戦前、サラセニアなどの食虫植物やネリネ(ダイヤモンドリリー)で世界トップクラスの育種を成し遂げていた広瀬巨海氏について

 

『実際園芸』第19巻4号(昭和10年10月号)


※広瀬氏のネリネのゆくえ→六角安文氏のネリネ

https://karuchibe.jp/read/3945/

※広瀬氏の思い出を語る園芸界のレジェンドたち 座談会にて

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_14.html

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_97.html

※広瀬氏のご親族によると、生年月日は、明治19(1886)年12月24日とのこと。であるから、この有名なとかげとのツーショット写真は、48、9才頃だと思われる。没年は昭和28(1953)年2月2日。享年66歳。

※広瀬氏の記事メモ  

『実際園芸』第11巻第2号(1931)

「趣味の食虫植物サラセニア」  生物趣味の会員 広瀬巨海

23巻第6号(1937) 温室の写真あり

「サラセニア漫談」 猿背庵主人 広瀬巨海

25巻10号(目次には11号の表記)(1939)

「ネリネの話」 広瀬巨海

『実際園芸』第26巻7号(1940)

「我国に於けるサラケニア」 横浜家庭園芸会 広瀬巨海

※広瀬氏の晩年のようすは『フィッシュマガジン』1987年1月、2月号の魚人物伝(牧野信司氏)に詳しい。

『食虫植物 サラセニア アレンジブック』

木谷美咲・著 2015年 誠文堂新光社

『原色花卉類図譜』石井勇義 1935

『原色花卉類図譜』石井勇義 1935
『原色花卉類図譜』石井勇義 1935


広瀬巨海氏ととかげ


 横浜にある広瀬氏のお住居(すまい)を探ねると、崖下の木柵に囲まれた庭内には、不気味な鰐(わに)がのびのびと昼寝しているし、外国(とつくに)産の亀どもが、足音に慌てて泥の中にもぐりこんだり、フレームには何百何千のサラセニア(食虫植物)が、褐色の花の満開中で、その不細工な頭をふり立てているし、温室に足を踏み入れると、そこには七年間も水苔の中に蹲っている奇妙な蛙や、通り魔のように真っ黒なとかげや、さては乾からびた蟹の死骸、緑青(ろくしょう)色によどんだ神秘的な水槽(アクリウム)の深さのなかに、影も見せず静まり返るいもり類、ペロペロと青い火を吐くとかげ類の、一寸形容の出来ない複雑な体色など、数え挙げると際限ないが、さすがは斯界の達人・広瀬巨海氏だけはあると、その徹底した趣味生活ぶりには、驚嘆を通り越してむしろ唖然としてしまったかたちである。

★‐‐‐先ず最初にお目にかけるのがとかげ――つまりかなへびの種々相である。とかげと言ふ奴は、よく日中などチョロチョロと畑に出没したり、時たま尾(し)っぽでも踏みつけようものなら、気味の悪い死の舞踏、いな尾っぽの曲芸を見せつけたり、園芸家とても、まんざら縁のない動物だとは言えまい。とかげは年一回、それも数匹しか産まないから繁殖率は至って悪い。その代り熱帯魚のように年に数回、一度に何百粒も産んで、忽ち生産過剰になってしまうような心配は微塵だにない。

★‐‐‐ここにあげた写真について説明すると、①は吸血とかげを持って居られる広瀬氏、此のとかげは腹が血を吸ったような真っ赤な色をしているのでブラッドサッカー訳して吸血とかげの名がある。(以下略)

※広瀬氏は、綜合園芸大系7編1933にサラセニアの栽培方法を解説しているが、自身の名前の前に「猿背庵」(さるせあん)という号を表している。


●広瀬氏自身によるサラセニアの解説

「趣味の食虫植物サラセニア(1)」

『実際園芸』第11巻2号 1931(昭和6)年7月号(前編)


趣味の食虫植物サラセニア 生き物趣味の会会員 広瀬巨海


はしがき

 勝手気儘な人間の眼に止って弄り廻される所謂観賞植物と称される奴も、甚だ多くの数に上るが、その主なるものは美しいものに定っている。併し目下世界的に流行してる仙人掌には美しいのもあるが、まづそのグロ的な方面が人間の御気に召してはるばる静かな沙漠から引抜かれて銀座街頭へ進出身売りされてる仕末であるらしい。

