昭和6年、世界恐慌の影響から日本では失業者があふれていた。「失業した土地」を活用し、失業者対策に園芸を活用すべきという石井勇義による提言

※参考

東京市の公園課長、井下清氏の失業者対策 昭和7(1932)年

失業からホームレスとなる人たちの夜を過ごせるように公園の管理をゆるくしておくべきだと考えていた。排除ではなく、包容すること。井下清という人物が分かる記事。

 https://ainomono.blogspot.com/2022/02/1932.html


『実際園芸』第11巻2号 昭和6(1931)年7月号


『実際園芸』第2巻6号 昭和2(1927)年6月号

2年4月に行われた桜の会の集いにて撮影されたもの

後列右から二人目が井下清公園課長、三人目が帝国ホテルの林愛作氏


失業対策と園芸 主幹 石井勇義

どこもかも不景気の風が吹きまくっている。そして、馘首、馘首、失業、失業の洪水である。為政者でなくとも誰かその事象に眼をやり、その打開法を一考しないものがあろうか。筆者は園芸界の一隅に身を置くものとして、その立場から、ここに管見を述べて見たいと思う。勿論、筆者の立場は特殊のものであるから、その視野は局限されたものであって、従って大局から見た政治的根本対策ではないことを断っておく。

筆者は失業者の緩衝地帯としての大園芸場の設置を提唱したい。それは失業者が次の就職まで一時収容するものであって、失業者の臨時収容所でもあり、臨時授産場でもある。そこでは、失業した人達は、主として蔬菜、果実、花卉等の園芸品の栽培をやり、自給余剰の生産品は市場へ出し、附随的には穀物も栽培して自給し、更に出来得べくんば味噌、醤油、鶏卵パンその他の食品、調味料の生産加工をも許して、出来るだけ園芸生産品の売上に頼ることなく、全くの自給自足の生活を可能ならしめる。彼等は職業紹介所その他と連絡をとって、新職業のあり次第直ちに生活戦線に乗り出して行く。新しい失業者はまた随時収容される。かくして各所に設けられた数多の特殊大園芸場が、外からの維持費を要せずして、失業者の一時的収容と授産の機能を発揮して行く。 

かくこの特殊大園芸場の設置によって、失業者の永久のルンペン化を防ぐことが出来、また失業中の不安焦燥を除去し、しかも彼等の固化した情操を取り戻し得て、新しい生活力を再び与えることが出来る。なお重要なことは過剰の労働力の有効なる消費がそこになされることである。

この園芸場の開設のためには、さほど困難な問題は横たわっていないと考える。日本には開墾すべき耕地はもう殆んどないとはいうけれども、大都市の郊外には、何々土地会社等の所有地などに、何十年先かの鉄道敷設を待って、荒蕪のままに放置されているものが少からずあるのを見る。こういふ土地は人間の失業と同じく土地の失業であって、それを有効に利用することは一つの義務であらねばならぬ。土地会社がその土地の一部を園芸場として提供することは、彼等の営利的見地からも喜んでなし得る事ではないかと思う。農具、種苗技術員などの経費は勿論問題にする程のことではない筈である。所で問題となるのは、自給用以外の余剰生産物の販路に就てであるが、筆者は園芸品の需要は今後なお十分増加する余地もあり、販売法についても特殊な方策があると確信するものである。

精しくは知らないが、アメリカでは既にこういう園芸場が作られているという事を聞いている。我国にも一日も早く、筆者の希望するような社会的園芸場の出来ることを切望して止まない。

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