戦後日本のフラワーデザインを方向づけた「アメリカンスタイル」の文化的背景にある合理性について
昭和30年代にアメリカで花の装飾を学ぶというのはどのような状況だったのか、とてもリアルに書かれたテキストを紹介する。ここでは、アメリカ人の気質や文化的な実態がこまかいエピソードを交えて描かれていて非常に興味深い。
この記事では、「N夫人」となっているが、書かれている情報をみると、どうしても「村田ユリ」氏のようにしか思えない。「N夫人」ではなく「M夫人」ではないか。村田ユリ氏の夫は建築家の村田政真(まさちか)氏(東京オリンピックで駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場を設計)であるし、花店(村田フロリスト、のち園芸会社)を経営していた。
シカゴには、ウィリアム・キスラー氏のアメリカン・フローラル・アート・スクールがある。1937年に創立されたアメリカで最も古いフラワーデザインスクールだという。集中講義のカリキュラムを考案し、数多くの卒業生を輩出した。キスラー氏は日本で小原流のいけばなを学んでいる。(のちに、日本でのデモの際に村田さんが通訳をした)
新潟の三大財閥と呼ばれる鍵富家(ほかは白勢家、齋藤家)に生まれ、宮内省内匠寮の技師だった村田氏と結婚後、ヨーロッパ・アメリカで暮らしていた時期がある(戦前)。戦後はアメリカで花卉装飾を学んでいるし、髪はロマンスグレイであったし、外国産のクルマを乗り回していた。同じ学校を卒業された後輩にあたる現上皇后美智子様とはたいへんに親しくされていた。
夫人が蘭友会の会合で話をすると聞いて、「熟川の小野さん始め、岡見、後藤の両ヴェテランも」万難を廃して聴講された、ということも注目だ。村田ユリさんは、岡見義男氏に師事し、植物を学んだ人だ。
東洋園芸株式会社(永島四郎氏や石井勇義氏がいた会社とは別)
http://toyoengei.weebly.com/origin.html
マミ川崎先生の書かれたもの(ベンツ氏の指導方法)や、ビル・ヒクソン先生の恵泉女学園大学でのデモンストレーションで聞いた話など、まさに、アメリカ人の合理性や生産性を重視する文化があることは重要な視点だと思われる。
FTDのシステムで、カタログ通りの商品を全米で流通させるためには、アメリカンスタイルの発明が大きな役割を果たしていたと思う。そのアメリカンスタイルには日本のいけばなの型や教科書、講習方法が生かされていると思われる。彼らは日本で学び、戦時中にかなり研究をしている。
アメリカンスタイルの花は、言うなれば、花の「商品」を「フォード方式」で、どんな人でも、同じものを大量に生産できるようにするためのデザインだと思う。
*久保数政氏の『フラワーデザイン覚書』には、若い頃にシカゴのキスラー氏の学校に学び半年コースを2度受けたとある。キスラー氏の学校は、週単位で初級、中級、上級の3つのコースがあり、期間の異なる受講者が同じクラスで授業を受けていた。1クラスは20~30人くらいで、そのうち10人くらいが半年コース、あとの10人くらいがショートコースという具合だった。久保氏は半年コース2回目になると特別に自由なかたちで授業を受けさせてもらえたという。
*当時は、生産を学びたい人は西海岸を目指し、装飾技術を学びたい人は東海岸を目指せと言われていた。
*久保氏は、シカゴで学んだあと、アーサムというショップで働き、カリフォルニアのアーサー伊藤(奥さんは恵泉女学園出身)が経営するフラワービューガーデンでも働いて帰国した。
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真間放言(其3) 市川宗助 (『蘭業組合報』第62号 昭和31年)
N夫人の話
一一蘭の話と云ふのではありません。蘭の事もチョッピリ出ては来ますが、大体は米国での花と花屋さんの話が主です。私にとっては大変面白くもあり、いい参考になった点も多くありましたので茲に書く気を起した訳です。尤も今日ではチ卜旧聞に属しますが、今春、東京の展示会のアト半月程経った時にお聞きした話なのです。
