アルゼンチンにおける日系人花卉生産・販売のパイオニア、賀集九平(がしゅう・くへい)のお話
【賀集九平】(1896–1987)がしゅう・くへい
※もともとは「かしゅう」であったと思われるが、アルゼンチン時代にGashuと変化したのか?著作奥付も「がしゅう」、Gashuとなっている
◯大正7(1918)年にアルゼンチン、ブエノスアイレスに移住、日系人花き栽培の先駆けとなった偉人。多数の著作、著述が残されている。
賀集九平の出自は、やはり賀集姓の多い、淡路島の一族だが、両親を含む家族一同は北海道に移住したため、九平は北海道で生まれた。成長して秋田大曲の農学校で学び、興津の農業試験場(果樹部門)の見習生となる。
明治後期の当時は各地に国立の農業試験場が設置されつつある時代で、全国から近代の園芸を学ぶために多くの若者が見習生として集まった。学校ではないので日々の実習がメインでそれに加えて外国語で書かれた園芸書を翻訳しながら読み進んでいくというような教え方だった。九平はそのような環境で恩師、恩田鉄弥と出会い、生涯の師と仰いだ。九平は恩田の姪である静子を妻としているので、人間として師から見込まれていたのかもしれない。
九平は興津を出ると兵庫県の農事試験場に技師として勤務したのち大正7(1918)年にアルゼンチンに渡り、種苗会社勤務を経て、エスコバールにて仲間とともに花き農園「明興園」を立ち上げた。
◯バラ、キク、ダリアの鉢物栽培を日本人として初めて手掛ける
◯切り花カーネーション(スペイン語ではクラーベル)の温室栽培を手掛ける。
◯イギリスから四季咲き種を導入し、カーネーションの品種改良も手掛ける
ほかにも、果樹栽培は自信があったようで、アルゼンチン園芸のパイオニアとなった。
◯他国の移民と同様、アルゼンチンでも、日系人全体の多くが園芸業界で頭角を現し、洗濯業(クリーニング)とともに、日本人が得意な分野で成功者となった。
◯恩田鉄弥博士は、果樹で有名だが、サクラの専門家でもあり、ワシントンDCの桜並木プロジェクトでも深く関わっている。そうした関係もあり、賀集九平もサクラを研究し、戦後、海外における日本のサクラの名所を集めた『世界の日本ザクラ』誠文堂新光社(1976)を出している。

