山切りの名人たちが枝もの生産を指導していた 枝をしおるとき、かすかな音で腕前がわかる 都市化と公害の悪影響
『世田谷の園芸を築き上げた人々』湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970
※山切りという活動の記録
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世田谷の枝物
この項は、花形市五郎氏、直井銀次郎氏のお話しを参考にしてまとめたものである。
世田谷園芸での枝物栽培は、大正末期からであり、東京周辺地区からの導入によって発展して来たようである。その初期は、農家の庭先きや、畑のくろに植えておき、山切り人によって買い取られていた。それが昭和に入り生花材料として需要が伸びて来た為、本格的に圃場栽培を行い、その技術も研究されて来たのであった。世田谷としては甲州街道地区に最も多く生産され、船橋の花形正利氏、廻沢の直井銀次郎氏(何れも約三反歩)井上、西尾氏(瀬田)なども、二反~三反歩の枝物を栽培していたのであった。特に西尾氏は、茶花の生産者として生花商間に知られており、あまり市場に出荷されない珍品を保有していたのである。この外にも三、四名の人がおられ全体としては、三町歩位の作付けであったと思われる。この地区での栽種目は花木類が多く、日の出、きりしまなどのつつじ類、雪柳、小でまり、ぼけ、ななかまど、南天、寒ぼけ、赤目柳などであった。梅、桃、のむし物や、いぶき、そなれ類は馬絹方面での生産が多かった。これらは露地切りにする場合と、温室に入れて促成する場合とあり、花形氏は露地切りが多く、直井氏は促成栽培に利用する方が多かった。併し促成のできない品種は、生咲き出荷したことは勿論である。
枝物生産には荷造りの技術が必要であり、同一原木でもその束ね方によって市価に大きな相違を生じたのである。枝のしおり技法であり、矢張り他の栽培技術と同じく五年、十年の修業が必要であると云う。大正時代、市場のなかった頃、所謂、山切り職人がこうした技術の持主であり、農家から買い集めたものを、しおり束ねて問屋に卸していた(この地区では主に新宿の花忠)この地区では祖師ヶ谷の佐藤準太郎、吉岡市五郎両氏それに砧三本木に龍さんがおられ、山切りとしては名人級であったそうである。この人達の手にかかると、かなり乱れている枝でも立派な活け花材料として生きて来るそうである。甲州街道地区に枝物が盛んになったことも、こうした優れた山切や人が居て、花木苗の提供や、栽培方法、荷造り技術など指導されたことも大きな原因である。
この人達を講師として、季節の花木のしおり技術を指導されたそうである。枝をしおるとき、かすかな音がするのであるが、その音によってその人の腕が分ると云われる位、枝を扱う手さばきがむずかしいのであった。
ここで、南天について直井氏のお話しを紹介して見たい。近頃、東京近在で南天の実が着かなくなったり、もくせいの花の着かないことが話題になっているが、これらは何れも公害であると云われ、空気の汚染によるものだと云うことが常識のようになった。南天は濃い緑の葉と赤い実が調和され、その男性的な感じは、お目出度い花材として正月にはなくてはならん花木であった。これが中々栽培がむずかしく、花屋の気に入るようなものは誰にでも作れるというものではないようである。日当りのよい所で、一年に一回は植替えをする。肥料も堅肥、(燐酸、加里に重点をおく)を施し、葉のしまったつやのあるもの、実もよく着き光りのあるものに作り上げることが大切なのであった。その等級にも三段階あり、本がせ、中がせ、実挿しものなどに分けられており、それは中々やかましい評価をされたのである。実挿しものは実の着かない南天に大きくなり過ぎてたれ下った実を適当に小さくして挿し込んだもので、等外品として扱われていた。
こうして戦前まで盛んであった枝物栽培も都市化の彭響で影をひそめ、正利氏も既に逝去されており、直井氏は一反少位、西尾氏も僅かに残されている位である。船橋の浜中氏は戦後の枝物作りとして、よいものを生産されておられ世田谷区の花展にはいつも出品しておられる。