南樺太でお正月の松を山盗りする農夫の話 「樹木誌」 「青葉の愛情」   寒川光太郎『サガレン風土記』大日本雄弁会講談社1941年 から

 


*寒川光太郎は、本名、菅原憲光。 1940年に「密猟者」で第10回芥川龍之介賞を受賞した。

寒川の父親は、樺太植物の研究で知られる植物学者の菅原繁蔵(『樺太の植物』1937、『樺太植物誌』1975)。寒川自身も樺太庁博物館館員となって父の仕事を手伝っていた。

*『サガレン風土記』にはもうひとつ、「青葉の愛情」という小説があり、これも植物を採取し売って生計を立てる山採り人の様子が描かれている。「樹木誌」のあとに抄録しておいた。

*樺太の植物を掘りとって本土へ送るといった事例がかなりあったという。この小説は森和男氏の「日本ロックガーデン小史」という論文のなかで紹介されている。(『新花卉』93号 1977年)


○樹木誌  寒川光太郎  *読みやすいように現代仮名遣いに直してあります


強い緑を含んだ褐色の原が、際限もなく縹渺と広がっていた。遥か中ほどに黒々とした沼が横たわっていて、その辺りにはいつも白い靄が霞んでいた。地襞を盛上げた様な矮性灌木や、己が枯草の上にどうにか群落を作ることの出来たある種の莎草科*の叢が其処此処にある―それだけが、地肌をなす褐色の中の緑であった。(*注 莎草科 カヤツリグサ科)

其処は常に沈黙を守っていた。鈍く光る沼も緑叢も、その上に棚引く靄も、何時までもじっと動かなかった。悠久ではあったが荒涼としていた。

蕭々と秋風が去ると、寒い冬が来た。此処はもっと荒んで行った。それは何か戟しい精神が絶対の沈黙を共用していると言う風な感じがあった。春や夏にはその沈黙の中にも生物の悠久な息吹きがあったので、荒涼とはしていても、何処か悲哀的な感情と言うものがあった。併し一度峻潔な冬の衣を着ると、其処に悲哀の感情は既になかった。苛酷な自然の大きな他所々々しさを見るだけであった。夏には、草達が兎も角も命を持っている。その上を高く舞う水鳥の羽撃きもある。だが冬になると其処には物音一つなかった。茫漠とした天地の静寂は、甚だ暗い宿命的な感じがした。白い原が目の届く限り何処までも広がり模糊として消え行くところには、虚無的な匂いがあった。遥かなる地平線のあたりから一陣々々と吹雪のひろがって来る時、それは妖しくさえ感じられた。これらの感情は、だが、一入加わる厳しさを除いては、夏も冬もたいして変りはなかったのだ。

それは水苔だけで出来た湿地帯であった。其処は曾つては自然の大きな傷痕になみなみと水を湛えていた沼であった。それが想像も及ばぬ永い年月を経るうちに、水苔の繁殖に会って次第に水面の領域を狭められて行ったのだ。

夏になると水苔は沼の水を充分に吸い、五寸も六寸も伸び、冬には霧の重い圧迫をうけ、紙の様に薄くなった。かくして計り知れぬ長い年代を経た後、湖底のポトゾールソイルの上に褐色の堆積層を積み重ねた。この繁殖帯は徐々に湖心へ向って行く様であった。

又水苔層は強い酸性を含んでいた。鳥の糞、花弁、茎葉、その他風に運ばれた種々の塵芥―これら有機質は直ぐに腐敗する運命をそれ自体に持っている、併し常に凍った心を持つ此処では、温度があまりに低すぎた。水にとけるものはどんどんとけて了い、融けぬものは褐色の酸性を帯びた堆積層となって残された。だから、泥炭地となるべきその層を掘って、幾百年も前に生きていたと言う花粉や種子を、今でもはっきりと顕微鏡で覗くことが出来る。

大地はどの部分でも―嶺の岩でも赤土であった、それは植物達の領土である。此処へも多数の種子が多様な方法で運ばれて来た。多くの種子は発芽してすぐに死滅した。僅かな、この地帯に適合する性質を具えたものだけが辛うじて成長し繁殖した。彼等は北国の、荒々しい荒涼とした感情にたえ、ある恐しい絶対をもってそれを克服して行った。それは生きると言うひたむきな力で、それが水苔に確としがみついた毛根の隅々にまで漲っていたのだ。

それは生きていると言えば言える、死んでいると言えば言える―湿地帯全体がまじり気のない水苔で出来ていたからである。

そこには春になると、桃色の澄み切った花が咲いた。又純白な雪の花をつけるものもあった。或は目に見えぬ程微小な控え目の花を葉裏にかくしているのもある。それ等の多くは松や楡と同じ様な樹木ではあったが、甚だ矮小であった。どれも野の草程の背丈もなかった。―それがこの地帯の、目に遮るもののない荒涼とした風景を形造っているのだ。

