千葉県 房総半島の花づくりがどのように始まったか 昭和14年(1939)の房州視察報告  『実際園芸』第25巻第2号

 
『実際園芸』第25巻第2号 誠文堂新光社 表紙はシプリペジューム


日本有数の花の生産地、千葉県房総半島の昭和14年の状況が描かれた「房州の園芸視察記」
『実際園芸』主幹、石井勇義氏が現地の園芸家を訪ねて見て歩いた記録。
大場農園(現・大場蘭園)の園主、大場守一(しゅいち)氏が同行。大場氏と石井勇義氏は若い頃に小田原の辻村農園でともに研修生として仕事をしていたという長いつきあい。

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◇鴨川に原博士を訪ねる
 一月三日、花の房州の視察にと、両国駅を九時四分の列車に乗込む。車内は東京から房総の郷里に帰る人々で満員だ。私の外に大場農園主の大場守一君が同行された。大場さんは、私が始めて園芸に手を染めた頃からの友であり、花の営利栽培にかけては博識なので、同君と連立った事は何かと便利であった。







房州の園芸視察記 主幹 石井勇義

◇鴨川に原博士を訪ねる
 一月三日、花の房州の視察にと、両国駅を九時四分の列車に乗込む。車内は東京から房総の郷里に帰る人々で満員だ。私の外に大場農園主の大場守一君が同行された。大場さんは、私が始めて園芸に手を染めた頃からの友であり、花の営利栽培にかけては博識なので、同君と連立つた事は何かと便利であつた。
 汽車は○時三十分に鴨川駅に着く、駅頭では、同地の趣味園芸の先立、原進一博士と私の旧知、鈴木敬止郎君に迎へられ、海辺の眺望では鴨川一といふ原博士の邸に御案内を受けた。博士は内科のお医者さんであるが、菊、朝顔の栽培にかけてぱ第一人者であり、朝顔の巨大輪咲に於て、昨年の関東の七寸四分といふレコードの所持者である。しかも博士の園芸は単に、花の美大のみを竸ふにあらず、極めて浄き趣味の上に立つて健康と高潔なる情操を培養するにあると聞く。博士を中心に、近隣の同好の人々が多数集つて、菊と朝顔の会を成し、主に東京国の華会の内藤愛次郎先生を師として、培養の研究に当つて居られるとの事であつた。
 この日も五、六人の方々がお集りになり、園芸趣味談に数時間を過し、植物の栽培上、鴨川地方が特に乾燥し易い気候であること、朝顔作りの苦心談、バラ栽培のお話など、熱心なる園熱談は盡さうにもなく三時過ぐる頃残り惜くも御別れして、原、鈴木両先生に送られて太海、花園、江見方面を観察して石川農園主をお訪ねした。太海から花園にかけて、数年前に伺つた頃には花作りもポツ/\であつたもので、南向きの日当りよい畑といふ畑は悉く花で一杯になり、金盞花や、矢車菊、などはボツ/\咲いて居り、又寒菊の類は花盛りであつた。寒菊は白、紅、黄の三種で聞くところに依ると、昨年の秋に菊を作つた人は予想外の収入を得て居り、農家の方で菊だけで三百円、五百円の収入を得た方はざらにあつたといふ。

◇石川農園主の談
 金盞花も暮から切り出して居り、今も相当に咲てゐたし、矢車菊やかさルピナスなども花が出てゐた。道路の両路の両側に拡つてゐる花畑を眺めつつ江見町の石川農園主の宅をお訪ねした。石川氏は房州の花作りの開祖ともいふべき人で、大場氏は旧知であり、私たちの行くのを待ち迎へて下さつた。石川さんは早速近隣の園芸組合長等に御通知してお集りを願ひ、一夜座談会を開くことになつた。
 房州の花作りの開祖と言はれる石川さんは、もと東京の千住方面の御出身であり、旧くから暖地の切花作りに眼をつけられ、三十年位前からポツ/\始められた由で、最初は南無谷、富浦方面でアネモネなどを試みられたそうである。房州の花作りの先覚者と言へば、大正時代に有名であつた鴨川在の水仙とペイパーホワイトの石井縫之助氏及北條町(*館山市)在の石井宥俊といふお坊さんで、切花や球根などを東京の市場に盛んに出されたのも今では一昔前の話になつて仕舞つた。
 富浦の金木長次郎氏がアネモネ、金盞花を作り始めたのが今から約二十年位前であつたし、保田では鋸山下の樋口常吉氏が花卉組合を作つたし、西崎村では法安寺の住職が花を始めたのもその頃らしい。江見を中心の花作りを今日あらしめた、江見の間宮七郎乎さんが金盞花を作り始めたのも其前で、和田では大正十二年に汽車の開通と共に組合も出来たやうに思ふ。そこで現在房州全体としてどの位花を作つてゐる面積があるかといふと、
 和田町 三〇町歩     江 見 三〇町歩
 太 海 十五町歩     七 浦 三〇町歩
 南三原 五町歩      西 崎 五〇町歩
 富 浦 二〇町歩     岩 井 一〇町歩
 勝山、那古船形一〇町歩  保 田 五〇町歩

