前田曙山 「明治年間花卉園芸私考」 大正七年における明治の回顧

 

『明治園藝史』日本園藝研究會編 日本園藝研究會 西ヶ原叢書刊行會、1918

前田曙山氏は1941年に逝去された。この年の『実際園芸』6月号に訃報が掲載されている。ここで、前田氏が石井らの十四日会に参加していたことが記されている。晩年まで戦争がどうなるかに目を向けていた。
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明治年間花卉園藝私考 前田次郎(曙山)     


著者いわく、本記述は明治年間における花卉園芸の管見で、ただ著者の見たまま感じたままを、記憶をたどって記載したに過ぎない。あるいは無用の漫罵に過ぎなかるべきも、もしも他山の石となる事あらば、著者望外の満足である。


細身の刀に巻羽織、華奢風流を競いし徳川氏の中世は、竹刀執る手に三味線携えて、端唄の咽喉を自慢するような怪しからぬ武家が出て来た。世を挙げて滔々文弱に流れる時に、我が花卉園芸は発達したのである。花卉園芸と淫靡という事は、何らかの関係があるように聞こえて語弊があるけれども、事実殺伐な世の中に、花や盆栽を楽しむような余裕はない。うっかりすると笠の台が飛ぶような物騒な時に、植木道楽でもないとすると、大刀は鞘、弓は袋の泰平無事な時でなければ園芸は発達せぬ。もちろん単にこの道ばかりではない、すべての文化は泰平にしてはじめて発展するのであるから、花卉園芸と文弱とは、親類より親しい他人でなくばならない。例えば夫婦のごときものであろうか。夫婦はもともと他人であるが、これが一つになると、親子兄弟よりも親しくなる。花卉園芸と文弱とはなお人間の夫婦のごときではあるまいか。ただし、媒人を立てた正式のものか、野合でできた内縁かは、説明の限りではない。


さかのぼって、東山時代、すなわち足利義政公、あるいはさらにさかのぼった藤原時代には、花卉を愛玩する事が盛んであった。それは史乗のみならず、文学書類にも散見する、藤原時代に花卉を贈物とした事や、花卉に寄する恋の歌、あるいは菊合の会に菊花の品評をしたり、花の宴という風流な遊びをしたなど、数えれば僕を更うるもつきぬ程ある。降って東山時代の足利氏掉尾(たくび)の全盛期には、立花の名匠として名人珠光を出し、画人にして造園盆栽の技に秀でた松雪斎相阿弥が居る、その他絵画に彫刻に、大家巨匠一代に輩出したのである。それより豊臣氏が天下の権を掌握し、四海しばらく静謐となるに及んで、千利休のごとき花道の巨匠を出し、頓(やが)て徳川氏になってから、次第に花卉園芸の技術が進歩したのである。これを明治年間に比すると、明治の方が徳川氏中世の全盛期に劣るような観があるのは、吾人として実に遺憾である。明治中興は花卉園芸だけ除外されたのであろうか。同じ園芸と言いながら、蔬菜果樹のごときは、明治年間の方が徳川氏の頃より遥かに発展して居るが、花卉になると後へに瞠若たる事を否定されない。西洋花卉の輸入は単に彼に在ったものを、是に持ってきたというに過ぎない、このごときは交通至便にさえなれば、自然の数である、ダアリア(天竺牡丹)や、チウリップ(鬱金香)を外国のまま移植したからとて、自慢にはならない。明治っ児たる者が、旧幕老人に対して誇る事は出来ぬのである。


徳川時代には花卉園芸に関するいかなる発達があったか、虚心坦懐にしてこれを憶う時には、吾人は実に先人にたいして忸怩たるものが多い。


花卉の蕃殖(はんしょく)が花粉の媒合に基づくと言う事は、徳川時代において知られなかった、况(いわ)んや公孫樹(いちょう)の精虫などいう事は夢想にだもない(ママ)、啻(ただ)に植物のみならず、人類や動物の蕃殖が何に原因するという事さえ知られなかった時代に、斯道(しどう)の老年は、巧みに変種変品を造り出して居る。今日残された物を挙げて、目の子に勘定して見ても、桜では染井吉野を筆頭にして、八重桜の各種、躑躅では久留米躑躅のごとき、百両金のごとき、万年青のごとき、あるいは斑入葉覆輪物(いさはふくりんもの)、さては牽牛花、菊、山茶(ツバキ)、茶梅(サザンカ)、梅等、今日世に持て囃されるものは、すべて先人の後塵を拝さぬはない、或いはより以上に進化さしたものもあろう、しかしいずれも古人の糟粕を嘗めたもので、明治っ児の独創はほとんどないというに至りては、吾人なんの面目ありてか先哲に対せんやである。


