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明治29年の宮中のフラワーデコレーション(卓上装飾)の事情について(『興農雑誌』第25号)1896年

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 明治21年の大日本帝国憲法発布式の晩餐会以後、宴会での卓上装飾は洋風(洋花、洋風デザイン)が取り入れられるようになった。盛花や敷花が装飾としてしつらえられる。 当初は、横浜の外国人経営の商館(山手28番のボーマー商会などの植物商だと思われる)に依頼をしていたが、やがて都内(東京市内)の宮内省御用の花店などが承るようになった。それは、本郷の花清(加納正太郎、のちに内田家に継承)、神田明神下(旅籠町)の花八十(田島八十吉)などの有力な花店であった。 宮中の花装飾でもっとも力が入れられるイベントは春の観桜会と秋の観菊会であった。これは、注目すべき情報。 宮中で用いられる装飾用の花材は新宿御苑で栽培されたものが使われていた。ここを取り仕切る福羽逸人は、ちょうど欧州へ遊学中で、その目的は伏見宮殿下の欧州視察の随行員としてであり、またロシアで行われる国際園芸博覧会の視察であったが、ベルギーで花卉装飾も学んでくる、という話になっている。

東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です  大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事

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花の都に花の村 一年間に切潰(きりつぶ)す花代二百五十万円 甲斐園治 『新公論』28(4)春季倍号から 1913(大正2)年4月 タイトルの切潰す、は、消費するというような意味。 明治末期から大正へ、時代の変わり目のすごいレポート。日本では温室でのカーネーションやバラ切花の営利栽培が始まったばかり。 日本経済はこの後、ヨーロッパの戦争の影響で好景気があり、その後、大不況があり、関東大震災があり、というふうに大きな波にさらされるようになります。 ※日本の花産業は、関東大震災を境に、アメリカ式の大型温室による生産革命とセリをやる花市場による流通革命が起きます。その状況を生み出す前史が、この明治末期から大正の前期の好景気の時代になります。 ※大正はじめの1円は現在の4000円という説あり。とりあえず、この文章に出てくる金額は3~4000倍にしてイメージしてみるといいかもしれません。3円は1万円から1,2000円。 ※注 文中最後に近いところの藤の記述で「野田フジ」の本場、野田を下総野田と書いているが、大阪の野田が発祥の地であるので、勘違いしているのではないか? ※このテキストの下に実際のページ画像があります **************** ▲花エー、花エーと鋏をチャキつかせ(※注 ハサミを開け閉めして音を出しながら売り声をかけて歩いた)、来る日毎日、八百八町を流し、僅か二銭の仏壇花を切る光景のみを見た人には、それほど花屋の全盛を解し得まい、花エー花エーは僅かに花の都の序幕に過ぎない、植木屋にて取扱う、鉢、庭物の分は先づ別とし東京市内十五区にて切り潰す花代一ヶ年二百五十万円(※注 約100億円)と聞いては、花屋も満更馬鹿にはならぬ。 ▲花屋の全盛 は一面に、花の都を語るのである『花を栽(う)えない東京にドウして其んなに花がある』此疑問に対しては普通の物資と同じく花屋にも、一種の問屋(といや)ありて花の都と花の村との連絡を取って居るのだと答うれば足る。 ▲問屋 として地方より荷を受け、或は仲買人との間に取引ある主なるものは、花太(下谷)花長、長松(南千住)花源(三の輪)花百、花十(深川)花久米、花彦、花常(浅草)花幾(本所)花次、花直(芝)等にして、昔は江戸の城下に卸しの外は一切小売をせぬ問屋は十三軒と極まって居たが、今は無茶苦茶で、間屋は大に小売を行(や)り、甚しきに至り