「兄の法事」 日本の園芸史にその名を残す池田成功(いけだ・なりかつ)氏がどんな人物であったのか、弟、潔氏が語る貴重な記録


 暮しの手帖 第二世紀25号 1973(昭和48)年7ー8月号

※池田成功氏経営の日本園芸株式会社 洋蘭、バラ、カーネーション、花鉢、観葉植物など

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兄の法事     池田潔


五月末近い日曜の午後、東京・小石川の護国寺で、亡兄の三回忌の法事が営まれた。内輪のごく小人数だけで、花も目立たない白いのがいくつか、ひっそりと、


「どうだい、いいだろ、これなら……札に苗字のついてる花なんか、一つもないよ」


ぼくは、位牌にむかって、誉め言葉を催促した。一つ違いの兄、成功(ルビ:なりかつ)、神奈川県大磯で洋蘭を作って一生を終った人だったが、ハデなこと見かけを装うことが大嫌いだった。



戦前、農園を参観に来られた某宮家ご一行を汚い仕事着のまま出迎え、お供の三太夫に急いで衣類を改めてもらいたいと注意され、「お願いしておいで戴いたわけではなし、こっちは仕事中ですよ、そんな暇あるもんか」と怒鳴り返して、宮様が大笑いされたという伝説がある。


ご一行の中の小さなお子ちゃん宮様が、途中、ぐずりだし、女官というのが困って周囲を見廻わし、そっと温室の蔭につれ込んだところを見つかった。


「おい、キミィ、だめだよそんなとこで小便させちゃあ。われわれの働く場所じゃないか、冗談じゃない……便所につれてきなさい、便所へ。小さいときから、そういう癖をちゃんとつけとくもんだ、親がそれをいいかげんにするから、子供が大きくなって……」


若宮殿下ご成長の暁、所ばしょの見境いなくそのような所業に及ばれる惧れは、万(ルビ:ばん)、あるまじきことは兄貴も承知ではあったろうが。


も一つ、お帰り際に、先刻の三太夫が、またまた小声で、(この商売をやっていると、大きな声は出なくなるものらしい。やたらに吸い込む息の量に比べて、吐きだす量の少なさが特徴となる)


「ええ、ご昼食(ルビ:ちゅうじき)の用意は、どこに?」


「そんなものは別に用意してませんよ。……ええと、昼食ですね、飯なんて言ってもこの町には適当なところもありませんから、この道を東海道に出て左へどんどんゆくと、横浜って大きな町がありますから、そこのホテルがいいでしょう。場所は聞けばわかります。もちろん、勘定は、ちゃんと自分で払うんですよ、ちゃんとね。他人をあてにせず……え?」


そう言って、さっさと温室に引揚げたというのだが、あとで、少し手厳し過ぎたんじゃないかという説に、いや、ああいう連中にはあのくらいにしておかないとダメなんだ。殿下がご所望だからなどといって、大切なやつをがっぽり召し上げられる。もちろん殿下はご存じないことで、〈献上〉ということになるらしいが、同業者でそれに泣かされてるのが多いんだ。みんな怖いから黙ってるんだが。


近所の料亭で豪遊され、「キミにも陪席を許されたから」とひそひそ声で言われ、冷や汗のかき通しで事を相済ませ、数日後、そのツケを廻されて、も一度冷や汗のかき直しをした仲間もいたという。話に誇張もあり粉飾もあるだろうが、遠い戦前には、そんな例も、まま無かったではないらしい。



兄の農園は、一族の株式組織で大正はじめに大磯にできた。小学時代から植物学だけに異常な興味をしめし、中学一年のとき、蘭の研究を一生の仕事とひとり決め、それだけならよかったのだが、同時に、ほかの勉強なんか一切やらない決意を固めた。まず困ったのは両親で、学校からは叱言がくる、夜中に室に灯がついているから、みると植物図鑑などを眺めている。学校で、ほかの科目の授業中、机の下でなにか読み耽っているので、先生が怒り、


「こら、またキサマ、なにか読んでるな、なにを読んでるんだ」


「……」


「言ってみろ、言えないか、立川文庫(※たつかわぶんこ)か、それとも……」


「……」


業を煮やして先生が駆け寄り、机の下の書物を取り上げ、


「や、なんだ、なに、これ……チャールズ・R・ダーウィン著『種の起源』?……お前、中学一年でこんなもの読んでわかるのか」


「わかりません。わからないから、勉強してるんです」


「ウム、だが、おもしろいかね、そんなもの……


「つまんなかったら、時間中にまで読みやしません」


「そうだろうな、ま、仕方ない、いいよ、オレの授業中は、な、その代り、ほかの先生にめっからないように、こっそり読みなよ……」


それを語るとき、兄はいつも嬉しそうな顔して笑った。はじめ書物の名をみて、立川文庫じゃなかった時のあの教師の顔、よく覚えているが、ぼくの短い学校生活についての唯一無二の自慢話だという。その後、中学一年を何回も繰り返し、とうとう学校というものとまったく縁を切ってしまったが、


