昭和9年、池田成功氏の「日本園芸株式会社」茅ヶ崎分場を視察する 茅ヶ崎駅を過ぎて西へ向かう東海道線の車窓から見えたという巨大な温室群
『実際園芸』第18巻1号 昭和10(1935)年1月号
日本園芸株式会社の茅ヶ崎分場を見る
石井勇義
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(1934年)十一月十八日、大磯の池田農園(※大正時代に父親が創設した)が日本園芸株式会社となり、従来の大磯の栽培場の外に、茅ヶ崎に分場が開かれ、去春より温室の建設等に当っておられたところ、ほぼ完成された由で、池田専務よりの招きを受けたので拝見にお伺いした。松崎直枝氏と東京駅にゆくと、岡見(※義男)、森川(※肇)両氏は車窓より顏を出されて迎える。座席のあいている車内に入ると、間もなく福羽(※発三)氏も来られ、四時二十分の汽車にて茅ヶ崎駅に着くと、鳥居(※忠一)子爵、坂田商会主(※坂田武雄)、長田傅氏、戸越農園の石田(※孝四郎)氏などの顔が見え、日本園芸会社の方々のお迎えをうけて八台ばかりの自動車に分乗して新栽培場に御案内をうけた。茅ヶ崎駅から西北方にあたり、馬入川(※ばにゅうがわ:頼朝の故事に由来)に添うているので、東海道線が馬入川の鉄橋を渡るときに川上を望めば高い煙突とアルミニュームペイントに塗られた広大な温室とが手にとる如くに見る。
新園芸場は平坦、肥沃の土質で、米国式の営利温室が偉観を呈している。上図に見る二棟の長い温室は幅十五間、長さ五十間の二棟連続のものである。主としてカーネーションを我培しておられる。その背後に下図に見る五棟連続のものがあり、総面積は八百数十坪との事であった。背後の連続温室ではフリージアその他いろいろの促成もの等を行っている。作業室の設備、ボイラー室いづれも純営利的施設として徹底している。
なお分場の面積は一万坪と称されているが、温室の敷地を除いた部分には各種の大根、蕪菁、白菜の品種が多数に蒐集培養されていた。将来海外より未だ我国に作られていない、果樹や蔬菜の品種などを輸入して試作され、一面附近農家のためにそうした方面の指導機関的の立場にあって、園芸産業のためにも盡されるという様な事も伺った。ここの分場と大磯の本園とを合すると、温室の面積は千六百坪以上になり、なお工事中のものが完成すると二千坪に逹するという。こうした大温室経営が一つの会社組織により合理的に経営されてゆくという事に我国の園芸界に対しての一試練でもあると思う。