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戦前、ここまでできていた 日本のパークマニー 「緋鹿子山百合」(新称) 昭和15年『実際園芸』12月号

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  『実際園芸』26巻12号 1940年12月号 ※中島庸三(1889~1971)は種子学者(種子の生理学)として堅実な生涯を送った人物。 東大駒場を皮切りに東北大学理学部生物学教室の助手を 長く務め(大正12~昭和17、昭和24~27年)、戦後同教授。生涯研究畑を歩んだ。 ナチュラリスト(自然観察家)としても多様な論文を発表している。 植物学者ハンス・モーリッシュ(Hans Molisch)の 東北帝国大学(現・東北大学)生物学教室主任教授在職の 期間は、1922年(大正11年)から1925年(大正14年)までの約2年半 なので、中島はモーリッシュと出会っているはずです。 緋鹿子山百合(新称) 緋鹿子百合を母とL、之に山百合の花紛を配して生じた異常種子の胚を人工培養することによりて生育せしめたもので昭和十四年に開花せるものである。花の大きさは父の山百合に近く、色彩は緋鹿子百合で誠に濃艶である。鹿子百合の如く花冠の反巻が著しくなく寧ろ山百合に近いので、稍々扁平な感を与へる。鹿子百合は香に乏しいものであるが、之は山百合に似て可なり香気が高い。花冠の大きさは外輪(萼)一枚の長さ及び幅は夫々13.8cm×3.3cm で内輪は、14cm × 6cm である。  Wilson氏に依れば此者は1875(*1860年代が正しい)年に初めてParkman氏により作出されたもので × Lilium Parkmanii T. Moore と云ふ学名が与えられて居る。然し不幸にも中途絶滅し、其の後多くの人が其の再作出を試みて失敗に帰したと云ふ曰くつきのものである。恐らく普通の播種法に拠れば多数系統の交雑及び極めて多数の種子に就いて試験し、稀有な偶然的な機会を待たねばならぬものの様に推測される。然るに今日筆者に依り、若し両者の交雑の結果生ずる異常種子(此の者は全く発芽能力を欠く)より胚を摘出して適当たる方法にて培養する時は其は比較的容易に且つ必中的に成功することが明らかとなった。本文記事参照。昭和十四年に花は一をつけたのみであるが、十五年には六花を持ち草勢は頗る強健の様である。余は仮りに緋鹿子山百合の名前を付けて置く。(中島庸三) 鹿子百合と山百合の雑種=附花粉の貯蔵並に異常種子の培養法 東北帝国大学理学部植物学教室 中島庸三  鹿子百合と山百合の雑種は既に一八六五年にパークマン(...

「傷病兵に花を献じましょう」 臨時東京第一陸軍病院における傷病兵と花

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  傷病兵に花を献じましょう 臨時東京第一陸軍病院における傷病兵の花壇に於ける憩い 『実際園芸』26巻9号 1940年9月号 傷兵慰問に花を献ずべし  石井勇義  聖戦もここに満三周年を迎え、皇軍の支那本土各地に於ける奮戦はいよいよ熾烈を加え、重慶政府の余命いくらもなきやを思わせるのとき、吾らは皇軍勇士慰問に更に心をいたすべきであるが、特に強調したきは、園芸家は護国の英霊の墓前に花を献じ、併せて各地の陸海軍病院に戦傷の身を療養されて居らるる傷兵諸氏に対して絶えず花の慰問をなすべきである。現在までには、すでに多数の園芸家が地方的には、夫々各自の栽培された切花や鉢花により、また花壇を設ける事に御慰問の実を挙げて居らるる事実も多々あるとは信ずるが、筆者の耳にするところでは、一般慰問者によりて多くの花が贈られるに比して専門であるべき園芸家自身の手で行われぬ事実があまりにも少なきやに感ぜられてならない。  東京に於ても、園芸組合や生花(いけばな)の団体に依って花を献じた事はあっても、それが今日まで連続的に行われているであろうか。如何なる美挙も一時的であってはその効極めてうすく誠を欠くやに思われる。陸軍病院に温室の設備があっても、その中に一鉢の花が培われていず、また新たに温室が寄贈されたものもあると聞くが、それが園芸家の手ではなく、反って婦人団体に依って企てられた事実を耳にする時、何となく園芸家の不行届を、門外の方々に依って補わせられたかの感を深くするのである。  花卉の生産に従事して来たものが、花は精神の糧であるとか、病気見舞には花を召せとか宣伝にこれ努めて来たが、花卉園芸家は今日こそそれを実行にうつし、全国の陸軍病院に向って、花による慰問の運動に参加すべきであると考える。園芸組合とか生花団体の如きものが、夫々その団体力を運用して、全国に散在する組合を、傷兵慰問の為めに動員して、花に依る御慰問の奉仕をなすのときと考える。これには誰れも意義なく参加を喜ぶであろうし、既に個人的には行って来た人も多かろうと考えるが、今後は更に団体的に統合して、定期的永続的に団体中央部の指導に依って、積極的に奉仕すべきである。その方法は多々あるであろう。組合員、同好者の生産による切花を各病室に日を定めて配るもよかろう。季節の花壇を設けるもよかろう。温室に植物を寄付するもよかろう、傷兵にして花...

