『世田谷の園芸を築き上げた人々』(1) 冒頭部分 明治から大正、戦前までの世田谷園芸史の概略


 


『世田谷の園芸を築き上げた人々』 城南園芸柏研究会 湯尾敬治 1970


目次

一、明治後期より大正の園芸

二、大正中期以後昭和中期迄の園芸組合の推移状況

1荏原園芸同好会

2荏原園芸組合

3大日本園芸組合

4高級園芸市場

5世田谷花卉園芸組合


三、都立園芸高等学校

四、石川保太郎先生を語る

五、三井戸越農園

六、深沢地区の園芸

1谷岡安久氏

2谷岡一夫氏

3杉浦英夫氏

4米川佳秀氏

5谷岡国光氏

6佐伯 登氏

7鏑木善次氏


七、弦巻及び其の周辺の園芸

1榎木一郎氏

2榎本秀作氏

3榎本金松氏

4東村守真氏

5田中優二氏

6佐藤 享氏

7棚綱堅一氏


八、温室村の園芸

1森田喜平氏

2間島五郎氏

3犬塚卓一氏

4伊藤東一先生を偲ぶ

5桜井政雄氏

6宮崎鎮三郎氏

7加藤昇之助氏

8植松 清氏

9島崎 一氏

10荒木石次郎氏

11秋元藤夫氏

12小杉 直氏


九、奥沢地区の園芸

1早川源蔵氏

2鈴木省三氏


十、野毛地区の園芸

1桜井 元先生

2奥田佑一郎氏

3小田 茂氏

4梅本栄寿氏


十一、砧 地区の園芸

1加藤武男氏

2菅原山二氏

3藤田晴久氏


十二、甲州街道地区の園芸

1石綿光太郎氏

2直井銀次郎氏

3村田永楽園

4玉木幾太郎氏

5西脇俊一氏

6花形市五郎氏

7世田谷の枝物


十三、目黒地区の園芸

1小杉喜四郎氏

2中島国治氏

3辻 亀吉氏

4久保田好雄氏

5久保田宗良氏


十四、世田谷、目黒の盆栽

1竹内真一氏

2増井徳三郎氏

3関 重朝氏

4三島園

5小出信吉氏

6小林喜義氏

7青山惇穀氏

8谷岡宣映氏


十五、世田谷の洋蘭

1大場守一氏

2合田弘一氏

3島田蘭園

4高橋蘭園

5西原正一氏

6岡本佑二氏

7大和田農園


十六、山切物語り

十七、世田谷園芸の現状

十八、今後の世田谷園芸

十九、城南園芸柏研究会

二十、私の園芸観

二十一、まとめ


一、 明治後期より大正の園芸

「この項は石川(※保太郎)先生をはじめ、世田谷区史、或は先輩諸氏のお話しを参考としてまとめたものである。」


 わが国の園芸は江戸中期から興って来たものであり、それは一部の大名や、富裕階級の趣味的なものが多うかったのである。それが本格的な園芸に発展してきたのは明治後期からであり、世田谷をはじめ目黒、大田地区で盛んになったのは大正に入ってからである。この地区は陸軍々隊が多く、軍馬の副次的生産である馬屎(ばし、ばふん)が大量に生産された。野菜の促成栽培は醸熱材料によって行われるものであり、この馬屎は、藁や落葉と混用すれば最良の醸熱材料となったのである。このため促成栽培が盛んになり、一方では一般野菜、筍など特殊な良品が生産されたのであった。

 一方花卉園芸は三軒茶屋附近に早くから、温室、フレームなどを利用した草花栽培が営まれていた。例えば、伊藤安勝氏のばら栽培、吉田金次郎氏のスイトピー、洋らん、鉢物などの東洋園芸(五島、柴田氏経営)柴田氏のダリヤ、萩生氏の水蓮などが挙げられる。(大場氏のお話)若林には佐野釘治氏が百五十坪位の温室をもってスイトピーや金魚草、マーガレット、ゼラニュームなどの草花、メロン、トマトなど栽培しておられた。上馬には千疋屋の農場があって、石川さんと云う人が主任をしておられ、メロン作りの名人であったそうである。 