今日米国のバーバンクのごときが、植物変態法を発明して、ジャガイモの枝にナスを生らしたり、トゲのない仙人掌(サボテン)を拵えたりする技術は、まさに神工を奪える妙手とも称すべきであるが、それは万手段の学理を応用しての細工である、しかるに日本で桜品や梅品や、その他の変品を出したのは、学理も何も知らないで行ったのであるから、彼らの熱誠とその技能とには一層感服せずにはおけない。今日飛行機が学理に因って発明されたより遥かに前に、鳥の形の飛空機を拵えて、空を飛んだために、忽ちお咎めを蒙って、せっかくの発明品は取り上げられ、さしたる罪でもないというので、所払いになった人が、徳川氏の頃に出たのに向って、僕は一層の驚嘆をはらうに躊躇せぬ。当時彼は鳥の真似をして空中を飛んだというので、散々世の嘲笑を買った。彼はその始め人家の家根から飛び立ったのであるが、飛鳥山へ来ると、大勢が花見の宴を開いて居た、その真上へ飛んできたので、花見の連中は怪物が来たと思って、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。ひょうきんなる彼はしめしめと舞下って来て、花見の筵に取散らされた重箱を渉ってたらふく詰め込み、ひょうたんの酒を空にして、仕合よしと飛び上ろうとしたが、今の飛行機のように、滑走ができないので、終に飛び立つ事の出来ぬ間に、不届者というわけで上役人に捕われたのである。飛行機乗が花見客の割籠(わりご)を浚ったからとて、漫然笑い去る事を止めよ、今日の飛行機乗には、泥酔して人を斫(き)ったり、藝妓と情死する洒落者もあるではないか。話は横道へ外れたが、学理を応用して発明する者は、固より推奨すべく、その発明も重んずるに勝えたものに違いないが、学理も何も知らずに、技術と経験とから割り出して、今日学理を応用しても、なお出来ないような発明をする者は、一層敬服に値えする。僕の先輩に、横浜本牧の友野與左衛門氏が居る、この人の祖父に方る人は、箱根から三島在へ灌漑用の水道を敷設した、その方法はさんざん学理で責めぬいた揚句にできた今日の送水法の原理と少しも変ることがないというので、堂々たる学者碩学は、この送水暗渠を検し、唖然として舌を巻いた、しかし、左様いう先覚者が、徳川時代に在ったのを知らずに、一生懸命に水道の研究をした事が、彼らの不明を世間に知らせるようなものだという理由か否かは知らず、口を噤んでその功績を黙殺して居るというのは、卑怯千万である。こういう弊害はひとり土木水道のみならず、我が園芸界にも有るなくんば、斯学と斯学者とのために幸福であり、かつ公明正大を誇るに足ることではあるまいか。


徳川氏中世以後の花卉園芸は、驚くべき長足の進歩をしたが、いわゆる御維新の瓦解なる者が盗人の夜来るがごとく、予期せざる不意の襲来となって、天下麻のごとく乱れずとも、海内騒然として、物情恐々となると、花卉園芸には大禁物である、まして花卉園芸に趣味なくして、花見る人の長刀たる武断派が勝利を得たのであるから、盆栽や花壇をいじくろうという文治派は、全く敗退し閉息してしまった。彼らは花どころではない、一身の安危と生活とがおぼつかないのであるから、せっかく苦辛した天下一品の花卉も、弊履を捨つるがごとくに放擲された、その結果は佐野の鉢の木ならぬも、梅松桜の名木は、斧鉞の罪を受けて、かまどの下の灰となったのもあろうし、菊畑は踏み荒らされ、蓮池は掘り返して、根まで食べられてしまった。この如くして戊辰以後数年の間は、草も木も芽は吹かない、花はあれども眺める者もない有様である、有名なる三保の松原の松さえ、伐って薪にしかけたというもこの余波を受けたのであった。


花を見ていても腹は張らない、芸者に三味線を弾かしたばかりでは物足らないという、怪しからぬ没風流は、いわゆる官員さまなる隼人連の大官によって鼓吹された結果、明治の初年における日本の天地をして、薫風たる金風を吹きめぐらした。


しかし美を喜び、自然を楽しむ人間の天性は、泰平の曙光が、天の一角に輝き始むるとともに復活して来た。石部金吉のような一派から見たらば、士風頽廃的の兆しとでも嘆くであろうが、この曙光が先ず人間の目に見え始めたのは、縁日植木である。こうして幕末に流行したものが、数寄者の植木壇に残っていて、幽かに余喘(よせき)を保ったのが、急に世間へ出て来たので、これは明治七八年頃からであるが、折鶴蘭と金栗蘭(チヤラン)とが顔を出してきた。折鶴蘭は植木屋のいわゆる蝶蘭なるもので、春蘭(ホクロ)のような外形をしたユリ科の植物、これが幕末には一芽の値一分したという事であるが、この復興時代でも、斑入り葉や覆輪の者は、四寸鉢くらいなものに植えられたのが五十銭以上したということである。僕は少時亡父からよく聞かされたが、亡父の伯父にあたる人が、非常に植木道楽で、この折鶴蘭の大鉢を二十円で買ってきたので、伯母なる人に怒られ、爾来植木道楽は廃めるという誓言で、山の神の逆鱗を静めたという話であった。しかし折鶴蘭は、冬こそ土窖(どこう)へ蔵める必要はあるが、芽先の蕃殖が容易なために、ようやく普及するとともに、世間から飽かれて、之に代わって勃興したのが、万年青と兎(ウサギ)とであった。兎は問題外であるが、万年青は小万年青及永縞の類が賞美され、明治二十二三年から十四年頃には、万年青に対する人気が翕然(きゅうぜん)として昂騰し平氏に非ざれば人に非ざる如く、万年青に非ざれば植木に非ずと言われた、それが頓て(やがて)、小万年青永縞物の衰微となり、変って顕われたのが甲龍性の物で、明治十七八年頃の第一流と目されたのは、天光龍、萬代、龍頭、孔雀甲龍、三島龍、縮緬絹子虎、還城楽、金光龍、日月星、美紗甲龍の猛将勇士が輩出したのである。