その松はこうした所に種子を下ろしたのであった。

彼が発芽したとき、その周囲には養分と日光と寒冷との、苛酷な境があった。幸いに彼の生命へ伝えられたものは寒地生と言う特質であった。その特質が彼の成長を少しく可能ならしめた、と言ってもよかったろう。

水苔帯の縁辺は沃土になっていた。其処に落ちた彼と同じ仲間が、根を張り養分を吸い六尺ほどの高さとなったとき、不幸な領土を得たその松は、漸く五寸程しか伸びていなかった。限られた条件の中で根を下ろすのさえ容易ではない。まして枝・葉それに樹幹の成長なぞ望むべくもなかったのだ。併し彼はこの地帯が如何に悠久な戒律を持っているかをよく知っていた。彼は、まるで無機物の様な表情で、黙々と、飽くまで執拗に己が生命へと喰い下っていた。

彼がやっと幹を伸ばすことが出来たとき、酷烈な吹雪がやって来た。未だ軟らかな彼の体は堆積層の上へおし転がされ、水苔の平べったい枝がその上に覆い被さった。死の表情を装うた冷ややかな冬は、幾十度となくこうして彼の上に来た。それは避けることの出来ない時の試練でもあった。―一つの試練を経る毎に、枝はゴツゴツと力に充ち、幹は益々石の様に引締まり、渋味のある山苔の白い衣を着けた。

かくして数十年を経た頃、彼は立派に老松の貫禄を具えた。それにしても、僅か二尺足らずの、草丈にも及ばぬ小作りな姿でありながら、何と言う老骨振りであったろうか!優れた彫刻家の手になった様に、少し斜に構え、両枝をぐっと突き出し、その上に次々と深い緑を重ねた姿態は、まことに威厳に満ちた美しさであった。それは風格であり高貴な想念をさえ思わせるものである。彼は寥々たる周囲に、気品のある物さびた香りを蒔き散らしながら、一芽一芽とあくことなく緑をまして行くのであった。

それは又視覚の超越でもあった。この湿地帯が如何に茫漠としているとは言え、その香り漂う周囲の広さには比すべくもなかったのである。

それは又、数々の雄をきり従え、群の先頭に立ってヒタヒタと走る老いた狼の落着きでもあった。裂け割れた木肌は、古傷だらけの老狼の面影である。瘤々の力に充ちた姿は、枯草を蹴る武将にも似ている。風雨にも揺ぎなく、いつも黙々と端正を持しているのは、徳行高く学識備った隠者の様で、侵すべからざる風格にあふれていた。

その松に較べて、彼方の沃地にある蝦夷松達の、なんと仰々しく間抜けた様子であったろうか。彼等の樹幹は太く逞しかった。枝も繁り、鬱蒼とした暗みをつくっていた。だが―、針の様な朔風が一直線に湿地帯を渡ってその森に突当たると、彼等は一斉に身顫いして狼狽し、その松の領域へはね返すのであった。

彼等は見るからに堂々としている。太い根で大地にしがみつき、構えてはいたが、暴風が来るとその大きな身体を他愛もなく揺り振って、駄犬の様に大騒ぎをした。

其処にも静寂はあった。

樹冠は一面に濃い緑で覆われているので、森の中の静けさと言えば物凄いばかりであった。あの松は荒野にぽつりと只一本、飽くまで妥協なく立ち、周囲には沈黙の不思議な気配が漂っているのに、この森の静寂は陰気で、いつも何か企み事をしている様な気配があった。夜が来ると此処は一層薄気味悪く森々と更けて行った。すると、暗闇の淋しさにたえかねた樹々のすすり泣きが聞えて来るのだ。

彼等は小暗い密林を造ってはいたが、何か忘れ物をした様な格好で、太く逞しいがあの松の様な峻烈な闘いの痕はなく、高く大空を指していても、草丈程のあの松の誇りを持っていないのだが今はあの松には、苛酷な年代に依って作られた確固たる精神が籠っていた。そして常に矜持あるその姿で、渺々と限りないこの地帯の涯を望んでいた。

ある年のこと、一人の男が滄浪とこの地帯へやって来た。日頃の頑健さを表す赭(あから)顔(がお)で、腰に何か用達の汚い包を下げていた。彼はこの湿地帯の西側で百姓をやっている男で、借金の言い訳にT市*へ出かけようと此処を横切りかけたのであった。(*注:豊原市、現ユジノ・サハリンスクか)