「偉いのは兄貴じゃないよ、その先生だよ」というと、それもそうだなと苦笑した。時代ものんびりしていたし、世間や父兄が、成績の席順のとやかましく言わなかった時代でもあったろうが、後年、その学園の別の部門で、教師を一生勤める間、ぼくはしばしばその話を思い出し、今では名も知れない同学の大先輩の高風に襟を正す思いをした。



そして、大正の終わり近く、兄はイギリスに渡り、中部地方の某貴族の庭園に、園丁として住み込んだ。ちょうどぼくも弟も留学中で、休暇になると三人顔を合わせ、家からの手紙の廻し読みなどをした。大正十二年九月、関東大震災の報が新聞に出、その直前に受取った父からの手紙で、われわれは、(というのは、父、母、妹一人のことだが)九月一日まで箱根小涌谷の別荘に滞在し、同日、帰京の予定とあった。震災は九月一日だから安否はわからない。


新聞には、「江の島は海中に没した」とか、「飛行機の偵察によれば、関東平野に人影なし」などと出た。世話になっている銀行支店に訊ねても、情報はまったく杜絶、見通しは絶望的というほかないと知らされた。


「悪いニュースを覚悟しよう。どうだろうとみっともない真似はするな」


「その代り、万一、ほんとに万に一つ良いニュースが入っても、他の方々もおいでなのだから、嬉しそうな顔なんかするな」


兄弟で、そんなことばかり言い合った。


ちょうど一週間目に銀行に呼ばれ、日本からの電報を渡された。なぜか名古屋から兄宛になっている。日本からの第一報というので、他の方々も、どっと周囲を取り巻いた。


「いやだよ、お前よんでみろよ」


と兄はぼくにそれを渡した。


「とんでもない、おい、お前」


と、ぼくは弟に渡した。


とどのつまり、弟が封を切った。


「ALL SAFE」と、二語、それだけ。


どうでした、なんとあります、と周囲から催促され、弟は黙って傍の人に紙片を渡した。その人が大きな声でその二語を読んだ。


どよめき、そして、よかった、君たち、よかったねえ、おめでとう、と。


われわれは、黙って頭を下げた。よかったとも嬉しいとも、ぜんぜんそんな感じではないのだ。申訳けない、皆さんに悪い、ひとりひとりに謝って歩きたい気持なのだ。いま考えるとおかしいとも思うが、後年、それが話題に上ると、いつも、ほんとにあれは変な気持だったなあと言うほかなかった。戦争末期に近く、ぼくは四十一才で陸軍歩兵補充兵として招集され、入隊した日に即日帰郷を命ぜられたが、千葉・佐倉の連隊から夜更けに帰京し、二重橋にひとりで立ってお詫びを申上げた――あの時の気持に相通じるものがあったかもしれない。


その晩ロンドンで兄弟三人で食卓を囲んだ。下二人はダメなので兄貴一人が祝杯を挙げ、


「よかったな」


そのとき始めて、弟が下を向いて肩を震わせた。十四才何か月、二か月前に日本を出たばかりだった。


「なにを泣くんだ、バカ、死んだんじゃない、みんな生きてるんじゃないか」


「まあ、いいよ、仕方ないよ」


怒ったのが二十一才の兄か、宥(なだ)めたのが十九才のぼくか、あるいはその逆か、いまぼくの記憶ははっきりしないが、食卓に出たもので、鱒を蒸してターターソースをかけたのが一番美味かったことだけは覚えている。地震ぐらいで食い意地は影響うけない心意気は買ってほしい。


そんなことが昔話にでて、「その晩、飯の最中にこいつがめそめそ泣き出しやがって……」と弟をやっつけると、「自分だって急に手洗に立って行ったじゃないか。もっとみっともないぞ」などと、やり返した。二十何年か後、その弟は中支方面で戦死したが、母親は、


「豊ちゃんは兄弟のうちで一番親との縁が薄いことが分かっていたから、きっとその晩、泣いたんじゃないかしら」


母が愚痴をこぼしたのは、ただその一度だけだったが、傍から父親が強く窘(ルビ:たしな)めた。


「そんなこと、子供のとき、あらかじめ分ってる筈あるもんか、お婆さんのいうことは、いつも迷信じみていて困る」


このオヤジのほうは、自分の気に喰わない他人の言動は、万事、迷信の一語で片づけてよしとする迷信をもっていたようだ。



一方、イギリスの大農園に園丁として住み込み、洋蘭栽培の実地見習を続けた兄は、三年たって、アメリカに渡り、ニューヨークの園芸会社で働いた。売店で包装がうまくできなくて叱られたり、アメリカ語が聴きとれず電話の応対で怒鳴られた話、ニューヨークに到着した十日後には、自転車で花の配達をさせられた話。


