わが国におけるラン栽培の起源と沿革 新宿御苑、岡見義男氏による記述【重要資料】 昭和九年
『実際園芸』第17巻第9号 増刊号 1934(昭和9)年
※仮名遣い等を読みやすく書き換えています。また、文章の中に一部不適切な言葉が見られますが、当時の状況を知るための資料としてそのまま掲載しています。(※)はマツヤマ注。
日本に於ける 蘭栽培の起源と現況
新宿御苑 岡見義男
はしがき
石井主幹よりの依頼で、我が国に於ける蘭培養の沿革を記述する様にと云う事であったが、先輩を差置いて私の如きものが執筆すると云う事は甚だ僭越次第であり、また自分としても委しい事は余り多くを知らないのであるが、幸い両三年前から本邦に於ける蘭栽培の起原に就て調査して置いたならば、後日何かの参考となる事もあるのではないかと考え、折ある毎にその方面の資料を蒐集していたが、何分にも努力の足りない為め遅々として進捗せず、未だ発表するには尚早の感があり、また年代等に於てもなるべく正確なものとして置かないと却て後世に至って疑惑を生ずる事となる恐れがあるので、正確なものは後日充分調査の上発表する事とし、今回は大体の起原と現在までの経路に就て大略を記述する事にした。間違った点や自分の未だ聞知しない事共が相当多い事と思うので御気付の点は諸賢に於て何卒御教示を願い御訂正を給りたいと考えている。
在来の日本蘭及支那蘭に就ては可成古い歴史を持って居る様であるが、私はその方の参考資料は、勿論培養に就ても経験の薄い者である。之等種類の蘭に関しては先年笹山三次氏が蘭譛と云う一書を刊行され懇切に説明されて居るし、その他にも発行されて居るので御参考とされたい。此処へ述べるところの蘭は、之等を除いた熱帯または温帯地方に自生する原種及交配種を云うのであって、俗に洋蘭とも云れるが、何れも適当な名称でないので、適切な言葉がないものかと常に考えて居る次第である。熱帯蘭(洋蘭)の栽培起原は明治維新の変遷後の事であって、此の変革に依って一時に西洋文明が流入され、その結果蘭栽培も遅まきながら発逹されたものと思われる。
明治中葉の蘭栽培
横浜では明治十年以後既に外国人に依って温室が設られ、相当多数の蘭が培養されて居った様で、年代は確でないが、二十八番館に貿易商のボーマーと云う商館があって、熱帯地方或は欧洲から蘭や熱帯植物その他を輸入し、日本からも球根類やその他植物を輸出し、「アンガー(※ウンガーとも)」と云う番頭が居って、大いに腕を振ったものであると云われる。
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明治三十二年二月二十五日横浜ボーマー商会主より福羽氏宛の書簡(昭和九年七月廿四日福羽氏より拝借複写(森川氏))※この時代はウンガー氏の経営だと思われる(サインあり)。福羽のつづりが、「Houkouba」となっているものは複数見かけられる。森川肇氏は新宿御苑勤務の後、東京都立園芸高校で教えた。
その当時蘭を植えるには「シャクナゲ」の根がよいと云うて盛んに使用したものであると云う事である。なお同商会は明治三十四五年頃閉店して了ったと云われる。その他に英国人で「ジンスデル」と云う者があって、之も 貿易商で矢張蘭を相当栽培して居ったと云う事である。その後横浜在住の之れも英国人と聞いたが同じく貿易商で別荘と相州江の島の頂きの南に面した所に相当広い面積の温室を持って居た様で、先年「実際園芸」にも紹介されて居った様に記憶するが、今だにその跡が残って居て煉瓦造りの掘下式で先年西島楽峯氏の案内で福羽氏と共に見学したが、高燥の地で水に不便な為め非常に努力して、各温室内の棚下は雨水を貯える様に設備が施してあった。伝えらる所に依ると蘭室はファレノプシス、カトレヤ、バンダ、シプリペジュームの四室に分れて居ったと云う事である。その当時同所で作出されたシプリペジュームの見事な実生でCypripedium Houghtoniae(Haynaldianum × Rothschildianum)と云うのが、現在数ヶ所に保存されて居て、先年目白の相馬子爵家温室で拝見した事があり、その後松平子爵が愛蘭会に出品された事もあったが、之れはその当時の遺物である。コッキング氏は明治二十九年には既に破産して了ったと云う事である。
