昭和四年、秋、大阪から京都をめぐる石井勇義氏の十日間の旅 旧友を訪ね、恩人、辻村伊助農学士を追悼
辻村農園、辻村常助(つねすけ)、伊助(いすけ)兄弟
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京都の嵯峨菊と辻林槇麓園
関西の菊行脚 2
思ひ出すままに 主幹 石井 生(石井勇義)
京都の嵯峨菊
京都の菊を見たいという事は、実は嵯峨菊の正式なものを見たいという目的であったので、まずそれに向う事にした。京都植物園の吉津(※良恭)氏の案内で、まず嵯峨に向った。ここは由来この菊の本場と言われていたところではあるが、昨今では非常に作る人が少くなったので、嵯峨に嵯峨菊は見られぬとの言葉を聞いて、不安のうちに嵐山行電車で同地に向った。最初に、昨年の実際園芸に嵯峨菊の話をお寄せ下さった伴金三郎(ばん・きんざぶろう)氏の御宅をお訪ねした。とこるが同氏は四年の九月にすでに故人になられた由で、菊だけが残されてあった。未亡人のお話では、昨年実際園芸に記事が出たために各地から質問やら、苗の分譲やらを申込まれた由で、商売ではないからとの事で、全部無代でお送りしたとの事を話されておられた。記念に一枚写真を撮らせて頂き、鄭重重なる茶菓の饗をうけて、一通り伴氏の菊趣昧の思い出話を承って同所を辞した。ここは嵐山のすぐ側(そば)に当っているので、木津川のほとりに出(い)で、嵐山の秋を一瞥した。淵の深い水色と緑濃い松の間に織りなされた紅葉(もみじ)を見るとしみじみと京都の秋が良くなった。所謂紅葉の名所と言うところは、多くは紅葉ばかりで紅の海を見るようであるが、京都の紅葉は深く、落ちついた緑の間に紅葉が、黄、紅、とりどりに織込まれているので、本常に絵のようであるし、大きな友禅模様の布を覆うたようにも見えて極めて上品である。ここでも何と言っても京都は秋がよいと思った。
それから、嵯峨菊の栽培家で、今一人笠岡氏の宅をお訪れした。同家も久しく嵯峨菊を作られており、伴氏と共に、昨秋の御大典には御所に嵯峨菊を献上された由であったが、同氏も昨年の八月に逝去された由で、誠に意外でもあった。嵯峨に於ける栽培家二人までが故人となられた由を聞いて意外に思った。しかし笠岡家は植木商をされているので、種類は保存して毎年栽培はして行きたいとの事であった。そんなわけで、両家とも残されてある嵯峨菊を拝見したが、手入れは行届いたとは申されないが、何となく、嵯峨菊独特の気品のある瀟洒な仕立であるように思われた。嵯峨菊はやはり、肥料分を少なくして、葉も薄く長く、茎立ちも何とな<、スラスラット長びいてユッタリと伸びたところに気品があるように思われた。普通の菊のように葉がブサブサに茂ったのでは嵯峨菊の気品は失われるのではないかと思う。その点で京都は気候的に恵まれていると見えて、関東では一般に茂り過ぎて、あれだけの品というものが出ないという事をよ<聞くが、自分もそう思った。嵯峨菊は外には見られぬとの事であるが、今一つ有名なのは滋賀県の膳所(ぜぜ)というところの高島教造(きょうぞう)氏のものが代表的であるとのことを勧修寺(かんしゅじ)伯や、新宿御苑の東郷(彪:ひょう、東郷平八郎氏の子息)さんなどから聞いていたので、そこに向う事にした。その途中、嵯峨では天龍寺の前を過ぎたので、ここの庭園を一瞥した。天然記念物に指定されている名園であるが、ユッタリした気持で鑑賞することが出来なかったのは残念であった。
それから、次には同じく嵯峨菊を訪ねて滋賀県の膳所(ぜぜ)に行く事にした。膳所は京都から大津行の電車に乗り、大津から、また石山寺行の電車に乗りかえて膳所の中の庄という所で下車すると数丁のところに高島教造氏といい、嵯峨菊の花壇栽培では、代表的の称があるので伺った次第である。ところが、残念なことに、同氏は嵯峨菊の栽培はすでに中止された由で今年は一本も作ってないとの事に。秋の日半日を費して遠路わざわざお訪ねした小生にとっては少からぬ失望をしたのである。せめて同氏にお目にかかって嵯峨菊についての何かお話でも聞こうとして刺を通じたがお目にかかる事の出来なかったのに一層失望を深めた。あとで、丹羽(※鼎三:ていぞう)博士に伺ったら、同博士がお訪ねした時も、僅かに数株しか栽培して居られなかったとの事であったから矢っ張り作ってはおられぬものらしかった。
