我が国に於けるカーネーション栽培の歴史と現況 『カーネーションの研究』から 土倉龍次郎、犬塚卓一共著 昭和11年


 第四節 我が国に於ける栽培の歴史と現況


1. アンジャベルの渡来

 我が国では最初カーネーションを麝香撫子と呼び、マーガレット系種に属する品種は既に徳川時代にオランダ人の手を介して輸入されたもので、一名紅夷(オランダ)石竹と称された様である。当時はカーネーションとは称さず「アンジャベル」と云い、大槻博士の文献に依ると、「アンジャベル」は(薬草の名、石竹の一種)オランダ語のアゲリールの転訛であると云われている。※現在のオランダ語でカーネーションはAnjer(アンヤ)というので、アゲリールは不明。


[注] なお大日本カーネーション協会雑誌カーネーションの研究に松崎直枝氏が寄稿されたところによれば「あんじゃべる亅の渡来に関し次の如くに記している。「あんじゃべる」天保年中に渡来す(享保18年地錦抄附録伊藤伊兵衛)オランダ石竹、寛文8年に渡来す(地錦抄、白井博士博物年表に依る)。また寛永5年貝原益軒著の大和本草には、紅夷(オランダ)石竹は大にして香気あり、紅白重葉単葉、或いは紅白混じるものもあり、絞りと云い染色の如しと記されてある。また正徳2年寺鳥良安著の和漢三才図会に、阿蘭陀石竹は茎大葉硬強、花弁大、有数品、阿無之也閉伊流(アムシャヘイル)と記し、また享保5年西川如見著長崎夜話草には紅毛石竹と称しており、延享3年青木昆陽著和蘭文字略考巻二にはアンゼリールと呼び、明和2年江戸本草家後藤光生の紅毛談には「あんじゃべる」と記載し、その花の香甚だしく、その草は和草石竹より高し、花の露をとりて(面部の腫物に付けると述べ、なお天明8年の蘭説辞感には「あんじゃべる」はアンゲリイイル也。詳なることは桂川甫周の和蘭薬選を見よと云っている。


 以上の文献は京都帝大新村博士の南蛮更紗の花の各三つ四つと云う題の下にあったものであると筆者松崎氏は附しているが、之に依って見てもカーネーションに属する撫子(石竹類)の一種が我が国には既に徳川時代から渡米していたものであることが立証されるのである。


2. 初期の輸入品種と栽培開拓者

 今日吾々が主に栽培しつつあるカーネーション、即ちパーペチュアル・カーネーションに属する品種の輸入は明治40年以後のことで、是が輸入の元祖は明治42年米国シヤトルに在住していった澤田氏が帰国に際してホワイト・エンチャントレス White Enchantress、 ピンク・エンチャントレス Pink Enchantress  ヴィクトリー  Victory、 ロ一ズ・ピンク・エンチャントレス Rose Pink Enchantress 等外に2、3の品種を持ち帰り、当時之を東京市外中野町城山に小規模の温室を建て栽培したのが嚆矢である。然し遺憾なことには当時同氏が栽培法に精通しなかった為に意の如き好結果を収めることが出来なかったが、同氏は之に屈することなく幾多の困難と闘いつつも研究を積み、その後3年を経て漸く栽培法を会得するの域に達したのである。此の切花を東京市内の生花商に出荷を試みたのであるが、未だ事業として成功するに至らないで、惜しくも明治45年事業中途で病没して了ったのである。

 我が国に於けるカーネーション栽培の歴史を探究するに当って、初期栽培の開拓者として同氏の名こそ洵(まこと)に特記す可き功績者であると云わなければならない。

 澤田氏の没後同氏の後を継いで伊藤貞作氏が之を譲受け、引続いてカーネーション栽培に着手したのである。

 之に先立って明治43年頃から著者(土倉)が当時東京府下上大崎に於てカーネーションの栽培に着手したのであるが、品種としてはマーガレット系の赤色種のプレジデント・マッキンレー President McKinley、 白色種のマリア・インマキュリット Maria Immaculate の2種類で、是等は何れもニューヨークヘンダーソンから種子を取寄せて播種し、その中から得た選抜の優秀種であったのである。更に同年の秋に至って在米の令妹(当時駐米全権大使内田康哉氏夫人)の手を経て、ホワイト・エンチャントレス、ピンク・エンチャントレス、ローズ・ピンク・エンチャントレスの3種の外、プロスペリティー Prosperity、ホワイト・パーフェクション White Perfection、 ヴィクトリー Victory の都合6種類を輸入して栽培したのである。然し乍ら栽培上の知識が全然無く、唯一般作物を作ると同様な方法で栽培に当った為に、折角輸入した是等の品種も僅かに形骸を残存した様な不結果に終って了ったのである。