 其のグロ的植物の中に、植物のくせに動物を捕らえて喰うと云う怪しからん一群の怪物がある。御承知の食虫植物と云う奴が即ち、それである。

 食虫植物と称する中にも、唯植物学的にのみ面白味を有し、形の小さいとか培養困難等の為に我々の玩弄から逃れてるのが多い。古くから人間に捕まって弄(ひねく)り廻され、無理な雑交をさえさせられて種々変った雑種を作り出されてるのは、食虫植物中の王座を占むる御承知のネペンテス Nepenthes とサラセニア Sarracenia が東西の大関である。




サラセニヤの原産地

 元来このサラセニアと云う植物は、北アメリカ州の東部地方(ミシシッピー河以東)にのみ産する七種の基本種よりなるサラセニア属を指す而して其七種の多くは甚だ変異に富んだ種で、天然にも甚だ多く雜交して多くの天然雜種に富み、人交的には勿論甚だ交配し易く七種共自由に雑交し得られ何十という雑種が出されている近代的な性の開放者である。
 サラセニアは前述の如く熱帯産のものでない。東部北アフリカ中で最も多くの種類を生じているのは、バージニア州南部からフロリダ州で、東はテキサスに及んでるが、サラセニア・プールプレアは最も北に及び、此の種は南フロリダ、アラバマより北カナダのラブラドルにまで及んで生ずる。右の産地の気候を考える時は、高温の温室中に一年を過して培養してる人々の頭脳の問題を云々さるるも、また止むを得ない次第と思う。
 サラセニア属に近似のダーリングトニア、カリホルニヤ Darlingtonia californiaca )は北カリフォルニア及びオレゴンの高地に生じ、ヘリアンホラ属 Heliamphora は南米ギニア地方の高山地方に産する。此の三つがサラセニア科と云う飛放(とびはな)たれた形の植物の一科をなす。

サラセニヤの発見

 サラセニアと云う名は二世紀も以前の事だが当時カナダのキュベック(※ケベック)に住する名高い自然科学者であったドクター、デー、サラセン Sarrasin の名を付けたもので氏より始めて此の植物の送付を受けた卜-ネフォ Tornefort(1719)は氏の名誉の為め之をサラセニア・カナデンシスと名づけたが、有名たる大科学者リンネも此の属名を承認し、而してサラセニア・プールプレア及サラセニア・フラバの二種を発表した(一七五三)。
 併し此の所謂サラセニア属の一群はサラセン氏が始めて発見したのではない。此より以前すでに、新発見の米大陸へ移住した移民等は早くより此の植物を知ったのである。
 彼等が初めて此の新発見の未知の処女地へ足を踏み入れ、旧大陸には比類のない此の珍奇な植物を発見した時を想像すると、そぞろに胸の躍るのを覚える。
 発見された此等の珍物は直ぐヨーロッパへ送られて種々記載せられた。一五七〇年に初めてロベルが書いたのを始め、引きつづいて種々(いろいろ)の記事や種類が発表された。しかし、生きたサラセニアが始めて欧州へ輸入され培養物とされたのは、一六四〇年チャールズ一世の園丁であった卜ラデスカント Tradescant [紫ツユクサ(トラデスカンティア・バージニカ)で吾々に親しい人〕がおそらく元組であろう。
 若いジョン・トラデスカントは北米バージニアの野で此のサラセニア(多分フラバであったろうとの事、一説にプールプレアとも伝える)を発見して欧州へ生きたまま持ち帰って皇帝の庭に之を養った。





