日本における食虫植物導入の沿革 『綜合園芸大系 第7篇』食虫植物 松崎直枝、広瀬巨海
食虫植物類 (※執筆は小石川植物園、松崎直枝氏)
園芸品としての食虫植物
珍奇なる働きをなす植物として興味を持たれている食虫植物は、欧米の園芸界に於いて、古くより鑑賞植物として、取扱われている。殊にその変化に富める形態と働きとが、広く園芸愛好家の間に珍とされているが、一面栽培の困難なるものとして興味的に栽培されて来たもので、その主なるものとしては、サラセニア、ネペンテス、ジォニア(ディオニア=ハエトリソウ)、ダーリングトニアの如きものがある。これ等の植物は我国に於ても従来、二、三登業者に依って度々輸入試作された事はあったが久しくその成功を見るにはに至らなかったものである。然るに、十数年来、広瀬巨海氏の如き人が現われてこれが栽培法を伝うる様になり、現今では、海外に於ける如く一般的に栽培されようとしている。それで本講座の温室植物の栽培の条下に於て、観賞植物としで取扱われているこれ等食虫植物の種類、形態等一通りを述べ栽培法をも述べる事としよう。
ネペンテス
別名 猪籠草(うつぼかつら)涅扁的斯(ネペンテス) 『泰西本草名蔬附録』
性状と来歴
ネペンテスは外来食虫植物として小学校の教科書にもこの名称があげられており、名前だけは極普遍的なものになっているが、いかんせん大部分は熱帯性の植物であるために、栽培する事は相当高温度の温室の設備を要するために、あまり広く栽培されるには至らないが、温室さえあればそう培養の困難なるものではないのである。我が国にこの植物の名称即ち文字の現われたのは、伊藤圭介翁の泰西本草名蔬附録(文政十二年出版)の中に「四雄蕊、此目唯一類あり。涅扁的斯是なり」とあるに始まっているので、実に昭和四年を去る百年以前の事に属する。漢名の猪籠草というのは長楕円形の籠の名で、キルス氏の漢英韻府(チャイニーズ・イングリッシュ・ディクショナリー)やウィリヤムス氏の漢英(エ・シミラビック・ディクショナリー・オブ・チャイニーズ・ランゲージ)などに出ていると松村任三博士はその著、植物名彙(漢名の部)に記している。また学名のネペンテスは如何なる意かと言うと希臘語の憂を払うという意義である。何故かというと昔ヘレンという人がいて、あらゆる人の病気心配苦痛即ち総ての憂鬱性を去る薬を入れてあった瓶に囚んで名付けられたものだとい言う。しかしこの由来説についてはいろいろ異論があり、彼のリンネ氏の如きは面白い解釈をされている。(省略)
実物がわが国に渡来した歴史については正確に知らないが、小石川植物園の歴史によると、明治廿二年八月横浜の英人デンスデール氏より求むとある。此頃既に横浜辺に来ていたものと思う。それで此以前に渡来した事は一寸困難らしく思われるから、此頃が日本に於けるウツボカヅラの渡来の初期と思う。ウツボカヅラの和名もその頃に出来たものであろう。ウツボは空穂とも記す空(うつぼ)の義か。矢を納るる器と言海にあるから此の葉の先端が一種異状の構造をなして袋状をなしているので靭(うつぼ)の形をした葉を持った蔓性植物と云うのがウツボカヅラの意味である。
※ジンスデル氏は温室と蘭栽培でも重要人物
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特異なる形態
世の中に随分種々な不思議な植物もあるが此れ位人の驚異をそそるものはあるまい。同じ食虫植物の中、此に類似したサラセニアだとか、ダーリングトニアなど、その袋の内部の虫を辷(すべ)らす小腺毛の逆に生えた工合なども同様ではあるが、此等のものは地面から二尺は成育しないのに反して、此はまた何とした事かその蔓は幾丈にも伸びて木にからまりついて、果ては□□(※現地の住民)に刈られて物を縛る縄の代用にさえ使用せらるるに至ると云うのだから、驚くべき長さに達するものである。勿論此は種類によりけりで、ボルネオ島のキナバル山の六千呎(フィート=1,800m)の所に生ずるラジャ(此の言葉はサンスクリットと馬来語も同意義で王或いは支配者という義)と云う品種の如きは五六尺にしかならないと云うから、一般的に皆が皆縄の代用になるとは云えないし、幾丈も伸びるとも断言せられない。葉は葉で正式に出来ていて、その先端が針金の樣に細く変って、更らにその先端に於て、種類によって異なる形状ではあるが、一種異様な袋をぶらりと垂らしているのだから、世の人が奇異の感に打たれるのは当然の事である。しかもその袋の様子が中々入念に出来ているから面白い。初め袋の出来かける頃は袋の口は開いてないので口無し袋であるがいよいよ出来上った所で此の上部に在る蓋があいていよいよ口が出来て此の蓋は上向きやや斜めに附いているが、全く上向している。而して此の蓋が以前に附着していた縁の所は非常に精巧な装置で、針金を沢山集めて密着して巻附けたかの様な感じがする。此所の色彩と此の様子が此植物の鑑賞用の価値に大変に関係する。例えばベッチィなど云う種類になると此部分が異常に幅広くなりておって二吋(インチ)もあるし、またノーシアナの如きも一吋位になっている。此れは双方その共にボルネオ産である。しかし、今自分達は此値物の最初の歴史を顧みるとまた面白い思出がある。即ち此の植物の分布を表にして示すと左記の如くになる(キュウの目録による)