二十年頃の流行品は、十七八年と大差はないが、逸品根岸松から出た甲龍性の龍王なる新変品が、五辻子爵に愛玩せられて稀品の名を恣まにした。二十五年には貴母宝の実生からして、金孔雀の優物を変出せしめ、二十九年には、阿多福、折熨斗縞の二品が、特に宮内省の御買上げになり、翌三十年には胡麻斑の覆輪物、及白斑、縞物が行われ、根岸松の威望は、海内を圧倒する勢いであったが、猫も杓子も万年青を養うというような風は、次第次第に衰えて、万年青は万年青愛玩者の占有物となってしまった。明治は大正と改った今日でも、彼らの間には非常に珍重され、実生に因って、まま逸品を産出することがある。


盆栽の方から見ると、一盎一盤にして、天地縹渺(ひょうびょう)の景を蹙(ちぢ)め、尺寸の壷中天地に津々たる詩趣を掬すべき、野景的盆栽は必ずしもないではなかろうが、旧幕頃からの盆栽は、即ち鉢植えで、地に在るべきものを、植木鉢に取ったというに過ぎなかった、従って鉢其物の如きも、円形、方形六角形等の深鉢で、今日のような扁平な薄盤を用いることは流行しない。但し絶対にないというのではないが、流行という語を用い得られぬ程少数な物であった。それに鉢を飾るにも、庭に植木壇というものがあって、植木は必ずそれへ載せる、それでなくとも、精切り(※精一杯)椽端(=縁端えんばな)へ置くのが関の山で、今日のように床の間の上位を汚すという事は許されなかった、十二代将軍の時に、鈴子香(ジャコウソウ)が献上されたので、それを縁へ置いて、御坊主衆をして煽がせ、微香を送らしめたという記録がある。この風は明治の初年まで遺伝されて、植木鉢は床の間や違い棚へ置くべきものではないとされていたが、例の詩的盆栽が、明治二十年以後に勃興してきて、盆栽の価値が向上するとともに、何時とはなしに、座敷の中へ入れられ、ついには床の間に畏まるに至った。あたかも河原乞食と賤しめられた俳優が、今日では幹部技芸員の金看板をかけて、観客を下目に見るような格と同じではあるまいか。


それで、盆栽樹の中で、古今を通じて盛衰のないのが松の種類、それも黒松と赤松とである、五葉などはときに隆替があるが、要するにケバケバしく持て囃されぬ代わりに、いつでも人に飽かれない、詰まり盆栽中の米の飯である。明治年間に在りて、凄まじき勢いをもって流行したのは、明治三十年頃における欅で、それに次いで杜松、三十二三年頃から六七年というものは、檜柏(イブキ)、すなわち植木屋のいう真柏(シンパク)が盆栽界あって以来の大流行を極めた。真柏は四国が名産地とされていたが、四国における野生樹の見るべきものはほとんど掘り尽くされ、あらゆる産地に手を伸ばして、この名木を求むるに至った。伊勢の菰野在なる御在所岳のごときは、真柏に対し、懸賞をもって採集させる者ができ、そのために峻巌から手外しして、肉餅となって、死んだ者が二人まであった。いかに風流のためとはいえ、真柏と情死しては、少し洒落が高じ過ぎる、いわんや、それが射利の目的から出たとあっては、御座が醒めて沙汰の限りである。


