コルデスの栄光と哀しみ 戦争に翻弄されたヨーロッパのバラ育種家たち 並河亮『薔薇と人生』から
『薔薇と人生』 並河亮 社会思想研究会出版部 1962年
参考 勝つとも負けるとも、私たちはすべてを失うだろう~ドイツの老育種家の言葉
https://karuchibe.jp/read/15614/
※並河亮氏について
https://ainomono.blogspot.com/2022/10/1962.html
バラを作った人たち
ドイツのバラ
ドイツの詩人ヘルマン・レンスの詩に「バラの光」というのがある。「紫の霞に、みどりの森が沈む。黒い蒼鷺が泳ぐ、濃い青の空のなかに。……空のかなたに赤く夕焼が燃える。暗い野原の水がバラ色に染まる。私は確かな眼で、夜のなかにふみこむ。まのあたり、私の愛のかがやくバラの光り」旧友植村敏夫君の訳である。印象的な限りなく美しい詩だ。バラの好きだったリルケに有名な「マリヤヘの乙女の祈り」というのがある。
見給え。われらの日々の寝部屋は
こんなに狭苦しく、こんなに不安で……
われらはみな、ひたすらに
赤いバラをあこがれている。
マリヤよ、あなたはきっと優しいにちがいない。
われらはあなたの血から花咲いたのだもの。
われらのあこがれがどんなものか
あなただけはおわかりになって下さる。
いや、あなたは、この女の魂の
悩みそのものを知っていらっしゃる。
ああ、乙女の心がクリスマスの雪のようで
しかも真の赤に燃えておりますことを。
(植村敏夫訳)
リルケは、愛する少女の臨終をバラとともに描いている。こんなに美しく悲しくバラが描かれている小説は少ないと思う。「女の眼はいつまでも悲しくひらいていた。何もみえなくなった人間の眼がこのように無邪気にあいているのが彼には耐えられなかった。彼は庭に出て、咲きのこった薔薇の蕾をきってきて、それを女の眼ぶたの上にそっとのせると、女の眼はもう開かなかった。女のつめたくなった手に彼はさわってみた。一ト晩じゅう夜露にぬれて爽やかな朝の微風のなかに冷えてゆく物の感触であった。そのとき女の顔に何か動いたような気がして彼はハッとして女の顔をみつめた。部屋のなかは深い水のように静かである。女の左の眼の薔薇がかすかに揺れた。そして右の眼の上の薔薇の蕾が次第に大きくなるような気がした。女の顔は死のやすらかさにかえっていたが、二つの真っ赤な薔薇だけは別の人生をみている無邪気な目のように、そっとひらくのであった。やがて静かな日が暮れて夜になった。彼はふるえる手で二つの薔薇をにぎり窓際に立った。咲きこぼれた花びらの重さにいつまでも揺れている真っ赤なバラ。死んだ女の見残した夢と命がその二輪の薔薇に宿るように思われた。彼が女からついに受けることのできなかったたのしい美しい夢がいま花をひらいたのである」
実に美しい描写である。リルケはほんとうにバラが好きで、庭にバラを植え、害虫をとりのぞいたり水をやったりした。リルケはバラの香りを愛し、バラの花粉を愛し、バラのトゲを愛した。彼は敗血症で死んだが、その病気の原因は、バラのトゲにさされた傷口からはいった毒のためだといわれている。
日暮れの庭に、二人は寄りそっていた。
黙って、じっとなにかに耳を澄ましていた。
「君の手は絹のように白い」
「そう」
彼女は不安そうに、声をひそめた。
何か庭のなかへはいってきた。
柴折戸は音を立てなかったが
花壇の薔薇が
いっせいにふるえている。
バラをうたった神秘な詩である。晩年になると、彼のバラの詩にはいよいよ厳しいものが深く力強く沈んでいることが感じられる。
おお薔薇、清らかな悲しい矛盾の花よ
花びらと花びらは幾重にも重なって眼ぶたのように
もはや誰のねむりでもない寂しいゆめを
ひしとつつんでいるうつくしさ
(大山定一訳)
これはリルケが生前、自分で選んだ墓碑銘である。リルケはバラのなかで死のうと思ったのである。ああ、バラの花吹雪のなかで死にたい、と思った。晩春、つるバラが花吹雪のように散って行くのをみる毎に、わたくしはリルケの詩をおもい、リルケが願ったように、バラの花吹雪のなかでわたくしも死にたいと思ったことが何度あったであろう。
ドイツのバラ、といえば、白い大輪のバラを想像する癖がわたくしにあった。なぜなのかわからない。ところがドイツの文学を読むとゲーテもシルレルもリルケも赤いバラが好きであったらしいことを知るに及んでわたくしの考えも変わってきた。イギリスはバラ色、ドイツは赤が中心である。そういえば、ドイツのコルデス博士が最近「昔からドイツでは白バラは売れません。商売にならないのです」といったということをきいて成程と思ったことである。が、ドイツ人が赤いバラを好きだということは商売とは無関係であるこというまでもない。
