地方から都市へ花を届けるためにどれだけの苦心があったか わら包みから籠、段ボール輸送への変遷史 千曲の花、戦後の花づくりの軌跡の貴重な記録
『「千曲の郷の花づくり』(坂城町花き栽培のあゆみ)
坂城町花き栽培史刊行会 平成20(2008)年3月31日 ※埴科郡坂城町(はにしなぐん・さかきまち)
戦前に地方から千住生花市場に出荷された切り花の荷姿、
コモのほかに木箱が用いられている。『実際園芸』6巻2号 昭和4〈1929)年2月号
※1958年頃の上野の花市場、いかに花が手荒い扱いを受けていたかがわかる資料
https://ainomono.blogspot.com/2022/12/33195814.html
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第一章 Ⅳ 花き栽培の近代化
長い開花き栽培が続く過程で、良い花を求めて研究したり、労働力の軽減を求めて追求する中、様々な工夫が凝らされました。出荷の方法、輸送の方法、灌水や消毒の方法、ハウスの工夫など、あらゆる分野でその工夫の跡が見られます。それらのほとんどは、栽培者自らが編み出したもので、飽くなき追求心の表れでもありました。この項では、出荷と輸送方法での工夫と努力の変遷を追ってみたいと思います。
一 炭俵から段ボール箱まで
花きの出荷で最も大切な条件は、鮮度を保つことと、傷まないように送ることが上げられます。鮮度を保つためには、花を切ってからなるべく短時間で市場に到着させること、水をしみ込ませた布や紙で切り口を覆って鮮度を保つなどの方法が考えられま
す。坂城町の場合は、鉄道が町内を走り、首都圏に近いこともあって、夜の汽車に乗せれば翌朝には市場に届けることができたので、駅まで荷物を運ぶことを除けば特別の苦労はなかったようでした。
しかし、花を傷めないように送るためには、様々な工夫が行われていました。品目によっても違いはありますが、ユリなどの場合、
「良い花を送ったのに、市場に着いたら花が黒く変色していて売り物にならなかったと書いた仕切りがきた。」
といった話も聞きました。花を傷めないように送るためには、包装や梱包の仕方を工夫していくことになります。この項では、梱包の工夫の変遷を追ってみたいと思います。
1 炭俵に包んで
戦前、どのような梱包の仕方で輸送していたのかは、資料が見つからず、全くわかりませんでした。戦後になって花作りをした人からは、梱包についていろいろな話を聞きました。
初めに目をつけた物は炭俵でした。花を、不要になった炭俵で包んで送ったようです。しかし、出荷数の増加に伴って炭俵の調達が困難になり、自分であし(※ヨシ)や茅(※かや:ススキ類)等を山や川原で刈ってきて、こもを編んで花を包んで出荷しました。昭和二二(一九四七)年頃は、茅などを編むための紐も十分になく、砂糖の袋を壊して紐を作って編んだと話してくれた人もいました。そのうちに、編む材料が茅やあしから麦わらに替わりました。麦わらも大麦より小麦のわらの方が硬くて丈夫だったという話もありました。また、紐も細縄に替わりました。
ここで、麦わらで作る梱包用こもについて説明をしましよう。先ず、こもを作るための専用の台が必要です。台は、幅数センチメートルの角材の柱を両隅に立てて、そこに長さ一・二m、幅一〇cm、厚さ一cmほどの板を二枚、柱を挟むように打ち付けます。両隅から一〇cm位のところとその間を三等分した二か所に細縄を挟んで固定する器具がついていました。作りたいこもの長さの四倍の細縄を四本用意します。細縄を二つ折りにして、中央が二枚の板の真ん中に来るようにして止め金具に止めます。伸びた縄は一〇cmほどで二つ折りにして最後に真ん中を縛り、引っ張るとだんだん抜け出ていくようにします。四か所に同じように縄をつけます。いま、仮に左からアイウエの縄としましょう。次に、麦わらを片手で軽く握り(直径三~四cmくらいの太さ)二枚の板の間の縄の上に根元を左隅に揃えて乗せ、アとウの縄を前後に入れ替えて交差させて麦わらを締めます。次に、同量のわらを根元を右隅に揃えて縄の上に乗せ、エとイの縄を交差させて締めます。これを細縄が終わるまで繰り返して一枚のこもが出来上がります。篤農家の皆さんは、このこもを仕事のない冬の間に一年間分を作って蓄えておきました。