三月七日、蘭友会から三月例会の通知を受取った。今度の会は”最近米国から戻られたN夫人のお話がある予定”と但書が添えられて居る。“これは是非承り度いものだ”と思った。夫人は此間の展示会(三越での夫れ)の最終日に来場されたが、“最終日でも何んでも、間に合ってよかった――”と大層な喜び方をされ、同時に“この展示会は本当に素晴らしい。米国のに比べて大した遜色はないと思ふ”と繰り返へし云って居られた。一一
其前日の午後に羽田へ着かれた計りと云ふ話だった。つまり例会は其後の三週間位ひに当る訳で、充分新鮮なお話が聞けると思ひ、私は大きな期待に勇んで躍して出向いたのであった。
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こゝで一寸夫人のスケッチを述べさせて頂く。と云っても私は旧知の間柄ではないので何等詳しい事は知って居ない。一昨年蘭友会の発会式で始めて面識を得、其後の例会や組合の展示会等で都合五、六回位お会ひして居るか?従って以下の記述も、の短かな間に得たラフな印象記に過ぎない事を御断りして置き度い。
青山市場の人に聞くと「ご主人は建築家であり、夫人御自身は室内装飾家であるが、去年頃から麹町で花店を経営されても居る」との事。蘭友会へ出て来られる時は、いつも中型の外国車(Fiat?)を御自身操縦して来られる。小柄ながらガッチリした体格の人で、日本人としては珍らしい位血色がいゝ。見るから健康そうであり、活動的にも見受けられる。年輩の程は一寸見当がつかない。多分四十三、四であろふかと思ふが、ソレコソ Romance Gray と云ふ形容がピッタリと来る様に、美しくはあるが相当に目立つ白髪の数から推すと或は最少し上なのかも知れない。然し今も云った様に非常に明るくて、活力に溢れ且つ時としては男性的とさへ思われる程クッキリとした表情をされる事があるので、正直の所年の推定は私にはつかないのであった。頭も頗るよい様に拝察したし、態度も堂々たるものであるが、それで居て日本の女性の特長である、つゝましやかさを持って居られるから、厭味な所は全然ない。兎も角今の日本女性としては、最も進んだ層の人と思い、常々私は深い敬意と興味を以って、此ダームを見守って居たのであった。(※マツ注:ダームとはマダムのことだろう)
昨年の夏頃だったか、たしか新井(清彦)氏から“夫人が突然米国へ行かれた”と云ふ事を聞き、其後亦”それは花の商業的及装飾的な事情を勉強する目的で行かれたのだ”と聞き、思わず“ホウ、‥‥”と嘆声を挙げたのであった。―― 恰も野球を見て居て、気持のいゝヒットが飛んだのを見た時の様に胸がスーッとした。外国でも花の装飾を本気で勉強された人と云へば、私は今、第一園芸の永島さん一人しか知って居ない。まして婦人でそこ迄飛躍した人を曽(か)つて知らない。流石はN夫人だナと膝をたゝいた訳なのである。
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果して但書はよく利いて、此日の会合ば仲々出席率が好かった。熟川の小野さん始め、岡見、後藤の両ヴェテランも出られた。そして夫人の話しが始まると直ぐ、テープレコーダーが動き出した。この録音は非常によく取れたらしく蘭友会では次の会報に、これをその後写して掲載すると云ふ計画を立てたとか……‥。従って夫人の話しをその後聞き度いと思われる人は、何卒同誌を御覧願ひ度い。私は以下に、親譲りの永年使ひ古したレコーダー頼りに、自由気儘な記録を書き飛ばして見度いと思って居る此の機械、何しろ六十余年に亘って使ひ古るしたもの故、ガタピシであり甚だ頼りないものであるが、一つ便利な所がある。つまり前後置き換へや、省略加注等自由自在なので、此点甚だ重宝だ。以下に於ても此わが儘は遠慮なくさせて頂く積り故、愈々以て記録としての忠実さは欠けて来る訳で、此点前以って御詫びして置く。
