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明治34(1901)年、ロンドンでツムラトウイチ(山中商会)という人物により日本の盆栽を詳しく紹介する講演が行われていた。

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  【ツムラ・トウイチという人物は謎のまま】 『小林憲雄伝:国風芸術盆栽の恩人』日本盆栽協会 編 日本盆栽協会1978 の58ページに、明治34年=1901年の11月13日、ロンドンにおけるJapan Society主催の第11回集会において、ツムラトウイチという人が Japanese Dwarf Treesという題目で講演をされた、ということが記されている(同協会第6号に多数の写真入りで紹介されている、と記している)。これらの写真は「幻灯」を使って会場で映されたものらしい。 ・宮沢文吾『盆栽』1922、岩佐亮二『盆栽文化史』にも、同様の指摘があり、どちらも「津村東一?」と記している。宮沢氏は、この報告が英文で盆栽の全体的な解説をした最初の文献になるのではないか、と書いている(外国人による報告はそれいぜんからいくつもある)。 ネットで次のようなサイトを見つけたので概要をメモしておきます。 https://www.magiminiland.org/1900Refs/Tsumura.html 「矮小樹木」『日本協会会報』より  (DeepLにて自動翻訳しました。)  「矮小樹木」 ツムラトウイチ著、M.J.S.(1901年): ※MJSは日本協会会員の意と思われる。 (※元注 論文の著者は発表後まもなく日本に帰国したため、校正を提出する機会がなく、また不明瞭な箇所について著者から情報を得ることもできなかった。そのため、それらの箇所は削除せざるを得なかった。--[編集者]) 「空想は形であふれかえっている。 それゆえ空想は空想的なのだ。」 『十二夜』第1幕第1場  ※元注 ツムラ氏のようなヴィクトリア朝の作家の冗長な文体に慣れていないウェブサイト読者のために、RJBは記事の読みやすさを考慮して、いくつかの見出しと注釈を挿入しました。       日本人が優雅で美しいと思うものが他の国々でも賞賛されていることを知るのは、日本人にとって常に喜ばしいことです。そこで、私は特に喜んでお伝えしたいと思います。私たちの芸術家たちが美しくしようとしている矮性樹が、女王陛下(※元注 アン女王。ヴィクトリア女王は同年1月22日に死去→アレクサンドラ(アリックス)女王では?)に賞賛されていることを。女王陛下のご厚意により、王室の宮殿に植えられている特定の樹種の写真をお見せすることができます。

泉鏡花の忘れ得ぬ花体験 枯れても惜しくて2階から散華した

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  すばらしい花束をもらった若者が、園芸にドハマリしていく!その若者の名は泉鏡花。鏡花29歳のころの回顧。 泉鏡花の小文 前田曙山(まえだ・しょざん、小説家、園芸家、本名は前田次郎)との交流 「曙山さん」   明治四十(1907)年九月  泉鏡花『新小説』9月号に掲載された作品 かがなふれば早や五歳(いつとせ)がほどにあひなり候(※かがなう=指折り数える)。八月末の事なりき。我が長屋、神楽坂の裏に、三月四月(みつきよつき)店賃の滞りの、重き瓦を荷ひて、実(げ)にこそ三伏の暑さに苦しみ候をりから、貴兄の来臨を辱(かたじけな)うし、其の節、一束の花を賜り候。美しさ夢の如く、昼寝の顏の恍惚(うっとり)して、君が顏と花の色とをみまもりつつ、唯是は、是は、と申候のみ。 折から向かう堤防の草の中に、汽車の煙の晴間にもほの見ゆる、常夏のなほざりがなるさへ、其の名を知らず、葉の姿をわきまへず、桔梗、荻は、百花園にてながむるもの、おいらん草、蝦夷菊は、縁日の植木屋が店にて見るもの、と合点したる事なれば、頂戴したる草花の、其の名を知りたるは一つもござなく、打水の雫ながら、斜めに差置かれ候(そうろう)縁側に、恰(あたか)も腕白が買立ての金魚に見入りたる体(てい)に頬杖して、さながら御土産の産地品名を、目(ま)のあたり相(あい)ただし候如き不躾(ぶしつけ)を顧みず、此の紫は、此の真紅は、此の絞りは、此の斑入なるはと、一々御尋ね申候。何々なりけむ、花の名も此方(こなた)に些(さ)の下稽古なき者には、なかなかに覚えられ申さず、其の半ばは忘れ候が、枝ひまわり、天神花(※マリゴールド)、姫天神花、大蓼(おおたで)、紅蓼、天竺牡丹、芙蓉など、中にも俗物の眼を驚かし候は、紐鶏頭の振袖の丈にも余んぬる五尺の紫に候ひき。 はじめて花瓶の要を感じ、貴兄がお帰りを見迭り候、其の足にて勧工場(かんこうば)に駈けつけつつ、暑さの折からなればこそ薪(たきぎ)の代を棒にふってーーこれは此處だけのお話ながら、白瀬戸の大花瓶、少々其の……日くづきにて、格安大割引と云ふのを購ひ、一揆の小頭張抜砲(こがしらはりぬきづつ)を引抱へ、馳せ戻り、さて御心深く枝のふりもおもしろく根揃ひに御結ばせなるを、其のまま手活(いけ)と仕り、成金流の威勢を示して、おれがのだ、と床に据え、視(なが)むれば見れば其の風情、申すもなかなかにて、花の振