新種の作出

 十八世紀の後半サラセニアは欧州園芸界の寵児となって新しき雑種が作出され、変った品種がアメリカから移入されて展覧会に異彩を放ち、衆人の驚異の的となった。従って種々の名称がそれぞれに附せられて、元来天然に変化に富んだ此の植物の名称を、甚しく混乱せしめてしまった。
 一八八一年、ドクター・マスタース Dr.Masters はガードナス・クロニクルに英国に存在する種類の分類を発表したが、それによると十四に分っている。それに数種の変種をそえて居る。ニコルソンのディクショナリ・オブ・ガードニングは主として此のマスタースを基として居る。
 植物学的に発見命名されたサラセニアの種類はリンネが命名(一七五一)のプールプレア及フラバを最初として、一七八八にワルターが「マイノル」及「ルブラ」の二種を発表し、「プンタシナ」が一八〇三年、ミチォックスにより加えられ、クロームの「ドラモンテー」の一八三七年とマックファーレンが一九〇六年のスレッゼイを最後とする。其間種々の品種と天然雜種に付せられた名称が甚だ多い。
 人工的にサラセニアの作出されたのは一八七四年ドクター・厶ーレ Dr.Moore がフロレンスの国際植物会議(インターナショナル・ボタニカル・コングレス)に自己の作出物として出陳されたのを最初とする。それはフラバをに父とし、ドラモンデを母としたものであった(詳細はガドナス・クロニクル一八七四年七三八丁參照)。之は「ムーレイ」と称(とな)えられている。
 その後ぢき引つづき(一八七四)有名な園芸商ベッチ・アンド・ソンスはフラバ(父)とプールプレア(母)を英国皇立園芸協会(ローヤル・ホルチカルチャス・ソサイエテー)へ出品して入賞した。これは之を作出した園丁の名誉の為、ステーベンシーと名づけられた。之と同様の天然雜種がウィリアムシーと云う名称で出品されたが、之はウィリアムスと云う花屋のところに北米南部から多数送って来たフラバの中から見出したものであった。その後も続いてベッチ商会の手で各種の雑種が出され、またウィリアム・ブル商会は数種のフラバの品種を命名して売出した。中には現今絶種して得られない美しいものがあった様だ。





戦前戦後の状態  ※第一次世界大戦

 一九〇六年米国のマックファレンが独逸出版の有名なエングラーのフランツェンライヒのサラセニアの部を引受けた時、従来の発表物を整理した結果、従来「フラバ・クリスタタ」「フラバ・ピクタ」または「フラバ・カテスベイ」の名で欧州で培養されていたサラセニアは、アラバマ州モービルのドクター・スレヂから送られてペンシルバニア大学の植物園のサラセニア室で培養中のものと同一であり、それが一つの基本種である事を発見して、ここにサラセニア・スレヂーの一新種を追加された。なお同氏は親しく南部の自生地に出動して混乱せる名称を正された。その結果は七つの基本種に三十五種の天然及び人工種類を加え、計四十二種と十一変種とを区別発表されている。
 その後独逸の雑誌に珍しい数種の雑種の(寫眞附)発表を見、また世界大戦前までリバプールのブルーズ商会が此のサラセニアを專門の一として栽培して名誉の金牌をしばしば得て居り、珍しい幾多の品名をカタローグにのせて居ったが、戦争中之を中止したので、今は之を主に培養している商人もなく、昔日の盛なりし時代はすでに流れ去った。それと共に幾多の珍奇な種類も培養者の手から失われて、今日紙上に歴史の面影となって残るのみとなった。

品種

貴重な紙面をふさげて相済まぬ次第だが、次に有りし日の品種を列記して見よう。

基本種 

一、マイノール mino (異名バリオラリス variolaris アダンカ adunca)
二、スレヂー Sledgei (異名グロノビー gronovii )フラバ flava クリスタタ cristata その他)
三、フラバ flava 変種アトロサングイネア atrosanguinea  リムバタ limbata  マキシマ maxima   ミニマ minima  オルナタ ornata (フィルデシー Fildesii ) ルゲリー Rugelii (エリトロップ erythropus )
四、ルブラ rubra (異名スイーティー Sweeti グロノビー・マイノール Gronouvii var. minor )変種アクミナタ acuminata
五、ドラモンディ Drummondii (異名ラクノサ lacunosa アンヂュラタ undulata グロノビードラモンデー)(Gronovii var. Drummondii)等  変種 アルバ alba ルブラ rubra ウァンヂュラタ undulata