次に、梱包の仕方を説明しましよう。まず、こもの長さの五分のIほどの長さのガラ(幅五cmほどの薄い板)で作った正方形の枠を二枚用意します。枠には同じくガラで筋交いが入っていたと思います。この枠をこもの長さの中間点で両隅の縄の位置に取り付け、こもで枠を包むようにして両側面を固定すると箱状の入れ物が出来上がります。この箱の中に新聞紙を敷き、新聞紙で包んだ花の束を入れます。その時、枠の方に花が向き、根元は真ん中で交差するように交互に左右均等に入れます。花束を入れ終わったら上に新聞紙を敷き、両側の余ったこもを上で重ねます。そして、先ず中央をしっかりと締めます。次に両側を枠の上で締めます。こうすると、根元はしっかりと締まりますが、花の部分は枠に守られて締め付けられず傷むことがありません。最後に、絞めた縄がずれないよう縱にも縄を掛けて固定し、梱包は出来上がりです。
梱包用のこもを編む道具やこもの写真を探したのですが見つからず、言葉だけの説明になりましたがお解りいただけたでしょうか。
この麦わらを使って梱包した時期は、昭和三五(一九六〇)年頃まで続きました。
目篭と通い籠
2 目篭・通い籠の時代
バラの栽培が始まると、花を傷めないように出荷するにはそれまでの麦わらを使った梱包では難しいことがわかりました。そこで目篭が登場します。目篭は、幅一cm、厚さ二mmほどの薄い竹で粗く編んだ籠です。これは、農家が編むのではなく専門家に作ってもらっていました。このあたりでは屋代(※やしろ:埴科郡屋代町、現千曲市)の業者に注文して作ってもらっていたようです。一回一回の使い捨てでしたので農家の負担は大きかったのですが、花が傷まないで輸送できる利点には替えることができませんでした。ですから、当初は値段の高いバラの出荷用に使うところから始まり、徐々に他の切り花の出荷にも使われるようになっていきました。
目篭が流通してから三年ほどして、通い籠が開発されました。目篭は、目も粗くあまり丈夫ではありませんでしたので一回限りの使い捨てでした。それに対して通い寵は目も細かく丈夫にできていて繰り返し何回も使うことができました。即ち、通い籠に花を入れて市場に出荷します。市場では、通い籠が数個たまると生産者に送り返し、また、その籠を使って花を送る方法でした。通い籠という言葉は、市場と生産者を通うように行ったり来たりするところからつけられたと思われます。この通い籠を発想し実用化に踏み切ったのは村上バラ会で、全国の花き生産者に先駆けておこなった画期的な出来事でした。通い籠は花が傷まないという点では市場からも大歓迎をされました。
当然のことですが、この素晴らしい輸送方法は全国あちこちに広がっていきます。そうなると市場では集まってきた通い籠をどの生産者に返せばいいかがわからなくなり混乱が生じるようになりました。自分の通い籠に生産者名を大きく書いたり、生産者の組合毎に色を付けてみたりしましたが、極端に言うと自分の通い籠が全国に散らばってしまって戻ってこないということになってしまったのです。折角開発された方法も数年で行き詰まってしまいました。
3 段ボール箱をつかって
昭和三七(一九六二)年、通い籠を使っての輸送の行き詰まりを打破するために考案された輪送方法が段ボール箱を使っての輸送でした。これもまた、村上バラ会が全国に先駆けて始めた新たな輸送方法でした。段ボール箱を使っての輪送を初めて行った竹内憲一さんに当時を振り返っていただきました。
段ボール箱の思い出
竹内憲一さん