 野菜の促成栽培では、弦巻の榎本一郎、榎本秀作の両氏がおられ、深沢の谷岡安久氏はバイオレットや野菜の促成栽培をしておられた。経堂地区では石綿光太郎、石綿常次郎両氏、目黒地区には、京極、菊地、栗山、新倉の諸氏が早くから促成栽培を営んでおられたのであった。奥沢には早川源蔵氏、早川伊助氏がおられ、キュウリ作りの名人であった。外に、鈴木杉三郎、池田文右ヱ門の諸氏がその頃の促成野菜作りとしての先駆者であった。

 (世田谷区史による)尚、東京全体から眺めて見ると、千駄ケ谷の井上銀之助氏、杉並の井上定吉氏、大久保村の林百男氏など、この方面の開拓者とされている。

 花卉園芸では小石川の竹内嘉吉氏、大崎の妙華園(※伊集院子爵の旧臣、河瀬春太郎/はるたろう氏。父は県知事を歴任した実業家の河瀬秀治。)、入谷の鈴又、巣鴨の飛川或は開花園や植惣などの諸氏が、洋蘭や一般草花の栽培を営んでおられ、当時の草花園芸のリーダー格であったようである。当時の大衆的鉢物としての朝顔作りは、入谷地区で盛んでありあまりにも有名であった。

 切花園芸は江戸川地区に発達しており、小菊、中菊、花菖蒲など盛んであった。この頃の温室構造にふれて見ると、片屋根式のものが多く、中にはスリーコーター式のものもあり、北側は土壁や藁などで囲い、屋根はガラスも利用されたが、油障子が多く使われていて、コモ、ムシロなどで覆い保温につとめていた。暖房は、土管やブリキパイプを通し、簡単な釜で薪や石炭をもやし、その煙を利用したのであった。(石川先生のお話し)

 こうして自ら考え、自ら発見した技術に基いて過去の園芸が築かれて来たのであるが、何と云っても新宿御苑の福羽逸人先生の功績が大きいのであった。明治中期、フランス園芸を研究されて帰国、御苑で日本的な園芸研究の傍ら、多くの講習生を養成されたのであった。石綿光太郎、常次郎の両氏、直井銀次郎氏、関口氏など、ここで勉強されたそうである。

 私があちらこちらお尋ねしているうちに感じたことは、過去に於て、或は現在の園芸家の中にも一種の流れがあったように思えることであった。古くは新宿御苑での講習生、大崎の妙華園での特習生、戸越農園の研修生の諸氏、近くは園芸高校の卒業生グループ、或はアメリカ帰りの一群などが、各々の母体であった園芸型態を引継ぎ特色ある経営を行って来たように考えられるのであった。この外に何れにも属さない、インテリーグループの居られた事も事実である。

 これらの人々が当時の園芸界を指導し、今日の園芸業の基礎付けをなしたものと思うのである。


※妙華園について

https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/ct/other000093100/131all.pdf


二、大正中期以後昭和中期の園芸組合の推移状況


この項は早川源蔵氏の記録を参考としたものである。


その一 荏原園芸同好会

 ここで私は当時の園芸推進力となった、荏原園芸同好会について述べて見たいと思う。大正五年頃、世田谷元宿に元黒竜会々長、内田良平氏の弟で内田直実氏がダリヤの切花栽培をしていた。(※内田良平、黒龍会会長:右翼運動、国家主義運動の指導者)。当時早川源蔵氏、榎本一郎氏、新倉義治氏など、新進気鋭の園芸家が内田邸に集って色々と雑談を交しながら園芸の話しに花を咲かせ親交を温めていたのであった。※p61によると青山市場、世田谷花きの社長になった田渕清作氏は新倉園芸にいたという。