真柏が下火になって、次いで現われたのは柘榴(ザクロ)であった。柘榴は今日でもなお行われて居る。柘榴は日本の原産ではないが、全く日本化して老皂豪宕(ろうそうごうとう)たる樹容が、生まれながらにして、盆栽に適して居ることは、なお真柏におけるがごとくであるが、しかし火を吐くと詠ぜられたその花が、如何にも艶冶(えんや)に過ぎて、樹との調和を欠くのは残念である。また樹振りせっかく整っていても、実を結ぶ場合に、実の大きさと樹の大小とが比較を取れぬために、せっかく大切な実も、ために需要を損し、百千年の老樹と思わせた者が、畸形の不調和なものに見える憾みがある。殊に柘榴の流行の極は、百両金(カラタチバナ)や万年青のごとく、一種の投機的骨董品のごとく扱わるる風潮を生じ、樺一重乃至樺八重の如きは、挿芽の漸く根を下ろしたのみで、数円を値するの奇観を呈するに至った、こうなると、満つれば欠くるで、流行の絶頂は頓て(やがて)その下り坂を示し、秦に代わるの漢は、即ち躑躅(ツツジ)である、之は久留米付近で流行した余波が、微菌の潜伏するがごとく伏在して、思わぬ所へおもわぬ形となって顕れたに過ぎない、而して石巌(キリシマ)ではなくて、皐月(サツキ)と称する種類のものに変化したのである、これは明治の晩年から始めて、大正の今日迄の流行の趨勢を維持して居るが、果して大勢力となるであろうか、蓋し疑問である。


これらの盆栽樹の外に、花檀(カリン)、杉、蝦夷松、槭樹(カエデ)、桜桃(ユスラ)、豆桜(富士桜)の類は、流行児として喜ばれたもので、また現に喜ばれてある。


明治の盆栽を口にする時に、山草即ち高山植物が一時の流行を来した事を忘れてはならぬ。彼が今日全く数寄者から念頭に措かれぬに拘らず、盆栽史中の立役者であった事を記憶せねばなるまい。


従来盆栽の下草として、山草は屢々(しばしば)使用されて居たのであるが、高山植物として独立され、鏍鈿(らでん)壇上を賑わしたのは、僅かに明治三十四五年以降の六七年間であった。何の事はない、今まである神道の付属で居た禊教や蓮門教が、御信神(信心)の方を得て独立したようなものである。しかし、神道の方は独立するとともに益々栄えるが、高山植物の方は、独立後直ちに自滅したのは、明智の三日天下旭将軍の沐猴(もっこう)にして冠(かん・かむり)するに似て、哀れな運命である。


高山植物といえば、少なくも海抜の表高五六千尺以上の地点に生ずる植物である、厳密にいえば、高山草本帯の植物に限るであろうが、植木屋の高山植物は、山の物という意味であるから、ある時は龍膽(龍肝=リンドウ)のような平野の植物でも、一切お構いなしに、高山植物の部に入れて居る事がある。


高山植物の勃興に就いては、子爵松平康民氏同加藤泰秋氏、同久留島通簡氏、同青木信光氏等の華冑のお歴々と、目下朝鮮京城の控訴院長をして居られるそのころの弁護士城数馬氏、及び日光の洋画家故五百城文哉氏を忘れる事はできぬ。


これらの諸氏が高山植物を採集し、栽培せられた結果が、世人の耳目に触れて、漸く高山植物なる語を口にする者が出て来た、すると利に敏き植木屋は、忽ち高山植物を採集し来たりて、目の玉の飛び出るような値で、同好者に売りつける、猫も杓子も高山植物と言い出して、一時は高山植物でなければ、夜も日も明けぬありさまであった。ついには夜店にまで怪しげな高山植物が並べられる。は半襟に高山植物、裙模様(すそもよう)に高山植物、甚だしきは下駄の鼻緒の模様にまで、高山植物を工夫するようになった、この勢いで進んだなら市中はみな高山の絶頂へ登ったようになって、今に富士山や日本アルプスの山嶺から、東京市登山団隊が組織されるかとばかりにものすごかったが、九天直下の勢いをもって、この熱度が忽然として冷却してしまった。人心の反復啻(ただ)ならざるこのごとく恃(たの)み少なきはないと歎しめた。高山植物はなぜかく世間から飽かれたかというに、只下界では培養されぬからという、甚だ熱心の足らぬ、而して自己の不熟練を告白する一語に止まるのである。


高山植物がなんで栽培の困難を訴える事があろう、自己を常規として、人を律するは僭越の限りであるが、僕は性狷介皮肉にして、人の難しとする者は、必ずやり遂げて見せるという、旋毛(つむじ)の曲がった悪い虫がある、それで高山植物が好きときているので、人にできぬものなら、僕がやって見せようと、窃かに培養を続けて見ると、高山植物は路傍の雑草とほとんど選ばぬまでに困難がない、中には二三成功せぬ者がないではないが、要するに大半は成績がよい、戸隠升麻のごとき、衣笠草のごときは、栽培後七八年にして、益々株蘖(ひこばえ)を増殖するし、裏白金梅や高根金鳳華、南京小桜、雪割草のごときは、年々実生を以て蕃殖する、畢竟世間で困難というのは、採集の際 根を損して居るにかかわらず、葉を元のままにして、水分の発散面を多くしたり、あるいは熱鬧(ねっとう)の市中において、不自然の状態に高山生活を持続させようとするための失敗に基因するので、動物より見れば数等下位にある野生の高山植物のごときは、彼をして強圧的に外界の気候および状態に馴致せしめれば、何の苦もなく成功するものである。然るにかかわらず、高山植物をご主人様でも扱うがごとくに、荒き風にも当てぬという大切がりようをするから、御乳母日傘の子供は弱いと同様、反って栄養不良に陥るためである。これを悍馬を馭(ぎょ)する者に見るに、馬に呑まれては仕込む事ができぬが、反対に馬を呑んでかかれば如何なる鬼鹿毛(おにかげ:名馬)でも自由になる。獅子や虎を飼いならすも其の呼吸である。いわんや猛獣よりも取扱いに危険の少なかるべき高山植物においておや。彼に呑まれるようなことでは、意気地なしの骨頂ではあるまいか。