三〇年代の後半からは、バラの出荷量が増えるに従い、荷造りの作業が大変になってきました。その当時、バラの取引単位は三〇本でした。これを新聞紙等で包んで圧縮するので、トゲで花傷みができることがしばしばおきました。何かよい方法はないものかと考えていた時、突然、お歳暮用の鮭の空き箱が目に入りました。「よし、この箱だ」と心に決めて、バラ三〇本入りに合う段ボール箱を、秋和にある上田企業に注文して作ってもらい、それで荷造りした物を東京の大森市場へ送りました。私も夜行列車で市場に先回りして、着いた三〇本入り五箱重ねの試作箱を見たとき、箱の強度等に問題はありましたが、まずまずの合格点でした。大森市場の若奥さんが、「これからの花輸送は段ボール箱になってしまうね。竹内さんが段ボール箱の草分けですね。」等と煽てられて、気をよくして帰宅した思い出があります。昭和三七年、市場にはまだ段ボール箱の荷姿は一つも見られませんでした。
その後数年のうちに、生産地では急速に段ボール箱が増え、改良に改良を重ねて、今のような段ボール箱輸送時代になっていきます。
一方、カーネーション栽培に力を入れていた鼠、新地地区でも、村上バラ会とは別に段ボール輸送の方法を開発しました。それは、村上バラ会に遅れること二年の昭和三九(一九六四)年のことでした。思いついた方は赤池寅男さん(鼠)でした。こちらの段ボール箱は村上のものより少し大きかったようで、一箱にカーネーションを普通は一〇〇本、多くて二〇〇本入りだったとのことでした。それ以来、カーネーションの出荷には最後までこの段ボール箱が使われていました。
二 鉄道輸送から自動車輸送ヘ
1 鉄道輸送全盛の頃
坂城地区に信越本線が走っており、坂城駅、北塩尻駅があったことは花の栽培にとって大変な利点でした。戦前、栽培された花がどのような手段でどこに出荷されていたかはわかりません。誰からも話を聞くことが出来ませんでした。おそらく鉄道を使って東京方面に出荷していたのではないかと推察されます。昭和二〇年代までは、輸送の中心は鉄道でした。貨物列車ではなく、夜行の客車便に専用の小荷物車が連結されていて、切り花はそこに積み込まれて、翌早朝には市場まで届く仕組みになっていました。鮮度をもっとも大切にする生花の出荷にとって、このシステムを利用できるかどうかは、産地になれるかどうかをも左右する課題でした。その面では、坂城地区は大変恵まれていたと言えましよう。
昭和二四(一九四九)年の村上花卉園芸組合の記録の中に残されている「更級郡花卉園芸組合事業計画書」の中に、切花輸送対策として、「新鮮を持って生命とする切花の輸送については鉄道方面と密接なる連絡を保ち、最盛期輸送に万全の策を講ぜんとす。」と記されており、長野鉄道管理局との折衝が行われたようです。また、付票として六月から一一月までの上、中、下旬の出荷計画表もあり、それを見ると、
最も多いのは屋代駅の二三七三五梱(※こり)、田中、滋野と続いて四番目が坂城駅の三九六二梱となっています。北塩尻と合わせた四二三二梱が坂城地区の出荷量と考えることが出来ます。屋代駅は、森、倉科、埴生という三つの大きな花き栽培地の出荷駅でした。田中、滋野駅は、地元産もあったとは思われますが、多くは北佐久の協和村からの出荷駅でした。また、小海線沿線から集まる小諸も坂城と同じくらいの出荷量がありました。終着駅である上野駅のホームには、毎朝、信州からの花きが、五千梱から六千梱積み上げられたといわれています。
さらに、運賃割引も実施されていました。二四年の記録にはありませんが、二五年の記録には載っています。それによりますと、
「七月一日より輸送運賃を割り引く。荷物には専用の荷札を付けること。最低運賃は五〇円。王子、上野、新宿、東京、新橋、横浜の駅止めの割引率は四割引。京都、名古屋、千種、大阪、神戸の駅止めは三割引」
