「名古屋ちりめん葉牡丹」年間の出荷本数30万本だった時代 名古屋の園芸名物五色葉牡丹とその栽培場の写真 昭和4(1929)年
『実際園芸』第6巻2号 昭和4(1929)年2月号
「この写真の下方、宏華園主の寄贈で、五色葉牡丹栽培組合は同園内に置いてある。」
※参考
※『愛知県園芸発達史』1981 p1034 では以下のような記述がある。(昭和4年で30万本出荷していた。昭和8年には倍の60万本以上を生産出荷している。)
《名古屋市中川区高畑町では、特産の名古屋ちりめん葉牡丹の栽培が多く、鈴木竹次郎氏(1930)によると、昭和4年(1929)には高畑町100余戸の全農家で30万本が生産され名古屋五色葉牡丹栽培組合をつくり、名古屋市及びその周辺都市はもちろん、京浜、京阪神、静岡、北陸、九州など全国各地に出荷していた。》
※『愛知県園芸発達史』1981 p1143
《名古屋市中川区高畑町とその付近は葉牡丹の特産地として有名であった。この地方の葉牡丹は「名古屋縮緬葉牡丹」といわれるように葉は縮緬状にちぢみ、中心部が白あるいは赤色または牡丹色に着色するものである。この起源について名古屋市農業要覧(1921)には(以下、昭和8年の実際園芸の記事と同じ文面が記載されている)
また則天会発行の園芸に鈴木竹次郎氏(1930)は、「其渡来せし年代は不明なるも己(※すで?)に40年前より通称黒、或は烏といふ葉牡丹、即ち丁度小型甘藍の様な形で、葉黒紫色をなし多少球を結ぶ処の葉牡丹を栽培し居りしが、何時の頃よりか現在の如き牡丹の花の様な美しい葉をした処のものを栽培し出す様になって来たのであります。此美しき葉牡丹は他から特別に輸入したものか、或は従来の烏から改良したものかは不明であるが、多分後者であろうという事であります。」と記している。
さらに西春日井郡新川町の早川善一氏(早川酔花園主)は烏葉牡丹について生前次のように語っている。
「尾張地方には徳川時代から烏なるものがあり、栽培して2年目には分岐して盆栽状になるので、これを切り生花として正月に床間に飾った」と。
また松平君山門下の山岡恭安は甘藍の異名に葉牡丹をあげ、横井時敏はその著作である嘉井園随筆に葉牡丹を、「葉稠密ニシテ形牡丹花ノ如シ」と記述しているので、現在の葉牡丹と同類のものと思われるが、烏葉牡丹や、現在のものとのつながりについては不明である。
以上からすると「烏」なるものは、古くから栽培され、現在の葉牡丹がこれから改良されたものであることは多くの人が認めているが、改良の過程については定説がなく、烏とケールとの交配によってできたものであるとの説もある。
葉牡丹の栽培は土質の関係からか、高畑町のほか当時の海部郡富田町(現名古屋市中川区)、南陽町(現名古屋市港区)などに限られていた。鈴木竹次郎氏(1930)によると、高畑町で葉牡丹が栽培され始めたのは大正初年で、同業者は10人ほどで栽培面積も少なく、ようやく盛んになりだしたのは大正10年(1921)ころからである。このころから急激に発達し昭和5年(1930)には100戸ほどある高畑町のほとんど全戸が栽培しているほど盛況で、生産されたものは、名古屋市はもとより県下並びに近県の主要都市、東京、大阪、静岡市を始めとして、北陸、九州など殆んど全国に送られ、遠く海外にまで輸出していた。とある。海外への輸出とは、在留邦人の正月用のものとしてであった。
名古屋鉄道局「中部日本の産地を尋ねて」には、関西線八田駅の項に「草花―葉ボタン、水仙、黄仙花(きんせんか)、バラなどもっとも多く、何れも生花用として、名古屋市内は勿論遠く京都、大阪、長野、富山、福井、浜松方面へ送られる。年産額約2万円、細野高松園殊に名高い。」とあり、高畑町などは八田駅より、富田、南陽両町は蟹江駅より送り出されていたもので、南陽町の吉田福花園などは、下関、博多の業者とともに韓国、台湾、奉天、上海などにまで輸出していた。