これを呉服店に聞くに、一時に大流行を来たす織物、例えば大鳥お召の如きものは、早く見切りをつけないと、永年ならずして全く頽ってしまう。その理由は下等の類似品が市場へ出されるためで、植物の場合とは理由を異にするけれども、栄枯盛衰の速やかなるは、森羅万象数の免がれざるところ、是非もないと諦めるのほかはない。


当時山草紹介者の元勲たる松平子爵その他の諸氏は、同好者とともに山草会なるものを組織し、盛んに山草趣味を弄んだ。この会が山草の盆栽に向かって直接貢献したか否やは知らぬが、新たなる植物を発見したことは事実である。城数馬氏の九十九草の発見の如き、人跡至らぬ北海道の山奥ともあらばこそ、わずかに信州の高山ではないか。それも目に入るような小さな植物というではない、立派な花の咲く草を、日本の植物学者がこの時まで発見しなかったというのは、にわかに彼らの恥辱である。小石川の七人殺しや本所の四人殺しが捕まらぬというので、警察の責任を問う人は、植物学者に向かって、よくその職を辱かしめぬ者たるや否やを質問せねばならぬ。それから青木子爵の姓を冠した青木蘭も発見された。さらに有名な布袋蘭は、植物学者と称する碩学によって発見されたかというと、それは団子坂下の一花戸、薫風園なる者によって、八ヶ岳三彙の山懐から探り出されたに至っては、当局者たるもの抜かれたる鼻毛をいかにして補うべきかに腐心せねばならぬ。殊に布袋蘭のごときは、碩学マキシモウヰッチ氏が、日本において、足柄の麓で採集したという記録もあり、その標本が露国の博物館に現在している。また古く東北の一諸侯が、自家の愛玩品を図しせしめた花鑑の中に、この蘭の花が載っているのであるから、日本にあることは確実なるにかかわらず、今日まで世の中に出なかったのを、薫風園が発見し来たので、天下の珍と称する稀品が、数百千茎 年次輸送さるるに至っては、珍ももって珍とするに足らぬことになった。植物濫採(らんさい)など度量の狭い事を言う先生たち、もっていかんとなすやである。


要するに明治の花卉園芸の中で、特に発展したのは高山植物であった。しかし高山植物の根源を尋ねると、これも外国のアルパイン、フロラに胚胎するとすると、吾人の独創とは行かなくなる。明治の花卉園芸は貧弱という一語に対し、何ら酬ゆるの辞はない。


山草が盛んに流行したのは、明治三七八年の戦役後、四十年前後であった。これと前後して、野草の趣味を掬すべき皮肉屋も出てきた。野草会なるものは、ニ三同好者によって開催されたことがあったが、山草と相伴って、一時の風潮を巻き起こしはしたが、頓(やが)て山草と野草とは混淆されてしまって、縁日物となるにおよび、山草会も野草会もいつとはなしに廃絶してしまった。


しかし山草全盛の当時にあっても、盆栽は盆栽、万年青は万年青、蘭は蘭と、各別に流行していたので花卉園芸熱なるものは旺盛であったが、旺盛なると共に不精で、丹精を凝らしても新変品を作り出そうとする熱心はなかったらしい。元より昔でも左様大勢あったのではないが、兎に今日に残された逸品があるけれども、見時の花卉園芸界で後世に残るべきものは何であろうか。指を屈して見ると、一つもないとは心細い。


明治三十六 七年頃から、西洋草花が流行し始めた。元よりそれ以前から、新宿の御苑を始めとして、その他の縉紳(しんしん)者流は温室を設けて、熱帯植物の培養に力める者はあったが、一般に西洋草花を弄ぶようになったのはこの頃からである。シネラリアやプリムラ属の花は、貴顕の洋館にあらざれば見ることができないとのみ思われたのが、縁日植木屋や、呼売の草花屋さへも持ってくるようになった。値の高い花が、思いの外安く買えるために、ハイカラがって机辺を飾るものが多くなった。西洋草花の中で、普通何人にも愛玩さるるものは、言うまでもなく(香菫)ニオイスミレである。西洋の情話や詩にスミレの優しさ愛らしさが唄われてあるところから、流行病よりも恐ろしい感染性を持つ青春男女は、スミレを又無き物と愛でそのほのかな香いに溺れる。しかし西洋の(香菫)ニオイスミレばかり香気があるのではない。日本のニオイタチツボスミレ(匂立壺菫)やエゾスミレ(蝦夷菫)など、彼を凌駕する香があるけれども、それは捨てて省みないのは不思議である。