 或時、「どうだ一つ園芸家の同好会を作って見ようではないか」という話しが出た。みんな大賛成で早速同志を勧誘し、日を改めてその発会式ともいうべき集りを開いた。主なる顔ぶれは、早川、榎本、新倉、内田、石綿、その他の諸氏で、約二十名位参加されたのであった。

 先づ誰を会長に推すかが重要問題であったが、当時荏原郡長、宮城栄三郎氏を満場一致で推選し、その快諾を得たので、副会長には群(※郡?)書記の河野甚太郎氏と早川氏を選出し、ここに荏原園芸同好会が正式に誕生したのであった。

 その後、目黒柿ノ木坂に荏原群(郡?)農会の農場が出来たので、そこを会場として研究会を開くことにした。技術指導には農会技手、伊藤氏と海老沢寅助氏の二人にお願いし、月一回の例会を開き、栽培、経営両面に関する研究をすることにしたのである。 ここに集る皆さんは園芸学校の卒業生が多く、学理と実際をいかに調和させ、それと同時に出荷方法、市場の選択など、話題が多くその内容は常に充実したものであった。一面ではこうした集りを度重ねてゆくうちにお互いの親密感が深まり、会員同志が兄弟のような気持で、仕事の上や交際の面で温い友情を深めて来たのであった。この人達の平均年令は廿五才位であったと考えられる。

 このような状態で年を重ねてゆくうちに同好会の活動もいよいよ活発となり、その事業内容にも新しい計画を取入れる為め、指導陣に新しく東京府農会技師、加藤氏、府立農事試験場の牛村氏を加えたのである。そこで先ず、当時実行されていなかった種苗交換会、優良種苗の斡施、立毛品評会などを催した。一般農家の人達もその成り行きには大きな関心を持ち、心ある者は指導を乞うと共に協力も惜しまなかった。当時の園芸は未だ今日で云う企業というようなものではなく、何れも副業的なもので、生活の主体は一般農作物の生産においていた、従って労力の配分にも苦労し、経営上にも困難が伴ったわけであるが、新しい園芸開発に情熱を燃した若者たちはよくこの困難に堪えてきたのである。

 この若き園芸家達に常に新鮮な智識と愛情をもって接して来られたのが、加藤、牛村の両技師であり、その人格と智識がこれらの人達に屎い信頼と希望を与えてくれたのである。建設の過程には困難はつきもの、これに堪えてこそ今日の基礎が築かれたのであったと思う。


その二 荏原園芸組合

 其の後、昭和七年、市群(※郡?)合併によって群(※郡?)制廃止となり、当地区も東京市世田谷区○○町と称することになった。従って群(※郡?)長を会長にもつ同好会も、役員の改選を行う必要に迫られ、新たに、東京府会議員平林浅次郎氏を会長に推し名称も荏原園芸組合と改め、更に前進する態勢を整え組合の結束を固めたのであった。

 東京府の今後の農業経営にはどうしても花卉生産或は野菜の促成栽培を取入れるべきであるとの考えが組合員一同の意見であった為、府当局に働きかけ、物心両面に

亘る援助を要請したのである。

 当時、フレーム栽培から温室栽培に切替える業者も増加し、従来の副業的園芸から専業としての園芸に規模の拡大を計りつつあった。温室経営にはどうしても暖房設備が必要であり、府では援助の第一段階として、ボイラーの無償貸与を実施した。その対象はこれから暖房を必要とする業者のうち組合の推選(※推薦)するものとし、順次この方針で貸与してきたのである。私もその恩恵を受けた一人であるが、五十坪用の多管式手炊きのものであった。

 其の後、貯炭式ボイラーに改良され更に今日のような自動式重油ボイラーに進歩したのである。


その三 大日本園芸組合

 以上述べて来たこととは別に、大正六年頃三井家の農園が平塚村戸越にあったそこの主任をしておられた森田喜平氏の紹介で、早川源蔵氏が、倉本彦五郎、土倉竜二郎両氏と今後の園芸界のことについて語り合う機会を与えられた。(※戸越農園は、1934/昭和9年に用賀に移転)