彼の畑には曾てアイヌ族やロシヤ流刑囚が住ったと言う歴史がある。現に彼は朽ちかけたシベリア風の独木小舍をそのまま使っていたが、畑の土質もよく、馬鈴薯や燕麦の出来も流刑農民の頃と一寸も変りなかった。独身者の生活ではさして不自由も感ぜぬのに、さし迫って金が要ると言うのは、細君でも貰い地道に其処で落着こうと考えたからなのである。この地方は植民地の通例で女が少いので、嫌が応でも内地から輸入しなければならない。それにはどうにかやっていると言うことを示すために、小ざっぱりとした風体が必要であった。

つつましい生活の後僅かばかりの蓄えが出来た。今一と息と言う時にその蓄えの倍もあるほどの儲け口が飛込んで来た。T市の植木屋が、この辺の老松の枝を伐りだしてくれと言う話であった。

白い山苔つきのその枝は、初春の床飾りとして高価なものであった。―森林主事の目を逃れることさえ出来たなら、その危険に相応した莫大な収益が彼の許へ齎される筈であった。彼は植木屋から前金をせしめる事に成功すると、先ず酒を呑んだ。それから仕事にかかったが、成績は思わしくなかった。その上彼自身は甚だ無風流であったので、大半は粗悪な枝振りのためフイになってしまった。

そこで彼は植木屋から貰った前金の残りを呑み、それが結局借金と変らねばならぬことを悟ると、今度は妻君の旅費となるべき蓄えをも呑んでしまった。そして催促があまりひどくなった時だけ、この湿地帯を横切ってT市へ言訳けに出かけるのであった。

処々に水苔層の破れが見えていた。其処に足を突こむと、底無沼の様にずぶずぶと吸いこまれてしまう。この地帯は大きな沼の上に出来ていたのだ。

処々に小灌木の叢があった。地表とすれすれに匍う幹は乱れていて、極地のシニョックの繁みの様に恐しく剛情で、踏む者の踵にからみついた。―彼は昨夜も少し呑みすぎた、そのために頭が呆としていた―彼は用心深く足場を拾い、一足一足歩いているうちに方向を失ってしまった。

彼は時々立止って磁石を出し、虫でも払うような手付きで幾度も見直した。針は南を指していた。只指すだけで歩きやすい路を示しはしなかった。―彼は腹だたしさに焦々しながら、徐々にその松の近くへとやって来た。

其処にホロムイツツジの大藪があった。彼はその高みから方向を探ろうと仔細に四辺を眺め回した。そして漂う靄の彼方に濃い密林のあるのを発見し、ほっと安堵の色を浮べた。

「なんだべ。散々歩いて俺とこの森さ出たのかや」

そこで彼は、愈々小面倒臭い迷路から逃れる事が出来たと言う様にほっと溜息をつき、叢に尻をつけて一服やりだした。

空はあくまで澄切っていた。その碧さは、ぐっと吸いこみそうな初夏の色であった。

午後の陽光がその辺一帯に明るく、彼の疲れた身体に快い睡眠を催させるほどであった。水苔の淡い緑は充分伸切っていた。其処此処に根を下ろしている姫石楠が細い首を擡げ、つつましやかな薄桃色の花をつけている。それはまるで熱帯の原に咲いたものの様な鮮やかな感覚を与えた。

彼は甘(うま)そうに煙草を吸い、ゆっくりと大空を見渡した。この長閑な風景が彼の素朴な胸を撃ったのであろうか?いや、彼は只、美味そうな鴫(しぎ)が未だ南へ渡らずに居るかどうかを調べただけであった。彼はその赭黒く焦げた醤油焼が頭に浮んだとき、煙草の烟がジーンと臓腑へしみ亘る様な気がした。

軈て徐々に下りた彼の視線は、その松の根元の所で喰いついてしまった。と同時に瞳は、憧れにも似たあのうっとりとした色に輝き出したのだ。其処に野鴨の白い卵が五つ六つ、枯葉の巣の間で美しく映えていたのである。

そこは斜にのばした短い枝の真下にあたり、厚く重った松葉が、上手い具合に陰を作ってくれていた。巣は陽の暖かみにふっくらと膨らみ、卵はまるでゴツゴツした宿への感謝の様に清らかに愛くるしく塊っていた。

農夫は節だらけの掌でぐいと口の辺を拭った。虫を払う様な手付きで幾度も見直した。それから黄色い歯を出して笑い、巣の中からその一つを取りだして未だ新しいかどうかを透して見た。―不幸にそれは生んで間もなかった。母鴨は今しがた最後の一つを棲居に並べると、渇を慰すために、沼の方へ飛んで行ったばかりであった。

