新宿駅東口出てすぐ、角筈停留所前の東洋園芸株式会社の前史には、牧師夫妻が営む東京園芸社という花屋があった

 新宿駅西口近く(現在のエルタワー付近)にあったレバノン教会、牧師夫妻が大正元年(年号が変わった1912年12月)に開業した「東京園芸社」。妻の福田紀子(としこ)が切り盛りしていた。しかし、紀子は大正4年に40歳の若さで病没。大正6年12月に、ここを改築して、東洋園芸株式会社の本部と売店になった。東洋園芸株式会社の前史になる。

キリスト教関係では徳のある女性として知られた人で、多くのファンがあったようだ。たとえば作家の徳富蘆花は園芸好きとして知られるが、その日記の中に何度も東京園芸社から種子が届く、とか鉢植えを買ったという言葉が出てくる。

追悼文集には、2階には人を1人、2人に貸して住まわせていたり、いけばなの先生に貸して教室をやったりしていたと書かれている。蓄音機もあり、ときにルーズベルトの演説を録音したものを聞いていたりしていた。とにかく、働き者で常に何かをしていないと気がすまない質であったようだ。

『福田紀子』 石本音彦 編 小牧喬定 大正5(1916)


花屋営業

 患難を経験した紀子の信仰は一段の進歩をなした。固より彼女は基督教信者の家に生れ、同じ主義の学校で、教育を受け、牧師に嫁いで夫と共に其道に働いた身であるから、信仰を有つて居たことは云う迄もない。信仰があつたから、彼の大病の苦痛の中にも世間普通の女子とは違い、沈着な態度を保ち、覚悟を定め、平安を得ることが出来たのである。然も実を云えば彼女の是迄の信仰は寧ろ知識的理窟的のものであって、実験的に得たものでない。然るに一度大患に罹り、死生の間に出入したので、茲に彼女は一大鍛錬を経て、其信仰が真に彼女の生命となり力となるに至ったのである。
 斯る信仰を得た彼女は、『身もたまもささげまつり、主につかえまつらん。』と歌った如く、唯だ感謝の念だけで済まされぬ。感謝の実を現わさねばならぬ。感謝の実とは云う迄もなく、夫のため、子供のため、知人朋友のため、又一般世人のために、益々力を盡して神の御心に適うように働く事で神より賜わった今後の生涯を送るには、之より外に道はない。彼女は斯る覚悟と新しき鋭気とを以て、愈々活発に而も着実に、内外諸方面に向って活動を始めたのであるが、其間に彼女の心に一の新案が浮んだ。段々考えて終に実行することになったのが花屋の営業である。

 大正元年十二月、彼女は夫と共に花卉盆栽の商店を角筈の町に開いて、東京園芸社と云う看板を掲げた。彼女は何故に斯る営利的事業を始めたか、其直接の理由は勿論生活問題に在ったのである。福田牧師が其の教会から受くる報酬は甚だ少額で、之を以て一家十人の生計を立て、子女七人の教育を為すとは固より不可能の問題であった。さればとて、一度独立した其教会を外国伝道会社の補助の下に置くと云う事は牧師夫妻の為すに忍びない所である。故に牧師夫妻は、教職の外に何か生活の方法を取らねばならず、又実際取り来ったのであるが、紀子は大患に遭った後、生活問題の重要なる事を泌々(しみじみ)と悟った。今迄のような姑息な仕方で好い気になっては居られぬ、彼様(あん)な仕方ではサア事変と云う場合に如何(どう)することも出来ぬ。其様(そん)な不安な生活の道を辿って行くのは、多くの子供の親としても、神のために働く身としても、決して正当な心得でない。故に何とか工夫して衣食を得る確な方法を立てねばならぬ。是が立って、始めて子供の教育も出来、又平生の素願たる宗教的事業にも安心して働くことが出来るのである。要するに我等は善を為さねばならぬ、故に我等は生きねばならぬ、是が彼女の大切な信條となったのである。然らば何をするが可いか。月給取は僅の金のために身を縛られるから、神の為に自由に働くことが出来ぬ。商売と云っても、大資本を要する事は不可能(できな)い。手練(しゅれん)を要する事も不可能い、趣味に遠いものも不可(いけな)い。段々考えて見たが、比較的容易(たやす)くて、罪がなくて、気持ちよく出来る商売は園芸に如くものはない。終に大なる決心と、非常な奮発とを以て、此の事業を始めたのである。