ボルネオ 二五
馬来半島及其附近 一三
瓜哇(ジャワ) 二
マダガスカル 二
比律賓 一一
豪州 一一
ニウ・カレドニア 二
スマトラ 五
ニウ・ギニア 四
交趾支那(コーチ‐シナ=ベトナム南部) 四
セレベス 二
安南、シャム、ヒマラヤ 各一
セイロン、印度 各一
と云う様な分布になっておって基本籍をボルネオ、スマトラ、馬来及び比島付近に有しているものと思って差支えない。しかし乍らその発見の歴史はその分布の多くないマダガスカル島に初まる。即一六五八年に仏国植物家フラコー氏のマダガスカル歴史中にアンラミチコの名前でその地方に知らねれている瓶子草を只一記録してあるが、此の瓶に就ては花か或は空の実だとしてある。その他本植物の発見の歴史についての植物学的の物語は非常に面白いものがあるが、頁数の都合もあり省略しておく事とする。
一方栽培の方では一七五○年頃より欧州に輸入が始めて行われ、栽培されたが当時は成績の見るべきものがなかったらしいが、一八三〇年頃から一八六〇年頃の間に探集培養が行われ、それらに特に興味を感じたドミニー、ダブリン、セデン及びコート氏等の園芸家の手に依って沢山の交配種が現われ、外観も野生種に比して著しく変化せられて、一方に於て培養の方法も容易になり、新植物たるネペンセスの培養に新時代を画する事に至ったものである。次は捕虫嚢の生理的の作用についてであるが、それはその方の専門書(三好博士著最新植物学講義等)等に譲り此処では園芸上に関係のある点だけを述べると、経験上、嚢中に水分を注入しておくと嚢が永い間生色を保つ事が出来ると言われて居る。之の反対に乾燥させておく時は早く嚢の部分が枯れて来る事は事実である。一方学者の実験によっても、嚢中の水液は捕虫吸収の役目許りでなく、一つの水分の貯蔵上の役目をもするものとも考えられるのである。何れにしても、ネペンテスの嚢の生理的の作用については植物学的、並びに実際栽培家の調査に依って合理的に判明するに至る事と思う
ネペンテスの種類
一、ネペンテス・ラフレシアナ N. Rafflesiana Jack
馬来名 Keptokong-mendjangan
来歴と性状
此ものは、彼の新嘉坡(シンガポール)の建設者ラフルス卿の名を紀念せん為めに付与せられた品種名であるから、今仮にラフルス卿の名を冠してラフレスウツボカヅラの新称を与えて見た。小石川植物園に明治廿二年八月横浜の英人ヂンスデール氏より求むと当時の記録に残してある。その頃から引続いてあるもので、長大なものは時に盛衰はあるが一丈以上にも伸びて人の眼を驚かしている。老株の一であるが古株になると袋を多くつけないので左迄人の眼を呼ばない。此株には時々紫色の長大な(一呎=フィート位)花穂を見る事がある。所が、不幸にして此株は雄木であって雌木がないので種子を得る事は出来ない。今同地では小さく仕立てて袋を多くつけるので、伸びるだけ放置して開花せしむる所がないので、内地の実生は出来ておらない。先年伏見宮邸の大竹氏が実を作って蒔かれたそうであるが発芽しなかった事を知ってるだけである。此ものに特別に面白いと云うか不思議と云うか、老幼の株によりて出来る袋に差異を生じて来る事である。即ち比較的下方に丸味勝ちのものが出来て、上方に至るに従って長味の勝った瓶子の様子がま全く異ったものが出来る。自分の管理する此老株にも此の変化が明瞭に見られる筈だが、如何も下の袋が後程迄残ってないのでついに完全に此変化をそのままに同一株で見た事がない。然し一八四七年のボタニカル、マガジーンには、全体ではないが幼老二様が描かれてあるし、仏国で出た一八六七年のフロール・デ・セールには、縮少して全体の形が出て来ているので、その変化の模様が切り離した図説よりも更に明快に理解が出来る。十六個のものがありて大小不同で、今出来かかりのものから長形のもの円形のもの迄全部揃っている。袋の地色は黄緑色で、それに不正の紫色の斑点を印している事は双方共に同じである。最も上出来のものと思わるるもので、長さ円形のものと長形のものとの比較は六吋(インチ)の八吋、幅は同形のものの最も広い部分は中央部であるし、長形のものでは、口径になりていて比較は二吋(インチ)半の二吋で、幅員の方だと長形の方が狹くなっている。即ち円形のものの方が形状から云うと整っておって老成したものは口辺のみ大きく、悪く云えば蛇が物を呑む時に口を開いた様な形で、面白い形状でない。それにこうなると、もう瓶子に附属した翼がとれてなお其の外観が面白くない。それでどうしても幼時にきって挿しては新らしいものに更新して行った方が袋の附き方もいい。
分布は必ずしも新嘉坡だけでなくして、スマトラからボルネオにかけてある。ボルネオでは非常に沢山に此の種類が自生してウツボカヅラの宝庫とも云う可きキナバル山の千米突(メートル)の所に在ると云う事である。
註 三好博士の植物学講義にネペンテスの蓋は「動く可し」として動く様に思われるが此ものは決して動かない事は注意すべきである。
二、ネペンテス・フーケリアナ Nepenthes Hookeriana Lindl.
