欧米ではバレンタインの定番花、ヴァイオレットの栽培と収穫、束ね方について  東京ナーセリー 吉田欽二郎(※欽次郎とも)


僕の仲卸時代には、九〇年代の後期まで千葉県の江沢一郎さんという方がスミレの花束出荷をやられていたが、ご高齢のためにおしまいにされた。日持ちはしないが、たいへんにかわいらしいもので、時季が来ると多くの花屋さんに喜ばれた。代々木上原で自転車で花を売るので有名だったお花屋さんによって「花時間」の表紙になったこともある。

※房総半島の園芸史 東京ナーセリーについて

https://ainomono.blogspot.com/2022/03/141939252.html

※昭和初年のヴァイオレット

https://ainomono.blogspot.com/2022/12/blog-post_81.html


1934年  『実際園芸』昭和9年11月号(第17巻第7号)

 切花向の ヴィオレットのフレーム栽培

房州・東京ナーセリー  吉田欽二郎  ※吉田鐵次郎氏と間違われやすい人物

※所在地は、安房郡保田町元名 (『全国著名園芸家総覧』大阪興信社営業所 昭和2年)


『鋸南町史』から

※吉田欽二郎氏は、東京府立農事試験場の第一期研修生で、森田喜平氏と同期。吉田氏は戦後米軍化学農場長となるが、森田氏は顧問として参画していた。


ヴィオレットの切花


 鉢植や切花が、世界的に減退して居るとさえ伝えらるる所であるが、その原因は、冬咲スヰートピーや、パンジーに圧倒されて居るかの様に見受けられて居る。而し此の花は頗るロマンチックで、ボタンホールやコッサージに使用さるる特異性があるから、見捨てたものでない。我が国では、確かに以前の様に一重や八重を栽培する人が少なくなって、八重種は取分け栽培が困難で、之を毎年同じ様に上手に作ることが至難である所に、この植物の気むつかしいと思われる箇所がある。天然香料用として、今なお仏国や伊太利ではオリーブ樹の下に多数栽培されて居るのである。


栽培の歴史と品種


 明治時代に妙華園に多数のコレクションがあって、十種に近き一重、八重を専ら鉢植として栽培して居た。殊にザーと称する小輪花は、芳香高く、切花に歓迎せられし品種であったが、目黒菜花園萬花園(まんかえん)にラ・フランスのフレーム栽培がされて、ビクトリヤ、ブリンセス・オヴ・ウェールスなど、次第に輸入されたのであって一時ミヤマスミレの白花を切花として珍重されし時代もあった。最近は桜井元氏がカイザース・ウィルヘルム二世を多数栽培されて居るが、本種は八重にある如き香気と、大輪で花梗の長い今までラ・フランス等に不備な所を改良した優秀花で、行く行くは、市場用種として栽培される良種である。八重種やパルマ種は、通信販売のキャタローグ(※カタログ)からも次第に見る事が出来ぬ状態である。

 外国には三十余種のヴィオレットがあって、ミセス・ロイド・ジョーヂの如きは、半八重の一風変った花で、十年前から発売されて居て、我が国へは未だ輸入を見ざる品種である。

※品川の妙華園

https://www.ohsaki-area.or.jp/townguide/konjyaku/img/konjyaku03.pdf

※菜花園はカーネーション育種で有名な土倉龍次郎氏の経営。のちに溝の口に移転。


ヴィオレットの特性


 発育上の適温は十月頃の気候で、寒冷も三十七度(※華氏)を下らなければ発育する。一重種は冷床で冬季開花するが、六十度以上の温度は必要としない。夏期の乾燥には非常に抵抗力が弱く、強烈なる陽光の直射は全く耐えられないもので、その影響からレッド・スパイダー(※ハダニ)の惨害を蒙り易い。秋季に降雨が長きに亘ると、ラストの発病を生じ易い。大体六七月に元気に生育したる株も、八月には一時株立が衰弱するが、九月に入りて再び元気を取もどす。それ故七八月に気温低き山間地方は非常に発育が順調である。開花は十月中下旬から開始する。ヴィオレットは各品種に依り温室に向くものや冷床で足りるものがあって、アドミラル・アベランと云う赤藤色の一重咲は、硝子下でないと固有の色彩を発揮しない。プリンセス・オブ・ウェールスは、半耐冬性であるから、暖地の露地開花も完全である。一重種は木葉土(ママ)が要らないもので、ホワイトザーの如きは、過量施用すると不適当のものである。パルマ種は、是非植土に木葉を必要とする等、色々異った所がある。