六、プールプレア  purpurea  変種 ヘテロフィラ  heterophyla 

七、プシタシナ(異名カルセオラタ calceolata プルチェラ pulchella)


天然及び人工雑種


八、 アトキソニアナ Atkinsoniana(ステブンシー Stevensii に似)

九、 エレオラタ areolata(スレヂー Sledgii とドラモンデー Drummondii 間の天然雑種)

一〇、カンタブリヂェンシス cantabrigiensis (ドラモンデーとマイノルの雑種 英国剣橋大学植物園のリンチ氏作出)

一一、カテスベイ Catesbaei (フラバとプールプレアの天然雜種)

一二、チェルソニー chelsonii (ルブラ及プルプレアの雑種 ベッチ商会)

一三、クライトニー Claytonii (不明)(1890)

一四、コッキアナ Cookiana (不明 一方の親はザンデリアナ Sanderae なりと称せらるる)

一五、コールティ Cofirtii(プールプレアとブシタシナ psitaciana コート氏作出)(1889)

一六、クリスパタ crispata (マイノルとスレッヂーまたはフラバ雑種間の雑種(またはフラバとルブラの雜種とも云う)

一七、デコラ decora (マイノル及プシタナ間の雜種なるべし)(1889)

一八、エキサレンス (マイノルとドラモンデー、アルバの雑種ならん、またはフラバとルブラの雑種とも云う)

一九、エキスクルタ exculta(ムーレイ moorei と同一の種ならん)

二十、エキゾルナタ(プールプレアとクリスパタの雑種)

ニー、エールンハミー aruhamii (ドラモンデーとルブラの雑種)

二二、フレームビウ flambeau (プルプレア及マイノル間の雜種らし)

二三、ホルモサ formosa (プレタシナ及マイノル)

二四、イルストラタ illustrata (フラバ・ピクタとステブンシー)

二五、マディソニアナ Maddisoniana(ホルモサと同親)

二六、マンダイアナ Mandaiana (厶ーレイと同親の天然雜種)ビッチャーマンダ Picher, Manda 商会紹介種)

二七、メラノボダ melanorboda (ステブンシーとプルプレア)ベッチ商会

二八、ミチェリアナ Mitchelliana (ドラモンデー、ルブラとプールプレア)ウィリアム、ブル William Bull 商会

二九、ムーレイ Moorei (フラバとドラモンデー)グラスネービン植物園のムーレ (Dr.moore)作出(1074)

三十、パターソニー Patersonii ドラモンデー、プルプレア パタソン氏

 作出)

三一、ポーペイ Popei (フラバとルブラ)

グラスネービン植物園ポープ氏( Popei)(1881)

三二、ボルフィロネウラ porphyroneura (カテスベイ似)(1882)

三三、サンデレイ Sanderei(ドラモンデイアルバとコーテアナ)

三四、サンデリアナ Sanderiana (ドラモンデイ、ルブラとハルンハミー)サンダー商会(1897)

三五、ステベンシー Stevensii (フラバとプルプレア)ステベンス氏作出

三六、スワンニアナ Swaniana (マイノルとプルプレア)

三七、トーリアナ Tolliana (フラバとプールプレア)(1887)

三八、ビタタ vitata(プルプレアとチェルソニー)(1891)

三九、ウィリアムシー Williamsii (ステブンシーと同親)(1874)

四〇、ヴィリシー Willisii (コールティとメラノルホダ Melanorhoda )

四一、ウィルソニアナ Wilsoniana (ステブンシーと同親)(1901)

四二、リグレヤナ Wrigleyana (プシターナとドラモンデイ(ベッチ商会)(1897)

ブルース商会((A.J.A. Bruce. )の追加品種

 以上マックファレンの認めたものの後、英国リバプールのブルース商会には次の十四種をカタログのせた(五二と五三は変種)。

四三、ブルウシイ Bruceae (ファルハミーとアトキンソニー)

四四、ブルゼイ Bruceae

四五、ルベッセンス rubescens

四六、サーフランク・クリスプ Sir Frank crisp (ウィリアムシイとプールプレア)

