戦前の日本の花卉園芸界を振り返る 業界の重鎮による座談会 その1  新潟のチューリップ栽培の知られざる歴史が語られている




 参考

昭和11年の座談会『実際園芸』

https://karuchibe.jp/read/15454/

https://karuchibe.jp/read/15469/


※今回新潟のチューリップ球根栽培の始まりに関して、知らなかったことが書かれていておどろいた。湯浅氏がここまで深く関わっていたことに注目したい。ヨーロッパの大戦による好景気も終わった当時(「1920年恐慌」などが起きていた)、新潟では小作争議が盛んで新しい仕事、品目の導入が求められていたということも興味深い。

※日本を代表する桜井元(さくらい・げん)氏がこどものころ、現在の新宿区新小川町、大曲にあった横浜植木東京売店のショーウインドウをしょっちゅう眺めて珍しい草花を観察していたということはまったく知らなかった。幼い頃は九段下あたりに住んでいたと書かれている。父親が理事だった専修大学も近い。そこから大塚方面の学校(東京高等師範附属小・中がある)に通っていたのか、大曲の店は通学の途中にあったと記されている。桜井氏は明治27(1894)年生まれ。父親は漢学者、専修大学理事。第一高等学校(現東大)時代に結核を患い、鎌倉で静養、園芸家への道を歩む。著書『やぶれがさ草木抄』誠文堂新光社(『紫の花伝書』細川呉港2012)

※東京農産商会の蒲田農場は汽車から畑が見えたと話している。

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_12.html

●この座談会の2は↓

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_48.html

●この座談会の3は↓

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/99.html



『農耕と園芸』1954(昭和29年1月号)から

花卉園芸界五十年の発展を語る 1


座談会の出席者


福羽発三(新宿御苑保存協会理事)※ふくば・のぶぞう

湯浅四郎(前農産商会社長)

桜井元(園芸文化協会理事)

※「やぶれがさ草木抄」の奥付のルビは「さくらい・げん」となっている。

加藤光治(園芸文化協会理事、第一園芸取締役)

座談会は昭和28年10月17日に行なわれた。



花卉園芸界五十年の発展を語る 1


小松崎 

「花卉園芸五十年の発展」について、各方面からいろいろお話いただきますと、非常に問題が大きいだけに、長くなりますので、今日は「思い出話あれこれ」といったお気持でお話をお願いたします。さらに先日、私ども農耕と園芸主幹であった石井先生が亡くなられましたが、大正以来、ずいぶんこの方面のお仕事をしておられましたので、この際、先生の追憶、追悼も兼ねて、いろいろお話合いいただけれぱ、まことにあるりがたいと考えます。なお園芸界に業績をのこされた多くの人々も、この際大いに話題に乗せていただき過去をかえりみ、現在をみわたし、将来を考えるよすがといたしたいと存じます。では福羽先生に司会をお願いいたしまして…。


揺籃時代―新宿御苑の園芸―


福羽

花卉園芸五十年といえば、明治の末からですが、その頃の花卉園芸は、日本の農業から見れば、振出しでまだ揺籃時代とも思います。ことに園芸の発達には亡くなられた菊池博士も言っておられたが、どこの国でも宮廷園芸が、その国の園芸の発達にたいてい貢献しています。ベルサイユを見ても、ポッダムを見ても、キューガーデンにしても、みな昔の宮廷園芸が寄与しています。日本でも明治十二年に新宿御苑が宮内省の園芸所となってから、やはり花卉園芸も取上げられて来たように思う。明治前の徳川時代の日本の特殊園芸、これは花卉も相当ありますが、これは今日の問題外で、いわゆる西洋草花導入が主題と思います。   それで新宿御苑に関することは私もあすこに関係しておりましたし、親父がやった仕事ですから、少しは知っておりますので、まずその点をお話してみましよう。

 温室園芸としてはラン料の植物が導入されたのが、第一に挙げられると思うのです。次が熱帯植物、観賞関係のものなど。

 そこで、ランは、新宿御苑が何というても一番早かったでしょう。新宿御苑は明治二十五年に十二坪の温室ができていますが、その中には私の親父が麹町の自分の温室で作っていたのを献上したものと、横浜在住のジンスデル氏から三百余種を購入したものが入ったようです。一番初めに観父が扱ったランはシンビジューム、それからシプリペジュームのように聞いております。