 ラ・フランスは、前述の通り、今なお各地で切花向に栽培されて居る市場用種であるが、病害にも弱く、添葉には不向で、香気は乏しいが、その花の巨大輪と色彩の濃厚と共に、ステムの太く丈夫である所は、非常に優越点である。以下ラ・フランスの栽培につきて記述する。


位置と土質


 切花用には、定植されたその位置で開花させる為に、位置の選定は非常に肝要で、最良位置は東南に面し、幾分傾斜ある所が宜しく、西南や西向の土地は、夏期陽光を強烈に受け、越夏に困難を来す。土質は肥料と潅水設備で思う様になるが、営利栽培には経費や煩雑の手数を脱する上から、矢張り適地に定植するに越した事はない。所謂ボカ土も不適当ではないが、粘質土壌は品質の優良なるものを生産するから、堆積肥料も少量で足りる。ボカ土や砂質土へは牛糞堆肥を施用し、粘質土では馬糞堆肥が特に有効である。根が非常に深く地中に伸張するから、肥料不足に依る開花減退を起さない様に、堆肥類は深く耕入し、地表へ残存しない様特に注意する。而して堆肥腐熟の不完全なるものは、定植後株の立枯れする事が多く、堆肥の施用は害ありて益なき事に経る。採花中は葉を同時に多数剪るから、元肥が不充分だと品質が劣等となり易い。


定植の仕方


フレームで開花が終ると、急に葉茎を多数に蔟生してくるから、四月中旬から株分や挿芽に着手する。而して五月中旬に、定植出来れば都合がよい。定植時期が段々遅るに従い、株立は思わしくない。株分苗と挿芽苗とでは、後者の方が著しく開花が多数であるから、たとえ株分苗でも、余計な古根の附着して居る事は宜しくない。それ故に一旦切り直して、新根の発生を見てから定植する。ワサビ状の根茎のある古苗は、苗の不足の時以外には使用しない方が得策である。株間は八寸で、作間は一尺、一寸考えると広い様であるが、フレームを被う頃には、株間は互に接触する程に生育する。

定植前に床面は煤煙を一面に散布して置く事は、病害や株の発育に有効である。植付方法は苗の深植よりも浅植の方が害がある。しかしてボカ土では、特に浅植は宜しくない。植付は固く行う事が栽培の要訣で、葉は半切せずとも、潅水や敷藁等で活着の見込あれば、そのままに附着して置いた方を宜しとする。