 当時紀子は日本女子商業学校に教鞭を取って居たが、商売を始めたに就て、学校の方は辞職した。生徒の一人は次の如く記して居る。
『師走も暮に近い忙がしい時でした。先生は私共に向って「皆様にお別れしなくてはならぬ時が来ました」と、突然のお言葉。私共は驚いてお留まり下さるように願いましたところが、先生は「一方に店を有ち、忙がしい中に暇を見て出掛けるのは実際難かしいことです。時計の針を見て袴を穿いて居る所へ、お客様があれば仕方なしに其儘店に出て学校の時間を気にしながらお客様に応対する。其間につい時が過ぎて定刻に出勤が出来なくなる。其様な訳で、皆様の大切な時間が、一時間でも私のために無駄になると云う事は、私として誠に忍びない事です。」と仰しゃいました。』

 今まで羽織袴の装いをなして先生と云われた身が、忽ち変って筒袖に前掛と云う姿となり店頭(みせさき)に立っておかみさん(※おかみさんに傍点)と呼ばれることになった。「先生の花屋さん」「奥様の花屋」などと新聞や雜誌上に言い囃されたのは此時の事である。或生徒は次の如く語った。  『毎朝先生の御店の前を通りますと、先生が全(まる)で商人のおかみさんと云う風の御身形(おみなり)で、傍目(わきめ)もふらずに、花を取扱って居らっしゃるのを度々お見受け申しました。其の度毎に、私はお気の毒のような、恐れ入るような感じが致しましたが、其れと同時に先生の勇ましい御精神と、床しい御人格とを感ぜずに居られませんでした。』

 さて商売を始めて見ると、厭な事辛い事が中々多い。時には子供を背負いながら、遠い路を歩いて、注文の花をお顧主先(おとくいさき)へ届けに行って、僅の金を貰って、幾度も頭を下げねばならぬこともある。或は花の仕入れに行って花を包んだ大きな風呂敷包を背負って(しょって)来ることもある。『其様な時には、流石の私も、仲間の奥様連にでも見付かって此の体裁を見られはすまいかなど、妙に心配して四辺(あたり)を見廻しながら急いで帰って来るのが例でありましたが、時には見付けられて極りの悪かったこともあります。自分では身を下(おと)した積りで居ても、矢張り外見(みえ)を飾る心が抜けないと見えます。」と彼女は時々人に語った。又時としては教育のない花屋の男共の相手になって、彼等から粗暴な下品な無礼な言葉を浴せかけられて、耐えて居らねばならぬ場合もある。或は店に入って来て、品物を弄り散らして、加之(おまけ)に種々と貶称(けな)して、そして買いもしないで出て行くと云うような無礼な紳士もある。学校と云う礼儀ある場所や、教会と云う平和な場所に慣れて居た身が、急に斯様(こん)な境遇に立ったのだから、其辛かったことは想い遣られる。そして又店の仕事も中々巧妙(うま)くゆかない。店に使う奉公人なども、当方の使い方が良くない故(せい)か、或は当方(こちら)を女と思って軽蔑するのか、どうも思う様に働いて呉れない。品物の仕入方なども時々見込違で失敗することがある。売れるだろうと思って沢山仕入れた花が一向に売れないで、其中(そのうち)に散って了ったり、葉が黄色く凋れて了ったり、草花などは蒸れて腐って了うこともある。夜になって売上高を計算して見ると、甚(ひど)い少額のことがある、其様な事が二日も三日も続くと随分心細くなる。元来資本も豊でないのに、斯様なことで、果して克く持続して、当初(はじめ)の目的を達する事が出来ようか、などと悲観に沈まざるを得ないことも折々あった。其様(そん)な次第で、創業当時に於ける彼女の苦痛や心配は、有形に、無形に、実に、非常なものであったのである。然かし彼女には奪うべからざる信仰があり、動かすぺからざる目的があるから、普通の者なら迚も堪へられぬところを、彼女は弱った顔色も見せず、泣言も云わず、何時も元気と勇気とに満ちた快活な様子で、根気よく働き続けた。斯くて大正二三四と三度の春を迎える中に、追々営業の智識も増し、商売の呼吸も暁(さと)り、顧主(とくい)も殖え、稍や見込あるものに成りかかって来た。彼女は数年の後には必ず見るべき成績を挙げんものと、竊(ひそか)に前途の成功を期しつつ、是より一層の勇気を以て奮闘せねばならぬと、大に心構えして居た時に、忽然病を得て斃れて了ったのは誠に気毒(きのどく)な事と、彼女を知る者の深く同情する所であった。