花の団体の生立ち

(一)愛蘭会―ランの発展に貫献した人々


福羽

それからランでは、明治の終りに愛蘭会という趣味の団体ができました。加藤さんは大へん長い間その方のお世話なさつておいでだから、一つそのことを…

加藤

愛蘭会に私が関係したのは大正九年で、既に立派な会ができておりました。初代の会長は大隈(重信)侯爵で、会員は三十名、春秋の二回は大きな品評会をやって一般に公開しました。小さい品評会は毎月二回やっていたが、実にみなよく出席しまして、お互にランについて語り合う。この当時は大体貴族とか富豪の道楽園芸でして、お互いに金にあかして、イギリスから親を入れ、自分でいろいろ新種の交配もやるという熱心さでした。これが結局現在経済的に貴重品として、ランの花が切花界で主要な位置を占める根柢をなしていると思うのです。

 この中心は大隈さんでした。大隅さんがランに趣味を持たれたのは、福羽さんのお父さんの感化が大きかったと聞いております。たしか大隈さんが来鳥さんに狙撃された時、福羽さんのお父さんがランをお見舞に持って行かれたそうです。その時に初めてランを見た。ランというものは非常にいいものだ、これをうんと大仕掛にやって、外国の使臣なんか来たら、日本もこの通り文明国だということを見せるのによいじやないかという気持になられたそうです。

湯浅

大隈さんのチークの温室は何年ごろですか。

加藤

三十年ごろでしょう。

福羽

チークは早稲田ですが、その前は飯田町におられた。その時にもあったのじゃないですか。チークにできたのは八角形のような温室です。

加藤

一部の間でしたが、このように非常な熱でランが栽培され、その集まりは、いつもなごやかにでした。これは結局その幹事役の柴田常吉さんのおかげで、ランの会が実に長く続いた。この人は赤坂の写真屋さんで、ランは趣味でしたが、実に円満洒脱でユーモアに富み、ランが非常にお好きであった。伏見宮だろうが、われわれだろうが、全然違いなしにつき合われた方で、どなたにも好かれた。この人は昭和四年に亡くなられた。

その時分ランの品評会は、明治大正、昭和とかけて大阪でも年一回大きな会が開かれた。ラン界で実際に交配によって新しい種類を作られラン界に貢献された方を挙げて見ますと、大隈さんは別として、相馬孟胤――なくなりました。戸田廣保、岩崎俊彌、盧貞吉、島津忠重、林博太郎、伊集院兼知、鳥居忠一、伏見宮、李王さん、関西では加賀正太郎、ジョネスという外人などです。

昭和になり、愛蘭会のほかに蘭友会ができ、ますますランが普及発達して行った。蘭友会は小野耕一さんが中心で、愛蘭会の貴族的な点に対して、これはごく庶民的な会で、この二つの会でランはますます発展して参ったのです。

福羽

日本でランを作り出した一番古いところでは、うちの親父、横浜にいた英人ジンスデルあたりですか。

加藤

もう一人江之島にコッキングという外人がいましたね。これもランの発達に対して相当貢献したと思います。それに続いて業者の方で横浜植木がある。

福羽

初代が鈴木卯吉(※卯兵衛)氏、二代目が鈴木浜吉氏…。

加藤

常に新しい物を輸入したり、それから商売の関係で南洋とか南米とかから、しょっちゅう新しい物をとった。

加藤

それから大磯の池田さん、戸越農園など、ランに対して営利的には貢献しております。

福羽

輸入という面でね。


(二)花卉同好会の活躍 ―― 一般花卉の普及


福羽

愛蘭会と併立していた花卉同好会、つまり蘭以外のものを主として扱った花卉同好会について、もう少し加藤さんから…。

加藤

花卉同好会は、たしか昭和五年ぐらいにできた。ランの集まりの時にほかの花の話も出る、それでほかの花も一緒に持ち寄ったらよいじゃないか。またほかの花だったならば大勢同好者があるだろうから、そういう方面に広く呼びかけて、一般の花の会を持とうというのがきっかけで、花卉同好会ができました。嘗て日本園芸会や何かいわゆる同好者の集まりもずいぶん持れたが、その当座は営利業者の園芸組合で大日本園芸組合という集まりはあったが、趣味者の一般の花の団体はなかったのです。それで大体愛蘭会のメンバーの人たちを中心に一般の人たちが参加して、その第一回の品評会が三越でたしか昭和六、七年ごろ開かれたことがあった。これは戦後にあういう内容の充実した花の品評会を見られないほどの立派なもよおしでした。その会に相馬さんが出したアマリリスのコレクション、これは現在オランダ辺りから入れているアマリリスと比べて、ちっとも劣らない。むしろ花形がよいし、輪も大きい。それを相馬さんは全部温床で作られた。それから亡くなられた広瀬巨海さjんの出されたサラセニア、これも原種をハイブリッド(交配)して、色々な新種を出した。それがちょうど五月のサラセニアの花盛りの時で、きれいなよい形と花のいろいろな色彩の織りまざったのが、未だに目に残っております。あと植木会社がアザレヤのアルバート・エリザベスを初めて輸入し、大きな株を出して、センセーションを起したことがありました。