コルデスのバラ
「クリムズン・グローリー」というびろうど紅の大輪は、少しバラのことを知っている人なら十分見馴れているバラである。このバラこそは、今世紀第一のバラである。このバラに次いであらわれた今世紀の第二のバラは、黄金の花「ピース」である。クリムズン・グローリーとピース、この二つは現代バラの双璧である。実に沢山の豪華なバラがこの二つを親として生まれた。
「クリムズン・グローリー」(クリムソンと発音しないでほしい。明治のはじめ頃ならともかく、いまどきそんな発音はひどい)この世紀の名花をつくったのはドイツのウィルヘルム・コルデス博士である。
コルデス博士は過去五〇年にわたってバラの育種の研究に努力してきたが、コルデスが最も力を入れてきたのは耐寒性の強いバラ、抗病性の強いバラの作出であった。いかにもドイツ人らしい。であるからコルテスのバラを武蔵野の黒ボカのような病菌の多い軽い土に植えてみるとその強い樹性が目立つのである。霜の激しい武蔵野でも平気で育つ。いかにもドイツのバラらしく強健である。
コルデス博士は「クリムズン・グローリー」はじめ、すばらしいバラを数多く発表しているが、だいたい新しいバラを一つ作出するのに二五年はかかるそうである。「クリムズン・グローリー」をつくったときは約一〇〇〇個の種孑を播いてそのうちから気に入った苗一本だけを選んだという。だからこそあのような魔法のバラが生まれたのであろうが、それにしても、新しいバラをつくるということは、たいへんな努力と時間と根気が要るわけである。
コルデス博士は「黒いバラ」の作出に努力した時期がある。びろうど黒紅色のバラの高貴さは切花にして室内に置くと実に美しいものである。
「黒いバラ」といえば、コルデスには、若いころ、こういう経験がある。
コルデス博士は「思想の人」といわれているが、彼がバラに思想を託すようになったのは、或いは若い頃の彼の体験から自然そうなったようにも思われる。
コルデス博士は若いころ、イギリスのバラ研究所でバラの品種改良について勉強していた。そこへ第一次大戦が起こり、ドイツ人達は、捕虜収容所へ送られた。コルデスのほかにマックス・クラウゼというバラ栽培家もその収容所に入れられた。
コルデスやクラウゼをふくめたドイツ人の一団がはるばる船ではこばれたところは、アイリッシュ海のマンという島であった。長さ三ニマイル、幅一二マイル、冬は寒く、荒涼とした北海の孤島である。その小さい島にはアイルランド人でもスコットランド人でもない、フランスのブリターニュ人の子孫である純粋なケルト族が住んでいる。この島には、尾っぽのない猫がいる。岸に出てみると岩に打ち寄せる波のあいだに薄気味わるい大きい魚がおよいでいる。はげしい霧が島を蔽って二カ月も三ヵ月も消えない。島の粗末なバラックで寝起きしている捕虜達にとって耐え難い日が続いた。病人が出る。狂人が出る。そしてバラックの北の方の裸岩の上に小さい十字架が幾つも並ぶ。
或る日、コルデスとクラウゼはこんな話をした。
「この何日も消えない霧をみていると、妙なことを思いついたよ」とコルデス。「戦争が終わったら俺は灰色のバラをつくるよ」
「灰色のバラなんてバラの部類に入らないよ」
「ところがね、クラウゼ、このふかい霧も、時間によって色が変わるよ。朝はやわらかいラベンダー色になる。夕暮には不思議な色だ。ダンテの地獄篇の釜の火のように霧が恐ろしい赤になる。あのラベンダーとあの暗い赤……」
「よしてくれ、コルデス、もうバラなんか糞くらえだ。………戦争でこんな苦しみをするなんて!バラをつくるなら俺は呪いのバラ、黒バラをつくるんだ。まっ黒なバラだよ!」
その収容所にはメリーさんという未亡人が働いていた。息子が戦死をしたのでいまは頼る人もなく収容所で働いていた。親切で、若い捕虜達は、姉か母のように慕った。
きょうも静かな夕暮が来た。コルデスとクラウゼは岸の岩の上で話し合っている。
「あの夕陽をみたまえ、凄い色だ」とコルデスがいった。
「茜色というよりも血のような色だね。あんな赤はまだバラになかった。……クラウゼ、俺はあの色をつくりたいよ!」
その後コルデスは濃い赤にとりつかれた。島の夕陽はコルデスの心に焼きつき、彼は夕陽の色にまったく魅せられてしまった。そうだ。あの色をつくろう。煉獄の炎のようなバラをつくるのだ!