↕️ 1914(大正3年)の広告『日本基督教徒名鑑』



1917年12月29日の朝日新聞


【恩地剛が設立に関わり、石井勇義や永島四郎を見出した「東洋園芸」とその全身である「東洋園芸社」のつながりについての考察】

### 東洋園芸株式会社の設立経緯――福田夫妻支援説(仮説)

福田定次は、アメリカのキリスト教団体からの補助なしで教会を運営し、布教活動を続けるためには何かで収益を上げて経済的な自立が必要だと考えていた。そのため、アメリカ西海岸に滞在中から園芸事業の構想を抱いていた可能性がある。しかし、帰国後それを十分に実現することはできなかった。

1912年12月、妻の紀子とともに角筈に東京園芸社を開業。1914年の広告には、花卉、種苗、園芸用品に加えて「種苗直輸出入業」を掲げており、すでに国際的な園芸事業への志向が認められる。

しかし、病身を押して事業を支えた紀子が亡くなる。彼女の葬儀には内村鑑三が出席し、福田夫妻の理想と「十年前の事業」に言及した。

この紀子の死を契機に、彼女の生き方を高く評価していたキリスト教関係者たちが、残された福田とその事業を支援するために結集したのではないか。

新渡戸稲造、宮部金吾、有島武郎、三枝守富(大隈重信義兄)らは、札幌農学校、キリスト教、実業界、園芸界などを通じて旧来の人的関係を持っていた。そこに帰国した恩地剛が加わり、福田の構想を具体的な事業計画へと発展させた。

さらに、有島の弟・佐藤隆三が経営していた三軒茶屋の温室・圃場を会社に組み込み、石井勇義ら専門技術者を迎えた。

こうして、角筈の東京園芸社を販売拠点、三軒茶屋の農園を生産拠点とし、海外との種苗取引を目指す東洋園芸株式会社が成立した。

しかし、国際事業は期待どおりには進まず、福田と恩地は比較的早く経営から離れた。一方、三枝らは会社を存続させ、通常の園芸企業へと発展させていった。

### この仮説の核心

東洋園芸は、福田定次という事業家の力量を評価して設立されたというより、福田紀子への敬意と、夫妻が始めた事業を助けようとする旧来の人的ネットワークから生まれた会社だったのではないか。

福田の構想、紀子の実践、恩地の企画力、佐藤の生産施設、そして有力者たちの資金と信用が結びついた。

この見方なら、紀子が開業した角筈の店をそのまま会社の出発点としたことにも、重要な意味が生まれる。

なお、創立者たちの支援動機と、恩地が帰国・参加した経緯は、現段階では仮説にとどまる。






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