たいへん高率の運賃割引が行われたことがわかりました。ここに出てくる割引を受ける専用荷札は、長野県の花卉園芸組合が発行したものでした。確か一枚三円で販売されていたようです。この荷札による収入は、県や郡、市町村の花き組合の活動を大変潤しました。
昭和二六(一九五一)年の記録には次のような記事もありました。「坂城駅との打ち合わせでの決定事項
1 輸送人番号制を実施する
出荷組合員に番号を割り当て、出荷時の手数を省いたものと思われます。村上村、力石村には二〇〇番ずつが、南条村、中之条村、坂城町には一〇〇ずつが割り当てられています。
2 荷物受付時間
サマータイム中 上り二一時まで、下り二〇時まで
サマータイム以降 上り二〇時まで、下り一九時まで
3 積み込み協力について
坂城駅発二一時五九分の列車への荷物の積み込みを手伝う。
七月一五日より毎日二名、実状により人数を増減する。村上村、力石村、中之条村、坂城町で分担する。」
南条村に分担がないのは、北塩尻駅の積み込み手伝いを南条村で分担していたためだと思われます。さらに、村上では地区毎に出役人数を割り振り、出た人には一回二〇円の手当を出しています。
昭和三〇年代までの栽培者は、思い出として駅での積み込み作業をあげています。その頃、坂城駅にはホームで荷物を運ぶ台車が十二台あったようですが、その十二台が全て一杯になるほど出荷された時などは、短時間の停車時間中での積み込み作業は、それこそ息つく暇もないほど大変だったようです。また、時によっては前の屋代駅での荷物が多くて、なかなか積み込めなかったこともあったようです。管理局との打ち合わせの内容に、積み残しが出ないように小荷物車の増結をお願いする項目もあることからみて、たくさん出荷される花の荷の積み込みは、停車時間や小荷物車内の空間との戦いだったのではないでしょうか。
花の輸送で苦労したこと
師田正一さん
花を列車に積み込むのは、当番制で行いました。当番になると、花を台車に積み込んで、列車が来るのを待ち構えていました。いよいよ列車が来ても、今のように停車位置が決まっていませんでした。
「それ、あっちだ!」
花をいっぱいに積んだ台車を押して走るのです。おれはすぐ、荷物車の中に飛び込みました。ホームにいる人たちが、梱(こり、こうり)をどんどん投げ込むのを、必死になって積み重ねました。その最中に外から声が掛かります。
「おい、早くしろ、発車するぞう!」
短時間でしたが、息のきれる作業でした。
2 駅までの運搬
当時の駅までの輸送手段は自転車でした。自転車の荷台には四梱(こり)が限度だったようです。それ以上の場合は、リヤカーに荷を付け、それを自転車で引いて駅まで運びました。南条地籍では、農協の三輪自動車で駅まで運んだと話してくれた人もいましたが、ほとんど、各自で運びました。
村上地区の人に、
「花卉栽培での辛い思い出は何ですか」
と聞くと、多くの人が、自転車で駅まで荷を運んだことをあげました。当時の千曲川を渡る橋は、堤防から堤防までをつなぐようには出来ておらず、流れのあるところだけは橋が架かっていて、橋から一旦川原に降りて歩き、また堤防まで上がるという形でした。ですから、上がり下がりをして橋を渡ったり、石がごろごろしている川原を、荷台にいくつかの荷を付けて自転車で移動することは並大抵のことではなかったようです。特に、川原から橋への上りは荷物の重さで前輪が上かってしまって簡単には登れなかったと口を揃えていわれました。
もっと大変だったのは、まだ治水が十分でなかったので、大水の度に橋から川原に降りる部分が流され、通行不能に陥ることでした。特に、鼠橋、昭和橋、笄橋が通行できないときは、戸倉の大正橋を廻って荷物を運んだとか、荷物を頭に載せて千曲川を歩いて渡って、駅まで荷物を運んだとか、今となっては想像も出来ないような苦労が何度も何度も起きたようです。
橋が流されたときの出荷
辺見達巳さん