「着いた十日目に配達は無理だというと、ムリとは努力の足りないやつの言い掛りだ」と取り合ってくれない。一般に日本の従業員は、外国とくらべて甘やかされ過ぎている、というのが戦前からたびたび周囲がきかされたお説教、近頃はそれが出なくなったのでわけをきくと、


「言うだけムダだとわかったもん」と、へんに達観した様子をみせた。甘ったれる従業員と甘やかす雇主と、きりのないいたちごっこだ、バカらしい……。


ニュー・ジャージ州だったか、いなかの農園で、そこの神さんが(*ママ)奇特な親日家という触れ込み、日本人は白色人種だというのが持論で、常に日本人にむかってはそう主張する癖をしめした。ある日、電車の有色人種席に坐っている兄の姿をみかけて、猛烈に噛みついた。


「あたしが、日ごろ、一度でもあなたを有色人種扱いにしたことがあるか。それどころか、いつも、日本人はアメリカ人以上に白色人種だと、これがあたしの口癖じゃないか。事もあろうに、有色人種と一緒に、電車で……」


涙さえほんとに流してみせたというのだ。


「……お神さん、ぼくの顔みてごらん、黄色いだろ、黄色けりゃ有色人種じゃないか。もともと席を区別するのが怪しからんのだが、区別されてる以上、ぼくは、自分の顔色通りの席に坐る、当り前じゃないか……」


おれの言い分無理かねと訊くから、珍しく無理じゃない、というと、それを神さん、ぎゃあぎゃあ泣きやがるんだ。アメリカのいわゆる親日家ってのは、厭味なのが多いよ。もっとも、そんなのの尻馬に乗り、白人席に納まって粋がってる黄色いバカが結構いるから困るんだが。


戦争が進むにつれ、兄の仕事も困難になってきた。大磯で洋蘭を栽培し、一方、茅ヶ崎に広大な分園を設け、そこでバラ、カーネーションなど採算のとれる花卉を作って赤字を補ってゆくという建前だったが、まず飛行場用地としてそちらを取り上げられた。人手も肥料も日に日に補給がつかなくなっていった。


戦争不可避とみて大量な石炭を貯蔵していたが、これもすぐ底をついた。ボイラーを焚く量と時間を節減していくうちに、正直なもので、優良種ほど早く枯れていった。


「駄犬は強いというが、駄蘭も強いんだなあ、恐いほど正確に、優良の度合いに応じて、いいものから枯れてゆきやがる」


何十鉢もを一所に集め、憮然とした表情で兄は言った。


「これが、今日一日のわが方損失の戦果だ。中でもこれが武蔵大和クラスかな。おおい、だれか、甘藷の残りがどっかにあったろう、あれをここへもってこいよ」


そう言って兄はカトレアの残骸を積み上げてマッチを擦り、燃え上るとさつまいもを放り込んだ。おい、女たち呼んで来いよ、今日は洋蘭で焼いた天下一等の焼芋を食わしてやるって。こんな焼芋、ルーズベルトだって食ったことあるまい、ザマァミロ……。



農園は見る蔭もない姿で敗戦を迎えたが、アメリカ軍が進駐してくると同時に、急に暗緑色の軍服が数多く参観にくるようになった。こちらの作業の邪魔にならぬよう遠慮深く、しかも四時間も五時間も、熱心に観察し研究しているものが多かった。小さなサンドウィッチの包をもち、井戸の水を飲んで、毎週、日曜日に、朝から夕方まで勉強しているものもいた。戦争をしていると、美しいものに離れてしまうのでと、控え目に笑ったという。


特に熱心だったカリフォルニア大学の助教授という人に、兄が数鉢、進呈すると、とんでもないと断って、逃げて帰った。


近く帰国すると挨拶にきたときムリにうけとらせ、再三、代価を訊いたがそのまま帰して、あと兄は忘れてしまった。半年ほどもたって、突然、米兵が一人訪れ、友人に頼まれたといって、助教授の手紙と、日本金なにがしかをおいて行った。頂戴の品、帰米後、専門家にみせたら、非常に高価なもののことがわかった。一教師の俸給では一度には払えないので、同額をあと二回お送りする。日本での時価はわからないので、それで不足になるのだったら、遠慮なく言ってほしい。オオイソの農園で過したあの数日だけが私の記憶に遺る日本のすべてであり、そこに働く人たちが私の知る日本人のすべてだが、それで私には十分、私の心の中の宝として、いつまでも私は……。