フッカー・ウツボカヅラ
来歴と性状
前者が新嘉坡の創立者であるサー・スタンフォード・ラッフルス卿の名を冠してあるのに対して、此は英国の植物学者として知られたフッカー博士の名を冠してある。之は双方相比して面白い対照としていいと思う。しかも此双方はその幼時の嚢の模様は相当に近似しているので、間違うことがある。然しよく見ると異なってる事はその嚢を一見して判る。即ちラフレシアナ種だと丸味ある袋の時でも、その蓋に附着している所の口縁の部分が長くなっているが、此れは頸と云ふ程度には伸びてないで口縁の所に直ぐに蓋を持っている。その他袋の地の色及紫色の斑点の工合などは甚だ類似している。此植物に就ての一権威であるマクファレン氏は此ものをアムブラリアと前記ラフルスウツボカヅラのボルネオ島に於ける自然雑種だとさえ認めている位であるから、前記のものに似てると云うのも無理からぬ事である。而して此小形の円形のものは前者の如くに時を経て老成してからでも、同一形態を持して同一株で変態を呈する事は決してない点でも相違がある。培養も容易で性質も強健だから各所に培養せれて内地でも各所に見られる。即ち小石川植物園や農科大学のものも可なり古くから恐らく前者と同時頃から在るらしい。また大正二、三年度の横浜植木の目録中にも認める事が出来るし、新宿御苑、酒井伯邸(明治卅年頃)等にも培養されていたものである。分布は馬来半島からボルネオ島、サラワック等になっている。
三、ネペンテス・フィラムポラ N. phyllamphora willd.海老靭(エビウツボ)
Syn. N. Macrostachya Blume, N. fimbriata Blume, N. diitillatoria Wall, N. O'Brieniana Rodigas, Phyllamphora Mirabislis Lour,
土名 Dawon-oder daeon-gindi, Gada-gada, Préock-berock
性状と来歴
此れは猪籠草属中で一番分布が広いものである。それで沢山の学者が各地で採集しては、異物だと思って沢山名をつけたらしい。即ち南清では南海島及びマカオ港頭のセント・ジョンス島及び同じ広東省中の Lon'i-tsion それに日本領の南洋バラウ島(鹿児島高等農林学校教授河越重紀氏採集、記事は四年二月一二三日の間に採集して正に開花期にして雌雄異様なる事を認定する事を得たり)、それから大陸に移って、南清に引続いて交趾支那から馬来半島南方方面はパラウ島より更に比律賓諸島からスマトラ、ボルネオ島では何時でも例に引出されるキナバル山中に多く、此島の北東部洋中のアンボイナ島からニウ・ギニアセイロン及北東豪州まであると云うのによって見ると、殆ど熱帯の各地に一番広い分布を持つ猪籠草で、恐らく支那で猪籠草と命名したものは広東辺に産する此ものに対すものであろう。此はギルス氏の説が正しいものと思う。而して更らに、かつては属名にせられて後に品種名になった、此フィラムフォラの字義が、既に瓶子葉と云う事で成立しているとすれば、広義の意味のウツボカヅラには此名飼が一番適当であるかも知れない。なおかつ分布区域も非常に広くなっているから、和名には三好博士の熱帯植物稀観中に海老靭とあるので今此を用ゆる事にしたが、実際は必ずしも海老色はしておらずに緑色が勝っているらしい。但し此はその産地によりて非常にその色彩に変化があるので、一概には云えないが大正十一年の夏頃であったかと思う、伏見宮邸に或海軍将校が宮様へ御土産に持参したと云ってあったのは、嚢が七八もあって、高五尺位のもので、此は三好博士の所謂海老色の小形の袋をつけているのを見たが、その後宮家にも見受けない様だし、今は或は他所には培養せられてないかも知れない。その後書物に依って見ると培養は困難で生育はしても袋が小形になるとしてある所を見ると欧州でも此れには手こずったらしい傾向がある。然し百年以前に彼地に渡って培養せられて現在培養せらるる改良せられた品種の親になったものである。例えば大正二、三年に横浜植木会社の目録中に見える所謂リグリアナ N. Wrigleyanaの如きは即ちフーケリアナと此ものとの交配で出来たものである。
元来此海老靱の袋は、三吋乃至七吋で円筒状で中位以下で多少膨大して緑色に赤味をさしてるが此色彩は前述の如く産地によって変化が多いので、一概には云われない。蓋の外面は口縁と同色で茶褐色で内面は同色の小斑点が散在して居る。翼の鋸歯状刺毛は一吋に十七個の数になっている。自分は此のものを直接取扱った事がないが吾領土内の所産である為めと一度でも見た事から特に品種中に加えたもので培養の手心は一寸申し上げ兼ねる。
四、ネペンテス・ヂクソニアナ N. dicksoniana, Lindsay