 その後更に米国桑港の郊外でカ-ネーション栽培に従事していた瀧野奈良楠氏(現在・和歌山県海郡西脇野村二里ヶ浜に居住)が帰朝さるるに際して持帰った前記の6種類を、翌44年の春手に入れて、更に是が栽培に努めたのである。然し当時は温室も稀な時代であり、カーネーション栽培に従事しているものとしては、前記伊藤貞作氏の外に無かったので、現在の如く他国に於けるカーネーションの栽培状況を見学に行くと云う事も不可能であり、且何れも栽培上の智識を欠いていたので、是が教を乞う可き指導者もなく、それが為独自の研究に依るより外に道はなかったので、栽培上に払う苦心と創作的努力は洵(まこと)に容易ならぬものであったのである。然し乍ら種々苦心の結果、その後漸次完全に近いものが作れるようになり、苗も次第に播殖して来たので之を各方面に配布し、斯くして漸次カーネーションが一般園芸家の間に広められて来る様になった。

 之に前後して関西方面に於ても明治45年頃京都農園主杉本保彦氏が英国のエンゲルマンから100余種のカーネーションを輸入して栽培し、此の中の数種を当時新宿御苑長であった子爵福羽逸人博士プラタナスと交換し、新宿御苑でも之を栽培したと云うことである。なお杉本氏の手に依ってカーネーションが兵庫県下の池田、山本の両地方に頒布されたと云われている。

 斯くして関東、関西の両地方で漸次に専門家が米国或は英国から各種のカーネーションを輸入し、カーネーション界も幾分進歩の緒に就いたのであるが、現今から考察するならば甚だ徴々たる域にあった。

 民間の状況は以上の如くであるが,新宿御苑では是よりも遙か数年前にカーネーションを英国のサィファー商会、ボーマー商会、等その他の方面より輸入栽培され、之を佛蘭西の原名そのままにオイレーOeilletと呼び、一般がカーネーションと称して居っても新宿御苑のみでは依然として仏蘭西名称で取扱っていたと云う事である。然し新宿御苑で輸入したのが明治何年頃であるか、遺憾乍らこの時代が不詳である。


3. 品種改良と実生の作出

 当時の品種としてはエンチャントレス系種とヴィクトリーが代表的なものであったが、各々一得一失あって営利栽培者を満足せしむるに至らなかったのである。

 勿論是は前述した如く栽培技術の未熟なることにも起因したのであるが、一面また現今の如き温室建築の完全ならざるに加え、保温、暖房並びに通風、換気及び病虫害の予防駆除等に対する管理上の研究が欠け、カーネーションの温室栽培を為すに足る可き充分な設備の調わざる結果にも依るのである。

 その後も著者(土倉)は数回に亘って米国から苗の輸入を為したのであるが品種としては前述した種類の外に特に新種として歓迎す可きものが無く、真に優良種として確信を得る様な種類が無かったのである。一方また英国のオール・ウッドその他1、2専門種苗商会から型録に依って優良と思われる種子を輸入して実際に播種して之を栽培し、発芽率も乏しい上に成長率も不良で、折角の期待も悉く裏切られると云う状態であった。

 偶々(たまたま)大正10年今上陛下が東宮殿下としてあらせられ、英国に御渡航遊され給いし際、当時特派された某夫人の手を煩わして直接オール・ウッド商会に交渉して貰い、同商会からパーペチュアル・カーネーション系種のヴインディクティーヴ Vindictive (濃桃色)、サルモン・ピンク・エンチャントレス Salmon Pink Enchantress (鮭肉色)、ウィブルスフィールド・ホワイト Wivelsfield White(純白色)、 ウィブルスフィールド・クラレットWivelsfield Claret (紫色)、エドワード・オールウッド Edward Allwood (緋色)、 イエロー・ストーン Yellow-Stone (黄色)、 トライアンフ Triumph (真紅色)等その他合計12種類を輸入栽培して稍々(やや)完全な花を咲かせることが出来た。