 これも極概算で、二百町歩内外に及んでゐると思ふ。一反歩の収入が乎均して百五十円と見て、三十万円以上に及ぶさうである。しかし、西崎村も海安寺(*たぶん、宝安寺の間違いだと思われる。宝安寺の話は後で出てきます)の住職の話では、村内八区全部を入れると五十八町歩許りあると言はれるし、保田町も水仙を加へると五十町歩以上に逹するとも言はれるし、千倉在の柳葉鉄砲百合の球根栽培だけでも五十万円からの生産があるといふので、房州の花卉園芸の生産額は或は三百万円以上に逹するとも見られる。何れにしても、郡内に於ける重要産物の一つであり、殊に、江見、和田方面の栽培家は極めて熱が高く、生産額も一番多い様である。
 江見、和田方面は種類からいふと、菊と金盞花が多く、矢車草、ストック、アスター、ダッチアイリスのブルオーシャン、アイリス・テンヂターナ、アスパラガス・プルモーサス、ア・スプレンゲリー、ア・ファルカータス、ア・フイリシヌス、ア・ルツチー、たちてんもんどう、などがあるし、変つたものとしてはクプレツスス・センベルビレンスを切花として出してゐることである。和名を印度香杉とも言つて小田原の辻村農園ではそれを大正初年頃盛んに実生に依つて養成し、小苗を鉢物として売出した事があつたが、当時はあまり歓迎されなかつたが、近頃切花として相常に需要があるとの事である。当時私共が同樹を取扱つた頃の記憶では、ヴイルモラン商会からの輸入にも不拘(*かかわらず)、種子の発芽率は非常によく、何千といふ苗が出来てゐた。しかし、移植には弱い様に覚えてゐたが、今石川さんに伺ふと、移植も五月頃に行ふと殆んど枯れないし、その頃なら挿芽も出来るといふ、私は実生が容易であつたので挿芽を思立つた事はなかつたが、新梢の先端を一寸か一寸五分位に切つて五月頃に挿すと、ニケ月で発根するといふ、又秋挿にすると翌春になつて発根するさうである。今房州では切花用として相当の人気を呼んで居り、苗の売行などもよいといふが、同地では白浜村の吉川農園で輸入栽培したのが最初だとの事であつた。

◇金盞花の反当収入(*1反当たりの收入)
 房州の切花として一番多量に出るといふ、金盞花について、その収支を聞いて見ると、支出は畑の地代が反当年三十円、肥料代が三十円一切の手間五十円、(植付五十人、中耕、除草、切出、荷造等)荷造材料運賃等総支出が百二十円となり、收入は普通百五十円、上作では二百円にも達することもある。しかも手間賃は家族労働でやる場合には現金支出でないから農家の收入としては相当の利益が得られるといふわけである。殊に、土地も自分の所有であれば支出は更に減ずるわけになる。地代は畑に依つて非常に相異があり、反五十円のところもあり、作る花に依つては地代は高くとも暖い適地を選ばなければ好結果は得られない。
 江見地方では肥料として海藻のカジメを使ってみるが、肥料として非常に好結果で一般に茎立ちがシツカリと出来て病害の抵抗力が強く、一般に花作りの肥料としては申分ないが、近年はあまり採れないとの事である。共他、肥料は三十円使ふとすると、二十円は牛糞で施し、所謂金肥は十円程度にしてゐるが、生育の上から見てもその方がよく、金肥本位にやると面白くないとの事であった。