ヂクソン・ウツボカヅラ N. Rafflesiana × N. Veitchii
来歴と性状
交配種の一つで明治三十二年頃既に酒井伯邸に在った事がある。今では新宿御苑に残されている位のものであろう。英国エヂンブルグ植物園で育成せられたものでラフレシアナの方は園に培養してあったが、花粉の方は遠方のチエルシエァのベッチイ商会に開花したものがあると云うので、その花粉を貰ってリンドセイ氏が交配して出来上ったのが一八八四年であって、此植物に興味深い同大学のヂクソン教授の名に因みて命ぜられたもので、此の一方の親は最初に栽培場裡に出た組の古い方で、花扮の親の方はその黄色袋その口縁が馬鹿に広いので有名である。此の美しい両者の結合が成功しているものだから、交配種中でも有名なもので袋も上出来のものだと十四吋にも及ぶものがあると云う。袋形は稍(やや)少し中央で膨らんで形としては面白いあまり不整でない。色は淡緑色に不正形の濃紅色斑点が散在して、下底は色も薄く且数も少なくなって口縁は広大なる事花粉の親ベッチイ種程でないが、一方の親たるラフレシアナよりはよほど扁平になって幅約一吋位、袋のつく事も多いし、また性質も丈夫であると云うが、まだ手にかけて漸くで完全な袋を出す事をよくしない。出来れば尺以上の袋にして何時か人々を驚かしたいと思っている。或は此のものも交配して三四年の間は果して予期し得る様な結果になるか如何か、甚だ覚束ない状態であったのが、一八八八年に至って立派な堂々たるものとなったので茲で初めてベッチイ商会で培養したものを挿絵にして出してあるのを見ると(墨絵で)長さ十吋半幅三吋、口縁の長径三吋半(蓋の基部より外縁迄を含めて)翼の付属物の剌毛先端迄約一吋と云う立派なものである。もし色彩があったならば更らに見事なものであろうと思う。此の花粉をベッチイ商会から貰ったのは、人が行って持参したのでなく鉄道と郵便の力を借りてで行われたとしてあるから、花粉を送付しての結巣だと思うので自分達も相当に努力さえすれば自家に花粉はなくとも他所に開花するものの雌雄を知ってさえおれば、必ずしも雌雄の株を所持しなくても結果は得らると云う事を示してくれる。一番いい御手本の模範的のものである。
五、 ネペンテス・ベントリコーサ N.ventricosa, Blancs
イビツ・ウツボカヅラ
来歴と性状
自分が此のものを知ったのは昭和三年の初夏広瀬巨海氏の所であった。その後横浜植木会社にも沢山に輸入されたので、今に目録に見られる様になるだろうと思う。即ちマニラ産で袋の形が一種特別な形容をなして居るので、品種名も割合に札落ちになっても区別し安い。自分が見たものは四吋位で口径二吋半で膨大した袋の部分が、約二吋で、口と袋の膨大部との間は斜めに急に狭められている。その葉は巾が四分の三吋弱で割合に硬い。よく出来たものでは七吋の長さで、口径三吋半膨大部で三吋位で蓋は直立性で幅広く楕円形である。
既に一八三七年にブランコ氏がアラタと共に記載して居るが、その後クーミング氏が採集してその標本は英国にも行っては
いるが、実際に培養せらるる様になったのは一八九八年から数年前の事で、香港植物園のフォード氏が英国キウに送付せられたのに初まる。先きに云った様に一種特別の歪んだ形状を呈してはいるが、更らに特に此の袋で注意して見逃す事の出来ないのは、その袋には大概のものは冀があることである。ラフレシアナの老いた頃に出来たのだと少し残りがあるが、その他ではフィランホォラやヂスチラトリアの様な長形の袋を持つものの一例と広い口を持って一寸此の種に似た様な形状のあるラジアやローウィなどだけが無翼種である。然し此の冀のない事は栽培して眺める者に在りては何となく物足らぬ感じがないでもない。袋の色は緑色で、その口縁が淡紅色であって渡来後、日が浅いので内地で如何程手軽に培養し得るかは今茲(ここ)に直ぐにはお答えし兼ねるが、本によって見ると比較的低温多湿でよく繁栄するとしてある所を見ると、あの歪んだ変な形状と養い易いと云う両点で或は内地で相当の地位を占める様になるかも知れない。此はまだ培饗者も多くないので、内地の出来ばえがどう云う様になるか将来の事で今ここでは断言し得ない。
六、ネペンテス・ミキスタ N. mixta Mastera,
紅斑靭
来歴と性状