 更に大正13年に至って著者(土倉)はライヂングサン石油会社日本支配人エー・テー・スコット氏の手を煩わして、エンゲルマン商会から欧米に於ける各優良種100余種類を輸入した。此の中で苗が活着したのは実に80余種であったが、是等の品種を総括して見るのに既に輸入してある品種以外のものは、花形が巨大で優秀なものは草性が軟弱の傾があり、また草性の強健のものは花形が小輪であると云う様な始末で、中には発育の不完全な性状の種類等もあり、花も優秀、草性も強健、発育も旺盛、株立も良好、栽培も容易と云う様な総べてを完全に具備した優良な品種を得ると云うことは事実に於て困難な状態であった。

 斯く輸入に依って優良な新品種を得ると云う事は至難なことであり、且之が為に煩多な手数を要し、多大の労力と費用を費しても型録通りの優良な成績を挙げげ得ないのは畢竟是等のカーネーションが欧米に於ては相応しき品種であっても、我が国に輸入して栽培する場合は気候風土の関係上却つて不結果を来すものであると云うことを学んだのである。それと本邦の風土に適した優良種を作出することが、カーネーション栽培の上に緊訣な要件であることに気付き、是が動機となって品種的改良としての実生の研究に主力を傾注するに至ったのである。(之に先立って前記伊藤貞作氏は大正3、4年の頃から、各種の交配を行い、遺伝の実験等を試み、多数の実生改良種を作出して市場に切花として出荷していたのであるが、品種が少い為に優良な親木が乏しく、之が為に充分な目的を達することが出来なかったのである。)

 著者(土倉)は大正7年に至って、紐育のヘンダーソン(※ピーター・ヘンダーソン社)から輸入した種子に依って、始めて赤色の新種を実生作出し、その名をドグラス・スカーレットと名付けて発表した。此の種類は現在でも或一部の方面で栽培されている赤色系のカーネーションである。之に引続いて伊東一介氏は著者の指導に依って西島楽峰氏の輸入に依るアレス・フォールドと某氏が独逸から輸入したダリヤのゲイシャの色彩を持った種籾とを交配して、黄色に薄色立縞の混った大輪の新花を作出し、之をドグラス・ファンシーと名付けて発表した。此の新種作出は当時かなりのセンセーションを惹起し、斯業者間に我が国でも充分に実生改良に依って優秀なものを作出出来るものであると云うことを事実に於て示されたのである。

 次いで大正8年に著者(土倉)はオールウッドより輸入したイエロー・スト-ンに、前記のドグラス・ファンシーを交配して、新に黄色花3種を作出したのが即ち菜花1号、2号、3号で、現在栽培されている菜花は此の中の第1号に該当する種類である。当時は輸入力-ネーションに黄色花の無かった時代であったので、各方面から非常な興味を以て歓迎され、現在でも此の品種が露地栽培に適した代表的な種類として識られている。

 爾来鋭意実生研究を続けた結果数十種の実生新花を作出するに至ったのである。そして大正8年から昭和元年迄に作出した優良花20種の名称を横浜ガーデン主人大澤幸雄氏(※伴田四郎氏いとこ=四郎の父の弟・幸次郎の長男)の厚意に依ってカーネーション愛好の一般園芸家からその名称を募集して、石原助熊、野口佳伸、伴田四郎、湯浅四郎の諸氏数名の選定に依って命名し、昭和2年横浜ガーデン発行の機関誌ガーデンに依って発表した。此の中の主なるものとしては桃山(濃桃色)、舞姫(緋朱色)、珊瑚(淡朱色)、黒光(海老茶地に黒紅の立縞入り)、白妙(純白)、遠山桜(鮮薄色)、緋鹿子等は何れも葉茎強<株立優り繁茂旺盛な性状を具え、適応性の強い優良種として普く各方面から非常な賞讃を以て迎えられ農芸学界に迄認められたものである。

※野口佳伸と野口秀は同一人物





*大正4年頃の写真 現在のJR目黒駅前にあった温室風景、温室面積は214坪。
土倉氏は明治45年に野菜や草花の温室栽培を始め、トマトーや胡瓜、カーネーション、ツツジなどを栽培している。この新しい大型温室は大正3(1914)年に完成した。
この時代、絵葉書が流行していて、この写真も絵葉書にするために撮影したものだという。
『日本園芸雑誌』大正4年3月号(第27年第3号)*

