レジェンドたちの座談会2 できたメロンを上野精養軒に持ち込むと、帰りに不二家へ寄って青切符で帰ることができた

 

『農耕と園芸』1954(昭和29)年2月号

花卉園芸界五十年の発展を語る 2


福羽発三(新宿御苑保存協会理事)※ふくば・のぶぞう

湯浅四郎(前農産商会社長)

桜井元(園芸文化協会理事)

※「やぶれがさ草木抄」の奥付のルビは「さくらい・げん」となっている。

加藤光治(園芸文化協会理事、第一園芸取締役)

座談会は昭和28年10月17日に行なわれた。

*本誌編集部からは、小松崎英男、北川政夫両氏が参加している。

●この座談会の1は↓

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_97.html

●この座談会の3は↓

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/99.html


珍奇な動植物の広瀬さん


福羽

それから珍奇植物というと、語弊がありますが、広瀬巨海さんについて…

桜井

初めのうちはあまりお伺しなかったのですが、ヘビを食う動物とか、まん丸いカメの子、カメレオンとか、トカゲの類植物も珍奇なものを集めておられました。私が拝見したのは世田谷のお宅が一番初めです。

湯浅

目白は…。

福羽

松崎(直枝)君に聞いた話では、目白のお宅でシプリベジュームを作られた。そうしたら親父さんが何か言ったというので、穴を掘って皆埋めちゃったという。それからもう一つ、だれか未知の同好者が広瀬さんの家を訪ね、広瀬さんにお目にかかりたいと言ったら、今日は留守だとの返事。あなたが広瀬さんじゃないかと言ったら、ぼくが留守だと言うのだから、留守に間違いないと言われたほど変わっているということを聞いた。

加藤

私もその話を聞いたあとでビクビクして広瀬さんを訪ねたが、簡単に見せてくれてホッとしましたよ。

湯浅

気が向かなければ見せない。あるとき私は中身を捨てちゃった温室を売物にするというので買いに行った。ところが幅が狭くて使い道にならないのでやめた。庭は何か自然園で、ヘビがニョロ、ニョロしていた。

桜井

庭どころか、ヘビが広瀬さんの身体にまつわりついていた。

湯浅

家の中には床も畳もない。むしろのようなものを敷いた土間です。

加藤

目白のお宅の印象は廃園でした。何か奇妙な物が動いていた。細くてあざやかな緑の長いヘビがいましたがね。

桜井

世界で一番きれいなヘビだとかいう話でしたが…

小松崎

放し飼いですか。

加藤

やはり動物園式に何かできておりました。

北川(本社園芸辞典編集部)

そのころトカゲがずいぶんいて、入って行くとぞろぞろ出で来たというということですね。

加藤

その後に爬虫類に整理され、三井の下田の先に海洋研究所が作られて、そこへ皆譲渡され、それから植物専門になられたようです。

福羽

それからですか、横浜に行かれたのは…横浜に温室が大分あった。あの当時のネリネは私も拝見した。

加藤

一棟半ぐらい。サラセニヤもありましたね。

桜井

六間の長さの中が、全部ネリネで、いいのは特別の部屋の中に入れてあった。非常に印象に残っているのは、二尺五寸ぐらいの白い花のもの、これは広瀬さんもご自慢でした。戦争の時に皆いけておしまいになったということです。

福羽

あれをいけちやったのですか。

桜井

御苑でもお買いになったでしょう。

福羽

松崎君から整理するという話をきいたので、譲ってもらった。それが少し御苑に残っている。

桜井

お譲りになったのは、御苑と杉山さん、それから林伯爵、横浜の鈴木君。しかし一番よいのは出さなかった。

福羽

おしいことでしたね。


花の古い雑誌


福羽

雑誌や出版物ではどんなものがあがりますか。

加藤

アマリリスをずいぶんやられた横浜ガーデンの大澤氏がガーデンという雑誌を出した。大正一二年から昭和四年頃までですね。

※横浜ガーデンは大澤幸次郎、幸雄父子が経営。幸次郎は伴田四郎の叔父(父親の弟)