此れは交配種中でも丈夫なもので、かつて横浜植木会社などでも売出した事があるので、各所に見らるる袋のやや長味ある老ラフレシアナ程口縁の直径が広くならず、またその下底部もまた彼の如くに狭くなって居らない。一九〇三年にベッチィ商会のチベイ(※ベッチ?)氏がノーシアナとマキシマとで創作したものであって、袋はよく出来ると尺から越す事もあり、幅も三寸位となる事がある。袋の地色は薄緑黄色に赤斑を持ってる事は一方の親であるノーシアナに似ている。口縁は濃紅色で蓋は紫斑があり、蓋はマキシマに在って一特徴をなしてる。内面の一種の突起は此のものには欠けてる。普通の出来では約六吋内外の大さで自分達の経験では培養も楽で袋も出来工合が甚だ良好である。それに袋の色も割合によく、交配種としては上等の方にしてあるし、また他の雜種の親によく使用せられている。普通の出来だと六吋内外で袋の形は老ラフレシアナに多少類似しては居るが、中央部で心持ち膨らんだ様子が見られない事もない。一番似てるのはマキシマかも知れぬ。自分も此れは混合しておった事がある。此れを区別するには他に彼此云うよりも其の蓋の内面突起の有無が一番正確で、無いものが本種である。
此種に就て、自分は前章の緒論の所で、内地でウツボカヅラの実生を作った人はない様に云って置いたが、其後調べて見たら明治四十三年に西島楽峯氏が Mixta × Rafflesiana. と Rafflesiana. × Mixta と Mixta × Hookeriana との三種を作って居らるると云う事を知った。而して此内の一部は現に農科大学に残存してる筈であると云う事を、本人の西島氏の来訪を受けた時に聞いた。此れを見ると既に私達の先輩諸氏例えば西島氏は此ウツボカヅラを、広瀬氏はサラセニアを何時の間にか内地で立派に雑種を作っておらるる事は、知る人が少ない様であるから特に此の場合、茲(ここ)に明記して、日本最初の食虫植物交配種創作者の名誉が、両氏の肩上に在る事を園芸関係の諸氏に御伝えしたいと思う。
七、 ネペンテス・マキシマ N. maxima, Masters.
紅縞靭
Syn. N. Celebica Hook, f, N. Curtisii Mast.
N. Follax G. Beck
来歴と性状
内地でも栽培せられている種類である。自分は此れは前記のミキスタと誤認していたが、此記事を作る為めに少し調べて見てその誤りを発見した。それ程此の両者は近縁ものである。勿論自然的に近縁でなくてはならないのは、前者の一方の親が本種になっているから無理からぬ事ではある。袋の模様は長形で、上部で開いている事、口縁の頸を長くしてる事などはラフレシアナに似ているが、その蓋の内面に、二個の突起がある事が著しい差異である。此の上部の突起は顕著であるが、下底の口縁付着部の上部のものは、やや瘤状突起となっているので、此れは少し注意しないと見落とすかも知れぬが、此の突起は此のものの特徴である。それにまたその蓋の模様が網目斑状をなすのも、また可なり眼につく、分布はセレベス島にもあるもので、フーカー氏がセレビカと品種名をつけた事がある。ボルネオはサラワック付近よりニウギニアに及んでいる。此のボルネオ産のものをカーチース氏が採集してベッチイ商会に送ったので、此の採集者の名前を採って一時カーチミイと呼ばれて発表せられた事もある。一八八七年の英国に於けるロイヤル・ホーチカルチュラル・ソサイチー品評会に、同商会から出品して第一等賞を得たと云われている。袋は長いので長一呎位になるものだと幅二吋位で、蓋の長約二吋で口縁はやや上部で広くなっていて、褐色で袋の地色は暗緑色に紫色の不規則の縞をなしている。斑点が続いた縞と云う様な感じである。それで仮に前者を紅斑靭とし此を紅縞靭と名づけて見た。而して此の両者の区別点は更らに今一点ある事に気がついたのは、その葉の先端が線状になっている、此の線に紅斑靱だと袋の斑点が伸びて来ておらないが、紅縞靱の方だとずっと此の線の一吋位上まで斑点が見られる事も一特徴になると思う。
各種ある品種中で、同じ取扱いをしても此のものは一番よく袋がつく性質があって、十余個を付けしめる事は普通である。上手に作ろうものなら此の倍数位にはなし得るのではないかと思う。ベーレー氏辞典にも栽培は容易であるし、花をよくつけるとしてある位だが、自分は此の蔓を伸ばした事がなく、直ぐ切っては押して居るので、花は見た事がない。袋の様子がよいので各雑種の親に選ばれて立派な結果を挙げているものである。例えば前者の如きはその一例である。而して袋をよくつける点に於て一番栽培するにはよいものと思う。同じ此のウツボカヅラの中でも中々袋の出来ないのは作り方の下手とばかり一概には云われない。品種によりて袋の出来のいいのと悪いのとあるので、第一に美観であるが形の良不良は別として品種の袋の出来易いものを選ぶ事が第一である。此等のものはフーカー靭蔓ヂクソニアナ等と此等両者当は此の意味で良種であると思う。
一般栽培法
繁殖法
