温室村の生産者が出資してできた「みどりやフローリスト」と東京の状況 吉田鐵次郎氏の寄稿から
『実際園芸』第14巻第5号
※昭和8年に発行された米国、南カリフォルニアにおける日系人の花商の活動や歴史をまとめめた 「南加花商組合史」1933年(池上順一:編)に、吉田鐵次郎氏の寄稿したものがある。昭和のはじめ、戦争へと向っていく直前の時代について非常に重要な情報がつまった文章である。
この当時、東京にはすでに1500軒もの生花店があった。洋花の生産も増えており、需要も多くなりつつあった。アメリカから帰朝して昭和3年に新宿に店を出した経緯も、玉川温室村のおもに東京農大OBおよび講師が出資して店を出した、というのは生産者直売の非常に珍しいパターンで重要だと思われる。吉田氏の活躍で、東京の花商品やサービスが大きく進歩したという事実は大きい。
大正後期から昭和にかけて東京にも各地に花の生産者がいたが、静岡や長野など遠隔地からの花の流通が増えるにしたがってビジネスが厳しくなっていく様子がうかがえる。
昔の富裕層は、「お出入り」を大切にしていた、というのも興味深い。だから、明治後期から大正時代に花屋は無理をしても電話を設置し、富裕層に営業して「お出入り」になろうとし、お出入りを守ろうとしたのだろう。
吉田氏は、花屋の出店規制の距離が大きすぎることを問題だと指摘している。
「東京生花商組合が生存権保持という立場から、二町以内に同業花舗の新設を許可せぬ規約を施行して居ることは、将来ある商売としての非常な障害であると、私としても大に遺憾に感じて居る。」
2町は200メートルだ。排除の範囲がでかすぎて繁華街では出店に困る。
これが、現実に
1町=100メートルルール(1町離れれば出店OK)に直されているので、吉田氏の意見は通ったのだと考えている。
アメリカ、カリフォルニアの日系人花屋組合も同じような規定があり、日本人は彼らから組合の規約や方法を習っていると思われる。
※参照 花の宣伝について 吉田鐵次郎
https://ainomono.blogspot.com/2022/04/71.html
「南加花商組合史」1933年 池上順一:編から
東京市内の切花商の現況に就て 昭和8(1933)年
みどりやフロリスト支配人 吉田鐵次郎
創業当時の状況
私が大正十五年二月に米国から帰朝して、当地に於ける花舖を見た時の第一の感想は、予期以上に多量の西洋花卉が市場にも見え、街頭の各花舖でも売って居るに拘らず、その使用法が米国程に一般的に普及されて居ぬと云う事であった。それ故私は花舗を開店するに当っては充分に此点に着眼して、一般需要者に西洋花卉の使用法を教え、之を普及せしむる様にして経営するならば、今後益々欧米の生活様式が採用されんとしつつある日本に於ても、相当に前途活躍の余地あるものであると考え付いたのである。
そして、種々研究の結果嘗(か)つて在米中に親しくした長田(おさだ)傅氏が既に十年前帰朝して、米国式の大温室でバラを栽培して居ったので同氏にも意見を求めた処、私同様に西洋花卉の使用法の未だ充分でないことを遺憾とされて居た為め、同氏とは同窓でもあり且つ同様の考えを持たれた東京農業大学出身者の文華園主田島堅吉、双葉園主長谷信容、農大講師鈴木農園主鈴木譲の諸氏等と相諮り、日本に於ける欧米式な花舖を経営すべく合資の上で、昭和三年十月に四谷区新宿二丁目なる現在の場所に開業の第一声をあげたのである。
そして、田島堅吉氏が専務として内外の重要なる店務に当り、私が支配人となって仕入、販売方面の業務の経営を担当し、長田傳、鈴木讓、長谷信容の三氏は自園の温室にて栽培したる新鮮な花卉を店へ提供することになったのである。開店当時は花卉園芸界の漸次隆盛の緒にあった折柄とて、栽培者、販売者、市場等の間に可なりなショックを与え、殊に多年米国にてバラ、カーネーションの栽培の研究を積まれて帰朝し温室経営に携って居た生産者達からは、 多大なる期待をもたれ色々と声援してくれるという有り様であった。
※長田傳氏の温室所在地は、荏原郡馬込村大字天沼一〇(『全国著名園芸家総覧』大阪興信社営業所 昭和2年)
洋花使用法の拡張
元来、東京は無論のことであるが、日本に於ける切花商というものは、つい近年までは古流、遠州流、池の坊というような活花や、或は投入、盛花等に使用する切花が主なるもので、枝物類が多く比較的西洋花卉の切花を使用することは少なかったのである。