四七、ワットソニー Watsonii

四八、ウィルクルニイ Wilklnsiae(プールプレアとメラノネルダ)

四九、ピクチュラタ Pictulata

五〇、レティキュラタ reticulata 

五一、ウィルモッテイ Willmottae(フラバとプシタシナ)

五二、フラバ・マグニフィカ flava magnifica

五三、フラバ・ギガンティア flava gigantea

五四、アシブリヂ Oshbridgii

五五、ミストルス・ジー・エッチ・デイク Mrs. J. H. Dick

五六、ライテーWrighitii


独逸作出の新品種 のうち次の六種だけを覚えている。

五七、ボゲリアナVogeliana (コルティとステベンジイ)

五八、フスケイ Laschkei(コルテイとムーレアナ)

五九、デスネリアナ Diesneliana (コルテイにフラバ)

六〇、アムランフティアナ umlanftiana(コルテイにレダリアナ)

六一、ションハルネンシス Schoenhrunnsis (コルティとコッキアナ)

六二、バッテリアナ Vatteriana (イルストラ夕とスチベンシイ)


 なお他にも発表されているであろうが、兎に角自分の浅い知識だけでも六七以上の品種がある。まだまだ自分のところにも名付けない天然雑種が種々見つかっているし、また交配の結果の数組合せが出来ているから、品種は無限に出来得るものである。流行後れで、やる人が少ないだけの事で自分のところだけでも年百組以上交配して種子を蒔いている。

 実生の楽しみはそれをやっている人のみしか知らないが、只培養を専一にやっているよりも無限の楽があると思う。数千万の実生の中から理想の一品が出来た時! その気持は知る人ぞ知るだ。

 勿論流行後れだと云え植物園等流行に関しない培養所では、まだまだ多くの品種を保有している。


サラセニアの形態


 サラセニアを知らない人の為に一言その形態を記して見よう。大体は挿絵のようであるが、花の時には丁度葉が末だ良いのが出てないので見分け難い。サラセニアは宿根草で根茎は多く横にのび、その形にまづ「アヤメ」等に似ないでもない。それから多数葉が根出してその葉は瓶子状をなして一側辺に羽状の付属物があり(之は種類により著しいのと一寸気づかれないのがある)上は蓋(リッド)がある、が蓋の形、瓶子の状、種類により種々で一口には言われない。葉の大きなのは一メートルの高さにも及び、小は二三寸位のもある。その蓋や瓶子状の葉も、赤紫色を帯び、又は綱脈状等に色どられて中には人体血管の状を示した標本の様に気味の悪い色取のがある。またドラモンデー等は白い模樣があって美しい部類に入れられ得る。花で一茎一花で春、冬芽から直に、葉に先出って出る。始め莟は上を向いて成長するが後は下向になり、花は下垂して開く。萼と花弁各五で、三個の苞は蕚の直下にあり、従って花梗は裸だ。色美しい花弁は曲って、花期が了ると直ちに落ち去るが、蕚は果実が開くまで残っていて、一寸花弁と間違う人が多い。雄しべは無数、子房は五室、一個の短い花柱が出て、その花柱の先が五つに分れているが、其の間が膜様になっていて何の事はない五つ骨の洋傘を広げた様な形で骨の先の一点が柱頭になっている。花弁の曲ったところが骨と骨の間ヘー寸くい込んで、内の雄蕊や子房等の御本尊様は花期には中々拝めない。

 雄蕊も花後直に花弁と共に落去るが、洋傘状の花柱は萼と共に永く残って奇形をなす。

 花弁は種類により黄、(白黄から濃黄)赤(濃い紅からピンク)赤紫、及び二色のシボリ、等に咲いて美しい。萼と洋傘状の部も色の濃いのがある。

 葉は晩春より夏に最も美しいのが発生するが。一度夏中に中止してまた秋に美しいのを出すのも(フラバ・ドラモンデイ)ある。此等の夏中の葉が筒を欠くいて剣状になって居る。冬は多く上部が枯れるが全 部枯れるのはない。プールプレア、プシタソナ等に春まで葉が生きて美しい。共通に完全なる冬芽を作る。