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コッキング氏温室の遺跡(江ノ島)
次は上野博物館にある温室であるが、之れは当時博物館天産部に居られた牧野先生に伺えば明瞭になる事と思うが、第一回か或は二回目の明治十四年かの内閣勧業博覧会の開催された時、簡易な温室が建設され、以後博物館の付属として引続がれ、その当時既に多少の蘭が培養されて居ったと云う事で、現在でも館内事務所側に如何にも旧式の小温室が残されて居るが、之れはその後移動されたものか改築または修繕を加えて来たものか不明であるが、今日でも多少の植物が保存されて居て、蘭としてはシプリペジユーム・インシグネがある。之れはその当時から引続き培養されて居ると云われ、その一部は小石川植物園に行き、一部は新宿御苑に明治二十五年に移動されて居ると云う事であるから、場合に依っては現在所々に培養されて居るインシグネも之等が元で普及されたものもあるのではないかと考えられる。
麹町区番長の福羽子爵邸では明治二十二年、先生が仏国留学から御帰朝直後、シンビジユーム、オンシジユーム、スタンホーピア等が仏国から輸入され、巾九尺長さ四間の温室が設られてその中に培養されて居たと云う事である。
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大隈侯邸の温室(高価なチーク材を用いた装飾温室、のちの千葉高騰園芸学校講師、林脩已氏の設計による)
早稲田の大隈侯(当時伯爵)邸では、明治二十年頃初めて小温室を建設された。それは外務大臣の時代で、外人の来訪する者や外遊して帰朝した邦人が、土産として珍しい熱帯植物を寄附されたものを徒に枯して了う事を如何にも心苦しく思って、外務省の外人や知人に話を聞いて建られたのが最初で、同二十四年にも約十坪の温室が設られた。之れは侯が二十二年條約改正の折に来島氏の為めに片脚を失われ、一命は取止めたがその当時から何か趣味を持ちたいと思はれて居る矢先へ、福羽子爵がしばしば病気見舞として蘭花にアラバムを添えて持参されたので、遂に蘭に多大の趣味を持たれる様になったのであると云う事である。同三十年には当時有名であった七十坪のチーク材を以て立派な装飾温室が建設され、その中にバンダ、テレス、レナンセラ、コクシネア、鶴蘭等が入って居ったと云う。之れは当時同邸園芸主任をして居られた林脩已氏が設計されたもので、侯の没後中野の河野氏に引続がれ、同邸に移転され現在丁重に保存されて居ると云う事である。
当時蘭の購入は思う様に行なかったが前述の横浜山手二十八番館のボーマー商会が蘭を栽培して居ったので、そこからバンダ、ファレノプシス等を購入され、その後福羽子爵の御世話で同時に欧洲や原産地から購入されたが、枯れて来るので可成苦心されたものの様である。同三十五年頃二ヶ年続けてフィリッピンに居る支那人の丹福綠と云う貿易商からデンドロビューム・ファレノプシスを取寄せ、土人の作った籠に固く詰めて三個来たが、あまり乾燥させる事を恐れて船長に依頼して途中二三回水を施したので返えって腐らせて了ったと云う失敗談もある。以後反対に乾燥せしめて送って来たのは完全であったと云う事で、之れは新宿御苑へも献納されたと云う事である。殊に大隈侯はデンドロビューム・ファレノプシスを非常に愛好された様である。実生も三十年頃から始められ、その後大正二、三年頃首相時代にも温室を増築され蘭は勿論、花卉、野菜等にも趣味を持れたが、残念な事には大正十一年薨去(こうきょ)され、後に至って温室も部分的に移転されて了った。以上は侯の談話や林、堀切両氏等から拝聞した事を綜合したものである。