明治29年の宮中のフラワーデコレーション(卓上装飾)の事情について(『興農雑誌』第25号)1896年

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 明治21年の大日本帝国憲法発布式の晩餐会以後、宴会での卓上装飾は洋風(洋花、洋風デザイン)が取り入れられるようになった。盛花や敷花が装飾としてしつらえられる。 当初は、横浜の外国人経営の商館(山手28番のボーマー商会などの植物商だと思われる)に依頼をしていたが、やがて都内(東京市内)の宮内省御用の花店などが承るようになった。それは、本郷の花清(加納正太郎、のちに内田家に継承)、神田明神下(旅籠町)の花八十(田島八十吉)などの有力な花店であった。 宮中の花装飾でもっとも力が入れられるイベントは春の観桜会と秋の観菊会であった。これは、注目すべき情報。 宮中で用いられる装飾用の花材は新宿御苑で栽培されたものが使われていた。ここを取り仕切る福羽逸人は、ちょうど欧州へ遊学中で、その目的は伏見宮殿下の欧州視察の随行員としてであり、またロシアで行われる国際園芸博覧会の視察であったが、ベルギーで花卉装飾も学んでくる、という話になっている。

東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です  大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事

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花の都に花の村 一年間に切潰(きりつぶ)す花代二百五十万円 甲斐園治 『新公論』28(4)春季倍号から 1913(大正2)年4月 タイトルの切潰す、は、消費するというような意味。 明治末期から大正へ、時代の変わり目のすごいレポート。日本では温室でのカーネーションやバラ切花の営利栽培が始まったばかり。 日本経済はこの後、ヨーロッパの戦争の影響で好景気があり、その後、大不況があり、関東大震災があり、というふうに大きな波にさらされるようになります。 ※日本の花産業は、関東大震災を境に、アメリカ式の大型温室による生産革命とセリをやる花市場による流通革命が起きます。その状況を生み出す前史が、この明治末期から大正の前期の好景気の時代になります。 ※大正はじめの1円は現在の4000円という説あり。とりあえず、この文章に出てくる金額は3~4000倍にしてイメージしてみるといいかもしれません。3円は1万円から1,2000円。 ※注 文中最後に近いところの藤の記述で「野田フジ」の本場、野田を下総野田と書いているが、大阪の野田が発祥の地であるので、勘違いしているのではないか? ※このテキストの下に実際のページ画像があります **************** ▲花エー、花エーと鋏をチャキつかせ(※注 ハサミを開け閉めして音を出しながら売り声をかけて歩いた)、来る日毎日、八百八町を流し、僅か二銭の仏壇花を切る光景のみを見た人には、それほど花屋の全盛を解し得まい、花エー花エーは僅かに花の都の序幕に過ぎない、植木屋にて取扱う、鉢、庭物の分は先づ別とし東京市内十五区にて切り潰す花代一ヶ年二百五十万円(※注 約100億円)と聞いては、花屋も満更馬鹿にはならぬ。 ▲花屋の全盛 は一面に、花の都を語るのである『花を栽(う)えない東京にドウして其んなに花がある』此疑問に対しては普通の物資と同じく花屋にも、一種の問屋(といや)ありて花の都と花の村との連絡を取って居るのだと答うれば足る。 ▲問屋 として地方より荷を受け、或は仲買人との間に取引ある主なるものは、花太(下谷)花長、長松(南千住)花源(三の輪)花百、花十(深川)花久米、花彦、花常(浅草)花幾(本所)花次、花直(芝)等にして、昔は江戸の城下に卸しの外は一切小売をせぬ問屋は十三軒と極まって居たが、今は無茶苦茶で、間屋は大に小売を行(や)り、甚しきに至り