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夫人は(*渡米後)先づ花卉装飾について教へる短期大学へ入学された。市俄古(*シカゴ)にあって期間は二ヶ月とか、―――恐らく必要な修学期間としては、米国流に最も圧縮されたもので、これを若し日本流にやるとすれば、何んなに急いでも優に半年はかゝたであらふと云ふ話だった。こゝで夫人は、此学校に勉強する生徒達の事、基礎教育の事、最近の米国に於ける花の活け方、飾り方及び日本の活け花が及ぼした影響等につき、暫らく話されたが、こゝでは省略させて頂く。唯其間夫人が最も肝に銘じて感心せられたと云ふ話の一、二を取上げて見ると――― 一切が極めて組織的で、能率本位で、いささかの遊びも無駄もない事であったと云ふ。一つの装飾を創る場合、作業する台、材料、道具等を各自銘々に同じ様に与へられるのは勿論の事であるが、それを纏め上げる為めに要する最も永い時間を頭からきめられる。云ひかえれば、一つの作成についての最短時間を与へられるのであるが、是れが非常に短かく、いつも自分はその limit 内に纏め上げる事が出来なかった。―――多分スロモー組の一番者だったろう。”かかれ”の合図を受けてから、纏め上げるまでの各自の真剣さは物凄い程で、此点日本の活け花の在り方からは想像も出来ない素様じさであるとか。是れは活け花を芸術と思って居る日本人には、恐らく苦々しくさへ考へられる所であらふが、万事能率的な米国人としては一向不思議な事ではあるまい。茲で夫人の話は一寸傍道へそれた。―――”今度の渡米中私に最も深い感銘を与へた事は、米人の仕事の量が極めて大きいと云ふ一時で、何う見ても日本人の三倍位いを同じ時間でやってのけて居る様に思われました。私は最初、米国人は皆富んで居るし、収入も大きいので、夫々気楽に、伸んびりと生活を享楽して居る事と計り想像して居ましたが、それは飛んでもない見当違ひでした。彼等は実によく働き非常に多くの仕事を成し遂げて居ます。米国に今日の繁栄をもたらせたものは、資源に恵まれて居るからだと云ふ人が多い様ですが、ただそれ丈の理由ではなく、此の”仕事をよく遣り其量が大きく、亦質的にも優れて居る”と云ふ事が、恐らく夫れ以上重要な理由ではないかと思います。”
それから亦夫人は、作業後の取片付けの早さ、と徹底した潔癖さについても、悉く感心させられたらしい。仕事のアトは、台の下にある屑物入れに一切の屑を入れ、机の上にも、廻りにも下にも、チリ葉一つ残こさない。”其徹底した整理振りは、到る所未整埋、不整頓に覆われて居る日本の姿に慣れ切った私達には想像もつかない程で、是非学び度い所だと思いました。”と泌々(しみじみ)云って居られた。―――この話しは私にもピンと来た。誠によく理解出来る。と云ふのは四十年の昔、私が紐育(*ニューヨーク)で始めて事務所へ顔を出した時の、第一印象が其徹底した整頓振りだったからで、実際それは桁外れにサバサバと美事に整頓されて居た。最初の出勤なので私は始業の十五分前に事務所のドアを明けた。一人のタイピストを除いては誰れも来て居なかった。オフィス内は唯整然たる机と椅子と、卓上電話(其頃日本では未だ見掛けなかった品)とカラッポの屑物籠と―――其外には何一つなかった。而も其机の上にはインキ壺一つ置かれて居ない。ましてや未決、決定等の書類入れもなければ灰皿さへ見えない。唯机其物と椅子其物丈けである。(尚余談乍ら此の椅子にも目を見張った。材料は贅沢なマホガニーであったが、全部木と金具丈けで布地は一切用ゐられて居ない。其頃日本の事務椅子と云へば、大抵プラシュ天か段通の如き布地が張ってあり、内側にはスプリングが潜ませてあって、お尻の痛くない様な仕掛けになって居た。木の儘、或は籐のアミ張り椅子は大方小使さんかボーイの使ふものに限られて居た。夫れでさヘ年取った小使さん等は、自費でメリンスの小座布団を作り、其腰掛けに縛りつけなどして居たものである。然るに此の重くてピカピカな、立派やかな椅子は、腰の当る所も肱を置く所も何所もかしこも木で、唯お尻の乗る所丈が、浅く彫り削られ、平たい感じを消してあるだけだった。これは当時、若年ながら痔持ちだった私は”ヤーッ”と声を立てた程驚ろいた事を、今でもマザマザ覚へて居る。次に社員机の引出しの内を見た時も驚ろいた。どの引出し出しも其内部の全スペースを三分の一位ひしか使って居ない。私達の場合、往往にして、反古みたいな書類が一杯つまって、抽出しの抜差しさへ自由に行かない事があると云ふのに、彼等は其三分の二を遊ばせて居る。勿体ない遊びだと思ふより先きに、よく是れで用が足りるものだど感心したのであった。畢竟するに整理の才能に帰着する。彼等は一瞬にして“捨てる可きもの”と“保存す可きもの”とを区別し、亦其後者を極度に圧縮し乍ら日常生活を巧みに送って居る。恐らく此習慣は幼ない頃から養われ、身に徹して居るのであらふ。私は過去四十年に近く、あらゆる努力を払って此の真似をし様と試みたが悉く失敗に帰しした。而かも老来愈々以て机上うず高く屑を積み、日々其だらしなさを嘆いて居る次第であるが如何共致し方ない。夫人の云われた所に、全く同感を覚へた訳である。)
