ディーン夫人のデモンストレーションの写真が新たに見つかった 1957年10月
『園芸手帖』1957(昭和32)年10月号
講習会場におけるディーン女史
ディーン夫人に向かって右にいる人が村田ユリ氏。目鼻立ちがすっきりした人である。
それにしてもディーン夫人は大きい。壇の上に乗っているのか。
第一園芸株式会社の機関誌『園芸手帖』にディーン女史の歴史的なデモンストレーションのようすが写真付きで紹介されていた。記事は「花卉装飾随想」、書いたのは永島四郎氏である。*1957年10月号
ディーン女史のデモンストレーションは、JFTDが主催し、青山市場で行われた。10月19日、20日、21日の三夜というスケジュールだったという。初日には 90名以上集まり熱気あふれる会となった。
永島四郎氏は昭和10年、銀座7丁目、高級園芸市場のすぐそばにある電通ビルの一階に、「婦人公論花の店」を開いた。当時は、「洋服を着た花屋」と呼ばれていたというのだから、隔世の感がある、と記している。
※全館新装オープンしたデパートとは、1956年12月の東急文化会館ではないか?あるいは、1957年創業の有楽町そごう(そごう東京店)
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装飾随想 永島四郎
デザイン料
日本生花商通信配達協会主催で、アメリカのデザインスクール講師、オーテンス・ディーン女史の花卉装飾講習会が、十月十九日、二十日、二十一日の三夜、青山生花市場で開かれた。
この講習会は九月十八日の日本生花商通信配達協会の総会出席のため九州、大阪、京都、神戸、広島、名古屋、仙台、北海道その他各地から、会員が東京に参集するので
これら協会員のために(F・T・D)会長後藤花店鈴木氏の斡旋による)ちょうど日本活花研究に来朝中のディーン女史を煩わせたもので、最近のアメリカの花卉デザインを学ぼうという目的で催され、当夜はF・T・D会員のほか、青山生花市場青友会会員、F・D・Cの会員等約九十名が出席するという盛況であった。私も主催者の一人としてこの講習に出席したが、かくのごとき集りが、多くの花卉関係者がこのように熱意を以て迎えられようとは! まったく感慨無量であった。時代は変ったものだ。私が銀座に花の店を持った頃、「洋服を着た花屋」と云う言葉のあったことを思い出す。昭和九年頃の話である。
ディーン女史は、貧弱な材料でさぞ骨が折れたことと思うが、親切にいろいろと最新の技術を公開され、有益であった。ただ時間や場所がないため、花束、バスケット、コサージ等の制作にとどまり、室内装飾その他花卉装飾の一般理論、女史の芸術観等を聞くことのできなかったのは残念であった。アメリカでは結婚式の場合、花に千弗を費すということや、結婚に関する諸式万端花屋が心得ていて、式当日は花屋主人が礼装して出張し面倒を見る。そしてこれらの謝礼が二十五弗以上であることなどを聞かされて、会集は大いに驚いた。諸事合理的なアメリカでは相談料や技術料ははっきりしている。
現在の日本では、花屋の場合、作品の技術料と云うものを考えないのが普通であるから、このような話を聞いて驚くのは無理もない。私は最近、東京某デパートの全館完成祝賀の装飾を引き受けた。これは主に壁面と階段の装飾で装飾期間は十五日間、主色はサーモンピンクの濃淡にクリームの三色のリボンに黄とオレンジ系の菊の花をあしらい、緑にはポトス・オーレアとフェニックスロベリニーを用いた。かなり大仕掛けの装飾で、使用リボンの長さ合計千八百六十尺、特に染めさせて用いた。私はこの仕事に思いがけなくデザイン料の支払いを受けた。これはまったく画期的なことで内輪話をすれば、請求書にはデザイン料を書かなかったのであるが、デパート側から請求してくれという親切な理解ある言葉があったのである。建築家は設計料を、工芸家はデザイン料を請求している以上、フラワーデコレーターがデザイン料を請求するのは至極当然のことであるが、いままでの日本ではそのようなことはいっさいなかったのであって、私はこのデパート主脳部の新しい理解と好意に深く感謝した。
このことは日本の今後の花卉装飾界のために特筆すべきことであると思う。この装飾については、後日、稿を新にすることにしたい。(昭和32年10月)
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