虫が誘惑されるわけ


 葉の部分に動く様な所は少しもない。よく虫が入ると蓋をすると書いたインチキな教科書等があるから、実物についてよく実験さる可きだ。なお瓶子中にはネペンテスと異り、初めには水液様のものを出さない。プールプレア等蓋の口が上向いてるのに水が一ぱい入っているのは、後で雨水が貯まるのであるから此れも間違いはないように……

 サラセニアの花は蜂が恋の使をする。花の構造はその為に理想的に出来てるが一寸甘く説明致しかねる。

 葉の美しい色は虫(ドラモンディの白い葉にはモンシロチョウがまよってくるのを見る)を引く為であろうが、虫が最も好んでくるのはその葉の側にある翼の辺と蓋(リッド)及瓶子の口辺から分泌する甘露にあるらしい。なお一種の香も発する。


捕われる虫の様々


 虫の仲間にも人間同様所謂群集理と云うのがあると見えて、一虫飛び込んだ葉には、実に盛に入り込む。丁度鼠捕りに一疋入るとつづいて入る様になる奴があるがあれと同様である。先に入った奴が悲鳴を挙げて助けてくれとでも言えば他の奴は少なくも応援者以外用心して入らないのだが、勿論虫共に友を助けると云う人間の様な美しい(?)友情愛はあるまいと考えるがどう言うものだか、考えるとそれ等の理由が却々面白い。蓋の内面は微毛があって足がかりがあるので酒飲共かカフェー等に引よせられろ様に、夢中になって引つけられて甘味に酔う。その内瓶子の中をなめ始め、而て足の先の爪一つ二つで手がかり、足掛りとして、内部をベロベロやってるが、そのうちついそれをはずすと筒の内部は蝋質でするすると下へ落ち込む。中部以下とに下に向った毛が生して、もがけばもがくほど奥へ奥へと入り込んで死んでしまう。それでそのくさった液を幾分筒の底で養分に吸収するのだと云う恐しく上手に出来上ってる。

 葉のまだ固まらない若い中に、沢山(多いのは八分通りも入る事がある)虫を喰い過ると茎がくさる。食傷を起すと云う事になるのだ。それ故美しい葉を見たいと志す人は、葉の口を開いたのを見たら、綿(脱脂綿でないのを)の一塊を口へ軽くつめて虫の入るのを予防する方がよい。

 虫の種類は中々多いが、多くはハイ(言えバイは戸外では一向はいらない)の類等が多く、野盗虫の蛾カメムシ等も入る。また足長蜂等も盛に入り込む。蜂の奴は歯が強いので中から葉を喰い破るが、頭だけの大さしか破れずその内これも御陀仏となる。利巧なのは「クモ」の先生で口の辺へ網を張って獲物を横取りする、間違って中へ落ちても糸をたよってするする苦もなく逃げる。サラセニアの一葉に社会相の一部を観察する事が出来る。此の点趣味の植物として正に百パーセント。而もアブラムシの様に植物の害虫でなく植物が動物を肥料とするのであるから一向面白い。



●食虫植物の専門家として知られた越川幸雄(こしかわゆきお)氏による日本におけるサラセニアの沿革

※僕は越川氏とは晩年、南総食虫植物園の時代に鈴木浩仁氏のカーネーション「レリシア」の仕立てでアドバイスされていたときにお目にかかったことがある。園芸に対するたいへんな知識と経験、愛情を感じられた温厚な感じの方でした。

「サラセニアの解説と栽培」 越川幸雄

『新花卉』第57号 日本花卉園芸協会/編 タキイ種苗出版部1968(昭和43)年3月号


 食虫植物の中で何が一番面白いか?、と言われれば、一般的に言えば先ずネペンセスとサラセニアと答えるのが常識でしょう。食虫植物とは言っても、非常に小型の昆虫を相手にしているものが多い中で、サラセニアとネペンセスは、とにかく一般的に虫と言う事が出来る、いやひょっとすると、動物の中に入る様なものまで相手に出来る唯二つのものなのです。しかも、一属一種などというけちな手合ではなく、三属一〇種と変種約二〇に達するサラセニア、のべ四〇種余りで、まだまだ新種発見の可能性のあるネペンセス、といずれも相手にとって不足のない両横綱と言えましょう。