福羽

アルバート・エリザベスは、日本で輸入したアザレヤの中で一番最後でしよう。とても花がよくつくし、丈夫でね。

加藤

その後も同好会はやはり年に二度ぐらい、大体三越、それから華族会館で品評会をし、またあらゆる面から総合的に花の紹介をしました。ランから普通の草花、山草に至るまで、木もの、草もの、一年生あり、宿根草ありというように、実に変化に富んだものでした。

    ‘

園芸文化協会の成立


その愛蘭会と花卉同好会が、昭和の戦争近くなった時分に、今の園芸文化協会に変って行った。蘭と一般の花とを別にして置くこともないし、それから花に関する会で、今まで日陰みたいに、一人前の社団法人の会として認められているものがないから、それを社団法人に持って行くべく、皆さんの骨折りで園芸文化協会というものができました。これは戦争もたけなわになり、かなり花の品種が失われるので、この点ではこちらの主幹であった石井勇義氏がまっ先に心配して、品種の保存を何とか考えなければいけない。それには普通の単なる団体ではなかなか保存できぬから、法人糾織にするのがよいということで、政府に陳情して何か保護を講じてもらおうと、石井氏などはこの文化協会をつくることに、邦常に力を入れました。園芸文化協会ができたのは昭和十九年です。もう戦争の一番ひどい時に、林さんなんかの骨折りで、時の文部大臣は阿部さんでしたが、その時分こんな平和的なことで法人なんか認めない時代だったが、特に認めてもらって創立されたのです。福羽さん、杉浦さん、大澤さんなどずいぶん骨を折られた。


日本園芸組合

   

福羽

つぎに日本園芸組合を伺いましょう。

湯浅

私が入ったのは大正七年その前にできた。その時四十三人しかなかった。   

桜井

大正八年の組合報を今日持って来るつもりでいたのですが、うっかりして机の上に置き忘れちやった。

湯浅

赤松さんの前に河瀬さんがいた。それから野口さんが私より先に組合に入った。それからぼくが組合長になって、その後が伴田さん、園芸組合が一番盛んな時には、干五百人。

桜井

今までの園芸の組合で一番発展した。

湯浅

事務長の木村重孝先生がやったか…。

加藤

全国行脚していた時ですね。園芸組合の功労者は、なんと言っても――生きている方は別として――伴田二郎、大澤幸雄、石原助熊さん。

※伴田二郎は伴田養鶏場主 伴田六之助の次男、長男が六郎、三男が三郎、四男が四郎、五男が五郎(新劇俳優の友田恭助)

※石原助熊氏は興津の園芸試験場主任技師、フランスで園芸を学び、帰朝後は静岡県興津の園芸試験場にあって日本の果樹園芸界に貢献されたレジェンド(『実際園芸』11-4)。興津時代から西園寺公望氏と交流が有り、坐漁荘の土地選定に関わり、後輩の熊谷八十三を執事に推すなど重要なはたらきをしていた。

https://karuchibe.jp/read/15454/

※木村重孝氏は昭和15年末まで『園芸往来』という雑誌を出していたようだが、統制により、『実際園芸』誌に統合される形で休刊となった。(「27-2」)


湯浅

ぼくが園芸組合に関係してから、石原さん…。

福羽

石原さんに会いたいと思えば、大てい園芸組合に行けばいいという話がありました。

加藤

石原さんは、出は花じゃないけれども、花の方でも忘れることのできない人です。果物はむろんです。

福羽

果物は恩田(※鉄彌)さんと石原さんは何とっても第一人者であった。恩田さんとは行き方が全然違って、同じ試験場におられたことも非常に珍しい行き方だと思う。

湯浅

私は石原さんの弟子です。

加藤

あの人は愛蘭会の行き方とちよっと道は違うけれども、いくら偉い人でも平気だし、いくら目下でもばかにされない。

福羽

非常に穏かな、できていた人です。

加藤

あなたの所の若い小僧さんを相手にして、オイお茶飲みに行こうというような調子だった。

福羽

日本園芸組合というのは、現在解散しちやったのですか。

湯浅

金だけぽくが頂かつっています。


花物の輸入と品種の育成


福羽

これでランと花卉同好会、園芸文化協会、園芸組合などの生立ちが大体わかりました。今度は一般の花物の明治末期から大正にかけての導入と言いますか、輸入したり、あるいは実生品種を作られた方々について、桜井さん…。