 その頃、国民新聞社に勧業部があって、ダリヤの切花品評会が盛んに行われていた。そこに太田氏と篠原氏がおられ、当時、ダリヤで有名であった野口氏(何れも故人)と会合し、花卉園芸の現在及びその将来について話し合った。これとは別に伴田四郎、大沢、野口、赤松、木村重孝、大場守一などの諸氏が、大日本園芸組合設立の構想を練ったのであった。こうした動きが各地に起り、前記の諸氏により数度の協議を重ねた結果、大正七年頃この組合が誕生したのである。

 事業として、機関紙の発行、外国種苗の購入、講演会の開催などを計画、着々と実行に移して行った。

 これより述べる、高級園芸市場組合の設立も、本組合幹部が中心となって研究されたものである。(※伴田四郎氏の回顧によると「野口秀・岩本熊吉両氏が前後して米国に行かれ」と述べている。ダリアの野口氏とはこの方ではないか?※野口秀は佳伸という名前も使っていたので要注意)


その四 高級園芸市場

 大正十二年九月、突如として起った大地震は関東一円に大きな被害を与えた。特に東京市と横浜はひどく、十万余の人命を奪われ旧市内の大半は灰燼と帰したのであった。罹災者は絶望と不安のどん底に沈み、流言誹語が飛びかい一部には暴動の起こりそうな気配さえ感ぜられたのである。

 併し日本人固有の不撓不屈の梢神はよくこの惨禍から立上り、それと同時に全国から救援の手がさし延べられ、三、四年にして生れ変った大東京が建設された。勿論政府も日本の首都として将来の発展を考慮し、その復興に総力を注いだのであった。

 こうした破壊から建設に移行する過程に於ては当然、資本や物資の流通が盛んとなり、経済一般の成長が起り市民の日常生活にもこれが影響し、物心両面に亘ってゆとりが出来たのである。花卉の需要も年毎に増加し、それと同時にその取引き機構に不満を感じて来たのである。

 この機を逸せず大日本園芸組合では生産者の花卉園芸市場の設立を計画し、大正十三年、現在の西銀座に、高級園芸市場を開設したのであった。取引き品目は一般花卉の外、温室ブドー、メロンその他高級果菜であり、手数料は組合員五分、非組合員は一割であった。市場責任者は組合長の烏丸氏、理事長は伴田四郎氏、セリ台は石山顕作氏であり、小浦氏は帳付けをしながら宿直を兼ねていたのであった。

 当時私は榎本一郎農園に働いており、朝早くから小浦氏を叩き起したものである。静岡ばら園は毎日のように五百本位のばら切花を汽車で運び込んでいた。炭俵で包んだ荷を大風呂しきに包み肩に背負って朝早く私と同じ頃市場へ着いたのである。

 その頃の主なる荷主の名を挙げれば、カーネション――犬塚、藤井、加藤、荒木、土田、鈴木、の諸氏であり、バラ――二項園、長田(おさだ)、静岡ばら園、其の他の切花――榎本、早川、小杉、深沢地区の諸氏外に足立地区の鴨下、小池、其の他、メロン、トマトー―榎本、荒木、中井、青木、これらの諸氏が優秀なものを出荷していた。

 このような状態で生花市場の価値が業界に認められ漸次各地区に開設されたのであった。その主たるものは芝生花市場、日本橋、神田、下谷、上野、青山、渋谷、氷川、大森、都立園芸市場など多くの生花市場が生れ生産者もその選択が自由になり出荷も容易になったのである。