中耕は除草と共に最も大切なる仕事の一つとして、十日目毎に地表を膨軟にする事に依って、炎暑の時期のレッド・スパイダーの被害を軽減する事が出来る。


ヴィオレットの手入れ


 発育が六七月に旺盛になってくるから、三斗式ボルドー液を二三回撒布し、秋季一回行う事は是非必要である。作間の敷藁は、降雨の多い時期には土砂の葉裏に附着するのを防ぐ外、地温の干均を期する上に有効ではあるが、中耕に不便であるから、八月一杯位は、日中簾を被う程度で、他の時期には不必要である。旱天続きの暑中には、夕刻葉裏へシリンジを与うれば、発育が極めて良好で、砂質土に栽植したる床へは、是非必要である。また乾燥期に灌水を怠ると、肥料が却って根部に悪影響を及ぼすものである。之と反対に、湿潤の天候が続くと葉茎は小虫の食いたる如く白斑を生じ、ラストと称する病害を蒙むる。このラストはラ・フランスに特に多いから、余り発病烈しき時は、取集めて焼却するより他に良法がない。フレーム硝子、障子類の勾配は、水切れに差支えなき程度でゆるやかに設置する。その時期は秋雨から免かれる為に、十月には用意するのであるがプリンセス・オブ・ウエ-ルスは、ラ・フランスより時期が遅れても差支えない。通風はこの場合非常に注意して、葉の徒長を来して劈頭から開花率を低下させることは、己に失敗の第一歩である。ラ・フランスは、芳香のうすいものであるが、十月中旬頃は一年を通じて最も香気ある時期である。ヴァイオレットは新鮮なる空気を非常に要求するもので、日中は成る可く硝子戸や油障子を外して外気に当て、寒冷時期と雖も、密閉栽培は花の色彩が淡くなり、切花的価値を損することになる。秋期株立の不良のものがあると、床土(とこつち)はために乾燥になり易く、開花するも短小のものが多い故、かかる株はよく注意すると、ワサビ根が露出して居るから土寄せをする。枯葉やランナーの除去は、平素から注意して行う。

 追肥として人糞尿を施用するは香気を奮(うば)うもので・茶ガス類は香気を増すと称されて居るが比較研究なき為に何とも云えぬ。追肥は油粕の腐熟液を希釈して二三回は差支えないが、肥料が充分に足りて葉を肥大にする事は、フレーム内で葉を徒長させると同様宜しくないから、冬季間葉茎が短小にして、肥料不足を見たる時は多木肥料(たきひりょう)の粉末を床土に交えて、潅水に依る肥料分解を促すのが適当かと思われる。この仕事も十日目位に少量ずつ施肥して追肥とすると非常に効果がある。


収穫と収入


 寒冷期の採花は、朝夕と定った事はないが、春暖は早朝行うが宜しい。その撮(つ)み方は、食指の先で掻き取る様になし、ステムを持って決して引抜かないのである。花の束ね方は、添葉(そえば)する関係上、その場で束ねて居る人々があるが、採花したる花は、早く冷蔭の室内に搬入して、然る後に束ねる様に心掛ける。束ね方は、幾分中心を盛り高く、添葉は花の半数は必要とする。五十本或は二十本に束ねるのであるが、添葉は春暖にならぬ限り、いつも不足を来すものであるから、プリンセス・オブ・ウェールスの如き美しい葉を多数生ずるものを、葉取用として別に栽植すると、極めて便利である。

 収入は、昭和八年から九年の春季までに採花せる私の総計であって、栽培せる土質は砂質土、出来栄えは中庸で、総て高級園芸市場へ出荷して居る。フレームは油障子十五枚分と十二間余りの霜除栽培からで、各月の採花束数に於て、露地用は二月中旬から加って居る事を特記しておく。市場出荷の開始は十月七日で、当時は百本三十銭で、十二月中旬幾分相場は騰貴を示し、漸次下落して四月廿三日まで露地栽培を出荷したるが、本稿ではフレーム栽培が主であるから、四月の採花合計は省略する。  


(一束二十本束) 

十 月 一八九束  

十一月 四九四束

十二月 五七四束

一 月 三一〇束

二 月 六一〇束

三 月 七五九束


之等の総束数の市場買上げは六十余円となり、集約栽培として相当の結果を示したる為に・本年は株分苗(かぶわけなえ)から約五倍の面積に定植されてある。


今後の予想


ヴァイオレットの切花栽培は横浜、東京、千葉等に少しずつはあるが、大栽培されている所は余り耳にしない。市場取引に於ても東京でも比較的に価値を認める所と、販売業者に合わぬ市場とがあるから、一般的生花とは称されぬ所がある。過去の取引に於て横浜や神戸の外人の居住する市場は相当見込みがあるから、生品を消化する事であろう。ただ花の束ね方は最も熟練を要し、上手に添葉しないと市場で受けが悪くなる。(終り)




【スミレ、スミレ、スミレ!】 『AMERICAN FLORIST』から

1897 - 1919

スミレ、スミレ、スミレ! 