比叡山に辻村農学士を
琵琶湖の秋色(しゅうしょく)はいかにもなごやかであった。通る道ばたにはどこにも柿を売る女の子等が多いのも一層秋を思わせるのであった。もう四時である。帰途にはかねてからの宿願である、比叡山に辻村農学士(辻村常助氏の弟、伊助氏)の霊を弔う予定であったから、電車にて比叡山下に行き、ケーブルカーで頂上に昇り、納骨堂に辻村農学士の霊を訪ねた。同行の吉津氏も矢張り辻村農学士とは深い関係があるので、日暮るる頃、会向(えこう)をしたが、堂内はすでに暗く蝋燭(ろうそく)の光にて僅かに咫尺(しせき)を弁ずるくらいであった事は却って、故人に対する思いを深らしめ、自分たちが辻村農園にあった際、故人が高山植物の研究に没頭されていた当時のさまが、暗裡に現れて語る心地して堂を辞する時、ともに涙を多くした。会向をするとは真にせまった言葉とうなづいた。辻村農学士については、本誌の高山植物号の時にも一寸その話を伝えた事があったが、我が国園芸界の先覚者で、すでにご承知の辻村農園主の令弟に当たられ、高山植物の研究に没頭されており、再度ヨーロッパにも渡られて、アルプスの植物の科学的研究を積まれておった方であるが、かの大震災の際、箱根湯本の高山園にあって、全家埋没の厄にあわれた方である。辻村農学士は生前非常に比叡山がお好きであり、遺言にもあったのでここに納骨されたのである。
八瀬の遊園地
夜の叡山を下って八瀬の遊園地につく。ここの遊園地の主任が妙な事に、私の旧知の人であった。猪俣泰吉(いのまた・たいきち)君と言い、以前品川の岩崎家が大々的に温室園芸をやられた際に林脩已氏について学ばれた方で、花卉園芸界では先輩であるし、また久しく小田原辻村農園の生産科長として活動しておられた当時の人で、偶然にも十幾年振りかでお目にかかる事が出来たのであったが、同氏は鑑賞園芸にかけては非凡な技術の持主であるだけに、ここの遊園地は非常に面白く出来ており、園内にはあたかも菊の展覧会が相当大規模に設けられていた。京都菊友会が主として出品しておられたが、盆養ものは相当によい出来栄えであったが、何分にも夜の事とて花型(かけい)などについて詳しく見る事が出来なかったのは残念であった。
※。猪俣泰吉という人物は、吉津氏の回顧に写真があるが、ここでは、小川泰吉氏という名前で登場する人だと思われる。
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京大に菊地博士を訪う
もう京都の菊については見るべき事も少ないので、十一月十日は京都大学の農学部に菊池秋雄博士をお訪ねする事にした。お恥ずかしながら京大農学部は初めてであったので、温室その他を拝見して、のち菊池博士の教室をお訪ねしたところ、ご多忙中にもかかわらず喜びお迎え下され、数時間いろいろの園芸談をうかがったが、ここに来て私は非常に意を強くした事が一つあった。それは菊池博士は、「園芸は理論ばかりでなく、実際によいものが作られなければ何にもならぬ。果物にしても、真に味の良いものを最も安価に生産し得なければ駄目であるとの事で、ここの大学の園芸の教室では、果樹の方面でも、実際に果樹園の経営をやっている個人のものと同じような方法でやっており、それを学問的に進めてゆくことに努められており、殊に、全国六大都市の毎日の市況を精細に調査して統計にし、現在よりも、果物の生産費を少なくして、安く需要家の手に入れるようにする事について一斉に研究をしているとのお話であった。