勿論雌雄両株を持合せて交配が出来れば此の種子によるのであるが、それでない限りは取木か挿木の二法である。前者だと相当に芽の充実した所に少し傷をつけて茎の半ば以上に切込まぬ位の程度にして、此の周りに水苔を巻付けて常に水分を絶やさぬ様にして置く法と、また全く切り離して二芽位にして水苔の小鉢に挿して湿度を十分に加えて置くようにする。温度が十分であれば何時でも差支ない様なものではあるが、矢張り秋口よりも夏の向暑の時か炎暑の頃が結果が良い様である。但し此の挿木は余り老成して堅くなり過ぎた葉の枯れた所などだと、成績は余りよくない。それかと云って生長点だと往々腐敗する恐れがある。何れにしても中庸の所で温度と湿気に十分の注意を加えてさえいれば、余り困難ではない。而して新芽が出掛て来ると袋のつきのよいものだと、もう其の第一葉位から小さくはあるが袋の形を見る事が出来る。根を下す日数はその方法や時期等で差異があるだろうが、二三週間位と見て置けばよいだろう。此れも多少その木の性質によりて根を下す事の歩合のよいものと悪いものとあるので一概には云えない。多くの者の経験はないが、ドミニー種の如きは確かに此の歩合のいい部類に入る可きものであろう。此外に根の下し易い種類としては、グラシリス、フィランポラ及びマスターシアナ等がよいのだと本に書いてある。砂挿しでもよいとしてあるが、砂よりも水苔の方がよさそうに思えるので、自分達は水苔ばかりを使っているし、品種の少ないのでもし失敗しては困ると云う様なものは取木にかけている。根の下りる間は十分に其の部分の湿度を多からしむる様にして居なくてはならぬ。乾燥せしめる事が失敗の基である。而して底湿地があればなお此の作業は都合がよい。挿木の時の温度は約八十度(※華氏)内外だと云う。
サラセニア ウツボソウ(瓶子草)
はしがき
食虫植物中で最も愉快なもので、趣味の上からもまた植物学の方から云っても、興味のある植物で、また作り易い点から云っても一般的に栽培する事が出来るものであるし一面園芸方面から見ても可なりその交配種なども作られて相当に進歩しているので少なくとも園芸に一般的趣味のある人ならば最も容易く取扱われるので、一度は手かけて見る可き不思議なしかも面白い特殊植物の一である。また学校等で、教材資料として栽培する場合に、前記のネペンテスは温室の設備を要するが、このサラセニアは温室の必要がないばかりでなく、万事甚だ手軽に済み、食虫植物中の代表的の物で極めて面白いものである。それに夏に出る葉は袋のないものがある事なども、此のものの生活状態を物語る材料にもなるだろうし、ウツボカヅラの様に雄雌両株がなくては、種子を作る事が出来ない恐れもなく、一本の株があればそれ一個でも種子が採れるので此れで蕃殖して行く事も出来る云うふ様な点点もウツボカヅラよりも取扱上が便利である。まだ手軽でいい事は殆ど大部は冬期に葉を枯らしてしまうので(勿論温度を下げずに置けば常緑で養う事が出来る)その間は殆ど何等の手数を要しないことである。
自分はサラセニアの話は知るには知っていたが、初めて此の実物に接したのは大正に入ってからで、当時広瀬巨海氏が東京小石川高田老松町に住んで居らるる当時(現在は横浜市外富岡に転居)同氏の宅で沢山に培養して居られたので、此のものの知織を与えて頂いてから、此食虫植物に対する趣味を持つ様になった。而して大正九年には三越呉服店で花卉の品評会が行なわれたので、無理に広瀬氏に御願いして出品して頂いて参観者を驚嘆せしめたのは、此の植物の一記録として特に挙げて置かなくてはなるまい。(此の事は園芸の友第十六年第七号大正九年七月号に小生記載)このサラセニアは明治の末葉より大正の初めにかけて各所に輸入され、小石川植物園、京都農園、西島氏の豊多摩植物園等でも取扱われたものであったが遂に栽培上で成功し得なかったのであるが、大正の初年に至って広瀬氏の多大の努力と犠牲的研究の結果は、漸くサラセニアの今日の培養の一般趣味の普及になったわけで、サラセニアと広瀬氏とは決して切り離して考える事は出来ない。筆者も此の広瀬氏に其の示教を負う所が多大であるのみならず、その趣味とその知識の殆ど全部を氏に負うている。
植物学的位置と形態
正式な植物学的立場から云うならば、テルンストミア科に一番類似していると云うが、不幸にしてそんな科の植物は吾国には見出せないので、内地に在るものとすれば先づ差当ってその草本性の茎と種子から押して行くならば、当然罌粟科か睡蓮科に近似している。而して別に独立の一科を作って此の中に編入せらるるものが、既に述べたダーリングトニアとへリアンホラと都合三属で、此の一科は成立しているが皆全部その葉は袋状をなしているので有名なものである。しかもなお面白い事実は此の三者共新大陸のものであって、しかも北米に二属を産し南米の北端にヘリアンホラを分布して居る。此れを世界地図の中で地理的に云うならば甚だしく極限せられ地方のみに産するもので、しかもその茎の構造が瓶子状を呈して花弁も蕚も共に五個に分裂し花弁は甚だしく落ち易いが、その代りに蕚片は全く永存性で種子が出来てもまだ立派にその儘に残されて見る事の出来るのと、雄蕊はその数が多く、子房は三乃至五室になって居るが、此のサラセニア科の特徴で、更に此の属では花弁も子房も同数の五個から成りてその柱頭がまた五個に分れている。此の五個の柱頭の具合が此のサラセニアに最も不思議な形状をなして現わしている。先づ花の模様から説明すると、初春に蕾を初める時分は丸い球を棒の先きにのせた様特殊な花部の構造