バレンタインデーの始まりは、スミレを中心にスイートピーやスズランなどの可憐な花々が好まれた。カーネーション、カトレア、クチナシ、チューリップ、ジョンキル、ワスレナグサ、ミニョネット、フリージアなどの春の花や、鉢植えも贈られた。バラもあったが、まだそれほど需要があったわけではない。

50個、100個、200個のスミレを丁寧に束ね、赤いハート型の箱やハンパー(手付きの平かご)に入れたものが一般的であった。スミレの花束は、一重、二重を問わず、量に応じて25セントから75セント以上で売られていた。 

コサージュ・ブーケ 

バレンタインデーの初期には、花は切り花を箱に詰めたものとコサージュブーケの2種類が売られていた。1913年には、2月14日に販売されたコサージュブーケの数が、他のどの日よりも多かったと報告されている。コサージュブーケの代表的なものは、スミレ、スズラン、スイートピーなどの一種類の花を単独で、あるいはカトレアやクチナシなどの別の花を中心に配置したものであった。コサージュブーケは赤いハート型の箱に入れられ、バレンタインデーのタグとリボンがつけられた。1912年の『The Weekly Florists' Review』には、典型的なバイオレットのコサージュブーケの構成について次のような記述がある。 

上流階級の取引では、スミレは100から300輪のコサージュに仕立てられます。スミレの葉は、価格に応じて、多かれ少なかれ精巧な飾り(シールド)で裏当てされたものが使われています。スミレの花束の中央には、立派なクチナシを1本、またはスズランの花穂を3、4本、クチナシやスズランの下側の花がスミレのすぐ上に来るように配置します。スミレの茎は通常、バイオレットかグリーンのホイルで包むのですが、優れた職人はリボンを使います。リボンを巻き、留め、シールド(裏当て装飾)をつける作業は、驚くほど手早い。ネクタイも、リボン専門店から多種多様な既製品が提供されていますし、幅広の巻リボンを用いることもいいでしょう。箱の裏地は、湿気が少ないので、ワックスペーパーではなく、白いうす紙で覆っています」。 

サクラソウやシクラメンなどの鉢植えは、そこそこ人気があった。植物はライナー付きのバスケットに入れられるか、クレープ紙(これは水分を保持しない)で覆われた。「また、昔ながらのハンドブーケ(ワイヤー入り)も、ハート形の箱やハンパーに入れられるなど、魅力的な演出がなされていた。色は赤と白が中心であった。また、今世紀初頭のバイオレットの絶大な人気から、パープルもふさわしいとされた。 

愛のシンボル 

1911年になると、花屋のデザインにはアクセサリーが重要な役割を果たすようになりました。ハート、ラブバード、キューピッドなど、愛のシンボルがよく使われた。厚手の紙で作られたこれらの作品は、バスケットの持ち手に結ばれたり、ショーウィンドウに飾られたり、アレンジメントや鉢植えに加えられたりして、ロマンチックなホリデームードを盛り上げました。

ウィンドウ・ディスプレイは、若い女性が恋人から花をもらう絵や表現、愛の女神を描いたものなど、さまざまなものがありました。また、ハートのセットやペーパーバレンタインもよく登場した。パッケージには金文字、矢、ハートが描かれた。

バレンタインデーには、赤やハート形の容器が重宝された。ハート形の箱、取っ手のついたバスケット、タンブラーバスケット、ハンパーなどが使われた。バスケットの取っ手がハート型になったのは、この新しいフラワー・ホリデーに目をつけたメーカーが人気を博したためである。1919年には、子供やキューピッドをモチーフにした斬新な花瓶が登場した。

コサージュの需要も大きく、ハート形のコサージュピンやコサージュシールド、リボン、ネクタイ、ツイストコードなどが発売された。コサージュブーケの箱には、レギュラーとハート型に社名が入れられるようになった。

*1913年 すみれで作ったコサージュブーケは初期のファンから好んで贈られた。(画像上)

*1911年 ワシントンD.C.の有名な花屋が、1束50セントの「極上の国産スミレ」を提供。(広告)(画像下)

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