新宿御苑での栽培
新宿御苑に於ては最初片屋根温室二棟であったが、明治二十六年に新温室が建設され、二十七年には全く完成して前記横浜の英国人ジンスデルから宮内省で多数の蘭を御買上になり、同時に蘭に関する書物八十冊も御買上になった。之れと同時に福羽子爵邸の蘭も献納され、また当時シンガポールのピノーと云う西洋人からも蘭を輸入し、同三十三年には御料局より多数の蘭が引継れ、その前後にもしばしば蘭の輸入が試みられたが、枯れて到着する事が多かったと云う事である。同三十七年には市川氏が米国セントルイス博覧会へ出張の折、カトレヤ外数種を持帰られ、続いて三十八年には英国のビーチ商会、サイフアー商会からも購入し、引続き白国ブラッセルのヴィクトールジュヤルメン、或は米国加州(カリフォルニア州)在住の堂本商会を通じて購入された事もあり、内地に於ても横浜植木株式会社、その他からも購入し、明治末年から大正に亙りフィリッピン群島のマニラ在住の宮崎新吉と云う人からも、ファレノプシス、デンドロビューム、レナンセラ等が購入され、大正三年には、先帝陛下御大礼用としてカトレヤ・ラビアター千株、レリア五百株と云う大量を英国から御買上になった事もある。
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明治末年の横浜植木会社蘭室の内部
横浜植木会社での蘭栽培
横浜の植木株式会社の創立も可成古いもので(※明治二十三年)、蘭の輸入や栽培に就ては相当貢献して居るのであるが、未だ其の方面の事を調査させて頂く機会を得なかったので、委しい事は後日に譲るが、最初は個人経営であったのが、今から四十四年前の明治二十四五年頃会社組織とされたものの様で、最初は現社長の令兄(※父親)鈴木宇兵衛(※卯兵衛)氏が社長で、外国通の徳田(※佐一郎)と云う人が輸出入の主任で語学の堪能な人であった事を記憶して居る。蘭を取扱う様になったのは明治三十年前後の事ではないかと思われる。現在在職中の水田岩次郎氏は当初からの人で、熱帯地方面へは再三旅行して蘭やその他植物を採集又は購入して居られるので、最も蘭通であり同社がその当時から今日までに各原産地や欧米等から輸入販売した蘭の数は夥しいものであろうと思われる。栽培法も上達して居って最近の蘭の出来栄は手に入ったものである。
伏見宮家に於ける栽培
畏(かしこ)い事であるが、伏見宮殿下に於せられても、蘭に関しては多大の御趣味を有せられ給い、最初明治三十一年頃高輪の御邸内に立派な温室を御建設遊ばされ、原産地や欧米各国より多数の蘭を御蒐集になり、大正十年頃には約百坪近くの温室を有せられ、十五坪の中央室には当時宮家ならでは拝見する事の出来ぬ程、立派な出来栄のファレノプシスの大株が白い淡路焼の鉢に植込れてあった。その左右に二十坪と十二坪、の二室にカトレヤ、レリア等の原種や交配種が無数に配列され、殊にカトレヤ・ボーリンギアナの大株が内径三尺余りの大框(おおわく)に広がって繁茂して居るなどは、内地は勿論欧州でも一寸見られぬものであった。(現在も御培養になって居る)廊下の両側にはアングレカム、バンダ、クロトン等が置かれ、殊にクロトンの大株が大鉢に植られて配列されてあったのは二度と拝見する事の出来ない実に見事なものであった。なお十二坪程の御休憩室が有り、外に実生室十二坪があった。実生は明治四十三年から初められ大正三年に初めてシプリベジュームが開花し、大正六年以後、年々多数の実生カトレヤ類が開花したと云われ、当時実生だけでも一万数千株を有せられたと云う事である。大震災後赤坂の御殿に御移転になり、温室も同時に御邸内に移され、今日に及んで居られる。現在は約二百坪程の広大な温室を有せられるが、当初より現在に至るまで、最も熱心なる大竹竹次郎氏が御世話申上て居るが、その出来栄は誠に見事なものであり、何時拝見しても常に温室内は清掃され然も整頓されて居るのは実に羨しい程である。