日本のフラワーデコレーターの先駆者、恩地剛の2枚の肖像写真

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  右が恩地剛。 左は東京府立高等家政女学校校長と記されている。清水福市か? 清水福市は、昭和10年代に本校校長を長く務め、昭和18年、大妻学院に招聘された。戦後の昭和24年(1949年)、大妻女子大学が新制大学へと移行・発足した際、同大学の初代図書館長に就任し、昭和45年(1970年)までの長期にわたり大学図書館の基盤を築いた。 『実際園芸』第11巻4号 昭和6年(1931年9月号) 東京府立中野家政女学校(※のちに東京府立の高等家政女学校から東京都立中野高等家政女学校、戦後、現在の都立鷺宮高等学校)で、生徒が作成したテーブルデコレーション。アレンジメントと「敷花」が組み合わされている。細い花弁のカクタス咲きダリアなどがふんだんに使われているように見える 『実際園芸』 年号記録喪失 先程の記事より後だと思われる 上の記事と同じく、恩地剛が講師をつとめる 東京府立中野家政女学校で 生徒が作成したテーブルデコレーションを囲んで 女生徒が席についているようす 富士山をかたどった造形が中心にすえてられており、 一種の「盆景」スタイルのアレンジメントだと思われる。 キャプション 女学校で行った美しい食卓装飾 ここに掲げた二葉の写真は、やはり恩地氏によって指導されている東京高等家政女学校の生徒によって作られたテーブルデコレーションで、写真の上の向かって→が恩地先生、下はデコレーションを示す。万年スギ(※ヒカゲノカズラ)、小菊、コスモス、秋のキリン草、ダリア、アスパラガス、葡萄等が使用されている。恩地先生は園芸装飾には造詣の深い方である。

新潟県のチューリップ生産の始まりと輸出の功労者、技師、小山重と当時カリフォルニアにいた友人、永島四郎の貢献

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  1927-3(1)-7月号 昭和28(1953)年2月号 第一園芸『園芸手帖』から

宇野千代  ーカラリリィの結婚花東と永島四郎の仕事

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 宇野千代 カラリリイの結婚花東と永島四郎の仕事 (誠文堂新光社『園芸探偵』第1号 2015 をもとに加筆した)  写真の美しい花嫁は作家の宇野千代。その後ろで白いブートニアを胸につけた花婿は北原武夫である。千代にとって4人目、最後の夫になる。千代42歳、北原32歳のときだった。この写真は、1939(昭和14)年4月1日に撮影された。場所は帝国ホテル。花嫁の衣装は真っ白な洋装で、いかにもブライダルドレスという印象の服だが、大きな襟がとても個性的だ。花束に使ったのは、カラー。戦前の品種なので現在のものとは違っていただろう。白くて大きい花苞が七、八輪。柔らかなアスパラガスの緑を添えて、丁寧に配置され、束ねられている。茎には一本一本、白いリボンがかなり上の方まで巻かれており、束ねたところにも太いリボンがついていて膝のあたりに届くほど長く下がっている。この花束の作者はわかっている。「婦人公論花の店」の永島四郎だ。  永島四郎は大正時代にアメリカに渡り、花卉装飾と栽培を10年間学んで帰国、昭和10年に、銀座に新しくできた「婦人公論花の店」を任された。戦後は第一園芸株式会社で活躍。日本におけるフローラルデコレーターのさきがけである。  戦後、自身が「カラリリイの結婚花束」というタイトルで宇野千代のブーケのことを回想して次のように書いている(『園芸手帖』1957年)。  あるとき、雑誌『婦人公論』で洋装の花嫁特集をやるので、モデルにカラーのブーケを持たせるという。そこでモデルの水の江滝子には、男装の麗人というイメージで当時流行の大ぶりなブーケを仕上げたが、しっくりいかなかった。上背に対して体格にボリュームがなかったからだ。このときのことを永島は、「いったいその人にピッタリする花束を作ることは、大変むずかしいのだ。真実によい花束は、その人をあらゆる面で識っての上でなければできないのだ」という。「それからしばらくたってのことと思う。宇野千代女史の結婚花束を作った。カラリリイでという注文だった。宇野女史は、婦人公論花の店のお得意の一人で、いつもたいへん凝った和装を特有にきこなして店に来られた。女史の洋装を一度見た。紺のスーツを堂々ときこなしておられた。カラリリィの花束は女史には決しておかしくなかったと記憶する。」千代は女性としては背が高く、しっかりとした雰囲気の女性だったのだろ...