キク作りで苦労したことの一つは、橋が流されたときの出荷でした。あの頃、昭和橋の村上側は木の橋でした。大水のたびに木の部分が流されました。河原から昭和橋のセメントの部分までは仮橋が架かります。キクを三梱も自転車に付けていけば急な坂の仮橋を登り切ることは出来ません。自転車から荷を下ろして先ず自転車を押し上げ、一梱ずつ上まで担ぎ上げるのです。汽車の時間が決まっているので急いでやらなければなりませんでした。
大正橋を回っての出荷
塩野人定雄さん
昭和橋は、コンクリート橋が三連だけで後は木橋だったものだから、大雨が降って出水の度に流された。花は、炭俵で包んだ梱を二梱か三梱自転車の荷台に積んで運んだが、橋が渡れないときには県道を上山田を迂回して戸倉駅に運んだ。ところが、戸倉駅では花の荷の扱いに慣れていないので手間ばかり取ったためやむなく坂城駅まで運んだ。片道で小一時間もかかってしまった。中には、時間が惜しいので荷を頭に乗せて、千曲川を歩いて渡って坂城駅まで荷物を運んだ人もいた。
3 自動車輸送の始まり
自動車輸送が本格的に行われるようになったのはいつ頃なのかの記録はありません。昭和二八(一九五三)年から本格的に始まったと話してくれた人もいました。昭和三二(一九五七)年の村上花卉組合の記録には、県外出荷数の調査結果として、鉄道輸送一四八〇〇梱、自動車輪送一二一五八梱と書かれています。昭和三二年には鉄道輸送と自動車輸送が半々に近づいてきていることから考えると、昭和二八年頃から少しずつ自動車輸送が始まったのではないかと思われます。とにかく、出荷数がどんどん増えていくなかで、村上から千曲川を越えて坂城駅まで荷物を運ぶ苦労を考えたとき、それぞれの地域の集荷場まで荷を持ちに来てくれる自動車輸送は、生産者にとって相当な魅力だったに違いありません。
どこの地区が始めたのか、いつからか、どんな方法だったのか等の記録は全く残っていません。担当した自動車会社は「丸三陸送」という上田市にある会社でした。
4 自家用自動車での輸送
栽培者が輸送組合を作り、自家用自動車で輸送したらという発想は、通い籠の普及と大いに関係があったようです。通い籠の項でも書きましたが、通い籠は、花を入れて市場に送った籠を、まとめて送り返してもらい再度利用するものでした。しかし、市場からの返却がうまくいきませんでした。その問題解決のために思いついたのが、自家用自動車による運搬でした。自分たちで組合を作って自動車を購入し、自分の荷を自分で市場に運び、帰りに自分の空き篭を積んで返ってくればうまくいくに違いないとの発想でした。
昭和三六(一九六一)年。上五明地区のバラ栽培者二五名で組合を作り、計画は実行に移されました。大変順調に進んだ計画も、一ヵ月後大きな壁に突き当たります。詳しくは、次の竹内憲一さんの「自家用自動車組合の思い出」を読んでいただきましよう。
自家用自動車組合の思い出
竹内憲一さん
花の荷造り方法も変わり、こも包み、目篭から、何回も使える通い籠が昭和三三年から始まり、丸三陸送の帰りの車に、前日送った花の空き篭を回収してもらいました。しかし、この籠は、だれでも使える便利な籠でしたので、籠の横に青のペンキで「村上花卉組合」と大きく染め抜いてあるのですが、なかなか回収がうまくいきませんでした。自分の荷は自分で市場に持って行って、自分の空き籠は自分の帰る車に積んで帰れば問題なく空き籠の回収ができる。こんな発想が組合員の中から出てきて自分達の自動車を買うことになりました。
昭和三六年三月、自家用車組合を設立、四月、長野菱和自動車(株)より「三菱自動車ジュピター長尺ボディーニトン半」を一一〇万円で購入、本格的な自家用自動車輸送に踏み切りました。
六月一三日、初荷を積んで東京へ出発するときは、本当にこれからは自分たちの時代になるのかと歓喜に満ちました。自分の荷を自分の車で運び、帰りには空き籠を持って帰り、これを毎日繰り替えし運転する。花作り生産者には最も理想的な方法が実現したのです。毎日、荷物の積み降ろしに組合員が二名ずつ自動車に便乗して市場に行き、帰りには集金して帰れる等、自家用車輸送の恩恵もあり大成功のはずだったのが、そこに大きな落とし穴が待っていました。
