「山切り」物語 昭和の花材、自然採取の実態(公認のもの、盗伐など)がよくわかるおはなし
山切り物語
未だ、生花市場の出来ていなかった、大正時代は、山切りと称する人達が、農村や、高山から切り集めた植物や、草物を問屋形式で生花商を営む業者に出荷していた。出荷されたものは、相対価格で売買され、問屋はこれを町の小売商に指定価格で卸していたのである。これらの問屋が昭和に入ってから、次々と生花市場を開設して、今日の繁栄を誇るようになったのであった。
その頃の園芸は今日程、生産、需要共多くなかったので、専業者は少なく、農家の副業として栽培された草花が、その取引き対象となったわけである。植物は庭先きや、畑の周囲に植えられたもの、或は植木用として栽培してあるものの中から、適当に抜切りして問屋に卸していた。高山植物は、ひそかに役人の目を盗んで切り集めたのであったが、里や駅近くで営林省のお役人に見付かると、大目玉を食う恐れがあるので、人目につかない場所や時間を選らび、発送駅も、一駅も二駅も先きから荷積みをするよう気を配ったそうである。併し、今日程、取締りが厳しくはなかったので、大量盗伐をしない限り、とがめられるような事は少なかったと云う。
では、その頃、どんな問屋があったのであろうか。誰も知る人では、芝生花市場の現主、鈴木治三郎、神田生花市場の浮貝金次郎、花直、新宿生花市場の花忠、蒲田の醤油屋と称する花屋、などが主なるものであったようである、(この外にも三、四人は居たと思うが、はっきりしない)世田谷としてはその頃野菜作りが盛んであり、花作りなど殆んどなく、山切りをする人も少なかった。古くは祖師ヶ谷の佐藤準太郎、吉岡市五郎両氏、世田谷の花菊、加藤、稗田、都倉の諸氏、花松、このほか砧三本杉に、竜さんと云う人もおられたそうである。これら山切りの人々は、三多摩地区をはじめ、さぎの宮、鹿骨、或は馬絹、埼玉などから、植栽された、南天きゃら、いぶき、ぼけ、そなれ、つつじ類を集め、世田谷、目黒附近からは、ダリヤ、水仙、小菊、ジニヤ、グラジオラス、アザミ、ガーベラ、キキョウ、アスターなどの草花を、リンドー、野菊、オミナエシ、ワレモコー、山百合などは近くの山野から切り集めて、問屋に卸したり、自ら小売りしたりして、生活を支えていた模様である。
一番苦労したのは冬場の仏花や、いけ花の根〆用草花であり、温室栽培の行われていなかった頃は、貝細工、千日紅など乾燥花に適したものを集めておいた。なお、南天の実や、紅葉した葉の部分或は柾木の実などは、色のあせるのを防ぐため、大根の乾燥した葉の間に入れて貯蔵し、必要に応じて使ったそうである。
高山植物の枝物としては、現在使われているものと同じく、いたやもみじ、雷電、松類、にしき木、ほおの木、ひめしゃく、とうもち、山ざくらなど、村の人夫を雇って泊り込みで切り集め、沢の水に浸けておき、順次里まで背負って出すのであった。それも近くの駅から発送すれば労力も省けるのであったが、人目をさける意味もあって、前に述べた通り、遠くの駅まで運び込まねばならんので、並大抵の苦労ではなかったわけである。山代は只であるとは云うものの、労賃や宿泊代、運賃などを計算すると、安くは売れない事になるのであった。又、三多摩の里にある梅や桃、暮のこけ松、こけ梅などの山切りは、一週間位も泊って荷造りし、それを駅まで馬車で運び、駅から汽車で東京に運ぶということになるのであった。神田の花金に送る場合は神田川を利用して舟で運ぶ場合もあったと云う。
一体、こうして運ばれた植物はいくらの代価で取引きされるのであろうか、私も参考にと思って聞いて見たが、至極大ざっぱな値ぶみで評価するため、元価を決定付ける規凖がはっきりしないのである。とに角山代の五倍位に売れなくては商売にならんとの話であった。自分がその山(植物)にほれて梢々(やや)高値で仕入れて来た場合でも、問屋ではそれ程買ってくれず「それはお前の買い過ぎであった」と云って同情はしてくれないと云う。問屋に集った荷は、各々小売商へ品物に応じた評価で卸されるのであったが、小売商側にも階級があり、A級B級C級(とは呼ばないが)と区別し、上物はA、中物はB、下物はCと云う風に、問屋が指定する。この文句なしの取引の上にも決して暴利をむさぼるという事はなく、山切や対問屋、問屋対小売商間の、義理、人情の人間関係は堅く守られていたようである。ここらで当時の山切り人のエピソードを一つ二つ述べて見よう。
昭和初期、三浦半島で中菊のメッタ作り(品種夕日)を百石積みの舟一ぱいになる位、金十円也で買い取り、それを東京へ送って一儲けしようとした。所が輸送に手間取って、荷揚げした時は荷傷みがひどく、売り物にならず大損をしたという話。又或る時、相模湖の先きの吉野という所へ親方と三人の若者で南天を仕入れに行った。仕事をはじめる前の晩、親方と別れた三人がとある飲み屋で一泊したのであったが、そこの女の子と遊んで南天の仕入れ金全部(三円也)消費してしまい、一本も買えずに、しおしおと帰って来たと云う。親方にどやされた事は勿論であり、改めて出直したことであろう。