「まだホヤホヤだぞ!」

彼はそこで又黄色い歯を出し、その歯の間へ松の幹で割った卵を慌てて注ぎこんだ。

「ああ鴨臭せえや。埃っぽくて不可ねえ」

彼は一寸顔を顰めたが、その癖又一つを素早く口にした。

「ああ水臭せえ、矢張鴨は鴨だ」

彼は一つを呑むごとに、何か言わねば済まぬと言う様にブツブツと独言を洩らし、遂に巣を空っぽにしてしまった。

彼は充分満足したようにぺちゃぺちゃ舌音をたて、何気なく松の方へ目を戻した。―松の瘤だらけの太い幹は、山苔で白く映えていた。それは恰も心なき闖入者を睨む、鋭い視線のようでもあった。

彼は何故かヒヤリとした。不安が腹を舐めたような感じがした。そして暫くは瞬きもせずその松を凝視めていた。その松の周囲には、矢張何か払いのけられれぬ気配と言うものが漂っていた様であった。

軈て彼は、何かを思い出すような、又考えこむような面持ちをしながら、その場を去りかけたのである。

二三歩歩んだ所で、彼は再び魅せつけられた様に振り返って見た。そして如何にも感動的な声で、いい松だなあ、と首を振った。だが彼の感歎は、決して松のその姿態から来ているわけではなかった。掘取ってT市へ持って行けば相当の呑代になる、との胸算用からであったのだ。彼はその松がどんな激しい闘いを続けて来たのかを知らなかったのである。

彼はそこから去り難いものの様に、再び踵を返した。そして根を探って見た。不幸な事に幹の直ぐ下に、沢山の毛根が下りていた!

彼は熱心にそれを掘取り大きな鉈と共に風呂敷に包んだ。

「ああ又呑めるわい」

そう呟きながら其処を一歩踏出そうとしたとき、あっと声をあげる間もなく彼は足許の水苔の裂目へ陥ちこんでしまったのである。

その瞬間、彼は握った手を本能的に離して踠(もが)いた。だが弾みがついていたので、瞬く間にぶくぶく首・顎・鼻と沈み、一度はすっぽりと水中にかくれてしまった。それから漸くのこと、赭黒い水を分けてぬーッと浮上ることが出来たが、その濡れ鼠の姿は荒涼たるこの湿地帯の風情に甚だ相応しく、沼の底から匍上って来た生臭い妖怪のようでもあった。

彼は身体を振って水を切りながら、思わずはっと裂目の方を振返った。―其処には大切な獲物の姿が跡かたもなかった。米粒程のつぶらな葉がばらばらと水面に散っているばかりであった。

大きな鉈のおかげで、松はゆらりゆらりと赭黒い水の間を下へ下へと沈んで行った。そして暗い湖底で誰にも乱されることなく、永遠の静けさの中にゆっくりと横たわった。

裂目の水面は、この復讐の後再び何事もなかった様に、透通ったもとの平静を取戻していた。

「とんでもねえ、鉈まで失くしやがった!」

彼は呆然とその場に腰を下し、自分が今何をやったのかと考えているようであった。時折鼻の前でブルルと手を振り、夢を払う様な顔をした。

遥か彼方に、模糊と霞んだ灰色の空があった。其処から湿り気を含んだ風が、寥々とした湿地帯の上を伝り、絶えず、此方へ送りこまれていた。

湖は鈍く光っていた。漣もなく、とろりと滑らかな水肌であった。羽撃きが聞えた。何も知らずに巣へ帰ろうとする水鳥であろうか、飜る白い腹が高く上にあった。

彼の目の前は最早平凡な水苔帯にすぎなかった。此処で最も気品あるものが失われたのだ!その傷痕の穴はまだ真新しく残っていた。切りとられた水苔の跡が生々しく、その底の方には傷だらけの褐色の太根と、毮られた髭根の傷口があった。傷口にチカチカ光る樹脂がブッと吹きでて、かさぶたの様にこびりついているのもあった。

穴の縁に枯葉の巣が毀れたまま捨てられ、その付近には卵の殻が雪の様に散りしかれてあった。

農夫は煙草の吸殻を、ポイと穴へほうりこんだ。それから何時までも呆然としたまま腰を下ろしていた。



青葉の愛情


商売仇の北花園があの嶮しいとんがり山へ出かけるということを聞いたとき、仙三は最早いても立ってもおられぬ気になり、その夜のうちに旅ごしらえをしてしまった。

彼のその衝動は全く身内にある青葉の愛情に違いなかったのだ。しかし彼は、同じ盆栽を扱う身では、あの紫に煙る嶺の高山植物を、人より早く持って来なかつたら甘い儲けは得られないのだ、と信じている。