長い苦しい収容所生活だった。戦争は終わった。その晩は雪だったが、雪の上に大きいかがり火をたいてみなは踊り、歌った。メリーさんは Sweet and Low というアイルランドの民謡をうたった。…… "Sweet and low, sweet and low......Wind of the western sea......。
捕虜達は、船に乗り、祖国に帰った。
黒紅色のバラだ!
郷里のホルシュタインに帰るとコルデスは花粉交配によって新しいバラの品種をつくろうと一心不乱だった。敗戦のドイツの生活はすべてが不自由だったが、その苦しい生活のなかでコルデスの心には、一つの赤いバラの実が火のように燃えていた。あの島の夕陽の色をバラに固定させようと、一年、二年、三年、何千個の実をつくった。そしてついに一三年目に、神はコルデスの願いを実現したもうた。そのバラはヨーロッパをアッとおどろかした。いまは「グローイング・サンセット」(夕陽)と呼ばれているそのバラについて二コラ博士は、まさに沈む夕映えの色で、香りもすばらしいと絶賛した。
その赤いバラの苗がヨーロッパのバラづくり達に配られていたころ、スペインでは反動革命が勃発、スペインのバラづくりペドロ・ドットは銃をとって市街戦に馳せ参じた。一方コルデスとクラウゼの祖国ではナチが、ユダヤ人への迫害、虐殺を開始し、ムッソリーニは侵略軍に動員令を下しヨーロッパは騒然とした戦雲につつまれた。ドイツ宣伝相ゲッベルスは、コルデスのバラはドイツ民族の誇りであるといってコルデスに文化功労賞を与えようとした。コルデスは、ナチから勲章など貰いたくないといった。しかしゲッベルスはアルバイト・フロントに命じてコルデスの花畑のバラを摘みとらせ、そしてそのバラでヒトラー総統の官邸の豪華な部屋々々を飾った。
一九三八年三月一四日、ヒトラーはオーストリアに侵略の軍を進め、オーストリアという国名を地球上から抹殺して「大ドイツ国」の誕生を宣した夜、煌々と輝く官邸の部屋に匂っていたのはコルデスの「夕陽」であった。
ポーランドでユダヤ人の大虐殺が行なわれ、死体を焼く煙が風にのって流れているとき、山荘ベルヒテスガルテンの大広間の暖炉の上で焔よりも赤い花をひらいていたのはコルデスの「夕陽」であった。
コルデスは、平和をつねに求めている信念の人であった。自分が苦労してつくったバラがヒトラーの「栄光」を飾る具にされることは耐えがたかった。彼は夫人に、「もうナチにバラをわたしてはいかん」と命じた。しかし、きょうは六〇〇本のバラをとどけよ、あすは三〇〇〇本のバラを出せ、とナチから電話がかかってくる。ドイツ軍がオランダ、ベルギー、リュクサンブール三国の国境を越えて津波のように侵入したとき、オランダのバラづくりフェルシューレンはバラを棄てて銃をとり、ベルギーの植物学者オプドベークは剪定鋏を棄てて機関銃を握って立ちあがった。スペインのペドロ・ドットは自分のつくったミニアチュア・ローズを小鉢に植え、その小鉢を外套のポケットに突っこんで人民戦線の隊列のなかに加わった。フランスでは、戦火の拡大を食いとめようとバラづくり達は全世界のバラづくり達に檄をとばし、「マジノライン」という新しいバラを発表して士気を鼓舞しようとした。そしてフランス・バラ協会の決議にしたがってフランスの植物学者達は、バラづくりジャン・ゴージャールを先頭にバラをもって街頭に立ち、道行く人々に「みなさん、バラを買って下さい」「フランスの自由をまもるために」と呼びかけ、バラを売ってその金を戦災孤児救済運動に寄付した。各国ともバラづくり達のバラ畑は次第に野菜畑にかわって行った。コルデスもバラ畑の大部分を野菜畑にせざるを得なかった。