桜井

あのころとしてはちょっと珍しい雑誌でしたね。

加藤

あの時分原色写真を何枚か入れてね。

湯浅

柴田さんのおかげです。

北川

大日本園芸会雑誌はいつごろですか。

加藤

明治三〇年頃でしよう。

福羽

大日本園芸会は古い。

加藤

会長は松平康荘さん。

湯浅

それに並んで「園芸の友」(※園芸之友)というのがあった。

※日本園芸研究会、明治三八(一九〇五)年~


福羽

大日本園芸会は、新宿御苑なんかでも品評会、同好者の寄合いをやったことがある。三会堂を主に使った。

湯浅

大体果樹蔬菜が多かった。いくらか花もあったが。

福羽

花卉というものに対しては、「園芸の友」の方が余計やったでしょう。

加藤

ただ日本園芸会雑誌も最初のころは、花も相当あつかっていたようてすね。あの時分の雑誌の古いのを見ますと、山草や何かも入れてある。途中からほとんど果樹一点ばりになっちゃった。

それから全然性格が変わった。

北川

なかなかいい記事が載っていましたね。

福羽

今から考えると明治、大正時代には、出版物にも、立派なものがずいぶんあった。

加藤

戦後はさっぱりでない。

小松崎

戦争で多くの園芸作物が栽培禁止の厄にあい、何もかもふり出しに戻ってしまっていたのが、最近急ピィチで復興しているように、出版の面もボツボツよいものがでますよ。


石井勇義氏と実際園芸


福羽

園芸誌ではやはり実際園芸が、でてから、ほんとうの園芸誌らしいものになったでしょうね。農業世界もあるが。

桜井

あれは農家向きですから…。花を主体にしたものはやっぱり「実際園芸」が第一でしょう。大正十五年の創刊でしたね。

北川

ちょうどあのころ「農業及園芸」もできた。

福羽

家庭園芸には「実際園芸」は非常によい指導の役をした。

桜井

ことに松崎さんが渡来園芸植物をやる。石井君も非常にあの頃熱かった。あの時出た総合園芸大系、あれは大したものです。

福羽

あの頃ずいぶんいろいろ出しましたね。

北川

私がお手伝いを始めてから原色園芸植物図譜の一巻がで始めた。それと同時に牧野先生の野外植物図譜も始められた。

湯浅

石井さんの一番初めに出したのは…。

北川

「西洋草花の知識」それから「温室園芸の知識」その後にダリアの作り方、アザレヤの作り方というようなものが、叢書式に出たわけです。

福羽

石井さんのやられた仕事では、やはり「実際園芸」が一番大きいだろうな。戦後にこれが復刊された農耕と園芸も引つづき主 幹をされている。それに園芸大辞典の編纂がある。あれは世界的な大事業です。完成をみずしてなくなられたのは、本当に惜しいことです。

小松崎

先生は園芸辞典の完成に全力を打ちこんでおられた。ことにここ二、三年は一切の生活と精力を辞典の編纂にかたむけて、夜の二時三時までもがんばり続けていました。おなくなりになった日もおそくまで仕事をなさっていたが、からだの調子が悪いから少し早くやすむといわれたが、それが夜半の一時だったというはりきり方でした。おなくなりになる寸前までもペンをはなさなかったのです。

加藤

今一息というところまできて、どれほど残念でしたろう。

福羽

四巻まで出されたのですね。五巻の進行状況は?

小松崎

七月一杯にまとまる予定でしたが、この春から原色園芸植物図譜の新版を出すことになりその方にも力を分けられ、予定通りは進行していませんでした。

桜井

図譜の方の熱のいれかたも非常なものでしたね。私のところにも資料蒐集に、この春以来たびたびみえました。ところで辞典の方はあとどうなりますか。

小松崎

社としては、どんな犠牲をはらっても、これを完成し、先生のお霊前にささげたいと考えています。幸、浅見、吉野、原田、井上、恩田、吉村先生方の絶大な御厚意によって編集委員会が生れさらに辞典編集部を石井先生のお宅から本社にうつし、実際園芸や辞典の第一巻の頃にお手伝願った 北川さん、矢富さんと、今まで先生のお宅で辞典の編さんに当たられておいでの野坂さん末松さんの四人でこれに当っていただいております。