半歳を冷酷な雪に埋もれている北国の人々は、常に緑の葉に限りない愛着を感じている。それは、昔彼らがはるばる離れて来たその故郷の山々を思うにも似ていた。鬱蒼とした樹木の下を何気なしに通るだけで、最早彼らの郷愁は満たされるのかも知れなかった。――まして仙三は自分の故郷が何処であるか、自分でもわからないのだ。彼が野山を歩いて、眼のさめるような緑や花に会ったとき、はっと胸を衝かれたような感じすらした。そして生きたものにでもするように、ぶつぶつと愛想の声をかけながら、一本の細根をも伐るまいと慎重にそれを掘りあげるのだが、飽くまでも幾ばくかの金に変るという、判然とした計算のため丁寧にするのだと信じていた。その愛情はおせきがいうように、確かに自分の守銭奴から来ているに違いないと思っていた。だからどんな美しい自然に心をうたれ、うたれることに魅力を感じても、それが自身の身内にあるはげしい郷愁だとは一度も気がつかなかったのである。

最近仙三と一緒になったばかりのおせきは、良人がどうしてそんなことに熱中し、まるで憑れものの眼付きで、うろうろと立ったり坐ったりする動作をとるのか、不思議でならなかった。彼女の勝気な心は、十分焦々と不服を感ずるのである。――彼女はもっとありふれた生活、傍見では可笑しいと思われるほどの甘さを望んでいたのである。

結婚してみると、ろくに口も利かない。一言二言洩らしたとしても、まるで憎々し気にいう。一癖も二癖もありそうなのは彼のその細い身体恰好で、最小限度の筋肉で出来ているらしい骨張った身体はその寡黙と同様の無駄のなさ――吝嗇で作られている、と彼女は信じていた。

愛情の言葉なぞ一度も洩らしたことがない。それならばと勝気な彼女は、無理に子供のようなあまえかたをしてみるのだが、相手は短い顎髯を手探っているだけなので急に白々しい気持になり、淋しさと何ともいいようのない口惜しさとに暗くなるのであった。

おせきをもっと失望させたことは、良人が金銭に対して比類のない愛着を持っているという点であった。年齢が可成り離れてはいたが、中年過ぎた男の処世に対する確実さというたらば、分らぬでもない。良人が長い間の流れ者生活から浮び上ってうまく盆栽屋をはじめ、それを逃がすまいとしている気持もよく分るのだ。孤独を思うとき、彼女はそれを越えて来た良人に涙ぐましさを感ずることもある。――その性格故に、食うや食わずの放浪生活を続けたので頑なものがますます深まって行ったのであろう。

だが底を掘って見たら、屹度良人は涙もろい人に違いないのだ。多くの人々に苛まれているうちに一皮一皮と、己れを救う表情を重ねて行き、重ねることに依って馬鹿正直な自分の本当の姿を救っていたに違いないのだ。だから彼が痩せた鎌首をキッと擡げて、憎々し気な言葉を吐きさえしなかったら、いつも口上手で、何かと企んでいて相手さえ見れば叩こう叩こうと待構えている世間から、ずたずたにされてしまうであろう――と彼女は思い、貴方はお嫁さんなど貰うような人ではない。いつでも独身でいればいいのだ。そんなに怒った顏ばかり見せるのなら、私は出て行くわよ、などと、最早どうにもならぬ気持で、涙を浮べてつっかかるのだが、その時も相手は、キッと相手を見る癖を止めずに、出で行くなら行けばいいのさ、馬鹿あま奴!幾度でも結婚出来ると思ってけつかる、と憎々し気にいうのだ。

実際彼女は、一度は出ようとした。

だが裏木戸から良人の動揺を知ろうと窺ってみると、彼は最近蕾を開いた黄花(きばな)石(しゃく)南(なげ)の一鉢をじっとみているのであった。

この世のものとも思われぬ冴えた、それでいて幽玄な花弁の一つに、頑な男が幾時間も前からそうしているかのような動かぬ恰好で、おどけた鼻を食付けているのを見たときおせきは拍子抜けがした。その空虚な隙間に大きな感情が音をたて、崩れて来た。――彼女の心は怪しく震えた。理窟なしの涙が後から後から湧いて出て、仕様がなかったのだ!