◇露地で出来るアスパラガス類
 その他東京近在では温室に栽培してゐるのを露地で作ってゐるものにアスパラガスかあるが、越冬するものは、プルモーサス・ナヌス、フアルカータス、ミリオクラズス、アクチフオリウス、ルツチー(一般にルトジーと誤称してゐる。)スプレンゲリー等であるが、そのうちプルモーサス・ナヌスは越年はするが、葉がやけて切花にはならない、フアルカータスも白っぽく傷むが、霜除をすれば美しい緑葉のまゝで越冬する。アクチフオリウスや、フイリシヌス(蓬莱竹と言ってゐる)やルツチーなどは全くの耐寒性で今でも青々として見事である。東京の温室内で見るのと少しも変らない。しかし、フイリシヌスは強光に弱いので強い日にあてると葉が焼けることが多い。驚くのは西崎村の宝安寺といふお寺の庭先きの傾斜地でミリオグラズスが青々として少しも傷まず、寒中なのに新芽をどん/\伸ばしてゐることで、西崎村が江見等に比べて更に暖い為めである。アスパラでは「たちてんもんどぅ」も切花には面白いと思ふ。つまり春と夏に二回切ることが出来る。フアルカータスは従来種子で繁殖してゐるが、外国からの輪入種は発芽が非常に悪く千粒の種子でよく発芽して百五十位、悪いのは百粒五十粒位のもあるが、近頃八丈島で採種が出来るそうで、内地採りのものならば発芽率はよい様である。しかしフアルカータスは、株分は非常によく出来るので、一年に三回は株分出来るから、百五十株もあると二年目は千株まで殖すことが出来るとは石川さんのお話である。
 花木としてはアカシヤを作つてゐるが、これは昨年夏の暴風で大被害をうけて殆んど全滅の形である。江見の花卉園芸界の先覚者聞宮七郎平氏の如きは樹齢十年のアカシヤ林を全く枯らして居られるが、アカシヤは風には非常に弱いものらしく、根部が弱い為めに、風で倒れると新根がうまく発生しないらしく、殊に例れたまゝになってゐるものは、新芽が出て来るが、それを起したものは大抵枯死したとのお話であった。切花としては相当に値段もよく有利なものであるといふが、風当りの強いところは禁物であるとの事である。

◇間安(*正しくは間宮)氏をお訪ねする
 四日には石川さんの御案内で間宮七郎平氏をお訪ねした。同氏は組合長であり、江見地方の花卉栽培を今日あらしめるに極めて功績の多い方で薬局を営まれる傍ら手広く切花の栽培をやって居られ、又地方への切花の出荷も相営に手広くやって居られる篤志家であられる。つまり地方出荷は多く、東京以外の都市、殊に東北地方の都会に多く送って居られるとの事であった。間宮さんのところへは花盛りの頃に再びお訪ねするお約束をしてお別れした。

◇石田さんのシプリペジューム(*現在のパフィオペディルム)
 洋蘭のことに関心を持って居られる同行の大場氏が南三原(*みなみはら)の近くにシップ(*シプリペジュームの略称)を作ってゐる人があるとの事なので、石川さんの御案内で拝見に伺った。南三原駅から山の方に向って広い耕地を二十町あまり行くと、背後に高い山を負った部落があり、丁度道路の突当りに温室が見えたので、剌を通ずると、多年の『実際園芸』の読者であられたので、喜び迎へてくれ、温室を拝見した。シプリペジュームが、棚を二段にして一杯に作ってあり、すでに大半の花は東京の市場に出した由であった。シップの外にレリア・アンセプスも亦開花中であった。同氏はすでに六十の坂を越されたかと拝察するが、久しく大分県の高等女学校の教師をされてゐた由で殊に大分市には二十五年も居られ、その間、学校の温室にて各種の花や洋蘭等も研究的に栽培されたそうで、退官後趣味と実益を兼ねて栽培して居られ、無菌培養にも少々手を染めて居られる程の熱心家であられる。
 正午過ぐる頃同家を辞し、石川さんとも南三原駅にてお別れして、北條駅(*安房北條駅、現館山駅)に向った。最初の予定では七浦方面を見て白浜に出て、夫れより西崎村方面に行く予定であったが、七浦方面は主にマーガレット許りといふし、白浜から長尾村方面は数年前にも行った事があるので、北條駅からバスで西崎村に行く事にした。実はこの方面は初めててあったが、同行の大場君はよく存じてゐた。駅前から省営バスに乗ると、三十分許りで終点に逹するからそこから徒歩二十分許りで一番多く花を作ってゐる部落に逹することが出来る。同地での花作りの開祖と言はれる宝安寺を訪ね住職にお目にかかったが庭前に花畑があり、ガーベラが秋から引続いて開花して居り、尚盛んに蕾を出してゐた。ここは江見や北條などよりも更に暖く、アスパラガスのミリオクラダスが少しも傷まずに繁って居たし、海芋もドン/\花を開いてゐて、しかも花弁などが傷んだ様子もなかった。グラヂオラスが五六寸に伸びてゐるのも春らしく思はれたが、しかし、グラヂオラスはあまり早植にすると冬の間はよく伸びるが、霜にでも会うふと葉が枯れて二番芽が出ることになるので反って割合におくれる事があるといふ。その外にグラヂオラスのコルビー、ダッチアイリス、等いろ/\のものが作られてゐるので近隣の畑を一巡した。
 蚕豆(*ソラマメ)などの莢の出来てゐるものも見えた。聞くところに依ると、房州の蚕豆は特別な早生でその種子は絶対に他に出すことを禁ぜられて居たそうで、嫁が宮家に数粒の種子を持ち帰ったことから離縁になった話もあったといふ。ところが現今では各方面に伝播して仕舞ったそうである。