福羽

いつごろ完成しますか。

北川

五巻は二十九年の秋、六巻は索引が中心になりますが、年度末には仕上げたいと思いいす。

福羽

これが完成すれば園芸界に大いにプラスします。どうか故人の意志を充分にあらわして下さい。それからこの春以来、新版の原色園芸植物図譜をはじめられたというのはどうなりますか。

小松崎

全六巻の予定ですが第一巻は大部分まとまりましたが、全然新しく作ることになっていますので、あと五巻はこれからです。そこで、先生の意志をついで、これも園芸植物図譜編集委員会ができました。穗坂八郎、加藤光治、桜井元、吉村幸三郎、西部由太郎の五人の方です。世界的なすばらしいものに仕上げたいと目下鋭意企画を練っております。第一巻はこの春に出す予定です。


花道楽


福羽

桜井さんはどこで花をお始めになったのですか。

桜井

ぼくは鎌倉を焼かれ、それから震災でやられて葉山の先の秋谷に移ったのです。

福羽

振出しは何ですか。

桜井

そのころ花が好きでやっていたのですが、鎌倉の扇州園の温室が売物に出たが、それが手ごろだからいただきまして、半道楽でやりました。メロンができると手提に入れて築地の精養軒に持って行く。桜井六郎というコック長が味を見ていいとか悪いとか言う。手提に入れただけで、帰りに不二家に寄り、汽車も青切符(※二等車乗車券)で帰れましたよ。今はメロンなんかなかなかどうして…。

※のちに上野精養軒料理長となった桜井六郎氏は、築地の精養軒で名人と呼ばれた鈴木敏雄の弟子

http://seiyouryouri.yokohama/legend/suzumoto.html


北川

桜井さんがシクラメンの採種を始められたのは、東京に来られてからですか。 

桜井

鎌倉にいるころから下心がありました。親父から外国人相手の商売をしろと言われましたが身体が悪かった(※結核療養経験あり)から、そんなに大げさなことをやるつもりはなかった。当時(※横浜)植木会社が輸入種子を売っていて、これを皆さんがお買いになるので、この種子だけこっちで取ったら(※国産化したら)少しはお国のためになろうと思って、やり出した。震災後秋谷に移ってから、ドイツの園芸商会から大分球根の種子をとりましてね。それが元です。福羽

そのころツェーレンドルフという系統をやっていませんか。ツェーレンドルフというのはベルリン郊外です。そこに行って見たらシクラメンをやっていました。私が行ったのは六月ですが、名前がやはりツェーレンドルフ。

加藤

ビンネウスというのが有名ですね。

桜井

ビンネウスからとったときの話ですが、いくら待っても来ないので、横浜に行ったり、丸通に行ったりして調べても、つかない、という。一月ぐらいたってまた行ったら、丸通で怒っちやって、そんなら倉庫を調べろというので倉庫に入ってみると奥の方に、七、八分厚さの板の洗濯機ぐらいの箱があった。重たくて動かないので、ボイラーが入っているのかと思ってたというのです。それを運んで、開けたところが、葉っぱが一尺以上もからまっている。その年はうまく行かなかったが、大事に栽培したので、見事な花が咲きました。それを品評会に出したり、種子をさばいたりした。植木会社なんかにも売っていただいた。

https://ainomono.blogspot.com/2022/02/blog-post_23.html   


福羽

辻村さんではシクラメンが多かったのでしょう。

桜井

全部ぼくの種子を使ってくれた。


花種子の輸出


桜井

そのころ少し種子の輸出をしました。フランスのピンコラやドイツはダイヒルというのがあって、そこでぼくの名前を入れて売ってくれました。あと大きい注文が来たのはイタリーのベルプ、これはカルセオラリヤの種子をサンプルに送ったら、注文が多くてどうにもしようがない。ほかにとって下さる人はないし、自分の所でとれるだけ、百グラムか二百グラムだけ送って、だめになってしまった。