そこで彼女は足音を忍ばせて近寄り、骨ばったその腰を強く撃ってやった。仙三は石南の花の中に顏を埋めた。黄色な花弁がポタポタと散り敷いた。

「ばかッ! 三円もするんだこの鉢は、たくらんけ!」

仙三は振返って厳しくいった。彼女は「こんなもの、こんなもの」と泣きじゃくりながら、石南を無茶苦茶に折り、鉢から引出して踏みつけた。その凄じいおせきの態度を彼は及び腰で眺めていたが、少しは動搖したのであろう、――フイと外へ出て行ったと思うと、珍しく甘酸っぱい苔桃(ぷれっぷ)羊羹を買って来て、彼女に食えと差出したのである(注 フレップ)。

愛情を表すべきを知らぬ、というわけではない。それが流浪に脅えきっていたために一度しがみついた生活を崩すまいとする所から来るのであろう。猶豫(ゆうよ)ならぬ生活の身構えからなのであろう――だが必要以上に狂気じみた愛銭慾は、そうした過去だけでは解決出来ない妄執があるのではないか、それあるがために言葉も身体の肉付きも、考え方も、すべてが一寸もゆとりと無駄がないのだとおせきは信じているのであった。


とんがり山は仙三の住む町から可成距った北方にある。未だ人の行かぬ頂へ登って、そこにくりひろげられた想像も及ばぬ自然の美しさ、というものは、仙三にとってはとても堪らぬ魅力なのであった。だが彼は、一儲けを先んじられてはいけないから行くだけだと思っていた。

その仙三が行くといったとき、おせきは、「山へでも何処へでも行ったら、もう帰って来なくてもいい。野良犬みたいにそこここほっつき歩けばいいんだよ。あんたみたいな人は銭々って花一つでも眼を丸くする、錢っていえばどんな山奥へでも行こうとする。ああ私が銭なら、貴方を食らい潰してしまいたい位だ」

とづけづけいった。此方なぞ一寸も構わず、まるで土鉢一つほどにも思わぬ癖に、山や花といえば夢中になってしまう――と焦々するのだ。

仙三は相変わらず何処吹く風といった冷たい表情で、明日の根切鋏などの始末をしていたが、その表情よりもっと冷たい調子で、

「おせき、文句いうたら本当に帰って来ないぞ」という。いつもと違う声音なので、はっと顏を上げると矢張淡々とした表情がそこにあった。おせきは何故か本音を抉られた気で、じっと身内の鼓動に耳を澄すのであった。

翌朝のこと、仙三は厳重な足拵えをし、手製のリュックサックを背にし、軽くトントンと足だめしなどをしてから土間を出ようと踏出したとき先刻から姿を見せぬおせきが背後に立っていることに気がついた。

見るともんぺを穿いてしゃんとした身拵えをしているのだ。

「どこさ行く?」

「とんがり山さ行く」

言下におせきは答えた。鼻白んだ頬であった。

「ふむ、強いことをいうぞ。女の身で行けるかい」

「行くとも、行って草を散々踏躙ってやる」

彼はいいとも悪いともいわなかった。だがおせきはいつも妥協するときにする彼のプイと横を向く仕種を見てとった。夫婦は、てんでばらばらの心を抱き黙々と歩み出した。

とんがり山は如何にも神秘が籠っているようであった。まだ明けやらぬ暁の靄を吸い往く雲の中にぐっと沈黙を張っている姿は、悠久で美しかった。

山狭から流れ出ている小川に沿って上ろうと、二人が雑草の間から見上げた時に、嶺は何か宗教的な感情をさえ漂わせているようでもあった。二人は雑念を拭われたような清らかさを胸中に感じた。最早山の気が峻厳に、人間臭さを払い落すことを命じたのかも知れぬ。

「あれが、そうだ!」

仙三がぶっきら棒に指差した。

「あんな山、なんでもないよ」

おせきは爽々しさを感じながら、負けずに応酬した。それから二人は思わず顔を見合せ、口とは反対におどけた微笑を交した。

長い草原地が続いた。それがあの山の長い裾野であった。

蕁(いら)麻(ぐさ)や虎(いた)杖(どり)が隙間なく密生していて、チクリと肌を刺したり、ぺたりと葉滴を落としたりした。どの草も人の背丈よりも高く、その頂に大きな葉を広げているので、潜って行くと劇しい日射の来ぬ代りに肌を煽るムンとする草いきれが一面に籠っていた。

川岸には大きな蕗の群落があって、顔をあげて熱い呼吸をすると、透徹った葉裏の青みが清々しかった。

初め夫婦は、お互に心中では別々な考えに耽っていた。雜草原が単調なので、果てしなく、歩いているうちに夢幻の錯覚にとらわれ、一つことを幾度も繰返したり、とんでもない想像を追いかけたりした。しかし長く時が経つに従って、二人の心は何も考えぬという点で一致した。暑さと単調に神経が疲れ切ったのだ。だから人間から思考力を奪うというのは、草原地の妖しい力であったかも知れぬ。