◇農試の安房分場と保田方面
 西崎村から北條に帰り、一泊した。何しろ前夜は二時半まで園芸談に耽ったので、一晩ゆっくり休むことにした。明くる五日は朝から仲々寒い。自動車で那古船形にある、千葉県農事試験場の安房分場を拝見した。お正月休みとあって、場員は留守居の者が居るだけで御自由に見て下さいといふ。それで、トマト栽培の温室をのぞくと、収穫間近になったトマトが相当。葉黴病に侵されてゐた。葉黴病に対しては全く施す術がないものと思はれる。
 蔬菜園、花卉の試験園、百合の肥料試験区、果樹園などを順次に拝見し、最後に山の崖を利用して建築した花卉の温室を拝見した。アイリスの促成、フリージヤ、洋蘭などがあり、暖房設備などが完備して居り、シプリペジューム、カランセなどの開花してゐるのが見られた。且て話に聞いてゐた、移動温室も鉄骨で残ってゐたが昨年の風害でグラスを飛ばされたらしく、今は使用してゐない様であった。近年房州が洋菜の本場になった丈けに、各種洋菜の試作区も見られた。その他アカシアや宿根切花畑などもあったが何分に冬の事であり、尚場員の詳しい御説明も伺ふ事が出来なかったのは残念であった。
 試験場を辞してから直ちに保田に向ふ事にした。富浦や南無谷などの方面は数年前に歩いた事があるし、あまり変った事もないといふので汽車で保田に直行し、同地の吉田欽二郎氏を訪ねた(※所在地は、安房郡保田町元名 (『全国著名園芸家総覧』大阪興信社営業所 昭和2年)。吉田さんは保田方面の花卉栽培の先覺者で、東京ナーセリーとして東京で永らく栽培をせられ、新しい種苗などを輸入紹介する事に於ても知られた方であったが、今から十数年前に暖地栽培に着眼されて保田に転じ久しく同地で特殊な植物の栽培に当って居られる方である。同氏のところでは温室内にヴァイオレットと切花用パンジーが盛んに咲いて居た、同氏の案内で寒い風に吹かれながら栽培地を一通り拜見した。目立つのは寒菊である。早いものは切出したが、今菰(こも)で霜除をしてあるものも相当にあった。
 水仙では、日本水仙はすでに切終ったところであるが極早いところでは黄房水仙が露地て霜除なしで、どん/\切ってゐるのを見た。すでに年末から咲いてゐるそうであるが、それは全く特別の場所で傾斜になった山の畑で、畑の上が雑木林になって居り、日当りのよい斜面であり、土質もよく、又耕土の深さも程よいさうで、耕土のあまり深いところは開花がおくれるさうである。
※吉田欽二郎氏のヴァイオレット

 吉田さんとお別れし四時二十分発の列車で大場さんと共に帰路についた。 (終り)




吉田欽二郎氏のプロフィール 『鋸南町史』から
※吉田欽二郎氏は、東京府立農事試験場の第一期研修生で、森田喜平氏と同期。吉田氏は戦後米軍化学農場長となるが、森田氏は顧問として参画していた。

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