人、病を得て園芸家となる~ミスター・ローズ、鈴木省三の「バラ色の人生」

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  ※人、病を得て園芸家となる~鈴木省三の「バラ色の人生」(誠文堂新光社カルチベ 「園芸探偵の本棚(第59回)」、にて2020.3.27に発表したものに加筆)」 1995年、大蔵省広報『ファイナンス』から鈴木省三「バラ色の人生」  世界的なバラの育種家、「ミスター・ローズ」鈴木省三(すずき・せいぞう 1913~2000)が、86歳で亡くなる5年ほど前に書いた「バラ色の人生」というエッセイを紹介する。  この小文は、つい最近、先輩から教えていただいた。父親の思い出、自分の園芸家への歩みが味わい深く書かれている。これまでも、戦前に生まれて活躍したたくさんの園芸家の人生を見ていくと、「人、病を得て園芸家になる」というパターンに何度も遭遇してきた。また、比較的裕福な家庭であること、長子ではなく次男、三男、四男であることが多い。ミスターの文章を読んでも、戦前の園芸家の一例が見て取れる。  鈴木省三の場合、幼い頃、星の好きな天文少年だったことも興味深い。現在は三鷹にある国立天文台は、戦前は麻布(飯倉交差点のすぐ近く)にあった。牛込区の新小川町(現在の新宿区新小川町2-10)にあった横浜植木株式会社の東京売店の様子も触れられている。実は、フリーペーパー『園藝探偵』3号に、この店の所在地を間違えて書いていた。訂正しなくてはいけない。そこでは白鳥橋と伝通院の間にある安藤坂の大曲と書いたが、正しくは、新小川町の市電江戸川線、「大曲(おおまがり)」電停の目の前に所在していた。この路線は九段下から飯田橋、江戸川橋などを経由して早稲田を結ぶルートだった(1968年廃止)。  同じくこの記事に出てくる「Say it With Flowers(花で思いを伝えよう、花とともに語れ)」という店頭のメッセージについても『園藝探偵』の1号で紹介した通りだ。この言葉は、アメリカで1917年の母の日商戦に向けてつくられたキャッチコピーで、その後、FTD(花店の電報通信配達組織)全店共通の宣伝に用いられ、世界中の花屋の代名詞となった。  こんなふうに、いろいろなことが見えてくる本資料だが、現在では、なかなか実物を手にすることができないものだと思う。全文を抄録してこの稿を終える。 「バラ色の人生」 鈴木省三 『ファイナンス』1995年10月号 大蔵省広報 1995 Vol.21 No.7  澄んだ秋空に...

