大の園芸好きで知られた子爵、伊集院兼知氏による明治の園芸界の思い出 昭和10年
1935(昭和10)年2月号 第18巻2号
※参考 岡見義男氏に回想
https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_75.html
伊集院兼知子爵の明治の園芸回顧談
明治から今日まで
趣味園芸界の回顧
帝国愛蘭会会員 子爵
伊集院兼知
◇私が園芸に趣味を持った当座
我が国に於ける園芸の著しく発逹したのは大正になってからであるが、その始りは非常に古いものであって、私達の知らぬ事が多い。それで私が園芸に趣味を持ち、いろいろな草花を作り始めたのは日清戦争の当時であるから、明治ニ十七八年の頃である。既に四十余年前のことであるので、確なる事は云うことが出来ぬが、記憶にある二三の問題に就いて述べて見ることにしよう。勿論話は断片的になるが、然し当時の概略の園芸を知ることが出来るであろう。
明治ニ十七八年頃の園芸と云うと先ず思い出すのは新宿御料地(現在の新宿御苑)大隈邸、及び小石川植物園である。新宿御料地では花卉は云うまでもなく、種々な蔬菜類も栽培されていた様に覚えている。その当時は私は草花は美しいものだと思っていたし、またベゴニアとかペペロミア等の観葉植物にも多大な興味を持っていたのである。私が草花を作り始める前には猟の事でお務めをして居った関係で、良く新宿御料地の鴨場に行ったものである。それがいろいろした縁で故福羽子爵と知るようになり、いろいろ草花の話を聞いたが、福羽さんの謂われるには、「草花を作るのなら寧ろ始から蘭を作るのがよい。蘭は花卉では最高等なものであるから終局は蘭を作ることになるからである。即ち無駄をせぬ事になるので有る」と云われたが、然し当時は蘭を作るとしても容易に手に入れることが出来ないし、また余程熟練した者でなければ栽培し得るものではないと間いていたし、自分もそう考えていたので、一般の趣味園芸家と同じようにゼラニウムとかヒヤシンス等の球根物を作り始めたのである。
以上の様な機会からして私は園芸に手を染めたのであるが、その時分米国で園芸学校を卒業して帰朝された河瀬春太郎氏(注:父は県知事を歴任した実業家の河瀬秀治)が丁度の私の旧臣で大崎に妙華園と云う花壇を作られたので、時々此こを訪れては草花栽培や、その他蘭の事なぞに関していろいろ話を聞いて大いに得る所があった。また私が特に忘れられないことは、当時小石川植物園に勤務されていた内山(※富次郎)氏である。
※東京大学総合研究博物館のサイトから
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1996Koishikawa300/01/0103.html
※妙華園について
https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/ct/other000093100/131all.pdf
私は氏に教えを受けることに依ってどれ程得をしていたか分らない位である。氏は巣鴨の「長太郎」と云う植木屋で十二三歳の頃から修業され、後に実際の仕事をする人として小石川植物園に努めて居られたのである。とにかく氏は全く植木が好きであった。それで氏がよく述懐されたものであるが、今の人は植木をほんとうに育てようとしない、即ち時間が来れば仮令(たとえ)その日に行(や)らなくてはならない大切な仕事があってもサッサと帰宅して仕舞うので有るが、あれでは満足な植物の栽培は出来ないと思う。自分達の修業時代には例えいかなる事情があっても、全部の鉢に水をやり通さなければ帰る様なことをしなかった。即ち植木を主とし人間を従とする様な気持でやって居たのである。夫れでなければ決して会心な植木を作ることが出来ないものであると思う。また、園内を廻っていると或は縄切れとか、何か未だ使用の出来るものはその始末をして再び使用の出来る様に心掛だものだが、今の人は殆んど無関心である。――と云われたが、私は此の言葉は現在でも園芸に志す人に良く味わって戴き度いものだと思っている。
◇私の観た当時の温室
前にも述べたように福羽子爵から蘭を作ることを進められたので、勢い私の作るもの が蘭が多くなって来たし、私の観た温室も蘭栽培を主としたものが多い。当時素人の蘭栽培者としては高木与平氏が居た。氏は両国橋の近くの薬研堀で小さな温室でいろいろな蘭を作って居られた。私は氏に温室の話や蘭の栽培等に就いて種々伺ったものである。此の頃大隈侯邸も酒井伯邸も訪問したが、今から考えると蘭栽培が実に隔世の感がある。勿論当時は外国も蘭栽培はそれ程発達して居らず、大抵野生のものを採集しそれを培養していたに過ぎないのである。