阪田(※坂田)のペチュニア


湯浅

阪田(※坂田)のペチュニアは…。

福羽

あれはそう古くない昭和の初めじやないかな、私がドイツのベナーリーに行ったら、この棚は全部阪田(坂田)だ。その時にはベナーリーのエーゼントを阪田が持っていたが、これが阪田の分だ、これはおれの分だと言う。色彩的にはまるで違っていた。阪田君のはいい色だが、外国人向きじゃない。単色が少ない。複色になっている。ところがベナリーでやったのは、紫が濃くて、紫の条が入って、色彩的に違っている。なるほど輸出するにはこういうことが必要だなと思った。日本人の観念できめないで、相手が西洋人なら、西洋人の好きなものにしないといかんといつことがはっきりわかった。

桜井

私が秋谷にいるころ、大分盛んでしたね。

湯浅

鴻巣にいた禹君がやった。


後に続くもの? ユリの再輸出か


加藤

坂田のペチュニアはとにかくエポックでしたね。しかしあれは大体先が見えちゃった。あと何かもう一つ…。

湯浅

一番問題はユリだな。

福羽

ユリの方はバイラスで…。それにクロフトリリーが出て来た。これから日本でやれるものと言えば、多くは再輸出ということになるのじやありませんか。

加藤

それですね。今年あたりグラジオラスがずいぶん引合いが来ている。何百万球か行っておる。うちだけでは手に負えないで阪田、大和、タキイ、方々に協力願っているのです。

湯浅

生産が全然だめだ。

加藤

全然なっていない。去年ずいぶんクレームがついた。

福羽

実際今年私の所に来たグラジオを見ても、モザイックがひどいね。

桜井

そういう意味では農林省から来たほかの球根でもモザイックが出てよくない…。

加藤

品種も雑駁です。

桜井

それもあります。

福羽

ダリアなんかも全然物が違っている。赤いのに白いのが咲いたりする。


国家的な花の研究機関がほしい


湯浅

グラジオなんかは大規模でやらなければならぬ。農林省あたりで多少しくじってったら補償するくらいにしてほしいね。

小松崎

大本山である農林省の農業技術研究所園芸部でさえ、花の方をやっていない現状ですからね…。

福羽

それは昔からだね。

小松崎

大学や各地の試験場でも花の研究はごく少ない。

加藤

特産課で加藤さんと野尻さんが奮闘しているけれどもはたから問題にされない。

桜井

政府が目をつけてくれるようにならなければ世界的には発展せんね。

福羽

こん後この方面とくにチューリップやグラジオラス、ユリなどの十分な研究を推し進めていけば日本での輸出産業としても採算のとれる事業になるのですが…。国家としても大いに考えていただきたい点ですね。加藤

生産者もいけないのです。今のところよいものを作るより、高く売ることばかり考えている。


世界に誇れる花は


小松崎

日本の花で世界に誇れるものには、どんなものがありますか。

福羽

今のところでは花ショウブぐらいかな。

加藤

ジャーマンの方がどんどん新しい物を出している。

桜井

ジャーマンはすばらしく改良されて来ました。

福羽

日本でも現在で満足しておったら、逆輸入ものだと思うのです。

小松崎

本家であるツバキはどうですか。アメリカでは大分改良されているようですが…。

福羽

花の大きさでは全然問題じゃない。どんどん逆輸入しなければならなくなるでしょう。向こうは気候的にたしかに恵まれているところがある。フロリダなんか生長量から見れば、日本よりずっとよいと思う。

小松崎

キクはどうですか。

福羽

これは問題だ。

加藤

日本の品評会用のキクだけならともかく…

福羽

日本人のキクの鑑賞の仕方は、外国人の見方と全然違うと思うのです。だから菊花協会あたりでも、商品としてのキクは、やはり外国の趣味を取入れて行かなければだめだ。秋のキク花展の審査のような行き方ではいけない。何しろ大きければ向うの人にはいいらしいから…。ところが日本のは花様が非常にむずかしいでしょう。管物は玉がついていないといけなrとか。巻が悪いとか、厚物にしても走りがある。走りなんか外人は全然問題にしない。二十五年か六年に、シヤトルのキクの大会に日本からキクを送った。そのとき、商工会議所のサービスで送る直前に、GHQ関係のえらい人を招待した。その時にこちらでも、一応順位を考えて見た。松下の泉という白い花(管物)が第一位になったのです。ところがGHQのおえら方はそういう花には一つも関心を持たない。この中でどれが一番よいかと言うと、大部分が黒駒などの赤い系統をさすのです。内藤愛次郎さんが順位をきめてくれたけれども、非常に不愉快な思いをなされました。自分の見たのが向うの人には全然わからぬ。それはしかし無理なのです。鑑賞の仕方が違うのです。向こうの花を見るとパーマネントをかけたようなのが多いでしょう。ダラッとしている。あんなのは日本では栽培価値なしということになる。キクを輸出するということは、見込はちょっと今のところないと思うのです。