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伊集院邸温室内の蘭花
伊集院子爵家に於ける栽培
蘭愛好者中の元老とも称すべき伊集院子爵が蘭の培養に着手されたのは、碓か明治三十一、二年頃と伺って居る。蘭に趣味を持れた動機と云うのは、子爵が宮内省の主猟官時代の事で、時々新宿御苑の鴨場へ行かれ、その都度故福羽子爵の案内で温室を拝観し、種々説明を聞れたのが、起りで、蘭に趣味を持たれる様になり、芝区三田の子爵邸に温室を建設され、一室は約十坪程の北向の掘下温室で、オドントグロサム、ミルトニヤ、殊に可憐なマスデバリアの多数が培養されて居って、開花期には実に見事なものであった。他に東南向の小温室が二棟あって、シプリベジユーム、カトレヤ、リカステ等が培養されて居った。明治四十一、二年御都合に依り、一時蘭の栽培を断念されて、大部分、小石川植物園に寄附せられたが、元来が非常な愛蘭家であり、大の熱心家であられたから、一度味われた趣味は忘れられず、両三年にして再び蒐集され、温室もその後再三増築または改築され、約四、五十坪の温室に蘭の各種を培養され、珍奇な種類から優良交配新種に至るまで集められた。現在でもシプリペジュームの優良種の之程集まって居る所は、他に無いと思う。カトレア類も多数優良種を有して居られるし、実生も古くから行われ、見事なものを多数作出されて居られる。
酒井邸の温室外観
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酒井忠興氏の肖像
酒井伯爵家に於ける蘭栽培
小石川(※文京区白山)に於ける伯爵酒井忠興邸の園芸事業と温室は明治時代の園芸界に於ける先覚者として有名なもので、四十一年頃が全盛期であった様に思われる。伯爵家の園芸事情に就ては明治四十四年三月十六日発行の秋元と云う方が「酒井伯園芸談」と称する書を発行して居られるので、大体之れに依る事とする。伯は性来御健康体であられなかった為め、十三歳の頃(明治廿五年頃)より植物を愛翫され、明治三十年前後から蘭に趣味を持たれ、それより非常に健康が恢復されたと云う事である。最初温室を建設されたのは明治三十二年で間口二間奥行十二間二十二坪のもので、大体、新宿御苑、大隈侯、小石川植物園等の温室を参考とされ、欧米のものを参照し、また伯自身の工夫をも加味されて設計したものであると云われる。なお明治三十六年には前の温室に接続して屋根の高い椰子室を増設し、両室共に蘭熱帯植物等を培養され、間もなくまた三十七、八年戦勝記念として、三十八年十月に間口二間奥行六間十二坪の温室を新設され、之れにはカーキ色のぺンキを塗り、内部は英国ロンドンより取寄られた月柱樹の花輪模様ある陶器を以て、棚全部を飾られたと云う事で、甚だ壮麗なものであった。なお四十年には品川なる岩崎男爵邸の蔬菜温室を一見せられ、伯自身の考案に依って一室を新設され、蔬菜類を培養されたと云う事である。之等総ての温室建設費として当時数万円を要せられたと云われて居る。当時酒井家の温室と蘭は大隈家に次ぐ有名なもので、石飛雷吉と云う方が担任して居られた。筆者もその当時から園芸研究に従事したので、同邸の温室を是非拝見したい希望から、同好の友人と共に伺って拝観を乞うたところ、石飛氏が面接されたが、温室拝観は天候の理由とかで邃に願が入れられなかった。然し止を得ないので、その後他から御紹介を得て拝見する事が出来た。伯が亡せられて後も、園芸は当分継続して居られた様であるが、大正の中頃にどこへか払下げになったと云う事である。酒井家の植木鉢には特に蕪か大根の内に酒井と云うマークの附せられた事を記憶する。今以て植木屋などで見受ける事がある。
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岩崎邸の温室