 当時著者(土倉)は最初温室を府下大崎町上大崎(現在市電目黒終点電車庫所在地※現在の目黒駅東口前)に設けたが、大正9年に至って目黒林業試験場の隣接地に移転し是等の種類は主として此処で作出したものである。その後昭和元年に温室を更に神奈川県橘樹郡高津町溝の口(現在所在地)に移転し、同年より同年より昭和5年迄の5箇年間に自雲(純白色)、泰山(同上)、黄袍(※おうほう 薄黄色)、旭日(鮮緋色)、黒曜(海老茶地)、淡牡丹(淡桃紫色)、錦旗(自地に赤の刷目入り)、紫宸殿(濃紫色)、新夕映(白地に中心より薄樺ぼかし)、西王母(鮮桃色)等の各種を作出し、之を昭和5年と7年の2回に亘って発表した。殊に是等の品種は花色が良く、従来の輸入種に見られなかった各種の色彩に富んだもので、日本人向の趣好に適合したものとして前回以上に、斯界の好評を博したのである。その後更に昭和8年迄に口絵に示した如き羽衣(樺色)、太白(白色)、白鳳(白色)、紅陽(赤色)、姆女の頬(※うばめのほお 淡紅色)、雲峯(白色)等の優秀な新種を作出して現在に及んでいる(口繪參照)。

※M43品川区上大崎町 現JR目黒駅前→T9目黒林試隣→S1神奈川県溝の口(多摩川対岸から少し登ったところ、『神奈川のカーネーション』では昭和4年となっている。)


     

 また神奈川県大磯の池田農園に於ても実生改良に着手し、新品種の作出に努力されているが、その中でも先年発表された黄色系及び白色系の優良種は同園独特の実生品種として一般に識られている。

〔註〕同園の実生改良は約10年前より、英国のカーター、エンゲルマン、オールウッド商会より種子を取寄せ、是より採種せられしものを交配して7、8年前より優秀花を3, 4種作出し、是が栽培を行っているが、別に名称も付けず、発表も行なわれておらない様である。

 なお近年に至っては岩崎康彌氏経営に係る清芳園(東京市世田ヶ谷区弦巻町所在)を始め大日本カーネーション協会の間に於ても漸次実生の研究に着手するものが増加しつつある。


『実際園芸』第6巻3号 昭和4(1929)年3月号
土倉氏改良のカーネーション3種


4、栽培の現況と研究

 栽培初期の明治42年以後約10年間と云うものは洵(まこと)に微力として振わないものがあり、何等著しき発達を見なかった。然るに大正10年頃より各種温室切花の需要が漸く昂り、カーネーションも之に伴って漸次にその需要が増加し、東京市内各生花商が温宝栽培業者に是が卸売を乞う様な状況を呈して来たので、温室業者も次第にカーネーションの栽培に着手するに至り、一方園芸愛好の篤志家の中にも趣味的に小温室を設けて栽培を為すものが現れて来た。
 次いで大正10年米国にあってバラ栽培の研究を遂げて帰朝された長田(おさだ)傳氏が、伯爵鳥丸光大氏と共同して翌11年春より東京府下大井町篠谷に米国式の温室を建設して、バラ栽培の傍ら斬新な技術に依ってカーネーションの栽培に着手されるに及んで、ここにカーネーションの価値が稍々(ようよう)一般に認められるに至ったのである。当時栽培されておった品種としては依然としてエンチャントレス系種とウィンザー  Windsor、ヴィクトリー Victoryの品種に限られていたが、同年長田氏は在米井上琴次氏の手を介して前記エンチャントレス系種の外に、此の頃米国で流行を呈していた前記エンチャントレス種の改良種たるピュワー・ホワイト・エンチャントレス Pure White Enchantress 及びラディー Laddieの2種を輸入栽培した。此の新白色種は在来のホワイト・エンチャントレスに優る純白種である為俄然各方面から注目され、在来白色種に代って此の新品種が代表的のものとして競って栽培される様になった。然しラディ-は一般の需要並びに嗜好が未だ此の花に至らなかった許りでなく、営利栽培しても収穫少き為、折角の此の優良種も期待した程の著しい好結果を得ない中に惜哉、長田烏丸の両氏はバラ栽培を専門として温室経営をする方針を変更されたので、カーネーションは再び従来通りの方法を以て一般栽培家の手にゆだねられるの余儀なきに至った。