「いい手紙だねえ」兄がそんなことを言うのは珍しい。


「英語の先生、返事書いてくれよ。代金たしかに受取った。あれで十分以上、有難く御礼を申上げる。なお、別に数鉢、これは貴君の友情に対する私の感謝の印として贈呈するもの、受取られたら、温度を◯◯度以上に保ち、肥料はこれこれをこれだけ、水はあまりやらず……」


あるとき、アメリカ第八軍司令官アイケルバーガー中将の副官ほかの数名が、ジープで乗りつけ、温室を見廻ってカトレアの最上のもの三鉢を選び、包ませてすぐ持ち去ろうとした。兄が駆けつけ、軍人と鉢の間に突っ立って、頑として、「ノーォ」を言いつづけた。大将、実におっかない顔してましたよと、あとで農園のものが言ったが、当時としてはそうだったろう。


翌日、べつの軍人数名が来て、丁寧に兄に面会を求め、将軍夫人の誕生日が今日であること部下一同相談の結果、夫人の一番喜ぶカトレアを贈呈することになったこと、ついては、代金は、そちらで言われる通りのものを払うから、ぜひ譲っていただきたい、いかがだろうか。


わかりました、それなら話はべつで、と言って昨日の三鉢をもって来させ、明日は夫人のお誕生日とのこと、将軍は着任以来、温情豊かな統治方針をとっておられることが日本で評判になっています。これは日本国民の一人として、私の感謝の心をこめたプレゼント、どうぞ夫人に差し上げていただきたい……。


うちの大将の天の邪鬼も、いよいよ国際的になってきたぞと、農園の連中が笑ったというのだが、これは、まあ、一つの神話とみてよかろう。神話ではなく実際に起ったことは、その後、数日たって、平和の立ち戻った大磯の町が、米軍用大トラックの爆音で静けさを破られた。最上質の石炭を腹いっぱいに積んだトラックは、農園用地にその全部を叩きあけ、再び横浜方面に帰って行ったというのだ。感謝の言葉を添えたアイケルバーガー夫人の名刺。


まだ、先がある。何年かたって、日本の代議士団の一行が戦後初めてアメリカを訪れ、どこか田舎に隠棲されている元第八軍司令官夫妻を訪問すると、


「大磯といったか、あの辺で洋蘭を作っている男、なんといったか、あれ、いま、どうしている?」


一行のうちには、そんな変りものの植木屋などに心当りのあるものはいなかった。


「いや、あたしが日本にいた何年かの間に、あたしにむかってはっきり『ノーォ』と言い返した唯一人の日本人、あいつ、どうしているかと思って……」



静かな小石川のこの界隈で深い緑の木々に囲まれたこの護国寺でも、規模壮大な本坊よりも、閑寂なこの月光殿に心を寄せるものが多い。父も母も兄もそうだった。いま、うす暗いみほとけの像のあたりに庭の緑が映え、その名の月光殿の文字が心に浮かんでくる。お経の声をききながら、ぼくは、七十年近い兄とのいろいろな関わり合いを断片的に思い出していた。


世間には、鼻っ柱の強い、かなり傍若無人と思われる半面を見せていたが、実際には、親や身内や友人を思うこと篤く、正直で善良な人間だった。疎開先の家族を見舞いにゆくぼくに、


「結婚なんてバカな真似するから、こんなとき余計な苦労するんだ。後悔してるだろう」


「後悔なんかするもんか、それに、余計な苦労とも思わない。お節介だよ」


「そうか……ときに軽井沢へ行ったら、子供たちに、これ食べさせてやってくれ」


そう言って、とっときの〈貴重な物資〉をそこに並べるのだった。上から力で圧しつけるものには倍の力で跳ね返したが、まわりの若いもの弱いものには、いつも温い言葉や配慮を忘れなかった。晩年は、むしろ痛々しいほど細かく気をつかい、静かなうちにも、一抹、寂しいものをさえ後姿などにみせるようになっていた。


「衰えたなぁ……」と、ぼく。


「それにつけても、だれかの憎々しさ」と家内、その家内が隣で、今日は神妙な顔で経を聴いている。


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『実際園芸』昭和7年3月号(第12巻第3号)から 中央は吉田進翁。池田成功氏は椅子に座った吉田氏の右後ろに立っている。 

一番左のヒゲの人は石井勇義。順に、山岡健太郎、岡見義男、平沼大二郎、岡本勘次郎、福羽発三、池田成功、後藤兼吉、松崎直枝、五島八左衛門。みな伝説の園芸家たち。

『実際園芸』第25巻11号昭和14年11月号

第日本薔薇協会の事務所は京都府伏見区鍋島の岡本勘次郎氏のもとにあり、関東支部は神奈川県大磯町の池田農園内にあった。(第14巻5号p402)

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