菫がかくして愛さるる一方に、アネモネや鬱金香(チウリップ)や風信子(ヒヤシンス)や、ラナンクュラスや、麝香連理草(スヰートピー)や種々な西洋草花が喜ばれたが、ダアリア程日本の天地を震撼した大勢力者はあるまい。

ダアリアはこの頃無政府のような騒ぎをしている墨西哥(メキシコ)の原産、しかも海抜四五千尺から一萬尺の高地に生じる。いわば高山植物であったのを、国人が採集し来りて庭園に繁殖させ、頓(やが)て園芸的変種を造りだして、同国の植物園長がスペイン(西班牙)の植物園へ、自慢の鼻高々と送ったのは、実に我が天明四年であるから、ダアリアが欧州へ渡ったのは、決して古い事ではない。


彼が日本へ東漸したのは、天保十三年であるから、僅々七十四年前、和蘭人が長崎へ将来したのが始めである。当時は樟玉簪(くすだまかんざし)のようなポンポン咲が重なるもので、これに天竺牡丹という名をつけたのは、何人かは知らぬが、通俗でかつ的切である。学問上菊科に属する植物ではあるが、何だか艶冶に過ぎて、毛莨(キンポウゲ)科のような漢字がするし、葉の振方などが、菊よりも反って牡丹に近い。欧州ではスペインに渡ったのが繁殖して、各国へ分布されたが、英国人は最もこの花を喜び、盛んに新品を輩出さした。こうして品評会などを開催して、斯道の発達奨励に盡粹(粋を尽くす、粋を集める)したのである。


しかるに和蘭から渡った日本の天竺牡丹は、不幸にして甚だしく日本人の嗜好に投じなかったと見えて、長崎から江戸へ送られ、江戸で栽培した人はたくさんあったようなものの、もらったから是非なく植えておくというふうで、魚なら下魚(げうお)という格に取り扱われたから、裏庭の垣根の側や、芥溜めの脇に植え拚(す)てられ、俗悪な花として擯斥(ひんせき)されていた。しかし錐の囊中に在るもの、其の末終に穎脱せずんば非ず。野に遺賢あらしむるは、聖代の恥辱である。世間から冷眼をもって視られた天竺牡丹は、ダアリアの西洋名になって、捲土重来の猛威を揮い出した。天下は靡然として、彼の勢力の下に屈服し、塊根の一片が三円五円で羽根が生えて飛ぶようになったのは、夢のような世の中である。


この凄まじき趨勢を利用して、自家の広告に資すべき機敏なる商店は、呉服店内にダアリア品評会を開くという勢いになって、旭日瞠々当たるに前なき有様は、明治三十九年頃から、年一年と旺盛になって来た。今日は稍(やや)下火の形ではあるが、決して鎮火したのではない。


其の代わりダリアには種々様々の品種が舶載された。普通の単弁は言わずもがな、芍薬咲のような立派な花もできるし、重弁種には、カクタス、デコラチーブ、ショウ、ポンポン、コレット等が出て、其の変品は千をもって数える斗り(ばかり)、西洋からは年々新花が出てくる。しかし日本ではただその新花を輸入して栽培すると言うのみ、我が邦のダアリア家が、會て(かつて)重弁の新品種を作り出したという沙汰を聞かない。してみると、品評会でも展覧会でも、結局西洋の種を日本で咲かしたというにとどまってうっかり評隲(ひょうひつ)した者は、あったら口に風引かせることになる。


今日はダアリアの下火を見て、己れ取って代わって、一代の風韻を作るべく、麝香罌麥(カーネーション)を栽培している者が大分ある。麝香罌麥は、ダアリアよりも日本的風致に富んでいるけれども、伊勢撫子のような瀟洒たる優しみを欠くから、その進行の趨勢や知るべしである。殊にその栽培がダアリアのように容易でないのも、流行を阻止する原因となるかもしれない。


僕は常に言うけれども、日本の盆栽を喜ぶ者は、西洋物を俗悪なりとして擯斥し、西洋花を栽培する者は、日本の草花を貧弱なりと嘲り、常に氷炭相容れず全く没交渉である。好き嫌いは各自の随意としても、苟しくも花卉を愛玩するものは、互いにその一般くらいを研究して見たらばよろしかろうと思う。禅機の問答に、老僧偃塞たる庭前の龍松を指さして、諸弟子此の松を真直に観る者ありやと、衆相顧みて逡巡す。時に一若僧あり。進んで曰く、野訥之を見ることを得たり。老僧曰く如何にか之れ垂直。若僧答えて曰う、曲がれるを曲がれりとして見る時は即ち垂直と。衆唖然たり、老僧空を仰いで笑うと。この一場の禅話は正に我が花卉栽培者に移すべきものである。西洋花卉を俗なりと思わば、俗なりに眺めれば雅致があるし、日本花卉を貧弱なりとするも、貧弱なりに眺めれば濃艶である。畢竟和洋両花の真諦を会得せぬから、互いに相罵る陋態を演ずるのである。つまり西洋花卉を見るに、日本趣味と一致させようとするから、根本からの誤謬に陥るのである。曲がった松は曲がった通りに見れば真直であるけれども、曲がったものを真直に見ようとするから、幾ら考えても失敗するのである。