而して第一に見ゆるのは苞が二枚で、その下に蕚片がある。其の萼片の五枚の間に五枚の花瓣が暫くの間小さな鐘状をなして下に向き、それから急に広く横に拡がりて花柱の付属物の間を抜けて下に伸び、更らに花弁の広さを増して下垂している。今もし此の一個を取除いて横から眺めたとすると、丁度ここに示した図の様な具合になる。四個下垂して見えるのが花弁で、此花弁が挟んでいる洋傘を逆にした様なものが見られる。此の洋傘の柄に当たる膨大した所が子房で、萼の直下に在ってその横に沢山あるのが葯で洋傘の柄は花柱でその花端が五個に分れて五本骨の洋傘をなしているのであるが此の洋傘の部分は其の付属物で本来は只その骨だけで十分である可き筈であったのが、如何云う具合か水鳥で云うならば指の間の水かきと云う塩梅のものであろう。ただ先程から幾度も述べてある様な洋傘型ではあるが、決して此の洋傘はその先端は尖って居なくて、平坦であると云うより少し中央で凹んで居る。而して五本の花柱の先端柱頭の部分は此の付属物より更に分離して別に小突起となって内面に向っている。全体の面積から比較して見るとその付属物の偉大に比して実に微々たる観がある。即ちこれが一番大事な役目を果たす所である。此のサラセニアに英名で婦人用鞍花(サイドサッドルフラワー)とある意義が如何しても何の意味であるか了解し難かったが、今此の花弁を一枚はづして眺めて初めてよくその名が此の花に相当してる事を知った。と云うのは、その花弁を婦人の足に見立てたのであろう。それにしても此の花の構造が可なり複雜になって居るのを見て婦人の鞍に見立てた人も中々考えたものであるとつくづく感心した。花がしかく複雑になっているが実際に更らに面倒である。此の事に就ては広瀬氏の観察が十分であるから、それを拝借すると此のの花形は一寸形容の仕様がないが、天蓋とでも云いたいその花の模様は一度見た人には忘れられない花形である。然し乍ら花は年中見られるものでないが、その葉は殆ど常緑でもし温度を加えて置くならば、常にその葉を眺める事が出来るし、木框だけでも冬期のみで他はその葉を観賞するに差支がない。
葉の構造
次には葉に就て述べると上部の蓋はその幼時にのみ密開(※密閉では?)しており、成長しきって開いてからは再び動作を起す事のない様子はよくウツボカヅラに似ているしその内面の構造なども可なりネペンテスに似ている所がある。只相違するのは、ウツボカヅラの蓋には蜜を分泌する腺があるが如何か疑わしいが、サラセニアの蓋は一種の分泌腺を持って居る事である。之は明瞭に認め得る。即ちその蜜に塵埃などが付着して黒い汚点となり明瞭に密腺を認める事が出来て直ぐに此蜜腺がある事がわかる。而して此の蜜に誘われて虫どもが集まって更らに遂には此の筒の中に落込むのである。その筒の内面の有様は非常に複雑な構造になっていて、筒の口縁から中央部上までは下向した毛茸が密生していて虫を下に下に誘くに都合よからしめ中央部に於ては全く滑らかになりて此処からはもう辷り込ましむるが如き装置になって更に下底部に近い所で再び逆毛を生じて虫の上向脱走に不便ならしめてる。此等の模様は此の筒を開いて検すれば肉眼でも十分に検定する事が出来る。而して此の筒状の葉が肉食植物であるか如何かと云う事に就て以前は全く知る乙所がなく植物界の泰斗たる林那氏さえも、その瓶子内の水液を有するを見て鳥類の飲用になるものと想像したがカテスベイ氏は更らにまた別にその瓶子中に昆虫の死屍を見出して「此れは思うに恐らく此の死屍となった虫どもの避難所だったのだろう」などと可なり善い加減の話をしていたのであったが、加奈陀のケベックのサラシン博士が此のものを忠実に研究してその肉食植物なる事を発表したばかりでなく、その一種を生品として欧州に送付した事によりて、真に今迄世に只奇妙なる植物としてのみ記事と挿絵で新大陸の珍植物として想像をたくましうしていたものが、実物の観察が出来る様になって、ここに初めて仏国のトーネフード氏によりて此の植物を新大陸より旧大陸に輸送し、且又その研究を発表した前記サラシン博士を記念す可く新らたにサラセニアの属名を与え、その後更にメリキャンプ氏やマグゾライ卜氏等が引続いて熱心なら研究が行われ、その瓶子体がいよいよ明瞭にせられたのだが今使使用してるサラセニアの学名の決定は二百年前の事で此の最初は今云うプルプレア種であったと云う。