開国直後に横浜で活躍したビジネスマン、ジョージ・ロジャース・ホールと世界初のオリエンタルHB、パークマニー種誕生のいきさつについて

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George Rogers Hall (1820-1899) アメリカの医師、貿易商、植物収集家・園芸家 1927年の植物探索史には、**1861年にジョージ・ロジャース・ホールが日本から送った最初の植物群が、ゴードン・デクスターを介してフランシス・パークマン(※ボストン在住の歴史家、園芸家)の手に渡った**とある。そして、その荷の中に明記されているのが、**Lilium auratum(ヤマユリ)と Lilium speciosum(カノコユリ)2系統**であった。([Papers Past][1]) ※アメリカ大陸横断鉄道が完成するのは1869年であり、この当時、日本からアメリカ東海岸へ向かう場合には、太平洋を渡ってハワイ、サンフランシスコ、アカプルコなどを経由し、パナマで地峡横断鉄道に乗り換えたのち、大西洋岸を北上してニューヨーク、ボストンへ至る経路が考えられる。 さらにパークマンの伝記にも、1860~61年頃、Francis L. Lee が日本から受け取った植物・球根を、南北戦争への従軍に際してパークマンへ託したとある。その中には **L. auratum** が含まれ、この偶然の入手がパークマンの園芸研究を刺激し、やがて彼が**ユリの交雑に集中するきっかけになった**と説明されている。([ウィキメディア・コモンズ][2]) そして決定的なのが、パークマンの **Lilium × parkmanii** である。Massachusetts Horticultural Society の記録では、このユリは、**L. speciosum × L. auratum**で、**1869年に初開花**したとされている。しかも、約50個体の実生が育てられたことまで記録されている。([iFlora][3]) RHSの登録資料でも、親は *speciosum × auratum*、育成者は Francis Parkman、年代は約1869年とされている。([RHS][4]) Francis Parkman  (1823 – 1893) パークマンは、ハーバード大学付属バッシー研究所(Bussey Institution)や アーノルド樹木園(Arnold arboratum)が所在する ボストンのジャマイカプレイン地区で70歳で亡くなった。 赤い花がパークマニー...

ジョン・L・クリーチ 「日本――まるで一つの国立公園」

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ジョン・L・クリーチ 「日本――まるで一つの国立公園」 Japan—Like a National Park 『Yearbook of Agriculture 1963』pp.525–528 525ページ 多くの旅行者が、日本の農村の美しさを目にしてきた。整然とした田畑、常緑樹に縁取られた村々、森林に覆われた山々、そしてすぐ近くに点在する無数の島々。日本人は、こうした国の宝を大切にしている。彼らは世界でも最も自然を大切にする人々の一つである。毎年あまりにも多くの人々がこの島国を旅するので、日本列島全体が、雄大な富士山を中心とする一つの国立公園であるかのようだ。 日本人は、長く波乱に富んだ歴史を通じて途切れることなく、天然資源を守り、改良してきた。そして今日、伝統的な生活様式を見失うことなく、現代社会への急激な関与に対処する能力を示している。また急速な産業化への移行のただなかにありながら、自国の資源を保全し、国の社会的性格を維持するうえで、驚くべき自制心を示している。 わずかな土地に多くの人々が集中していることは、日本の際立った特徴である。 約9,300万人の人々が、14万8千平方マイルの、山地に覆われた島々に暮らしている。その面積はおよそカリフォルニア州ほどである。その大部分は、1,500年以上にわたる先人たちの手によって形づくられてきた。 国土全体の6分の1にも満たない土地しか耕作されていないにもかかわらず、日本人の40パーセント以上が農業に従事している。現在も昔と同じように、段々畑、灌漑、水の保全、泥炭地の干拓、その他さまざまな独自の耕作方法を注意深く用いている。その細部への徹底した配慮は、アメリカの基準からすれば経済的に成り立たないほど、多くの労働力を必要とする。 こうしたやり方は世代から世代へと受け継がれ、高い農作物収量をもたらしてきた。たとえば、単位面積当たりの米の収量は、世界でも最高水準にある。 日本を旅行したことのある人なら誰でも、農業に注がれる並外れたエネルギーと時間を知っており、日本人がなぜ農業に成功する国民となったのか理解できるだろう―― 526ページ ――そしてまた、日本がこれと同じ能力によって、造船、ラジオ、光学機器、その他さまざまな消費財などの産業において、世界の先進国となった理由も理解できる。 しかし、さらに注目すべきなのは、日本人が同じ...