園芸学校乃至園芸試験場などで、花卉の栽培を教授するのは孰れ(いずれ)も西洋物に限っているのは、いかなる理由に基づくのであるか、ほとんど理解に苦しむことである。その結果は此等学校から輩出する先生たちは、日本の花卉については全く知識がない、たとえて見れば東京の面積は知らないが、ロンドンの坪数はよく知っているという、奇現象を呈出するのである。この如きは皆教える者の罪で、習う者の咎ではないが、慨歎に堪えざる事で、これがために学校の教授は皆片輪な人間ばかりを作る事になる。苟しくもご同然に日本人である以上、日本の国語が話せないで、英語や仏語ばかりが達者だというのは、決して褒めた話ではあるまい。明治年間における花卉栽培の教授法は如上(じょじょう)の方法にして、何人も怪しまずもって大正の今日に及んだことを、僕は此処に特筆大書して、教授法の不完全を鳴らさねばならぬ。


抑も(そもそも)斯る奇現象は、何のために起こったかと言えば、教える人が趙括一流の畑水連で、只西洋の栽培書を金科玉条として、実験に就いて苦辛せぬからである。惜しいかな、日本の花卉には完全なる栽培書という者がないので、書物に就いて十分なる事を調べる事もできず、調べなければ、実験上の知識は少しもない。勢いやむなく成書のある西洋草花を講じることになるので、考えればたよりのない教授法である。願わくば西洋草花と合わせて、日本在来の植物を教授したら、初めて金甌無虧(きんおうむき)に近かろう。


次には園芸書冊の事である。昔の本草の書冊は措いて問わず。園芸書としては、草木地錦抄をはじめとし、草木育種、野山草等花卉に関する書物がたくさん発梓されたが、明治になって、植物学書類以外に、花卉園芸の事に関し、多少とも説明を与えた著書という者はほとんど出なかった。間々簡略がものがないでもなかったが、まったく言うに足りない。此処に自ら記すのは、気恥ずかしいけれども、僕の園芸文庫などが、浩澣(こうかん)なる花卉園芸の始めであろう。該書は盲目蛇におじぬ形で今から見ると杜撰と誤謬とに充たされた著書であるけれども、全部十四巻、八千頁以上のものを、明治三十年の夏からかけて、翌年の秋ころまでに完成さした。内部は重に日本在来の花卉を主題として、十二ヶ月の花信に配し説明を加えたもので、此書出でてから、我も我もと種々の園芸花きの栽培書が沢山出た。而して僕の著書よりも、凡て遥かに勝れているのを見て、僕は期せずして秦末の陳勝呉広を憶起さねばならぬ、陳呉は暴秦に対して、犠牲的に反旗を翻して、遂に秦の亡ぼす所となったが、その顰み(ひそみ)に習える楚の項羽、漢の高祖が、大成功をした。僕は犠牲者たることを甘受し死馬の骨が千里の駿馬を招き得たことを歓喜せずにはいられない。


花卉園芸に関する雑誌は、日本園芸会雑誌が、斯界における最も古いもので、同会から発行され、経営者は屡次(るじ)変更したが、とにかく今日に及んでいる、それから園芸界が春陽堂から発行され、これと前後して現今の園芸の友が出た。しかし園芸の友は半ば以上蔬菜果樹に資するところが多い。盆栽の方でも、盆栽が方が創立以来百余号に及んで今日もなお月刊されている。また高山植物に関する著書も出れば、旧版の翻刻なども出て、筆まめな人が多いだけ書冊は割合に多く出版され、明治の花卉園芸の俤(おもかげ)を後世に貽し(送るの意)得たのは多幸である。


明治三十九年以降、園芸のことが一事の風潮になったために、射利の目的をもって組織された種苗商が多くなったのも目につく、ことに日本種苗株式会社、東京園芸株式会社の剏立(創立)は、斯道に関係する人をして刮目すべきものがあった。前なるは百万円の資本と称し、後なるは三十五万円であったので、横浜の植木会社のごときは、対抗策として資本を五十万円に増加し、大々的に発憤したところを見せたが、東京の種苗商は、営業が拙劣であったか、或いは他に原因があったかは知らず、思わしき成功を贏(か)ち得ずして、東京園芸株式会社は解散し、日本種苗株式会社は甚だ奮わない。独り横浜植木会社のみは盛んに輸出を続けている。この間に介在して、匿名組合の組織でやっている東京園芸商会なるものが、ほとんど輸入を専門にして、著々発展していく、また新聞社の代理部と称するものが、園芸的種苗の販売を始め国民新聞の如きは園芸部というをさえ設けた。その他札幌の興農園、ないしは津田氏の学農社のごとき、斯界に貢献するところが少なくない。