分類萼的の研究も進歩したと同様に、その生理方面から解剖学的の検査も次第に詳細に進んで来たし、且また此れが原種を取扱うのみに留まらなく此等を交配して新種を創立する事は、園芸家諸氏の努力によりてまた特別の進歩を促した。而して此の兄弟とも思われそうなウツボカヅラの改良家の人名は正確に記入してあるが、何故か此のもののこの方面の記録は自分の知る範囲内では不明で、自分としては甚だ残念に思っている。此の人工媒助が出来たお蔭で此の植物が園芸的使命を担い始めた事になる。此れは今の所では一八七四年を最初とするのではないかと思う。此の年にはモーレイス・チーブンシ及びウィリヤムシィ等が記録に残されているが、その後次第にその数を増しベーレイ氏辞典中には、サラセニアの研究の大家マクファレン氏は四十二種の人工媒助種及び天然雑種を挙げてある。即ち同一著者でもプランチェンライヒには人工媒助種を三十二種挙げてある。今その人工媒種のみを挙ぐれば、
(1)S. cantabrigiensis Lynch. (S. Drummondii×minor) 1907.
(2)S. excelens Nicholson (S. variolaris×Drummondii alba) 1887.
(3)S. wrigleyana Hort. (Drummondii×psittacina) 1887.
(4)S. Moorei Hor (Drummondii×flava) 1874.
(5)S. Mandaiana Hort.( 〃 )1893.
(6)S. exculta Nickolson.( 〃 )1884.
(7) S. Mitchelliana Nicholson (Drummondii×purpurea.) 1884.
(8) S. Patersonii Hort. ( 〃 )1887.
(9) S. crispata Hort. (S. flava x minor (?)1880.
(10)S.Akinsoniana Nicholson.(S. flava x purpurea) 1887
(11)S. Stevensii Hort. ( 〃 )1874.
(12) S. Tolliana Nicholson ( 〃 )1887.
(13)S. Williamsii Hort.( 〃 )1874.
(14)S. Wilsoniana Nicholson ( 〃 ) 1901.
(15)S. Popei Hort. (S. flava x rubra) 18881.
(16)S. Swaniara Nicholson. (S. minor x purpurea) 1887.
(17)S. decora Hort. (S. minor x psittacina)1889.
(18)S. formosa Hort.( 〃 )1887.
(19)S. Maddisoniana Nicholson.( 〃 )1881.
(20)S. Chelsonii Hort. (S. purpurea x rubra) 1877.
(21) S. Courtii Hort. (S. purpurea x psittacina) 1881.
(22) S. Cookiana Hort.
(23) S. exoranata Nicholson (S・ purpurea x crispata)1897.
(24) S. Farnhami Hort. (?S. Drummondii x robra)
(25) S. illustrata Nicholson (S.flava picta x stevensii) 1887.
(26) S.Flambeau Hort.(?S. purpurea x minor)
(27) S. melanorhoda Hort. (S. stevensii x purpurea) 1882.
(28) S. Mesoniana Hort. 1889.
(29) S. Sanderae Nicholson. (S. Drummondii alba x cookiana)1901.
(30) S. sanderiana Nicholson. (S. Drummnondii rubra x farnhami) 1901.
(31)S. vittata maculata Nicholson. (S. purpurea x chelsonii) 1901.
(32)S. Williamsii Nicholson (S. courtii x melanorhoda) 1901.