それ故、切花商は活花に適するものの需要が多く、ややもすれば西洋花卉の切花は等閑に附される傾きがあり、それがために開店当時は欧米花卉装飾に理解の無い一部の切花商からは異端視され、一般の顧客からも新奇好みの花舗というような偏見を持たれていたので、販路拡張の上に容易ならぬ苦心を要したことはういまでもない。然し一方、欧米を漫遊して彼地の事情に明るい人達や、在京の白人等で欧米の花卉装飾に理解ある顧客からは非常に歓迎され、クリスマスの装飾の如きには予想外の注文を受け、花籠、花束、等も他店のものより遙かに好評を博し、注文をされるという有り様であった。
一例をあげるならば、従来、日本では葬儀の際も花環か筒花が主とされていたのに反して、弊店では花環もスタンディングリース、フューネラルアンカー、ブロークンフヰール(※ホイール)というものや、花束でもウエディングやコッサーヂとか、其他筒花に代るに、ブロークンコルムというもの、又は其他、花籠等も様々な籠型と花の使用法に依って製作したので、霊前に之れを贈る側からも、又贈られる遺族からも葬送に相応しい花卉装飾として、漸次東京市内の各花舖が此れに倣うという様になって来たのである。
幸い現在では、冠婚葬祭を始め一般贈答用にも、花が盛に使用され、其の使用方法も著しく欧米式となりつつあるため、開店当時異端視されたり新しがられたことも今では一つの追憶談となってしまった。
然し、未だ欧米に比するならば花の使用も充分では無く、ダンスホールへ行ってもコッサーヂを挿して居る婦人は愚か、ボタンホールをやっている紳士を見ることなどは極めて稀れで、セイ・イット・ウイズ・フラワーという樣な標語がそのまま生活様式に這入るには未だ前途遼々たるものがある様に見える。
勿論、披露、送迎、贈答、見舞に花束、花籠、花箱が使用されては居るが、私の思うのに、顧客を指導する立場にある花舖経営当事者が更に一層此の方面に意を注いでゆくならば、花卉装飾はより一般に普及され使用量も増加するに相違ない。それ故、近来は不況打開と販路開拓のために、切花販売に直接携る花舗経営者も大に此点に着眼し、又、公私立の園芸学校、農学校の先生と学生達までが西洋花卉の使用法と装飾法を会得せんとして、私共の店に度々質問に見えるか、とにかく私の帰朝当時に比ぶるならば格段の進歩といわなければ成らない。
販売と仕入法
花舗と顧客の関係を見るに、米国では良い品を廉くするとか、仕事を上手にするならば顧客は直ぐに其の店に向いて来るを通例とするが、当地では、如何に技術が優れ、又良い花を廉く売っても容易に顧客は吸収され難い。
これは一つには日本の従来の慣例である「お出入り」という資格が、花舗にもやはりあるためで、「お出入り」以外の花舗からは買わぬということが、上層の特殊階級には最も著しい様である。従って積極的に、商品の質と技術の優秀で此れに切込んで行こうとしても、そこには種々の障害や事情が存在し容易ならぬ努力を要することはいうまでもない。次に花の仕入法であるが、以前は市内の花畑から郊外の温室或は露地の栽培者の許に仕入れに行くか、又は栽培者が花舗へ卸しに来たものであるが、私の帰朝する数年前に市内の各所に生花市場が設けられ、現在では此の市場へ市内の小売商が毎日仕入れに行って居るのである。
けれども、此の市場制度は米国加州の市場に於ける様に、栽培者が直接小売商に対して取引するのでは無く、市場が栽培者と切花商との間にあって卸売の斡旋の労を執り、市場は其の売上げの五分乃至一割と云ふ口銭を取って、市場経営の収入としているのである。
そして、その販売方法は市場の係員が競売に立って競ると、それを小売商が必要に応じて値段を付けて競上げて買い取るのである。従って名士が死去した場合の如きに於ては、平常は二十本一束四五十銭のカーネーションのホワイト・エンチャントレスが、葬儀用の花環の注文が各花舗に多量注文される結果、市場値段も一躍一円から一円四五十銭に突破したりする。之れに反して、斯る需要の無い時であるとラデーの如き優良なカーネーションでも、二十本一束が五六十銭という廉価を示して居り、値段の高低が時に依って著しき差違があり、それがために非常に仕入れに困る点がある。