岩崎男爵家での栽培
品川に於ける岩崎男爵家の園芸事業は、明治三十八年頃より初まり温室は三十九年から四十二年に亘って建設されたもので、最初のものは百五十坪で当時外国人の建築家として最も有名で、各諸官省や貴族の邸宅等を多く設計建築し彼れの建築したものには大正十二年の大震災に殆んど損傷がなかったと云われる「コンデル」(※ジョサイア・コンドル)と云う人の設計したものであり、当初は蘭および葡萄の栽培が主で、後には五百坪の広大なものとなり、蘭室にはカトレヤ、バンダ、レナンセラ、サックコラビユーム、シプリペジユーム等が培養されて居ったが、その当時としては種類と云い、鉢数と云い、相当立派な蒐集であった。蔬菜室には胡瓜、メロン等が作られ、果樹室には各種の熱帯植物が栽培されて居た。当時の主任は林脩已氏で、外に北村氏、堀切氏等が居られ、園芸部は長足の進歩で発展して居ったが、残念な事には、数年にして男爵が亡せられたので、間もなく中止せられて了った。
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松方邸温室 明治四十一年頃
その他各華族家に於ける栽培
芝区三田に於ける松方侯爵邸では明治四十一年之れも前述のコンデルの設計に依って約二十坪の温室が建設され蘭も相当蒐集されたが、夫人の亡せられると間もなく中止せられて了った。当時小規模ながら温室で蘭を培養された者には年代等目下調査中であるが、品川の御殿山に原六郎氏、高輪に伊藤氏、深川に高木氏、駒場の農科大学、芝区に長与氏、川村氏、営業者としては下谷区入谷の花十、駒込のバラ新、品川の妙華園等で明治の終りから大正に至り相馬子爵、林伯爵、島津公爵、神本(※神木だと思う)氏、河浦(※亮一か?)氏、柴田氏、京極子爵、戸田子爵、岩崎男爵、シボイ氏、盧氏、大澤氏等で中には現在亡せられまたは中止された方もある。営業者には戸越農園があり、多数の蘭を栽培し欧州からも相当新種を輪入して居る。最近郡部の用賀に新式且つ雄大な温室が新築され蘭の実生も行うと云う事である。殊に相馬子爵邸は大正初年麹町より目白に移転され、最近まで約百五十坪の広大な温室内に蘭の各種を蒐集され、殊にカトレヤ類およびシプリペジユーム、ミルトニヤ等は最も優秀な新種が集められ、数年来実生も試みられ、非常な好成績を納められて居り、最近中野に約百八十余坪の新温室を新築され、子爵の考案に依って最新式の設計が施されて居り、将来の発展は目覚ましいものと想像される。
林(※博太郎)伯爵も幡ケ谷の自邸に約四、五十坪の温室を有され、蘭の各種と各種の植物を蒐集され、植物園と称しても過言ではなかろうと思われる程、立派な蒐集である。
島津(※忠重)公爵邸の温室も相当古いもので最初は明治三十年頃より普通の植物に趣味を有せられ小規模の温室に草花など培養されて居ったが、四十年頃シプリペジューム・インシグネの一鉢を購入され遂に今日の如き蘭の愛好者となられたのであると伺って居る。大正二、三年頃鎌倉の別邸に温室を建設され、初めは普通の温室植物が主で、蘭は僅かであったがバンダ・テレスや、ファレノプシスの出来栄は見事なものであった。その後段々と草花が排斥せられ、殆んど温室内は蘭科となったが、大正十二年の大震災に依って温室は殆んど全潰したのでその後東京に於ける大崎の本邸に約百坪の温室を新設され、蘭の各種を蒐集された。殊にカトレヤが多く実生も非常な好成績で優良な品種や珍奇な蘭の交配種も次々と作出発表されて居る。青山高樹町に於ける男爵岩崎俊弥氏邸の蘭栽培も有名なもので、大正初年から着手され、蘭の各種が蒐集されて居ったが、殊に有名なのは蘭各種の実生で、ファレノプシスの実生の如きは日本に於ける最初のもので、各種の交配種が作出され、英国で発表、和名で命名されて居り、外国へも輸出された。
帝国愛蘭会の創設及び経過
