明治29年の宮中のフラワーデコレーション(卓上装飾)の事情について(『興農雑誌』第25号)1896年

 明治21年の大日本帝国憲法発布式の晩餐会以後、宴会での卓上装飾は洋風(洋花、洋風デザイン)が取り入れられるようになった。盛花や敷花が装飾としてしつらえられる。

当初は、横浜の外国人経営の商館(山手28番のボーマー商会などの植物商だと思われる)に依頼をしていたが、やがて都内(東京市内)の宮内省御用の花店などが承るようになった。それは、本郷の花清(加納正太郎、のちに内田家に継承)、神田明神下(旅籠町)の花八十(田島八十吉)などの有力な花店であった。

宮中の花装飾でもっとも力が入れられるイベントは春の観桜会と秋の観菊会であった。これは、注目すべき情報。

宮中で用いられる装飾用の花材は新宿御苑で栽培されたものが使われていた。ここを取り仕切る福羽逸人は、ちょうど欧州へ遊学中で、その目的は伏見宮殿下の欧州視察の随行員としてであり、またロシアで行われる国際園芸博覧会の視察であったが、ベルギーで花卉装飾も学んでくる、という話になっている。







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