 この頃のエピソ-ドとして大場守一氏の語る所によれば、高級園芸市場の市況状態を、神田、芝、日本橋の生花問屋から「間者」を派遣して、毎日調査したそうである。

 この高級園芸市場も、第二次大戦のあをりを受け、二十年の歴史を残して閉鎖せざるを得なくなったことは、これを築いた先輩諸氏の悲しみであった事と思われる。 


その五 世田谷花卉園芸組合

 わが世田谷園芸にとって最も重大な転換を余儀なくされたのが、第二次世界大戦であり、再び取りかえしのつかない打撃を与えられたのであった。昭和十六年、大東亜戦争勃発、わが日本は非常時態に突入したのである。

 農業労働力の中心をなす若者達は次々と召集され、残された家族は老人も子供達も只一途、食糧生産に励んだ。

 昭和十八年七月、東京府に都制が布かれ、新らたに東京都となり、未曾有の国難に対処すべく、政治、経済、教育の中核をなす首都の建設が計画された。荏原園芸組合もこれを機として解消、新らたに世田谷花卉園芸組合を組織した。初代組合長に小杉喜四郎氏を推し何とかこの時態を切抜けるべく決意を新たにしたのである。

 併し戦争は悪化の一途をたどり、物資の不足はその極限に達し、花作りなど許されるものではなくなって来た。昭和十九年頃から温室の取りこわしや、花園の整理が半強制的に行われ、終戦時は全体の五分の四の温室が消え去っていたのである。

 昭和二十年八月、日本国民の永久に忘れることの出来ない無条件降服と云う汚名を着せられて戦争は終った。全国民は今日まで持ち続けて来た、祖国愛の心情にも懐疑的となり何のために生きるべきか、その目標さえ失った形であった。

 終戦後と雖もすぐにば花は作り得なかった。誰もが食糧生産や、家庭菜園に供給する苗物を栽培して生活を守った。このような状態が二、三年続くうちに人々の心に少しづつ反省と落ち着きが現われ、新しく生れ変るべき時代に生抜こうという気力が萌えはじめたのである。

 こうした反面、アメリカ進駐軍、それに関係する武官や、外交官など数多くの外人が駐留する結果となり、花の需要は年々増加して来たのであった。併し生産がそれに追いつかず予想外の高値で取引きされていた。温室をこわさずに持っていた園芸家は逸早く花卉栽培をはじめて、思わぬ金儲けをしたのである。既に転業或は廃止した人、未だ無気力から脱し切れない人達は羨望の目で只傍観するのみであった。

 昭和二十六年頃、不安定な世情も漸く落ちつきを見せ、物資の供給も次第によくなって来たので、世田谷園芸組合も再び活動を開始すべき時であるとし、花形正利氏を中心として、各地区の園芸家に呼びかけ数度の会合を開き、種苗交換会などを催しながら今後の園芸の在り方を検討し合った。

 昭和二十八年間島五郎氏を組合長に選び花形氏をはじめ他の有力園芸家の協力の下に過去に築いた基礎の上に更に美しい花を咲かせようと協力し合った。

 世田谷区長、長島壮行氏は農業対策の上から深い理解を示し、こうした動きに対して協力を惜しまない意志を明らかにした。そこで両者協議の結果、春秋二回の花の展覧会、講演会、年一回の見学旅行を行うことを決定、遂次実行にうつして行ったのである。

 こうした区と組合とが一体となっての園芸啓蒙運動は地域住民にも大いに歓迎され花の展覧会と共に行われる即売会なども、年毎に盛大となり、「園芸」と云う仕事の文化の面に大きな役割りをもっていることが改めて認識されたのである。ここで世田谷区でも、年間二十万円の補助金を組合に支出して、園芸の発展に協力を惜しまないことを約束された。

 昭和四十二年の組合総会に於て、間島氏は辞任され新たに榎本金松氏が新組合長となり、他の役員も改選され更に内容の充実に努力することを誓い合ったのである。 我が世田谷は、農業生産地としては、既にその価値を失いつつあるが、観賞園芸の生産地として、或は第二次生産方式の園芸経営には、尚多くの期待がもたれるので、世田谷花卉園芸組合の活動も、これらの方向にその指導性を発揮し、地域園芸の発展に寄与されるものと信じている。