 然るに翌12年秋、彼の大震災となり、是が動機となって温室切花は俄然急激な増加を示すと共に、ここに一画期を為してカーネーションは更に著しく需要率を増し、栽培上にも躍進的な伸展をなして来たのである。後更に大正14年秋、著者(犬塚)は米国からミセス・シー・ダブリュー・ワード  Mrs. C.W.Ward. メインサンシャイン Maine Sunshine、 スペクトラム Spectrum、メリー・クリスマス Merry Christmas、ベル・ワッシュバーン Belle Washburn、マッチレス Matchiless、ラディー等その他数種の著名な優良種を携えて帰朝し、藤井権平氏等と共に前記烏丸光大氏が温室栽培地として分園を創設した東京府荏原郡東調布町上沼部(多摩川温室村)の地を朴して純然たる米国式の大規模の温室を建設し、従来成績不良とされていた輸入力-ネーション対して、多年在米中研究した方法に依って全く新しい栽培方法を採用して、前記の各品種の栽培に着手した。当時恰もカーネーション需要の急激な増加を示している折柄とて、此のカーネーション専門栽培は独りカーネーション界に多大の刺激を与えた許りでなく、温室花卉生産業としての営利的立場からも非常な変革をもたらし,爾後引続いて同地を中心としてカーネーションを専門的に栽培するもの続出し、同地をして邃に今日の如きカーネーションの大量生産地たる東洋一の温室村と化するに至ったのである。なお専業栽培者以外に東京市駒沢町の三井農園(三井弁蔵氏経営)に於ても昭和3年より4年の初頭に亘り英国よりマスター・ミッチェル・スツープ Master Michal Stoop、パレッテ Palette、スノー・ホワイト Snow White、ネロ  Nero、ホワイト・バール White Pearl 等を輸入栽培し,また関西方面に於ては桃山花園主岡本勘次郎氏が英・米両国より各色系の種類を輸入栽培している。各地方に於てもその後次第にカーネーションを栽培するものも現れ、東京市のみにても大震災以前は1簡年間の取扱高6、7万本、その価格約4000円であったが、今に於ては凡そ500万本、価格約25万円と称せられる盛況さに至った。栽培品種としては数年前迄はエンチャントレス系種が大部分を占めており、4、5年前にはラディーが全盛期を呈していたが、此の種の一般的普及と共に営利栽培として多量収穫不可能であるとの実際的立場から次第に是が栽培をなすもの減少し、現在に於てはスペクトラム(赤色)、ピンク・スペクトラム(鮭肉色)、ミセス・C・W・ワ-ド(温桃色)、モーニング・グロー(淡桃色)、ハーヴェスター(白色)、デンバー(淡紅色)、アイヴォリー(白色)等のものが首位を占めていると云った状態である。
 なお趣味的栽培としてはスペクトラム・エンチャントレス並びに国産各品種の外近来の輸入品種中のスペクトラム等の栽培容易の種類が素人間に栽培されているが、是は今後時代の推移に依って多少の変化のあるを兔れない。
 栽培技術並びに品種改良等に関しては欧米各国同様に各栽培家並びに各種園芸団体に依って研究され、その中で栽培技術の如きは最近特に著しい進歩の域に達しつつある有様である。その一例を挙げるならば4、5年前迄温室カーネーションの夏季収穫(夏切)を目的とするものは少なかったが夏期に於ける需要に迫られて2、3年前からは栽培家が各自研究し、此の季節中に蒙る病虫駆除を講ずると共に各品種の特性及び市況の点等を考慮して出荷し得るよう改良を加え、現に好結果を得つつある点である。
 なお昭和7年5月カーネーション栽培家に依って、是が研究機関たる大日本カーネーション協会が組織されたことは、我が国カーネーション界の発達の上に一段の進歩を来したものであると見る可く、現に同協会に於ては品種改良として協会員に実生研究を奨励し、品評会に於ても実生新花に対する優賞牌が寄贈されている程である。因みに昭和7年度に於ける同会主催の品評会に於ては実生新花出品者は僅かに菜花園、池田農園の2園に過ぎなかったが翌8年度に於ては実生新花の出品点数30余点に達し、別に3種の枝変が会員から出品されている。
 更に昨年(昭和9年)よりは東京帝国大学農学部教授理学博士今井喜孝氏に依嘱してカーネーションの遺伝に関する研究に着手し、既に第1回の交配試瞼が行われたが、是は興味あるものとしてその発表が期待されている。

※大日本カーネーション協会の総会記念写真


『実際園芸』第25巻7号 昭和14(1939)年7月号 土倉氏の一周忌のようす



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