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植物採取OKの山の旅 1971年 まだ、野山での植物採取に罪悪感が少ない時代のイベント 『ガーデンライフ』8月号 昭和46年

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 国土開発が盛んに行われ、農地や山林が次々と切り開かれ住宅地となり、また植林もさかんに行われていた時代。 ここでは、採取OKのイベントとして自然に親しむための山の旅が企画されている。 『ガーデンライフ』には、この当時すでに「公害情報コーナー」のページが設けられており、空気や水の汚染について、毎号さまざまな話題を提供していた。

『ガーデンライフ』創刊当時の思い出 歴代編集長が寄稿  『ガーデンライフ』第100号 編集後記 1976年7月号

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牧野富太郎は、どんな仕事をしたのか  人間 牧野富太郎の業績 奥山春季  『ガーデンライフ』1971年7月号、8月号

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時代の要請(プロのデザイナー不足)に対してアマチュアであることの重要性を考えていたマミ川崎氏 1970年 『フラワーデザインライフ』誌の座談会録

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  1970年4月号《座談会》フラワーデザインの心 出席者 マミ川崎、笠置八千代先生(評論家)、山家直之助(花茂フラワーデザインスクール主宰)、宮嶋敏安(日比谷花壇取締役)、司会田辺徹(本誌編集部) ●独創性ということ 田辺(司会) 「フラワーデザインの心」という抽象的な題になったんですが、この座談会は4月号になりますので、新しい生徒さんもおはいりになりますし、フラワーデザインが日本に広がるようになりまして、すでに、何年か経過したわけですが、ブームのように広がって、それぞれのところに、いろいろな問題もたくさんあるように思いますので、テーマのひとつは、現在第一線で活躍されている方、特に、マミ先生や山家先生などがそうですが、パイオニアの方の問題点、お考え。2点はフラワーデザインを職業としてやっていこうという方もずいぶん出ておりますので、その方たちがいろいろかかえておられる問題がおありだと思います。それから、同じプロと申しましても生徒さんを教えておられるお花の先生、そういう方たちも、きっといろいろご苦労や問題があるでしょうし、これからフラワーデザインを学んだり学ぼうとしている新しい若い方たちが、未知の問題としてこれをいろいろ考えておられるんじゃないか…。 笠置 デザインということばが日本へ来たのは新しいでしょう。昔は生け花というものは師匠から同じものを継承していくという、まねをさせるということで、あれは芸術家ということはいえないわけね、お師匠さんは。そこのところをフラワーデザインというからには今までの生け花とは違うというところをはっきりさせて、マミさんから、どういうのがフラワーデザインかというのを…。 マミ デザインと芸術というものがどういう違いかということも…。 笠置 デザインと芸術は違わないんじゃない?芸術家がデザインするのであって。 マミ でも、いわゆるデザナーというニュアンスは、芸術家というニュアンスとは違うでしょう。 笠置 日本では外来語が変なふうにはいってね。洋服を例にとれば、デザイナーという意味ではほんとうのデザイナーは日本には少ないわね、仕立屋さんに毛が生えたようなもので。 マミ フラワーデザイナーというものも、まだ時期的にはほんとうに育っていないし、私自身もフラワーデザイナーだとはほんとうに思っていないんです。いいデザイナーになろうという努力を毎日続けて

日本の花泥棒 高見沢潤子 1971年

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『ガーデンライフ』(誠文堂新光社)第37号 1971年4月号 (月刊化第一号) マンガ家・田河水泡氏による「お石灰先生」 左ページは田河氏の夫人で作家・エッセイストの高見沢潤子氏、夫婦で登場している。   日本の花泥棒    高見沢潤子  下高井戸に住んでいた頃、N駅の近くに、一メートルほどの高さの大谷石の上に芝生の土手を築き、四季の花木をいっぱい植えた塀の家があった。  春は沈丁花、ぼけ、山吹、つつじ、夏はあじさい、ふよう、秋は白萩や紅萩がもり上がるように咲いて、通る私たちはいつもたのしい気持ちでながめた。ただ、その花木の枝が歩道にはびこって、とくに萩などはぶ厚くたれ下がって、通る人の邪魔になっていた。  その土手にたて札があった。  「花を折らないで下さい。外国の子供はよその家の花は決して折りません」  と書いてある。私はこの家も被害者だな、と思って苦笑をしたが、田河は、  「この横に、外国の家はこんな往来の邪魔になるように花木を植えません、とたて札を立ててやろうか」 と、いった。  その頃の私たちの家は、あみの塀にびっしりばらをからみつけてあった。季節になるといろんな色の花がきれいに咲いた。近所の子供たちがよく枝を折ってぬすんで行く。私がぶうぶういうと、田河は、  「いっぱい咲いてるんだから、少しぐらいかまわないじゃないか」 と、いう。しかし私は子供の教育のために、黙っていてはいけないと思ったから、こっそり折ろうとしていた子供をみつけていった。  「お花がほしければ、おばさんにお花を頂戴というのよ。そうしたらいいのを切ってあげますからね、よそのお家のものを黙ってとって行くのはいけないことでしょう」  その翌日、玄関のベルがなって、昨日の子供が立っていた。  「おばさん、お花を頂戴」  丁度その時来客があって忙しかった。すぐ鋏をもって庭に出て、あれこれと花を切っているひまはなかった。  「今おばさんとても忙しくて駄目なのよ。こんどひまな時切ってあげますからね」  私はすげなくいって玄関をしめたが、すぐ後悔した。折角私のいった通りに実行したのにこんなこといわれて子供はさぞがっかりしたろう。これじゃ黙って折ったって同じじゃないかと思ったろう。教育にはならない。  「花ぬす人は罪にはならない」  と昔からいわれているけれど、いかにも日本人らしい、美を道徳以上に尊重する