それで私が温室を建築したのは明治三十ー年頃であると記憶している。その前は今から考えるとフレームの様なもので、到底話にならないものであるが、二間に三間の温室を建ててからはシプリペデューム・インシグネ、シプリペデューム・バーバータム、シプリベデューム・カローサム、シプリペデューム・ローレンシアナム、カトレア・ラビア夕、カトレア・メンデリー、カトレア・トリエシー、セロジネ、ヴァンダ等を栽培していた。これ等の蘭を集めることは非常に困難であって、誰もが苦心したが、実生品等は非常に高値で到底自分達には買うことが出来なかった時代である。酒井伯やその他から手に入れたが、その頃巣鴨の植木屋(名を記憶していない)で独逸の公使館に出入りしているものがあって、此の人が蘭を少し集めていたので屡々(しばしば)見に行ったことがあるし、また入谷の植惣と云う花屋が蘭を少し集めて居たのでよく見に行ったり、また分譲して貰ったりした。此の植惣へは畏れ多くも伏見宮様も訪れ遊され、蘭を御買上げになされたと承っている。その後横浜の廿八番のボーマーの店からもいろいろな蘭を買ったが、その内のデンドロビューム、フアメリは今も持て居る。当時ヴァンダ・サンデリアナが一株二十円位では安いと言われた時代であった。であるからその数も少なく希品であったが、或る日大隈邸に実に見事に咲いて居た株を見たことを覚えて居る。以上の様に私が園芸を始めた頃、東京に於ける温室園芸を行って居られたのは新宿御料地、伏見宮家、小石川植物園、酒井伯、大隈侯、高木氏、植惣、巣鴨の某植木屋等であるが、一方横浜に於ては、その当時は未だ植木会社は現在の様に蘭を取扱って居らず、廿八番のボーマーの店だけであった。然しここに忘れることの出来ないのは、明治二十年頃に建てられた江ノ島のコッキング氏の温室である。私が見たのは今から四十五六年前の事であるから、相当古い話である。詳細に就いては後に述べるとして、今なお記憶に新たなるものは池の中に植えられたヴクトリア・レジアがあったことや、庭に植えられたヘゴの六尺以上の幹で大きなワラビの様な葉を広げ、その下にはコリウスの美しい葉が小路に線を書いて植えられていた事やまた、温室内のエリデス、カトレア、シプリベデューム等である。然るに後年に私が温室を建築してから、コッキングの温室で栽培された植物を売ると云うことを聞いて、江ノ島まで出掛けてシプリベデューム、レバデイアナム、ヂゴベトラム、インターメジウムを買った事があった。
話は再び東京に戻るが、私が温室を建ていろいろと蘭科植物を栽培するようになってから後は、次第に園芸も一般に普及し、処々で温室を見るようになったが、現在新宿御苑に勤務して居られる岡見氏は自宅の直きそばの松方邸に居られ、時々私の温室を訪ねられたが、後に英国に行かれ、帰朝後新宿御苑に勤務されるようになったのである。
一方前に一寸述べたように、伏見宮は非常に蘭に御趣味を持たれ、大竹竹次郎氏が専任に之が栽培に当られ今日に至っているのである。私は最初酒井伯に連れられて御伺いしたところ殿下御自ら御案内下され、非常なる光栄に浴した。その後も時々御伺ひして種々拝観させて戴いて居るし、大竹氏からもいろいろお話しをお聞きして今日に到っているのである。その後、神木氏が蘭の栽培を始められたが、氏のことに就いては後に詳述することにする。
前述の様に私の園芸を始めた前後の頃の園芸界は未だ甚だ振わざるものであったが、然し既に多くの人々に依って開拓されつつあったことを知ることが出来るのである。私達園芸に趣味を持つものは、此等(これら)諸先輩に対して多大の感謝を払わなければならないと思う。それで、私の観た温室では新宿御苑の温室は現在のように立派ではなかったが、非常に良く整っていたことである。流石に御苑の温室であると思わせられた。立派な温室と云えばなんと云っても大隈邸の温室である。全部チーク材で造られ、他にこの様な温室が見られなかった。現在は河野氏が引継れ中野にその温室が残っているのである。そして大隈邸の温室では蘭は勿論のこと、その他の草花をも立派に作られていたのである。酒井伯の温室は大隈邸の温室のように装飾的なものではなかったが、当時としては非常に大きい温室であった(五十坪以上と記憶している)そして芭蕉室と云うのがあってそこは高さ三間位あり、なかなか見事であった。然しその後酒井伯は鉄骨のスーフェリアル形の七十坪位の広大な温室を作られた。夫れに就いては伯自身中々御得意であった。同時に僕等も先づ東洋第一のものであろうと思って居たが、夫れに就いて面白い話があとであった。その他の温室は大体大同小異であり、巣鴨の某植木屋の温室の如きは至って簡単なもので、良くもこんな温室で蘭が作れるものだと思う位であった。尚、前に云い落したが、関西では此の頃に住友氏が須磨で温室を建てられ、園芸趣味を満喫されていたことを覚えている。(つづく)