また西洋の花売りに擬し、停車場で切花を売る事も、明治三十八九年以後の試みであった。白いエプロンを掛けた美しい少女が、新橋や上野で襟挿の花や、花束なっどを売っていたが、一時は珍しいので、人の注意を引いたものの、需用は甚だ少ないので、二三年にして廃絶に帰した。これは日本人が皆洋服でないから、襟挿を買っても、挿し込むボタン穴がないためであろう。考えはいいけれども、売る方のことばかりで、買う人の身になって熟慮せぬからの失敗である。


日暮里花壇や妙華園などは、西洋花卉の栽培をもって著われ、入十は、入谷から退転したけけれど(ママ)も、朝顔屋を止めて、盛んに西洋草花の栽培をなし、丸新は不忍池畔へ転じて、盆栽屋になった。


明治年代の末尾に、東京名物から入谷の朝顔と、団子坂の菊とを失ったのは遺憾の限りである。昔は場末であった入谷や団子坂が、東京の膨張と共に、次第に市街地となって、土一升に金一升の仲間入をして来た。左様なると高い地面で、草花の栽培などをした所で、一年の生計を図るような収入がないから、朝顔も人形を造り、菊も七段返し回り舞台などの興業物になったので、花は客になって、興業が主になったから、反って客足がつかなくなった。剰さえ(あまつさえ)名古屋の黄花園と称する興行師が、両国の国技館を借りて、大道具大仕掛けの菊人形を見せるので、誰も態々(わざわざ)団子坂へ出かけるものがない。斯くして団子坂や入谷は、菊や朝顔の陳列場を潰して、住宅地として賃貸し、名所は、いたずらに名のみ残りて、再び見ることができなくなった。この種の名所で、なお残っているのは堀切の菖蒲、大久保の躑躅のみである。しかし夫れも果たして何年続くであろうか、けだし疑問ではなくばならない。


バラの専門商として、明治の中頃には、小梅の長春園が聞こえたが、それは数年の後に廃絶して、今では駒込の薔薇新および美香園が残っている。両家とも薔薇以外の花卉を作るけれども、薔薇にかけては手に入ったもので、直接に外国から輸入をしているらしい。


盆栽は花卉園芸中最も金目のものでかつ名盆栽も少なくないが、有名なるものは岩崎伊東大谷というような縉紳家の手にのみ入って、盆栽商は多く逸品を持っていない。元より盆栽商が逸品を持っているのは資本を寝かして置くので、商略上愚の極であるから無理もない。彼らは中通りの盆栽を多く仕入れ、多く売らねば営業にはならぬのであるが、しかしその中通りのものも、今では次第に減じてきた。畢竟盆栽は一朝一夕に製出されないために、売れた後の補充に困難なるためであろう。苔香園、香樹園、薫風園、などは、盆栽商として聞こえ、彼らは盆栽熱を煽り立てるために、屡次盆栽陳列会を行った。斯道の奨励にはなる代わりに、弊害も従って伴ってくる。裏面の弊害は此処に挙げる必要はないが、表面に顕れた所で見ても、盆栽と床飾りの調和が、浅薄下劣になって、いわゆる悪凝りに落ち、はなはだしいのは場末の祭礼の掛聯よろしくの趣向をするものがあるが、この如きは盆栽を賊するものである。やがて衰微の前提となりはしまいかと案じられてならない。


盆栽は一時小盆栽の流行したことがある。旧幕時代にも一寸五分位の鉢に植えて面々たる詩趣を掬した者があるそうだが、明治の末尾になってからは、貴婦人たちが愛玩したので、稍(やや)行われたものの、要するに一二尺の者が、何人にも需用が多い。つまり置き所との比較が適当であるからであろう。


貸盆栽という事も、明治の新産物である。これは極めて簡便な方法で一ヶ月幾鉢幾金という月極方法や、あるいは一時貸の方法をもって、盆栽屋が盆栽を貸すのである。普通の素人はあまり借りぬようであるが、割烹店ないし陳列式の呉服店などでは、この簡便な方法によって、絶えず新しき盆栽を飾っている。


以上僕の管見によると、人の殖えたとともに、花卉の需用も増し、時代の要求は、花卉と花卉商とその商売の方法とについて、それぞれ変化し来たり、新陳代謝の形もあるが、明治時代の栽培者は、技術の点において、徳川時代の先輩よりは遥かに劣っていた。彼らには独創の変品を出すこともできず、いたずらに先人の糟粕を甞(な)めて、巧みにお茶を濁しているにすぎないのは、慨歎の至りである。冀(こいねが)わらくは大正年代には、日本人のバアバンクを出して新種変品を盛んに輩出さしたいものである。(完)


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