貸鉢の佐藤農園

 佐藤享氏は、かつては作り屋であり種苗商でもあった。

 現在は、貸鉢を本業とし店には一般園芸用品、種子球根、鉢物などをおき、奥さんのお仕事として販売している。

 現在六十才を越えた年令でありながら、益々元気で自動車二台をもち、不二家グループ三十軒、その他十数社の貸鉢を請負い、昼夜を分たぬ奮闘振りである。

 佐藤氏は福島県人、昭和三年、十九才の折上京、当時鶴見にあった民衆花壇に入園、そこの主任をしておられた、大場守一氏について、草花栽培と種苗の通信販売を勉強された

 昭和五年、大崎の中西芳香園に入り、ここで生産される種苗の通信販売を担当されたのであった。中西氏は人も知る、シクラメン、君子蘭の大家であり、おぢいさんの代から花作りであった由、中西氏の頃は専業として大正時代の園芸界に寄与されたのであった。

 当時シクラメンは球根を輸入して栽培したのであったが、氏の研究にょって採種に成功、実生による栽培が行われるようになったわけである。今になって考えれば容易な技術と思われるが、当時としては貴重な発見であった。君子蘭も同様フランスから輸入されたものを親株として実生繁殖し、その外巨大輪シネラリヤの採種も行った。佐藤氏はここでカタログを三千乃至七千部位発行して通信販売を充実させ、約五ヶ年の間に種苗商としての自信を深めたのである。

 昭和十年、独立して奥沢に住居をかまえ、園芸種苗のブローカーとして若い血を燃やしたのであったが、世の中はそう甘くはなかった。裸一貫の氏は先ず資金を作らねばならなかったので、或る時期、自営を止めて戸越農園に勤務することにした。氏の特技を生かす意味で営業部所属となり、鉢物の卸しを担当した。

 当時切花市場は二、三あったので農園の生産品はそれらの市場に出荷したが鉢物はあまり扱っていなかった。今日程の需要もなくどうしても外交によって販売しなければ売り切れなかった。佐藤氏は花屋を廻って注文をとり配達もするという忙しい毎日であった。

 園長は鳥井子爵、その下に石田氏や大野氏もおられ園丁としては松平公爵の息子さん兄弟(農大出身)姉小路子爵の息子さん(京都大学)、その外松園という殿様の息子さんなど、三井財閥に関係の深い殿様の御曹子が大勢働いていたそうである。佐藤氏はここに五年間を過した。

 昭和十六年、現在の地に再び独立したのであった。営業は勿諭、種苗球根の卸しで栽培も好きであったから、十五坪位の小温室を建てて百合、シクラメン、観葉植物など栽培した。

 現在鏑木氏の栽培しているピーターソンもその頃手がけたのであった。最初、戸越農園に僅かにあったものから、切葉五、六枚貰って来て挿した。それが三本活着し大きいものは七寸鉢に入る程大きくなり見事に開花したので、六本木の後藤へもって行った所、五百円?に売れたとか、とに角珍らしい花であったから立派なものが出来れば、シクラメン以上にうれる花であったが、その栽培はむずかしい。氏も七、八十鉢は作っていたが、本業の方も忙しかったので、ピーターソンのような、手のかかるものは面倒見切れなかった。

 そこで弦巻の赤坂氏に株をゆずったのであったが、氏も遂にものに成し得ず、石綿光太郎氏にゆずった。

 当時鉄線に熱を入れていた氏は、本気で栽培する気もなかったようである。(といっても一応は試作して見たのであったが思うような成績が得られなかった)。温室の隅に並べて誰かうまく作れる人はないかと考えていた所であった。 折しも鏑木氏が見えたので、「君ならうまく作れるだろう」というわけで、小鉢二、三鉢貰って来たのである。あちらこちらと盥廻しにされ、まま子扱いにされていたピーターソンが鏑木氏の手にかかって初めて本来の価値を発揮し得たのであった。