牧野富太郎先生お気に入りの「大漁ドテラ」(正しくは「万祝」)は石井勇義氏から贈られた九十九里浜のものだった

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 牧野富太郎博士は、1957年1月18日に亡くなった。94才と9ヶ月の長寿をまっとうされた。 『採集と飼育』19巻6号は、牧野先生の追悼特集となっている。 牧野先生と親しくつきあった執筆者の追悼文とさまざまな先生の姿や手紙、書を写した写真が多数掲載されている。(*画像はクリックすると大きく拡大して読めます) このなかで、東京大学時代に牧野先生に教わった、お茶の水女子大学教授、津山尚(たかし)先生の思い出のページの下に 「大漁ドテラ」が「石井勇義氏から贈られた九十九里浜の」ものであると記されている(この写真は、『牧野日本植物図鑑』制作の中心を担った向坂道治氏の所蔵するもの)。このドテラを着て庭で写された写真は複数残されており、石井勇義氏と2人で写されたものもある。 「大漁ドテラ」の正式名称は「万祝(まいわい)」という。 万祝(まいわい)は、網元や船主が大漁を祝い、また次の漁の収穫を願って祝宴を開き、めでたい模様や文字を染めて招待客・関係者に贈った祝い着、大漁着のこと。マンイワイ,マイワイなどとも呼ばれ、大漁した際に感謝と祈願のきもちを込めて行う祭りや儀礼で、漁期の最後に行われる決算の際に催す場合や、船や船団の帰港のつど行う場合、漁獲が大漁であったときに行う場合などがある(「コトバンク」などから引用)。 *南房総花海街道のサイトから  https://hanaumikaidou.com/archives/9487 *向坂道治氏と牧野先生の関係 「向坂道治と牧野富太郎の交流」練馬区立牧野記念庭園 田中純子 2022 https://www.makino.or.jp/img_data/PAGE_science-report_16.pdf 『採集と飼育』第16巻6号 昭和32(1957)年6月号表紙

南樺太でお正月の松を山盗りする農夫の話 「樹木誌」 「青葉の愛情」   寒川光太郎『サガレン風土記』大日本雄弁会講談社1941年 から

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  *寒川光太郎は、本名、菅原憲光。 1940年に「密猟者」で第10回芥川龍之介賞を受賞した。 寒川の父親は、樺太植物の研究で知られる植物学者の菅原繁蔵(『樺太の植物』1937、『樺太植物誌』1975)。寒川自身も樺太庁博物館館員となって父の仕事を手伝っていた。 *『サガレン風土記』にはもうひとつ、「青葉の愛情」という小説があり、これも植物を採取し売って生計を立てる山採り人の様子が描かれている。「樹木誌」のあとに抄録しておいた。 *樺太の植物を掘りとって本土へ送るといった事例がかなりあったという。この小説は森和男氏の「日本ロックガーデン小史」という論文のなかで紹介されている。(『新花卉』93号 1977年) ○樹木誌  寒川光太郎   *読みやすいように現代仮名遣いに直してあります 強い緑を含んだ褐色の原が、際限もなく縹渺と広がっていた。遥か中ほどに黒々とした沼が横たわっていて、その辺りにはいつも白い靄が霞んでいた。地襞を盛上げた様な矮性灌木や、己が枯草の上にどうにか群落を作ることの出来たある種の莎草科*の叢が其処此処にある―それだけが、地肌をなす褐色の中の緑であった。(*注 莎草科 カヤツリグサ科) 其処は常に沈黙を守っていた。鈍く光る沼も緑叢も、その上に棚引く靄も、何時までもじっと動かなかった。悠久ではあったが荒涼としていた。 蕭々と秋風が去ると、寒い冬が来た。此処はもっと荒んで行った。それは何か戟しい精神が絶対の沈黙を共用していると言う風な感じがあった。春や夏にはその沈黙の中にも生物の悠久な息吹きがあったので、荒涼とはしていても、何処か悲哀的な感情と言うものがあった。併し一度峻潔な冬の衣を着ると、其処に悲哀の感情は既になかった。苛酷な自然の大きな他所々々しさを見るだけであった。夏には、草達が兎も角も命を持っている。その上を高く舞う水鳥の羽撃きもある。だが冬になると其処には物音一つなかった。茫漠とした天地の静寂は、甚だ暗い宿命的な感じがした。白い原が目の届く限り何処までも広がり模糊として消え行くところには、虚無的な匂いがあった。遥かなる地平線のあたりから一陣々々と吹雪のひろがって来る時、それは妖しくさえ感じられた。これらの感情は、だが、一入加わる厳しさを除いては、夏も冬もたいして変りはなかったのだ。 それは水苔だけで出来た湿地帯であった。其処は曾つては自然の大き