閑話休題、夫人は此の学校を了へてから、市俄古のミス・アン(或はMrs. Anne かも知れない)と云ふ同市一流の花店へ、経営実習の為めに入店されたのだ相である。一流の店丈けあって、規摸も大きく日々莫大の量の花を扱って居た由であるが、扨(さ)て蘭の花となると、量はとも角質の上では、東京の一流花店に比べてお話しにならない程お粗末なものしか見掛けられなかった。―――例へばここに集まり、売買される大部分の品はLabiata,Mossiae級の品で、是れには夫人も、ひどく驚ろかれもし、亦失望もしたと云ふ。シプ(*パフィオペディルム)に就いても最上級品が精々モーディー位ひで、到底日本の花店に見られるあの大輪の堂々たる花など見られなかった。此点日本は全く大したものだと、口を極めて云って居られた。然し量と云ふ事になると、それは亦ひどく掛け離れて居て、先様の方がズッと多い。それで居て、生花は全面的に云って甚だ高価である。―――この“花が高い”と云ふ事については、夫人は屡々繰返へして云って居られた、“一般人の家庭では到底生きた花を飾ると云ふ事が殆んど出来ないと云ふ事実にも私は、ひどく驚ろいたのです。此点も日本は全くウソの様に恵まれて居ます。一束30円の仏様花でさへ5輪も7輪もの生きた花がたばねられてありますからね‥・・”と。
大体椿やガーデニアのコサーヂュが2弗から2弗50仙。カトレアは輪5弗位ひが普通で、勿論物日(Xマスとかイースターとか)にはずっと値上がりする。兎も角花屋さんの店へ入って、一弗以下の買物をすると云ふ事は、絶対不可能であると云ふ。(註、これは全く私達を深く考へさせる事ではあるまいか。と云ふのは、あれ丈マス・プロ即ち量産と、十仙(*セント)ストア制の発達した国であり乍ら、花店では弗以下の買物が出来ないと云ふ。弗と云へば公定で360円である事は云ふ迄もない。今日、日本の花屋さんで一寸買ひに来て360円を買上げて呉れるのは上客の方ではあるまいか。吾が市川辺では大部分が 100円前後で、数から云へば20円-30円、即ち5-6仙から9仙弱が断然多いと聞いて居る。何んと情けない文化国家である事よ! それなら米国での花は生産量が少いのかと云へば、そふとは考へられない。たとへば蘭にした所で、スライドなどで見ると素晴らしく大仕掛けに栽培して居る様な印象を受ける。現に今も聞いた貧弱な蘭しか花店には出ないと云ふ事自体が、量産式の必然の結果として起きて来る所なのではあるまいか。日本の様にアレコレをちょっぴりちよっぴり宛作って居たのでは手計り掛って能率が上がらない。そこでマス・プロとなるとラビアタとかポーチヤなどの一本槍と云ふ事になるのであらふ。先般来日されたジョーンズさんも、何かと云ふと着花の数と繁殖の良否を聞きたがったと合田氏が云って居られた。ジョーンズ氏は米人であり商人であるから、こういふ質問をし度がる事にいささかの不審もない。ソシタ如何に優秀な花でも、年に一輪しか咲かず、繁殖力も弱いとあっては、一般米国人にとって余り魅力的ではないのであらふ。是れ等一切は、“花の需要が極めて大きい”と云ふ前提の基に納得の行く話なのであって、目下の日本の様に極端に需要が少なくては、全然違った現象が起きる事となる。
夫人は亦つけ足して云われた。“勿論米国には現在の日本と比べ物にならない程多くの、素晴らしい優秀品があるのに相違ない事は申上げる迄もありません。然しこれが花店に全然出廻わらないのです。恐らく富豪の温室や、生産者の見本室や大学の研究室に咲くのでしょうが夫等は市販品として表らわれて来ないのです。”と。ここで若い人々(会員の・・‥・)は一寸怪訝な顔付をした様だった。然しこの事は私達戦前派の人間には不思議でも何でも無い。戦前日本の花店に、時たま見られたシプはインシグネかリヤナム、精精良くてサンデレー位ひのものだった。而も貴族や富豪の温室には、今月程には美事でない迄も相当立派な花が沢山咲いて居た。唯此の人達は良い花程自分で眺めたり、プレゼント用にしたりしておわらせ、売出すと云ふ事をしなかったのである。