現在、市場で見られる花えんどうも、その頃新宿生花市場のおやじさんと、小杉直さんが伊豆半島に遊びに行った折、畑一面に咲き乱れる、えんどうの花を見て「これはいける」と思い東京に出荷させたのがはじまりだと云う。当時このえんどうを成金豆と称していたそうであるが、現在でも暖地野菜として人気のある、さやえん豆のことも地元では成金豆と呼んでいるが、同じ品種のものではないようである。この花は仏花にも使えるし、マッスにして現代花に使っても面白いいけ花が出来ると云われている。
この辺で、現在の高山植物の山切りについてもう少しくわしく述べて見たい。何と云っても、富士山麓が業者の垂涎の的であり、この外、伊豆の天城山、箱根、丹沢など各々特有の植物はあるが、何れも国立公園に指定されており、自由に切りとることは許されない、富士山の場合、頂上に近い部分は国有地であり、中腹の場所は県有地、麓は個人所有乃至は村有地となっているそうである。
昔は或程度自由に切っても、大量でない限り、とがめられなかったようであるが、今は地元の業者(入札によって自然木の伐採の許可をもっている人)に依頼して、その種類や必要量を切ってもらうのであった。自分が車をもって山に行った場合は、これらの業者に案内と伐採を依頼し、何がしかの原木代を支払うのである。四、五年前の或る時、花展の材料が必要となり、小型トラック(一トン位)をもって山に行き、地元の山切り人三人を頼んで切って貰った。その代価として三人の労賃も含めて、一万九千円程支払ったそうである。花屋の一番苦労するのは花展の材料集めと、研究会の花材集めであった。各先生方は競って珍品を要求するから、その希望するものを探し歩くのに苦労するのである。今述べたことは正規の方法による山切りであるが、この外に盗伐があり、今でも絶えることがないそうである。特に暮のクリスマスツリーの盗伐はひどいもので、折角莫大な資金をかけて植林したものを、その頂点二米位切りとってしまうのであるから、そのあとは何の役にも立たないわけである、ヘリコプターで飛んで見ると、一面に白くなって見える所は、盗伐されたあとであり、切口にやにが溜って白く光るのだそうである。ツリーの中でも地元の業者が許可を得て切るものも多くあり、この場合は、間引き伐採、防火地帯を作るために切るものなどであり、この他、個人所有のものは植付け当初から、ツリーとしての目的のものもあることは既にご承知の通りである。
高山植物の中でいけ花材料として利用されている種類のうち主なるものは、いたや楓、夏はぜ、にしき木、ほおの木、ひめしゃく、ななかまど、山つつじ、雷電、かまつか(きりものついているもの)等であることは前に述べた通りであるが、土質と気象条件で、色々な特質をもち、山によって花材としての持味が違うのであった。里のものとは違って枝にしまりがあり、曲線も豊かであり、花材としては最高のものであろう。
正月用のこけ松、こけ梅、千両などは千葉、茨木に多く見られる。こけ松の上物は茨木県鹿島の御宿あたりに多い。葉がしまっていて、苔もよくのり正月の花材としては最高のようである。勝浦のものは気温が高いため、葉伸びしており傷み易いうらみがあるという。
苔梅も九十九里方面のものがよく、古色蒼然とした樹姿が喜ばれている。これらの山代も原価そのものは、左程高いものではないが、労賃や運賃などが非常に高くつくし、宿泊料などもかかっているので、原木代の三、四倍に売れなければ引合わないと云われている。
更に千両は、現在の所、波崎に独占されている感じはするが、昔は三浦半島や二宮、平塚あたりにもあった。併しこの地方のものは早く実が熟し過ぎて、暮には落ち易くなるのであった。山桜についてもこのことに似た地域差による切りしゅんがあり、鎌倉山が一番早く次に逗子にうつる。それより次第に北に移動して来るわけであるが、都会地で満開になってしまっては、特殊な需要以外、珍重されないわけであった。
日本のいけ花は、日本民族の個性の中から生れた芸術であり、盆栽と共に今や世界的にその価値が認められている。一方には機械文明の進展が急速であり、又一方にはこうした古典芸術が、若い女性の手芸として大衆の中で親まれているのであった。この状態が続く限り「山切り」と称する仕事はかくならないであろうし、むし物で、しおり、などの技術を必要とする、梅、桃を手がける職人的山切りは貴重な存在であろうと思う。
この項は、中里の加藤氏、深沢の稗田氏のお話を参考にして、まとめたものである。