『実際園芸』誌が伝えた、世界的樹木学者で日本にもゆかりの深いアーノルド樹木園初代園長、サージェント博士の訃報 1927年

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  サージェント博士の訃報(Charles Sprague Sargent 1841年4月24日 - 1927年3月22日) 1872年からアーノルド樹木園の初代園長を務めた 『実際園芸』3(3) 1927年9月号 世界的老教授チャーレス、スプレーギ、サーゼント氏逝く 米国で、最も有名な養樹学者であり、同時に、大園芸家として、国民の尊敬を荷って居たプロフェッサー、サーゼント氏は、去る三月二十二日を以て永眠した。  彼はハーバード大学の養樹学教授であり、また、同大学付属アーノルドアーボレタムの園長として、実際に、その一生涯を捧げた人である。米国およびその国民は彼の専門的方面から受けた莫大な利益を永久に感謝しないではいられないだろう。  彼は、八十六歳の高齢をもって此世を辞したが、倒れる迄その仕事を捨てなかったのである。  彼は、ボストン市に生れ、ハーバード大学を卒業し、南北戦争に参加し、勲功により、陸軍少佐を名誉づけられている。 一千八百七十二年から一千八百七十三年の一年間、ハーバード大学に於て園芸学を教授し、その後引き続き、同大学植物園長として一千八百七十九年までその任にあった。 一千八百七十二年の三月二十九日に、ニューベドフォールドの豪商ゼームス、アーノルド氏の提供によるマッサチューセット州、ボーストン市郊外に存在する、ジャマイカ、プレーンの森林地百二十五エーカースを、模範的養樹園となすべき条件の下に、同大学校長及びサーゼント氏、アーノルド氏三人はその契約書を交換したのであるが、これが現在有名になった、アーノルド、アーボレタムの起原である。 同時に、アーノルド氏はその土地に十万四千弗を添えて維持費をしたのであった、そして、その契約条項中の主要なるものは、 『此の養樹園に於て、培養研究す可き植物の種類は、内国産と外国産とを問わない、けれども、有益で実用的の樹木、灌木、草本類であり、且つ科学的基礎の上に立って、露地栽培に適するものでなければならない。』  此の条件の下に、サーゼント博士は、大学の承認と共に、ボーストン市有の公園の一部に編入せしめんと勉めた。その結果、市は、ハーバード大学よりその土地を借り入れる事に決定し、期限を向ふ千年間、借地料一ヶ年金一弗という事に定め、法律上の手続きを完了した。これは、博士の秀逸という可き珍らしき功績であろう。丁度此時は、一...

アルゼンチンにおける日系人花卉生産・販売のパイオニア、賀集九平(がしゅう・くへい)のお話

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 【賀集九平】(1896–1987)がしゅう・くへい ※もともとは「かしゅう」であったと思われるが、アルゼンチン時代にGashuと変化したのか?著作奥付も「がしゅう」、Gashuとなっている ◯大正7(1918)年にアルゼンチン、ブエノスアイレスに移住、日系人花き栽培の先駆けとなった偉人。多数の著作、著述が残されている。 賀集九平の出自は、やはり賀集姓の多い、淡路島の一族だが、両親を含む家族一同は北海道に移住したため、九平は北海道で生まれた。成長して秋田大曲の農学校で学び、興津の農業試験場(果樹部門)の見習生となる。 明治後期の当時は各地に国立の農業試験場が設置されつつある時代で、全国から近代の園芸を学ぶために多くの若者が見習生として集まった。学校ではないので日々の実習がメインでそれに加えて外国語で書かれた園芸書を翻訳しながら読み進んでいくというような教え方だった。九平はそのような環境で恩師、恩田鉄弥と出会い、生涯の師と仰いだ。九平は恩田の姪である静子を妻としているので、人間として師から見込まれていたのかもしれない。 九平は興津を出ると兵庫県の農事試験場に技師として勤務したのち大正7(1918)年にアルゼンチンに渡り、種苗会社勤務を経て、エスコバールにて仲間とともに花き農園「明興園」を立ち上げた。 ◯バラ、キク、ダリアの鉢物栽培を日本人として初めて手掛ける ◯切り花カーネーション(スペイン語ではクラーベル)の温室栽培を手掛ける。 ◯イギリスから四季咲き種を導入し、カーネーションの品種改良も手掛ける ほかにも、果樹栽培は自信があったようで、アルゼンチン園芸のパイオニアとなった。 ◯他国の移民と同様、アルゼンチンでも、日系人全体の多くが園芸業界で頭角を現し、洗濯業(クリーニング)とともに、日本人が得意な分野で成功者となった。 ◯恩田鉄弥博士は、果樹で有名だが、サクラの専門家でもあり、ワシントンDCの桜並木プロジェクトでも深く関わっている。そうした関係もあり、賀集九平もサクラを研究し、戦後、海外における日本のサクラの名所を集めた『世界の日本ザクラ』誠文堂新光社(1976)を出している。 『実際園芸』18(4) 昭和10(1935)年4月号グラビアページ