特産物として生産は増加したが、戦争がはげしくなるにつれ、門松の廃止運動が起り、葉牡丹も松とともに消費が少なくなった。
戦後、往時ほどではないが栽培が始まった。吉沢千敏氏はこの葉牡丹について
「昭和21~23年ころの縮緬葉牡丹の草丈はそろっておらず、今のような長幹性のものは少なく中幹性から矮性のものが多かった。これが昭和28~30年ころからと思うが、富田町南部及び南陽町や八百島(はっぴゃくじま)、春田町、蟹田などの葉牡丹作りと、高畑町を中心としたそれとは、栽培も栽培系統もまた判然と区別できるようになった。つまり富田、南陽両町では切花栽培が中心となり、高畑町などでは花壇、鉢植用の栽培が多かった。とくに名古屋市が花壇用材料としてパンジー、デージー、松葉ぎくなどを買上げるという行政面の影響もあって、花壇向きの栽培が多くなり、ますますはっきりしてきた。
両者とも自家採種をしているが、栽培様式が違ってきたので、それぞれの目的にそうような選抜が行われ、高畑町などでは花壇、鉢植用に向く矮性の系統に、富田、南陽両町では切花用に向く高性の系統となった。
富田、南陽両町では、島畑が葉牡丹にもっとも適した畑とされていた。島畑とは、水田の中に土を盛り上げて作った畑のことで、もともとこの付近の水田は木曽川の堆積土でできているので、耕土が深く、地力があり、つねに適温を保ち、肥料などを多用しなくても旺盛に生育した。栽培は、前作に施肥し、6月下旬には種した苗を無肥料で、1a あたり2,000本ほど密植し、自然に黄変し始めた下葉を順次かき上げ、葉を小型にしめて、足の長い葉牡丹を作るようにした。当時としては1梱50本入る大きさのものが基準となっていた。こうしてできた葉牡丹は、他県のものよりは、品質が格段とすぐれていたので、全国各地に送り販売することができた。」と語っている。この違いのできた理由として、南陽町春田野の生産者は、海抜0米のこの辺で、土をつける根掘の花壇用や鉢植用のものを作っていては、すぐに畑が5cmや10cmは低くなってしまうし、今でこそ自動車で運べるが、自転車や荷車で名古屋市内や国鉄の蟹江駅まで土付のものを運ぶのは大変で、生活の知恵とでも言うか、土をつけなくともよく、荷造の簡単な切花用のものを作るようになったと話してくれた。しかし現在は、高畑、南陽、富田の3町とも宅地化が進み、作付けが減少してきているのは残念なことである。
補遺
高畑町における葉牡丹の栽培法
鈴木竹次郎氏(1930)によると昭和5年(1930)当時の栽培法は次の通りである。
7月10日ころを中心に、6月下旬ころから7月下旬に種をまく。まき方は巾60cmの平畦をつくり、7坪(23㎡)に1合(180cc)の割合でばらまきする。本葉2、3枚のころに天候を見て移植する。この時成長の良すぎるものや、色の悪いものは捨て、大苗と小苗とを区別し、60cmほどの畦に、株間30cmほどの1条植とする。元肥はほどんど施さないが、追肥としてa あたり18Lほどの綿実油粕を株間に施し、9月下旬ころより摘葉をはじめ10月下旬で終るようにする。摘葉の度合は10月上旬ころで全葉の60%まで摘み、その後少なくして行く。収穫は掘り取ったものを日光に2時間ほどあてて、萎れたものを一株ずつ葉をしばり、大株は50株を一梱とし、子株は100株をもって1梱とする。各々菰包みあるいは箱に詰める。葉をしばったまま土間に根を中心に放射状に積み上げ適当にかん水して1か月ほど貯蔵していたという。》