戦後に活躍した女性フラワーデザイナー 村田ユリ氏といとうみさほ氏のプロフィール

村田ユリ(1912-1997)  画像は『世界の花・その花のふるさと』から

1912年、新潟市にて豪農の一人娘として生まれる(※新潟の三大財閥の一つ鍵冨三作財閥、自身の著作に、家紋は片喰=カタバミと書いている通り)。

1926年上京、

1931年、聖心女子学院を卒業(美智子上皇后と同じ学校であったため、のちに皇居で花をいけたりフラワーアレンジメントを教えた。北青山の店舗を訪ねてこられることもあったという)。

1935年、建築家、村田政真(まさちか1906-1987)氏と結婚、2児の母となる。

1937年より、パリ、ベルリン、ロンドンに滞在。花を求め各国を旅行するようになる。

1950年、西町インターナショナル・スクール(港区元麻布)を設立後、園芸の実地研究のため再び渡欧。

現在、東洋園芸株式会社を経営のかたわら、多忙な毎日を送っている。


『世界の花』その花のふるさと 1970(昭和45)年 講談社 飯田深雪と共著


※村田ユリ氏に関するこのブログで過去にあげたもの

https://ainomono.blogspot.com/2022/03/60.html

https://ainomono.blogspot.com/2022/03/blog-post_22.html

https://ainomono.blogspot.com/2022/03/195710.html



『日本花き園芸産業史・20世紀』2019のプロフィール


Fデザインで皇后陛下とも交流


村田ユリ(むらた・ゆり)


大正元年~平成9年(1912~1997) 新潟県出身。聖心女学院を卒業。昭和10年建築家村田政真と結婚、子育ての傍らアメリカでフラワーデザインを修得後、国内でフラワーデザインの普及発展に尽力。

一方、東洋園芸(株)を設立、観葉植物であったアイビー類を蒐集、修景、グランドカバー.壁面緑化など多用性植物として普及させた. 

1992年度園芸文化賞受賞。著書「世界の花・その花のふるさと」(飯田深雪と共著、1970、海竜社)「花の声」(画文集、1981、同社)「おばあさんの野菜と仲よくなる本」(1991、同社).その他、

昭和12年(1937)花を求めヨーロッパへ渡り、パリ、ベルリン、ロンドンに滞在、14年(1939)満州新京にも滞在、15年(1940)帰国.24年(1949)都内麻布において松方種女史とともに西町インターナショナルスクー儿を設立、28年(1953)村田フロリストを設立。数寄屋橋のショッピングセンタ一内にフラワーデザインを実践的に取り入れたムラタフロリストを開業.

一方、昭和34年(1959)東洋園芸(株)設立。ヘデラ、カナリエンシス、同バリエガタなどヘデラ類を積極的に普及と安定生産に努力.アイビーの存在価値の創造に貢献した. また、同年、小泉信三氏の熱心なご推挙を受け.東宮御所植物花き装飾のご相談役を拝命.美智子妃殿下の植物花き装飾等非常勤として宮殿内の正月、慶事の花、あるいは、マーガレット王女、エリザベス女王夫妻を始め各国皇室貴顕のご参内の折の花き装飾をご奉仕.美智子妃殿下(現状皇后)の絶大な信頼を得ていた. 

昭和61年(1986)東洋園芸㈱の社長引退後は.東洋園芸㈱浅間農場(長野県御代田町)に住し、アイビー同様ジャーマンアイリスなど、自ら従事し、晴れた日は耕し、雨の日は植物画を描き.著作する日を送った.この山荘には、美智子皇后も度々私的に訪れた由. 

本稿を担当させていただいた小生は、ユリ先生とは東洋園芸入社以前からの知人であった同社専務躪猪股正雄氏の紹介により、長くいろいろ幅広い園芸の文化的面を多く学ばさせていただくことができた。(名古屋園芸㈱取締役隠居・小笠原左衛門尉亮軒)




いとうみさほ (1932~?)

『原色 フラワーデザイン』昭和42(1967)年 社会思想社 から



本名 渡辺みさほ

1932年東京に生まれる。

山脇短期大学卒業後、

アメリカ、女流画家ヘレン・ダナム女史、

イギリス、フローラルアート研究家リンダ・テレル夫人に師事。

フラワーデザイン、色彩学を習得。

現在、いとうフラワーデザインスクール主宰。

地現住所 東京都新宿区(四谷)三栄町25

※四谷三丁目の方面、東京堂のそば。

※東京リボンは四谷駅ちかく、四谷1-21にあった。


あとがき


プロフェッショナルなものであるフラワーデザインがはじめて日本に入ってきたのは、巻頭にも書いたように、明治中期、その後大正、昭和初期にも学んだ人たちはあったけれども、現在のように一般に普及するまでには至らなかったのです。私がこの仕事を始めたのは七年ほど前、そのころは各大使館のレセプション、パーティー、一部の教会、結婚式場などの装飾を、私を含めてたった四人のメンバーで引き受けていたに過ぎなかったのですが、この三~四年来急速に普及し、誰から聞いてみえるのか、私のちっぼけな仕事場へ習いに来る方たちが毎年というより、毎月どんどんふえ、私は急いで教場を拡げていかねばなりませんでした。そして、今までの仕事は私がそれを教えこんだ人たちにまかせ、私自身は好むと好まざるにかかわらず、範囲の広いフラワーデザインを順序よく整理し、誰にもわかりやすく、また正しく理解させるために指導者として立つ羽目に追いこまれてしまいました。でも、今の私はそれを大へんうれしいことだと思っています。くらしのデザインでもあるフラワーデザインが、このように普及し、大ぜいの人々に喜んで迎えられるのは、くらしを豊かにしようとするみんなの楽しい努力の表われなのですから。

 それにしても、ごく平凡な娘としてまた今は一介の主婦にすぎない私が、この仕事にたずさわり、指導者という責任ある立場の中でこの本をまとめることが出来たのは、つねに陰にあって暖かく見守り、あるときははげましのお言葉をいただき、心のより所となって下さっている川端先生御夫姿のお陰、そして、仕事の直接の理解者である夫があってのことです。 また、日本におけるフラワーデザインの風潮をいち早くキャッチし、実際に役に立つ範囲の広いフラワーデザインを日本の皆さんに紹介するため、この本の発刊にふみ切って下さった社会思想社星野和央氏と、忙がしい私を補佐し、フラワーデザインへの情熱をこめて編集の労をとって下さった田中千鶴子さんへ心から御礼を申し上げたい。  一九六七年二月         

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