桜井

あまりぽくは詳しくないのですが、子供の時から好きだったものですから、花屋があると気をつけて見たのです。そのころ私の記憶では、ちょうど明治末から大正の初めごろに、植木会社が小石川の大曲(※牛込区・新小川町)に、道路に沿って大きい温室を建てて、本社で作ったのを運んでは並べて売っていた、ちようど学校へ通う途中の道ですから、よく立ち寄って見た。なかなか珍しい草があるので、おもしろく思った。子供だったから名前をあまり覚えておりませんが、今の記憶ではアザレヤの類とかランチリュームなど飾ってあったのを覚えております。

それからアメリカから帰った人で、九段の爼橋の松浦、あの方が電車道に温室を建てて商売を始めた。うちから半町ほどしか離れていないので、そこへも見に行った。大分そこで珍品を求めました。そのころ本郷の赤門のちよっとわきに汢村常助さんがやはり温室をお建てになりましてね。これは園丁さんもなかなかハイカラな服装で、しゃれた店でございました。そこらが町に進出した西洋草花の主なものじやないかと思います。

加藤

本郷だけでなく、日本橋の交又点、神楽坂、銀座にも出しましたし、巣鴨駅のそぱにもあつた。小田原が本拠ですが、何で運びましたかね。

桜井

馬です。ロバなんか利用したのです。 

加藤

小田原から運んですぐ出すのはまずいので、木郷に相当広い面積の温室があって、そこヘーペん運んで仕上げて方々へ配達した。

小松崎

何年ごろですか。 

桜井

大正三年ごろ?…。

福羽

大正二、三年か明治四十五年ごろじゃないのですか。

桜井

これは売店の方ですが、まず頭に浮ぶのは、采花園(土倉龍次郎)のカーネーション、これは一度拝見したので覚えております。それから妙華園がありました。これは輸入もした。 

福羽

スイレンなんかの元祖でしょう。ゼラニウム、バイオレットも。

桜井

ヴァイオレッ卜の方は赤松さんですか、少し後になりますが…。 

福羽

あれはまだ私が学習院にいるころだから、明治の終りでしょう。

桜井

赤松さんも古いころですね。

加藤

明治四十二、三年ごろでしょう。それから土倉さんのカーネーションなんか、やはり四十三、四年でしょう。

桜井

土倉さんは作るばかりでなく、品種改良の方でも、われわれも羨望して眺めたことがある。

福羽

ローズ・ビンク・エンチヤントレスというのがある。

加藤

土倉さんの実生を世に出したのは、四十五年から大正元年でしょう。

桜井

通信販売をなさった箕面園さんは、いつごろですか。大分珍品をいただいた覚えがある。

湯浅

あれは古い。

桜井

輸入した方では、なかなか貢献しておると思います。フランスで売り出したアラムなんかも箕面園さんの輸入だという話ですよ。

加藤

今でもいろいろな物を売っていますね。

福羽

あの方は山草類もやられた。

湯浅

趣味で…。

加藤

あの時分の園芸屋さんは、今の桜井さん式の方が多かった。

桜井

そのかわりおもしろかったね。テッセンもあのころです。

加藤

あの時分、大久保の西島さんもいろいろな物を入れておりました。私がまだ中学生の時分におこづかいを十五銭か二十銭もらって、あすこに行った。ストレプト・カーパス七銭、オキザリスは五、六種類持っておりましたが、五種類ぐらいもらって、残りはまけてもらって買って来た覚えがあります。

桜井

横浜植木は何かしら、新しいものを輸入していましたね。


球根の輸入と栽培の普及


福羽

それでは今度球根輸入や栽培の方を湯浅さんに…

桜井

お宅から昔いだだいた物で今残っている大分珍しいのがあります。ステルンベルキヤなんかもその一つです。

加藤

目につくものは片っ端から入れられた。

湯浅

何しろ地所が四町歩あったのでね…。

湯浅

私の園芸界入りは大正です。学校をやめたのが大正七年、一年間夜学で神田の法律の学校へ行ったのです。昼のうち戸田(戸田康保氏)さんで園芸をやった。

戸田さんの所はアルバイトですね。(笑声)

