、農家にも喜ばれた。もちろん、フレームも数十框できたが、千葉県、静岡県等の暖地フレーム栽培は、当時なかなか盛んとなり、成金農家も生れていた。
欧州大戦後米国が盛んとなって、カーネーション新品種もアメリカから、その様式も米国風となった。温室は工業的農業と称され、その建設費と熟練した技術を要するので、一般に投機的と思われたが、フレーム栽培から発足した農家は皆成功した。
(大田区田園調布温室村玉川ガーデン主、元東京府立農試技手)