 この両者の中でも、熱帯東南アジア原産のネペンセスが、日本での栽培にどうしても温室を必要とするのに対し、北アメリカ南部原産のサラセニアは、大体フレーム程度の保護で良く、日本での栽培がより簡単なのは当然の事です。又捕虫葉が面白く美しいのみならず、花も非常に変わった美しいものである事、交配、実生もさして技術を要しない事、本来湿地性の植物なので水盤中に腰水栽培出来、水やりにあまり手がかからない事、など何故サラセニアの栽培があまり盛んでないのか、不思議と言わねばなりません。

 現在サラセニアの仲間に入れられているものには三つの属があります。一つはサラセニア属、それからダーリングトニア属、そしてヘリアンフォラ属です。では次にこの三属の大別について書いてみましょう。サラセニア属は、先にも述べました様に北米東南部にまとまって原産し、現在の分類では八種といくつかの変種に分けられています。ダーリングトニア属は、サラセニアと良く似ている植物ですが、原産地は北アメリカでも全く正反対の西北部、しかもサラセニア属が低湿地産なのに対し、高山性を帯びているのも面白い対称です。最後のヘリアンフォラ属は、前の二属とは柱頭の数が違う、という分類学的に相当の差が見られるにもかかわらず、形態的にはそれほどの違いもなく学問的にも非常に興味の深い属です。これは南米ギアナ高山地帯に限られて生育し、いわゆる寒地性の植物が低緯度地方の高山に取り残されて生育して来た典型的な例とも言えましょう。ヘリアンフォラは一属一種とされていましたが、最近の研究ではいくつかの種に分類されています。

 以上三属の中でも、比較的人目に付き易い場所に生育し、品種数も多いサラセニアが早くから採集され研究されて来た様です。サラセニアの最初の命名は一七一九年Tournefortがカナダの自然科学者 D.sarrassinから送られて来た標本に対してサラセニア、カナデンシスと付けたのが最初です。その後、かのリンネがそれを整理し、サラセニア・プルプレア及びサラセニア・フラバの二種を決定しました。(一七五三年)

 しかし、これ以前にも、新大陸に移住した移民達はこの珍奇な植物を知っていたらしく、その最初の図版は一五七〇年に記されており、又最初の栽培は、あのトラジスカンテイアで著名な、J、トラジスカントが一六四〇年イギリスに持ち帰ったのが初めとされています。 一九世紀のヨーロッパは、近代社会が一応の落付きを示したせいか、凡ゆる園芸植物にとって、正に天国の様な状態でした。わがサラセニアもこの例に洩れず、続々と変わった品種がアメリカから導入され、展覧会に異彩を放ち、植物界の驚異としてもてはやされました。しかし反面、いろいろ勝手な名前を付けられたので、元来変化に富んだこの植物の名称を甚しく混乱させてしまったのです。それに加えて、各品種間で自由に交雑が行なえるというサラセニアの特性も、この傾向に輪をかけ、一九〇六年にマクファレンが整理する迄は全くの混乱状態と言ってもよいほどでした。マクファレンはこれを七種の基本種と三十五の交配種十一の変種とに区別しました。その後もサラセニアの栽培熱は衰える事なく、サラセニア専門の植物商も出現したのですが、第一次世界大戦の開戦は、一夜にしてこの王城を破壊し去り、それ以後ヨーロッパの園芸界からは全く忘れ去られて今日に及んでいます。

 日本では、明治の終り頃からヨーロッパ経由で輸入され始めましたが、それらは洋蘭などと共に蘭業者から輸入されたため、なにも分らないまま温室中で栽培される破目になり、先ず成功はおぼつかなかったのは明らかです。その後、昭和に入ってから、この分野での大先輩、広瀬巨海さんが多大の犠牲を払った結果その栽培法を確立し、やっと日本でも新品種作出などが行なわれる様になって来たのでした。しかしこれも、あの第二次大戦が、第一次大戦と全く同じ結果を日本のサラセニアの上に及ぼし、広瀬氏のところにあった数万鉢に及ぶサラセニアは全く壊滅し、それと同時に、日本での栽培も全滅と言ってよい程の打撃を受けたのでした。