湯浅

学校は自分の商売に関係したところだけ聞いた。その当時球根を扱っていたのが横浜植木、東京では大日本種苗…。大日本種苗会社には、茨城県の牛久に二十三町歩もの農場をもっていました。その後私は戸田さん(戸田康保氏)と相談して、通信販売を始めようと、あの屋敷の中の桑を全部倒して――桑を作って養蚕をやってたわけです――そこへ球根を植えた。その球根に横浜のロバートフルトン、それから阪田(※坂田)商会に輸入をたのんで…。

(※ロバート・フルトン商会は、ボーマー商会を引き継いだ商社 https://karuchibe.jp/read/11483/


湯浅

その頃の球根の輸入は各社とも規模が非常に小さかったです。向うから一シリングで買ったものは、大がい一円、五十銭のものが倍になるが、買う方も、そう買えない。注文を受けて、仕上げ後に一割の口銭です。私のチューリップ輸入はそれでも二年目には三〇万になった。三年目には六〇万とれるから、一割の口銭があればオランダに行って来られると思った。それが震災でだめ…。


新潟球根のはじまり


湯浅

震災の年にチューリップの球根を輸入したのが四三万球、それが横浜がやられたので、神戸に上げた。まごまごしているうちに、二四万球が新潟へ行った。それが新潟球根のもとになった。もっとも新潟の球根のほんとうのもとは、横浜の輸入会社が向うから輸入した、それを富岡方面の促成屋にまかした。それが一ぺんフレーム促成をかけて切下ができるでしょう(※切下=切花収穫後に残った球根)。それを新潟の小田喜平太氏というのに出した。それが立派に咲いたから人気が出た。当時新潟の状況は、小作争議で皆へこたれてしまったので、百姓の方向を転換させるような仕事を見つけよう、それで亡くなった小山君(※小山重・湯浅と同じ千葉県立高等園芸学校卒の技師)がそれの先棒をかついだ。小田は商売、小山は技術者、ところが二人は地元の人間ではまずい。そこでぼくに出て来いというので、三人で部落を講演して歩く。一反歩一、五〇〇、それで地主が六人できた。二四万球を六人でやった。その後進んで新潟農園が生れた時に入ったのが四五万球…。

※新潟のチューリップ栽培の開始時期は、大正8年(1919年)に小田喜平太により初めて栽培されたとされる。これが横浜富岡の切下球根(※切花収穫後に残った球根)からのスタートであった事がわかる。その後、輸入会社に頼んで湯浅が輸入した球根が関東震災のために横浜に上がらす(1923年のこと)、まごまごしているうちに半数の24万球が神戸から新潟に渡った。これを小田、小山、湯浅の三人で産地に働きかけて六名でこの24万球からの産地化が始まった。


小山重氏が写っている写真 『実際園芸』第3巻1号 1927(昭和2)年7月号


『農耕と園芸』1950年5月号 座談会記事に亡くなる数年前の小山重氏の姿がある。



富山は三年おくれて


湯浅

富山はちょうど三年ばかり遅れた。これも私は最初三年ばかり関係した。水田の裏作は最初の三年間ほど、十分いい物ができなかった。どうしてもカビが生える。それをだんだん改良して、新潟の球を匹敵する球ができるようになった。新潟の方は商人が大勢ですから統一がとれなかったが、富山の方は組合組織で統一がとれ製品も揃っている。


農産商会のはじめ  ※農産商会の蒲田農場の花は京浜間を走る列車から見えた


福羽

農産商会をお初めになったのは震災前で有楽町でしたか。

湯浅

そうです。あれは、大正八年です。それから関西の球根は大和農園が一番早い。これは私がやはり三年ばかり手伝ってやった。あすこに行って寝泊まりした。上から見下せる場所にある自分の屋敷に作った。それが非常に花が揃ってきれいだったので、評判になり、大いに力を入れるようになった。東京あたりは丘陵で始めるから一向引立たない。

福羽

お宅では蒲田でカンナなんか盛んにやっておられた時代があったですね。カンナとダリア、汽車から見てもきれいでしたね

湯浅 

百万足らずあすこに植えた。京浜間を通る電車がこっちにまがったという評判さえあった。皆首を出して見るものだから…。ところがモザイックが出て危いので逃げちゃった。

加藤

あの時分モザイックに相当関心を持たれましたか。(※ウイルスによる深刻な病気、伝染する)

湯浅

やはりそうです。しかし斑入りになってよいと思う人がいたからね。ハッ…。

福羽

今でもまだモザイックができると、喜んでいる人があるね。


(次号へ続く)


※園芸雑誌の統合について「27-1」編集後記




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