二五名のバラ会員が農協より借り入れして買った車は、自分たちの荷は自分たちでということで、営業車の緑ナンバーではなく個人輸送の白ナンバーの登録だったのです。そこで輸送業界等から横やりが入ったのかもしれませんが、白ナンバー車が大勢の組合員の荷を運ぶのは「道路運送法」に違反するから直ちに止めるようにとの達しが出てしまいました。この問題を解決するために何回も何回も会合を開いてよい解決策はないものかと協議しました。車は借金で買ってしまった。仕事は順調に進んでいる。この場に臨んで止めるわけにはいかない。そこで、長野県花卉園芸組合の武田専務のお骨折りで、当時の園芸組合長で参議院議員の夏目忠雄氏と、組合の理事であった塚田利次さんを代表として、何が何でも一年間だけは運転させてもらうことになりました。自分の荷物を自分の車で運んでなぜ悪いかと本気で反発してみましたが、自分だけでなく、仲間の荷も一緒に運ぶというところに問題があって、一年間の自家用車輸送に終止符を打つことになりました。
一一月一四日、自家用自動車組合の総会で輸送を中止することを決定して、菱和自動車に廃車の手続きと買い取りをお願いしました。一二月末、自家用自動車組合解散を決めて精算に入り、廃車処分等により農協よりの借入金も全額返済して、組合員にはなんの迷惑も掛けることなく解散することができました。土曜日を除いた週六回、東京・坂城間を、六月から一一月までの半年間、自家用車組合、村上花き生産者のために尽力いただいた運転者の寺島幸次郎様、塚田武司様、川島武司様に、当時の組合長として深甚な敬意と感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
5 自動車輸送の定着
前述したように、鉄道輪送から自動車輸送にだんだん替わっていったのですが、その過程ははっきりしません。駅までの荷物の運搬を考えると、地区の集荷場まできてくれるトラック輸送が栽培農家にとって大きな魅力でトラック輸送への移行は当然でした。さらに、運送会社から出荷量に応じて花き組合へのバックマージンもあり、組合運営に大変役立ったことも理由の一つだったのかもしれません。前に触れた昭和三二(一九五七)年の村上花卉園芸組合の記録以降、公的な記録はいっさい残っていませんでした。また、当時からトラック輸送の荷物集積場だった人の記録も、体調を崩され入院したときに処分されてしまったということで見ることができませんでした。栽培していた人の話では、昭和三五(一九六〇)年以降の早い時期に鉄道輸送からトラック輸送へと完全に切り替わったようでした。
その後順調に進んだトラック輸送も、いくつかの危機が訪れます。次のエピソードでこの項は閉めたいと思います。
花のトラック輸送で困ったこと
師田正一さん
オイルショックのとき、おれが村上花卉園芸組合長をやっていました。村上の花の最盛期は過ぎていました。花の輸送をしてくれていた名鉄の担当の方が、
「ここで輸送費を上げないとやっていけません」
という話をしました。しかし、それではこちらが困るので、何度も折衝しましたがどうにもならず、結局、名鉄側で輸送を一日おきにして欲しいという案を出してきました。
そこで、それを総会にかけたのです。
「おめ、花の組合を潰す気か」
「毎日咲く花を一日おきに出すなんて馬鹿なことができるか」
組合員はガンガンと言いました。そこで、名鉄の方に説明をお願いしましたが、喧喧諤諤(けんけんがくがく)、騒然としてしまいました。おれは組合員と名鉄とに挟まれ、幾夜も眠れませんでした。
結局、出荷する日は一日おきになり、名鉄にお願いをして荷を運ぶことで決着し、現在に至っています。