二人は幾度も川へ出た。そして大きな石に腰を下ろし、じっと暝目して足に触れる流れの冷たさに浸ったりした。

「ひどかべよ! 男だって酷い荒道だからな」

仙三は汗を拭きながら妻の方を振返った。声のはしばしに微かないたわりが漂うているようであった。

おせきは襟元を寛げ、渓流に浸したタオルで汗ばんだ肌を冷していた。上気した顔はほの赧く処女のような若やぎをみせた。

「ひどいにはひどいよ、だが時偶なら諦めるわ」

「もう帰るかな? この川を伝って下れば独りでも行ける」

「身体中が汗だらけ、ざぶんと泳ぎたい位」

「熊も出るまい。川沿いは。今通ってきたばかりだからな」

「独語は止したらどう? 今更ひとりで帰るなんて水臭いと思うわ」

そこでおせきは思いっきり快活な微笑を向けた。そしておや? と思った――仙三が慌てて視線をせせらぎへと外したからである。彼女は勝ったような悦びをチラと感じた。行ってごらんなさい何処までも私は隨いて行くから。そしてもっと凝視めさせてみせる。その硬いお面を一つ一つはづして、遂にはその底にある人のいい貴方が私を甘えさせるようになる――そう思うと、肢にうづく疲れも薄らぐようであった。

「よし、そんなら行こう。これからはもっと凄い山路だぜ」

仙三はきりりと身を締めて立上った。おせきも直ぐに続いた。二人は岩の上でトントンと足踏みをし、再び川沿いの荒地へ潜るのであった。

針葉樹帯が近づいて来た。裾野はそこで終っていた。行く手は次第に峻しくなって行った。そこここに足の踏場もないほど大木が倒れ、朽ち、青苔の岩が様々な恰好で転がっていた。斜面の地襞は急激な段落に依って次第に高まり、その上を褐色の朽葉がうづ高く覆っていた。

二人は切ったった渓谷に追いこまれたり、崖を匍上ったり、朽木の上を渡ったり、あきあきする障碍を果てしなく越さなければならなかった。もう何を考えることも出来なくなった。絶えず障碍を乗越す、それ自体へ全身の神経を睹けなければならないのだ。ある場合では、背後を振返っただけで岩肌を滑り落ち、呼吸をしただけで転倒することもあり得るのであった。

誰でもこんな時には、深い吐息と共に障碍物を見上げ、絶望を感じて「またにしようか」などと考えがちなものである。また多くは、猟師や植木屋に限らず、そうしたために山は引返すものなのであった。

だが仙三にはそうした考えが微塵もないもののようである。その上背後の妻の姿すら頭にないようでもあった。

一つの崖をはあはあと犬のように舌を出して攀上ると、そこで一寸息をする間もなくまた次の障碍へと立向って行った。それは決して魅やられたものの姿ではなく、憑れたものの姿であった。

顔は泥と汗にまみれ、身支度の処々方々に裂け傷が出来た。彼はともかく登ることに全部を賭けているのだ! 

途中にいくつも低い瀧があった。水の波(し)沫(ぶき)に交って、山女魚の跳上るのが鮮かにキラめいていた。その渓流も次第に細まって行った。もう直に木の根の下で滾々と湧く清水の音を聞くことが出来るであろう。


この間にあって、おせきは不思議な心の変化を感じたのである。

彼女はぐんぐんたじろぎもせず行く良人を、幾度恨めしく思ったか分らなかった。彼女の勝気が、何糞と歯を喰締める。そして渾身の力を籠めて、追いつこう追いつこうと努力した。だが如何に苦しもうともやはり彼の無駄のないゴツゴツした身体が前にあるのだ。

彼女は良人の労りの言葉をどんなに待っていたかわからない。焦々しくさえなった。だが彼はおせきを忘れているようであった。そこで彼女は髮をふり乱し、汗を拭ふ間もなく、良人の足跡を拾うのである。そしてやはり随いて行けたのだ。――誰にも頼ることが出来なかった。自分でやりとげなければならないのである。たとえ労りの言葉が来たとしても、それが何になろうか。それは丁度病人に僅かの見舞金を送りそれで一切の心情が終えたと思うにも等しいのだ。そしてまたそれは、妥協のない真実というものを被う硬い衣の一つでもあったのだ。――彼女は一切の妥協をふりすて、突詰めて行ったところから本当の心の出発があるのだということを、しみじみと悟ったのである。労りのないことは冷淡であろう、だが人間がどうにもならぬ場合に直面したら、如何に上手な衣を被っていても結局妥恊のないものしか残らないのだ。一切を突抜けて行ったところにはじめて不安なく手を握ることが出来るというものだ。――彼女は疲労でくたくたになった。だがやはり足を曳いて、良人の後を追うた。今は意地も憎悪もない、たじろげば自ら愛情を棄権せねばならぬとでもいうように、晴れがましい気持になって進んで行くのであった。