 佐藤氏の種苗商としての仕事も、大東亜戦勃発以後、あまりかんばしくなかったが、農産種子を扱っていた事が幸いして、方々から野菜の種子や苗の注文が来た。三井物産などから大口の注文もあって、何とか戦時中の危機を切抜ける事が出来た。勿論徴用令も来たが、当時種類筋(※親類筋?)に当る者が軍需品の工場をやっていたので、そこの工員として名を連ねており一週間に三日位適当に作業し、あとは自分の商売を続けた。戦中戦後の五、六年間は正常な物の考え方では容易に生きて行けなかったのである。 終戦後、佐伯、大場、戸越農園などと相謀り日本蘭業組合を組織、洋蘭の発展と切花の増産を計った。その関連事業の一つとして洋蘭の市場設立を計画、佐藤氏をはじめ前記の諸氏と共に日夜奔走、漸く青山の一隅に場所を見付け、洋蘭の市場を開く事が出来た。

 佐藤氏はセリ台と集荷係りを兼ね、東京近在の栽培家は勿論、名古屋の角田氏まで足を伸ばした。こうした努力が報いられ、相当量の荷が集り取引きも順調ではあっ たが、人件費その他の費用が嵩み、容易に利純は上らなかったようである。これではいかんという事で、カーネーションやばらも扱うことにしたのである。

 作り屋さんとの接触は以前から深かかったので、予想外の集荷量となり、取引高もグングン伸びて来た。赤字続きであった市場経営にも一条の光が射して来たのであった。

 その頃、青山市場設立の計画が第一園芸から持ち上り、蘭業組合も参加を懇請された出資額は第一園芸六、蘭業四という割合、相手は三井系の資本、とても太刀打ち出来ないのでこの案を呑み、青山生花市場の経営に参加したわけである。

 開場当時は氏がセリ台をやっていたが、その他の仕事も忙しかったので、当時新倉花店に働いていた田渕氏を招き、佐藤氏は市場をやめて自分の本業に戻ることにしたのであった。

 その後の氏は、種苗の販売をしながら、自分の園芸場で園芸市を開いたり、切花販売もはじめたりして孤軍奮闘を続けた。併し、生活は決して楽ではなかった。お子さんも多かったし、奥さんは戦中戦後の過労がたたって、病に倒れかなり長い期間闘病生活を続けられたのであったが、幸い健康を快復され、氏の事業を援助、今日の安定した佐藤農園の基礎作りに貢献されたのであった。

 佐藤氏は商人には稀れの真面目人間であり、決して世渡りの上手な部類には属さなかった。誠実なるが故に常に貧乏につきまとわれていたとも云えよう。(失礼の段お許しを)、併し少しも暗さを感じさせないその人柄は、晩年になってその真価を発揮し、取引き関係の信用も厚くなり、あとで述べる貸鉢業の発展につながったものと思うのである。

 昭和三十五年頃から貸鉢業をはじめたが、それが順調に伸びて、現在は小さい乍らも堅実な営業を続け、従業員も二、三名おき、漸次多角経営に発展させようとする気力が見られる。長年の園芸家としての人生体験が実を結んだものとして、私達、親しい間柄のものは喜こびに堪えない。

 世田谷に縁の深い園芸商の中でも、佐藤、藤田、佐伯の三氏は、かつての若手園芸ブローカー三羽鳥であった。

 各々違った個性を持ち、人間の持ち味も異ってはいるが、何れも栽培家としての経験も豊富な点では一致している。三氏共既に還歴を過ぎており、過去の思い出は、なつかしく、楽しいものと思われるが、それらの過去を静かにふり返って悔いのない現在をもたれているという事は幸せだと云えるのではなかろうか。

住所  世田谷区用賀一の七五

電話 七〇〇‐五〇六七

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