又、栽培者が直接市場で小売商に販売するのでないため、栽培者としても一般需要者の趣向の推移を充分に知ることが出来ず、従って種類の選択ということも完全に知り得ずに居るので、充分に品物を改良して出荷しようという競争心もそがれておる。小売商としても、良い品を任意に栽培技術のすぐれた栽培者から直接仕入することが出来ないという不便がある。それのみならず品物が市場に前日の夕方かその日の早朝に運搬されたものを、漸く九時か十時頃市場が取引を開始するので、品物を仕入れて舖へ持ち帰るのは昼過ぎてなり、場合によって甲の市場から更に乙の市場へ回って仕入れたりすると、舖へ花を持ち帰るのが午後の二時頃になるという有様である。そのために品物も傷むばかりでなく、午前中に多量の注文があった時には之れに応じ兼る。その日に仕入れた品物が午後にならなければ店に陳列出来ぬという不便がある。私も帰朝当時は之を最も意外とした処で、機会あるたびに市場組合や切花組合の当事者に勧告して、早朝の市場取引を主張しているが、目下の処早速に実現しそうもない。
将来の見透
それでは当地に於ける花舖の將来は如何なる経営方法を以て臨むべきか。これは相当考慮を要す可き処で、日本でも東京と大阪とは事情を著しく異にし、また東京市内でも下町と山手とでは顧客の種類や趣向も違うから店頭に置くべき花卉の品種もこの点を参酌しなければならない。
現在、東京市内には約千五百軒の生花商舖があり、之等の同業者は昨年四月東京生花商組合を組織し。団体的な協方(※力?)によって斯業の発展に資して居る。そして各一流の花舖になると何れもそれぞれの特色を以て、それを其の花舗の広告としてあらゆる機会に利用して居る。
一方、一般人士も都会生活の煩雑化をば花に親しむことに依って潤そうとする傾向が日々に深まりつつあるので、各家庭は勿論、ビヂ・ルー厶にも或は喫茶店、レストラント等にも以前よりも相当多く洋花が需要され、市内の各生花商舗も之れに応ず可く競争的に、「花の頒布会」を設けたり、斬新な使用法を考究したりして、顧客の吸収策に腐心し他面又洋種切花の宣伝につとめて居る。
切花として高級花卉に挙ぐべきものは温室物では、バラ、カーネーション、これに次で百合類、スヰートピー、フリージヤ、スナップドラゴン、洋菊其他の促成、抑成物で、露地物では凡ゆる洋花が市場に出荷されて居る。
鉢物でも球根類、ハイドレンチヤ、蘭類、サイクラメン、プリムラ類で、年々欧米から新種類を栽培者が輸入するため、米国等と同様に沢山の種類の洋花がある。 それ故、これ等の洋花類を欧米式に洋花独特の花卉装飾を以て使用するのみならず、先に述べた様な日本在来の諸流の活花、投入、盛花等日本人特有の趣味をも見逃さずに臨機応変にとり入れ、和洋の短を補い長をとる様にするならば、一段と使用法の新工夫も案出されるものと思われる。 只、花の宣伝と洋花の普及の過渡期にある現在、東京生花商組合が生存権保持という立場から、二町以内に同業花舗の新設を許可せぬ規約を施行して居ることは、将来ある商売としての非常な障害であると、私としても大に遺憾に感じて居る。然しながら之れは必ず不遠(とおからず)撤廃さるるに相違なく、とに角、今後の東京に於ける生花商としては其経営の宜しきを得るならば、必ず尚お発展するに相違ない。
ノート
本稿を寄せられたる吉田氏は在米二十年を栽培・小売・卸し・シップング(※輸出入)・パッキング等を桑港(※サンフランシスコ)及び王府(※オークランド)に於て従事された方である。
【池上順一氏と渋谷の興農園】
興農園は国連大学付近にあったと思われる。
戦前、ニューヨーク、シカゴ等で花屋を経営、最後にロスアンゼルスで花卉装飾専門のU・Sフローリストを経営された池上順一氏は1934年(昭9)に帰国し渋谷興農園に勤務のかたわら、各所の学校に花卉装飾講座を設け、その普及に尽力した。
まもなく渋谷駅前にU・Sフローリストを開店。
その後、東京府立園芸学校(現在の東京都立園芸高校)で園芸と装飾を教えた。
ただ、残念なことにその後早世されたという。
※興農園は、「エリカ」を明治20年代に販売
https://karuchibe.jp/read/3945/
《エリカは明治の始めの外来植物の輸入時に来たものと考えられるが、営利栽培植物としては、明治20年ごろ東京の耕農園(注:興農園?)が売り出したらしく、同園の伊豆西浦農場(沼津市西浦町)に70年以上の原木(メランセラ)がある》
【青山生花市場沿革】
昭和26年 1951年 渋谷区渋谷1丁目1番地にて創業 21年間
昭和47年 1972年 世田谷区粕谷に仮移転 4年間
昭和51年 1976年 世田谷区上用賀に移転 25年間
平成13年 2001年 他の卸会社と合併し世田谷花きとして世田谷市場でスタート 21年目