憂鬱な路はやっと終った。二人は山の中腹に出た。もう倒木も岩もない、坦々とした小暗い朽葉の斜面だけであった。

そこには爽かな葉ずれの音が聞えていた。胸の疼くような香高い松葉の匂いが、蒼い苔土の上に満ちていた。

日足の平い密林ではもう黄昏刻(たそがれどき)が過ぎていた。のしかかるような静寂の中で、森々と深み行く山の気が二人を取巻いていた。

耳を澄ますと全く沈黙のようでもあり、逆に轟々と巨大な音響が耳を聾するようでもある。時折梟(ふくろう)の夢幻的な啼き声を耳にするとおせきは、別世界へ来ているのではないかと思うような気になった。そしてそれが良人の寡黙と同じものだ。と気がついたのである。

仙三は木の枝で仮小屋を作り、その前で焚火をした。彼は枝に通した餅を炙りながら、

「酷かったべ。よく隨いて来られたなア」

と低いしみじみした声音でいった。それから彼女が生れてはじめてだった、と溜息を洩らすと、

「こんな酷い目をして、一鉢二円だ三円だっていうと腹が立つ。一枝だって文句いわれたくねえんだ」

といまいましそうに舌打ちをした。だがその時はもう彼女には、決して金銭の響としては聞えて来なかったのである。良人は無駄にだけ吝嗇なのに違いない、と彼女は思った。

翌日は暗いうちに起きた。

深い呼吸をすると、関節がづきづきと痛むような疲れを感じた。仙三は渋い顔を作った。おせきは塊りをひらくように、徐々に手足を伸ばした。だが登りはじめると、不思議な明るさが心の隅にまで広がって来るのは、決して肌寒い山の明方のせいばかりではなかったのだ。おせきは不意と飛立つ雷鳥に笑ったり始終忘れ物を探しているような栗鼠(りす)を嚇したりした。

嶺へ出るのにわけはなかった。ただ這(はい)松(まつ)の樹海だけが厄介であった。それはまるで荒い波のようで、葉のうねりの間を彼方此方と搖られねばならなかったのである。

頂は重畳たる岩石と砂礫とで出来ていた。荒涼とした感じではあったが、何ともいえない壮大な眺めでもあった。また峻りたつ断崖の向うは、急に霞む下界に落ちていて、漂う朝靄の隙間からうっとりとする緑の帯の隠見するさまは、充分人の魂を揺るがす快さに満ちていた。

岩肌や砂礫の間などには矮生植物の群が、絨毯を敷いたように点綴していた。どれも冴えたコバルト色や紅色の惚れ惚れする花をつけていた。

仙三は奇妙な表情で長い間深呼吸をしていた。それを見ておせきは、良人は世俗の垢を落としているのだなどと思ったりした。

それが終ると彼は、やをら一つの群落の前に尻をつけ、袋の中から鋏や鏝を取出し、愉しそうに土を掘りはじめた。それはぺったりと地肌に吸いついたような葉から、細長い花梗をツンと伸ばし、梅に似た白い純潔の花を咲かせている。

「珍しいね、その草?」

冷たい徴風に頬をなぶらせながら、おせきはこの頂の風景に酔ったもののように、彼の耳許で囁いた。

「俺には珍しくない。こりゃ長之介っていうんだ。一株三円はするな」

「役者のような名前、三円じゃ安いね」「長之介つう人が発見したんだそうだ。草っていうが木だぞ。お前。へヘヘッ驚いたろう」

そういって細い半硬質の葉の間から、証拠の太い幹を彼は示したのだが、それよりも。もっと彼女をはっとさせたものは、彼の笑いであった。彼が声を出して笑ったのはこれがはじめてであったのだ、彼女としては。

そこでおせきは重荷を下ろしたように、肩の力を披き、やっと妻らしい感じの中に浸って行くのであった。彼女は何の警戒もなくすらすらということが出来た――「ねえ貴方! 貴方は暮しが悪くなると困ると思ってけちけちしているんではないでしょう? そりゃ分るわよ。私だってこんな綺麗な花で代えたお金をぞんざいにすれば、神様に罰があたるとは、ね」

仙三は微笑したようだ。だが彼は、どんな細根をも失うまいと慎重な態度で掘り上げるのは、やはり金銭のためだと飽くまで自分で信じているのである。またどんなに美しいといったところで、女房には敵うまい、とでも思っているかも知れぬ。






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