そのために、大学の農場では、果樹の品種は、一品種か二品種に限って一品種につき約三反歩余を定めて栽培して、果樹園の経営者がやると同じ程度のものをやって、それを学理的に研究を進めて行こうという方針でやって居られる由で、沢山の品種を集めて試験をするというような時代ではないと申しておられた事は極めて意を強うしたが、今迄の大学の農場の経営というものは、多くは兎角、実際家とは少しも関係のないような、一局部的の研究にのみ深かったので、この結果が直接実際園芸上に役立つような事は少なかったのであるが、大学の園芸学究の方針が、かかる方面に入って来た事は非常に喜ばしき事で、新光彩であると思った。また菊池博士が実際家。殊に優秀なものの生産者に敬意を払っておられた事も私は敬服した次第である。これは私の平素からの考えであるが、園芸の方面は、学術として研究する場合でも、やはり果実でも花卉でも優秀品の生産に成功してそれを土台に理論的に研究に入らなければ何にもならぬと思う。実際には良い味の蜜柑、優秀なる葡萄を作る事が出来ずに単に生理上の問題だけを調べる事はむしる純粋の植物学の立場で、園芸学としてはどうかと思う。つまり圃場には理想的な果物なり花卉なりを生産する事が出来て、それを基礎とした理論的の研究が実験室内に積まれてゆくという所に至らなければ心細いような気がする。大分余談に入ったが、それから菊池博士のところでいろいろ鑑賞植物に関する文献なども見せて頂いて、数時間にして辞したのであったが、同博士が専門の果樹は勿論花卉方面に関しても豊富なる文献を蔵して居られるには驚いた次第である。
最早日没真近に京大を出て、すぐ近くの銀閣寺の庭を瞥見したのであったが、秋の京都の庭はどこも良いのに驚いたのであった。来年の秋は二月(ふたつき)ぐらいでも京都に住んで、ユックリ京都の自然を見よう、庭を思うままに見てあるこうと思った。いつもせわしい旅の間に見て廻るので本当の良いところをユックリと味わう事の出来ないのは残念でならない。京都めぐりについては京都植物園の吉津良恭(りょうきょう:※よしやす)氏に多大の御高配を受けた事をここに記して御礼を申上げたい。
辻林槇麓園
西(さい)に於ける菊の実生家として知られている辻林槇麓園をお訪ねする事は今度の旅行の大きな目標の一つであった。同園は府下泉北郡の山僻地であるが交通の便はよく、大阪市内の阿部野橋から大鉄(だいてつ)に乗り、長野というところで下車し、そこより自動車で三十分であるが、毎年菊の季節には、槇麓園(しんろくえん)行専用の自動車か電車の着く度毎に出るので、非常に便利である。辻林家は同地方に於ける有名なる素封家であるが、最初は娯楽的に菊の実生を始められた由であるが只今では立派な一つの産業として、毎年数万円の売上げがある由であるが、毎年実生される菊の苗は十万本以上である由で、その内より優秀なるものを選出されておられるのである。汢林氏の菊の実生に関する記事はすでに実際園芸の菊花号に二回までも発表下されているので、ここには詳しい事を述べる事を避けるが、汢林氏は非常に凝り性の方で、親木の選定、花型の改良、等には非常なる苦心をされており、すべてを菊の研究に没頭されておられろ由である。まず邸内の見本園を拝見したが何れも新花のみで、見事なものが多かった。中にも私の目についたのは、西洋菊の型のもので、温室切花として適しさうなものが多く見受られた事である。見本園あり、実生畑当畑等順次、数町歩の菊園を拝見し、いろいろ実生上についてのご意見を伺った後同邸を辞し大阪に引き返したのであった。
天王寺公園の菊
それから最後に、大阪天王寺公園の菊花壇を拝見した。ここは東京ならば日比谷の菊といった風の所であり、同公園内の動物園内に設けてあるので、入場は無料である。日比谷風の葭簀張りの花壇をつくり、それに盆養の菊を配列してある。相当に広大なるもので、いろいろの動物舎の間に設けられておるところに、面白い。花壇は下に川砂を盛って、その間に鉢を埋没してあるところは一寸思い付きである。
関西に菊をめぐる事十日間、種々新知識を得て帰ったのは十二日であった。旅行中各地で御歓待をうけた各位に対して厚く御礼を申し上げる次第である。(五、一、一〇)