大正六年(※大正五年説あり)に相馬子爵、伊集院子爵、河浦氏、柴田(※常吉、三越写真部)氏、大竹(※竹次郎、伏見宮邸)氏等が発起人となって愛蘭会を組織し、大隈侯を会長に推し柴田氏を幹事とし、三越に花部が出来た計りで、主任の松長氏が書記で、事務所は花部に置いた。大隈会長が亡せられてから、林伯が会長となられた。書記の松長氏も不幸にして大正十一年に他界されて、後任に現加藤光治氏を煩した次第である。その後幹事で人気があり愛蘭会になくてならなかった柴田氏が故人となられたので、大澤(※幸雄?)氏が後任者として今日に及んで居る。一昨年林伯が満鉄総裁となられたので島津公爵が会長となられた。会員は東西約五十名程で、毎月二回会合と小品評会を催し、年二回の大品評会を行い賞を附するので、最初は随分劣等のものも出品されたが、現在では殆んど優秀品のみで、非常な進展振りである。実生も従来行われて居って会にも新種が作出出品されて居るが、両三年前に京都帝大理学部の土屋格氏が蘭各種に就て実生無菌培養の実験を試みられ、之れを「実際園芸」誌上、或は個人的に発表指導されたので各所で行われる様になり非常に好成績を挙げて居る。今後十年を経過したならば蘭栽培も目醒しい発展振を示す事と想像される。なお石井勇義氏を主幹とする「実際園芸」が発刊されて以来、蘭に関しても多数の記事や写真等を発表紹介されて居るので、之れも相当貢献して居らるものである。最近に於ては畏い事であるが李王殿下に於せられても、蘭の培養に多大な御趣味を有せられ、御邸内温室には原産地は勿論、欧州等から多種の原種ならびに交配種を御蒐集になり育生の如きも非常に好い成績を御挙げになって居られる。その他個人として蘭の栽培に従事されるものが非常に増加し近年初められたものには大崎の福原氏、横浜の山田氏、大磯の池田氏、麻布の小川氏、目黒の松平子爵等があり、松平子邸の蘭は数年前河浦氏のものを全部譲り受けられたもので、現在約五十余坪程の温室内は殆んど蘭科植物の各種で、殊にメキシコから中南米の珍奇な蘭が見受られるのも特微があって面白い。
神奈川県大磯町の池田氏は数年前より蘭を蒐集せられたものであるが、その大部分は欧州から輸入されたもので、カトレヤの類は殊に優良種を有して居られ、実生の如きは非常に好成績で、之等の全部が成育したならば優秀な新種が非常に沢山現れる事と思われる。
関西方面に於ける蘭栽培の現況
次に関西方面であるが、名古屋、京都、大阪、神戸等を通じて相当愛蘭家が多く、培養の起原も可成古い様であるが、未だ充分調査されて居ないので概略を記す事とする。名古屋には現在同好者の会が出来て居て中京愛蘭会と称して居ると云う事で会員約二十名で時々会合して蘭を談(かた)り、また品評会も催して居られると云う事である。営利的方面にもデンドロビュームやシンビジユームを栽培して居る者が多数ある様に聞て居る。
六輪と云う所に角田と云う方があって約五六十坪程の温室にカトレヤを主とし、その他各種を培養して居られる。棚を全部金網で張られた事や棚下から通路まで水溜とした室を設けられたのも面白く拝見した。その他堀田氏、野々垣氏等も蘭を培養して居られる様であり、その他にも相当の熱心家が多数居られる様である。
京都方面では府下大山崎の加賀氏の温室が代表的のもので、約百余坪の温室内にカトレヤを主として各種が培養されて居り、数量に於ても非常なものでシンビジューム、カトレヤ等の出来事などは一寸他では見られぬ程、立派なもので、関西の一人者と云われる後藤(※兼吉)氏が担当して居られる。
京都帝大理学部の温室にも二十余坪の温室内に蘭が培養されて居り、下鴨に有る大礼記念植物園の温室にも多少の蘭が培養されて居る。今回京大農学部の浦川(※卯之助)教授が兼任技師となられたので、今後大いに発展する事と確信する。
※京都園芸倶楽部HP
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