桜井

日本の輪台を置くようなキクはだめです。丈夫で手間がかからないのを好むのですね。


花の栽培技術の進歩 今後に浮び上るものは


福羽

花は戦後非常に普及し、キクなどの栽培技術もえらく進んだ。シェードや電照がきくから、一年中キクの花が見られる世の中になっちゃった。カーネーションはどうでしょう。戦前のレベルに行きましたか。

桜井

栽培は進んでいますね。

福羽

品種にはいいのが入っている。

湯浅

普及したが、生産は大したことじゃない。

福羽

ビニールの実現で、今後は生産がうんとふえるでしょう。

加藤

ビニールを使った伊豆のカーネーションが盛んに東京に来ます。露地に毛の生えたやり方でできるのですから。

福羽

だから普及はどんどんする。生産費も下がる。

加藤

ですから東京近郊の温室業者には、脅威ですね。

桜井

今後、近郊にも発展するでしょう。

福羽

蔬菜の促成地が、どんどん花卉に変りつつあるようですね。蔬菜は輸送がきくので、遠距離の高知、宮崎というような気候に恵まれた所に押され、どうしても花に移らなければならないという傾向があるようですね。

加藤

花にかわらなくても、花をある程度まぜて行く。

福羽

そうでないと結局そろばんがとれない。

加藤

中小都市、たとえば仙台の郊外あたりでも今までキュウリなどの蔬菜だけを温室で作っていたのが、皆花をまぜていますね。キクとかカーネーションとか…

福羽

次にどうです、今後浮び上って来るものは?

加藤

花で特に出て来るというのはないでしょう。やはりストック、バラ、キク、スウイートピーなんか…。

福羽

あとは栽培技術の活用ということになるかな…。


伸びない鉢物


福羽

鉢物の動きはどうですか

加藤

戦前と比べると、驚くべきほど落ちていますね。

福羽

どういうわけかね。

桜井

住宅の問題でしょう。

加藤

生活様式も変った。それに戦前のように鉢物に力を入れても採算がとれないから生産がないのです。

福羽

運賃も高い。

加藤

それもあります。ことに戦後は輸送が非常に不便でした。それからもう一つ、よい鉢物を作るには、相当年期を入れなければできない。ですから新規にいきなり鉢物に飛び込める人は全然ありませんし、なお、鉢物と切花を比べて見ると、切花の方がよいということになるのです。

福羽

鉢物はよい値に売れなければ手が出ないということになるのですね。グロキシニヤなんかずいぶん古い植物ですが、どうも伸びない。

加藤

グロキシニヤは、一応温室が夏に空くので、生産量は相当あります。しかし質が悪い。戦前のようなグロキシニヤの鉢物なんかありません。

桜井

今そういう作り屋さんが少いのじやないのですか。

福羽

手をかけても合わないか。

湯浅

大体売れないからですよ。やはり住宅の関係です、場所とか…。今キクの懸崖なんか置く所がない。

北川

カラジウムもないのじゃないですか。

福羽

これは戦争で減ったのが大きいのじゃないですか。

加藤

カラジウムは全然なかった。去年初めて入って多少商品となった。

北川

小笠原のものだから…。

福羽

あれは、一昨年あたりですね。植木会社あたりから出たのは

北川

カラジウムは八丈ではだめですか。

湯浅

成長はおぼつかないようですね。

加藤

小笠原ならよいのです。私の所でも去年八丈へ種を出したが、貯蔵の仕方が悪いので、皆腐らしてしまっています。むずかしいようです。

桜井

一番貯蔵がむずかしいものですね。

北川

フリ-ジヤは八丈で皆間に合うのですか。加藤

大体間に合ってます。


(以下四月号へ) 座談会3 ↓

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