 戦後の出発は、現在食虫植物界の大恩人、鈴木吉五郎氏のところから始まります。鈴木氏は、人も知る植物栽培の大エキスパートで、食虫植物に限らず、一寸変わった園芸植物で、この方のお陰をこうむっていないものはない、と言っても過言ではないでしょう。サラセニアもこの例に洩れず、第二次大戦中、数少ない原種や、珍しい品種は鈴木氏のフレームで手厚く培養されていたのです。そして戦後、ぼつぼつデパートの園芸品売場などへ顔を出し始めたのは、その全てが鈴木氏の培養品だったわけです。現在でも、北アメリカからの採集品がいくらか入って来てはいるものの、ヨーロッパでの栽培は第一次大戦後ずっととだえたままになっており、日本はおろか、世界のサラセニア界のメッカが鈴木氏の培養場である事も変わらぬ事実の様です。なお、今でも、時々、紅綾とか綾波、羽衣等という日本名の付いたサラセニアを見掛ける事があると思いますが、これは戦前の鈴木氏の作出品で、サラセニア改良種としては非常に優れたものだと言う事を付け加えておきます。

 マクファレンにより七種の原種にまとめられたサラセニアは、その後の研究により一種追加され、結局原種は八種となりました。では次にサラセニア科の三属のうち主なものについてその特徴を書いてみましょう。(以下略)


※鈴木吉五郎氏の食虫植物と小石川植物園、松崎直枝氏とのつながり

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山草と共に生きる 鈴木吉五郎(山草会々員)

 まだ私の学生頃だった。石井勇義氏が始めて訪れて来られたのは、あまり判然としないが、多分当時時植物園の松崎直枝氏が不肖のティオネアを「大分ふえたのに出さぬのは怪しからん」と説得に来られた時と考える。多分大正十一年か十二年の頃ではなかったかしら。当時また不肖なども学生だったが、広瀬巨海氏や名古屋の村野氏などという不世出の名家の指導をえて不相応の相当数のものを集めていた。今考えてもよく学生の身であんなにできたとこれを許してくれた環境を感謝している。数千に近いディオネア、数千の各地のサギ草、さてはウチョウラン、ヒナチドリ、スミレ類、イカモノの洋ラン、古典園芸としての風ランの銘品など既に万に近いものがあったかもしれない。

 これを見て「せっかくの蒐集品、なにとぞ有終の美を切に祈る」といわわたのをよく記憶している。「もっと集めよ」との事かもしれぬ。あるいはただ集めるのではなく「資料を学界に供せよ」というのかもしれないし、あるいは「これ等の中から大いに外貨でもつかむよう努力せよ」とのことだったのかもしれぬが、大いにけしかけられた気がして、それでいて決して悪い気持ではなかった。

 一体蒐集癖というものが何でも同じであろうが、生物である植物では水やりは一日も欠かす事はできない。庭植ならいらぬといわれるかもしれぬがやはり毎日の手入れはまぬがれない。なまけようものならじきに傷み、そしてそれに限ってよいものからだ。大切にしているものに限るといってもよいほどだ。弱いから大切にもするし貴稀品ともなるわけで、美人薄命は植物でもあるらしい。

 所で時代の変遷の大波には坑しきれず、どんなに骨折っても枯れてしまうのもあるし、それも古くなると、ああそんなものがあったっけな、と情ない記憶だけの事ともなりかねない。しかし集める時の苦心は、実に並大抵のものではない。これを後世に伝えねば何等の意義もなくなってしまう。そこで図説であり、書物がある。もちろん押葉ということもあろうが、こうなると趣味ではなく専門の仕事となる。石井氏の図説、辞典の意義もおそらくこんな処から発しているのではあるまいか。椿であり、モミジであり大成したかどうかは寡聞にして存じよらぬ事だが大した記録であり偉大な業績だ。

※その他

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