「夕陽」が象徴するように皮肉にもナチの天下に早くもたそがれが来た。
ヨーロッパの各戦線で連合軍は反撃に転じ、ソ連軍の放つ砲弾はコルデスの畑にも落下し、ベルリンの陥落はもはや時間の問題となった。
或る日、コルデス博士の家に一人の国防軍の将校がやってきた。彼はゲッベルス所属の武官からの手紙をさし出した。中には召集令状がはいっていた。「覚悟はしていたよ」夫人と二人きりになると博士はいった。「わしはナチからいつころされるかと思っていた。ゲッベルスはわしを殺すいちばんいい時機と方法を考えていたわけだ。では行ってくるよ。案外、敵の塹壕から馴染みの顔がとび出してくるかもしれん」 すでに髪の白くなったコルデス博士は、うすぎたない兵卒の軍服をき、背嚢を背負い、重い銃を肩に、最前線へとはこばれ、砲煙のなかに消えたのである。
第二次大戦は終わった。
コルデス博士は生きているであろうか。 世界各国のバラづくり達は博士の生死を気遣った。博士は、生きていたことがやがて判明した。
博士は生きている。今、写真を見ると、髮もあごひげも雪白で好々爺然としているがドイツバラ界のためになお活動を続けている。彼は荒廃したドイツにバラ協会を再興し、「瓦礫を片づけてバラを植えよ」と「ドイツ国民バラ園」の運動を全国に展開した。彼のつくった真紅の大輪「コルデス・ゾンデルメルドゥング」にバラ界最高の栄誉であるバガテール黄金大賞が授与された。
一方、マンの島でコルデスと捕虜生活を共にしたクラウゼの「グラナート」という黒いバラにも黄金大賞が与えられた。
コルデスやクラウゼがあの苦しい日を送ったマンの島の、あのメリーさんはこの世を去り、コルデスとクラウゼの贈ったつるバラが彼女の墓石にまつわりついて美しい花をひらいている。
ドイツには、タンタウというPolyantha専門のバラづくりがいた。Polyanthaは多花性で、しかも耐寒性、抗病性において優れているので、われわれ不精者にはありがたいバラである。しかも「フロリバンダ」には、従来のハイブリッド・ティになかったモダーンな色があるので、今では花壇になくてはならぬものとなっている。花は小さいが房咲で、長期間にわたって咲き続けるので花壇には必ず植えるべきものである。わたくしの好きなタンタウのバラには、「フロラドラ」がある。ちょっと類のない朱紅色。スコッチ・ペイントのあの明るい朱が独特のものである。朱色はポリアンサによってはじめてあらわれた色である。「ルミナ」は同じく朱紅色である。「コニャック」は杏色であるが、花弁の裏はやや濃い。こういう色はこれまでのバラになかったものである。
ドイツのバラづくりで最後に逸してならない人はP・ラムベルトである。この人が一九〇一年につくった「フラウ・カール・ドルシュキー」は豪華な白のクラシックとして有名である。ランベルトはいまランベルティアーナと呼ばれているすぐれた一群のバラをつくり出した。
「フラウ・カ―ル・ドルシュキー」は日本では「不二」という和名で呼ばれ、バラを愛する人でこのバラを知らぬ人はいない。わたくしの庭のそれはもう三〇年も咲き続けている。真っ白な、弁の厚い、いかにもバラらしい花形、葉や茎は明るい緑、トゲが多く樹勢もさかんである。この花とともにわたくしは半生を送ったので、ドイツのバラといえば白、という錯覚がしみこんだのであろうか。……このごろ、バラの苗屋さんに行ってこの花の苗を買おうとしても売っていないところが多い。このような古典的な名花こそ販売リストに入れておくべきである。