宇野千代 ーカラリリィの結婚花東と永島四郎の仕事
宇野千代 カラリリィの結婚花東と永島四郎の仕事
(誠文堂新光社『園芸探偵』第1号 2015 をもとに加筆した)
写真の美しい花嫁は作家の宇野千代。その後ろで白いブートニアを胸につけた花婿は北原武夫である。千代にとって4人目、最後の夫になる。千代42歳、北原32歳のときだった。この写真は、1939(昭和14)年4月1日に撮影された。場所は帝国ホテル。花嫁の衣装は真っ白な洋装で、いかにもブライダルドレスという印象の服だが、大きな襟がとても個性的だ。花束に使ったのは、カラー。戦前の品種なので現在のものとは違っていただろう。白くて大きい花苞が七、八輪。柔らかなアスパラガスの緑を添えて、丁寧に配置され、束ねられている。茎には一本一本、白いリボンがかなり上の方まで巻かれており、束ねたところにも太いリボンがついていて膝のあたりに届くほど長く下がっている。この花束の作者はわかっている。「婦人公論花の店」の永島四郎だ。
永島四郎は大正時代にアメリカに渡り、花卉装飾と栽培を10年間学んで帰国、昭和10年に、銀座に新しくできた「婦人公論花の店」を任された。戦後は第一園芸株式会社で活躍。日本におけるフローラルデコレーターのさきがけである。
戦後、自身が「カラリリィの結婚花束」というタイトルで宇野千代のブーケのことを回想して次のように書いている。
あるとき、雑誌『婦人公論』で洋装の花嫁特集をやるので、モデルにカラーのブーケを持たせるという。そこでモデルの水の江滝子には、男装の麗人というイメージで当時流行の大ぶりなブーケを仕上げたが、しっくりいかなかった。上背に対して体格にボリュームがなかったからだ。このときのことを永島は、「いったいその人にピッタリする花束を作ることは、大変むずかしいのだ。真実によい花束は、その人をあらゆる面で識っての上でなければできないのだ」という。「それからしばらくたってのことと思う。宇野千代女史の結婚花束を作った。カラリリィでという注文だった。宇野女史は、婦人公論花の店のお得意の一人で、いつもたいへん凝った和装を特有にきこなして店に来られた。女史の洋装を一度見た。紺のスーツを堂々ときこなしておられた。カラリリィの花束は女史には決しておかしくなかったと記憶する。」千代は女性としては背が高く、しっかりとした雰囲気の女性だったのだろう。アララキ派の歌人「埴科史郎」としても活動していた永島四郎は、単に外観だけを見る人ではなかった。千代の芯の強さをも感じ取っていたと思う。
永島四郎は戦後になると、カラーのブーケに新しいスタイルを考えて作品写真とともにコラムに書き残している。太くて重たい茎を思い切って短くカットして、ほぼ花だけをまとめたクラッチ風のブーケで当時としては非常にスタイリッシュな作品だったろう。
当時(1950年代)のカラーは「チルドシアナ」という原種系の品種がほとんどだった。花の色は真っ白で、大きく開く苞を持つ。ジョージア・オキーフの絵やロバート・メイプルソープの写真で見るような姿である。茎も太くて長かった(150センチくらいは普通であったという)。このような水生カラーの関東の大産地、千葉県君津市では、1990(平成2)年にチルドシアナ種に病気が蔓延し、ほぼ全滅という災禍に見舞われた。その後登場したのが耐病性のあるアイボリーがかった白い花、現在も主力である「ウエディングマーチ」という品種だ。
今回、写真を借りに明治神宮外苑近くにある株式会社宇野千代を訪ねて藤江淳子さんにお話を聞くことができた。藤江さんは秘書として宇野が亡くなるまでの36年間をともに過ごした人だ。この写真以外にまだ二枚の別カットの写真があった。一枚は花束を抱えた千代が一人ですっと立っているもの。もう一枚は、媒酌人をつとめた友人の画家、藤田嗣治と作家、吉屋信子の四人が写っていた。エイプリル・フールの日に行われた披露宴には、親しい人たちが多く集まった。中村メイコの父で作家の中村正常もおり、挨拶のなかで「次のときにもまた呼んでくれ」と話したという笑い話も藤江さんから教えていただいた。
宇野千代は、ファッションデザイナーの三宅一生とも親しくしていたという。三宅は宇野が亡くなったことを聞くと真っ先に自宅を訪ねてきた。藤江さんがドアを開けると黄色いカラーの花束を両手で抱えて立っていたそうだ。
青山通り(246号線)沿い、梅窓院の墓地にある宇野千代の墓石は丸い。つるつるした丸さというのではなく、表面にでこぼこがあって、それでいてどこにも角のない、なんともいえず味わいのある丸い石だ。そこには、「幸福は幸福を呼ぶ」と彫られている。

