日本バラ会理事、並河亮氏のバラの思い出 『薔薇と人生』1962 あとがき
わたくしのバラ遍歴-あとがきにかえて
バラと親しみ出してからもう三十年以上になる。昔、本郷に「ばら新」というバラ屋があって、そこで貰ってきた色刷りの美しいカタログを大事にしていたが、戦後のどさくさでなくしてしまい、惜しいことをしたと思っている。
戦争中庭は野菜畑に変わったが、戦後、日本バラ会の努力でフランス、イギリス、アメリカなどから新種が日本へとどくごとに胸おどらせ、新苗が売り出されると早速買ってきて庭に植えた。日本バラ会の理事に選ばれたので先輩諸氏に会う機会もでき、そのご指導でずいぶん沢山いろんなバラを植え、バラはわたくしの生活の一部となった。
バラをはじめた人がいつもやるように、わたくしもはじめた当時は赤いバラを好んで集めたものである。しかし赤いバラが咲くと苦笑せざるを得なかった。うっとうしい日本の梅雨期に何十本という赤いバラは、よけいむし暑さを感じさせ、赤では庭も栄えないことを知って、白やピンクや黄色など明るい系統のものを加えて、ようやくバラ花壇らしくなった。戦後は、「ピース」や「クリムズン・グローリー」を親とした華麗な色がすっかり花壇の色を変え、また 「フロリバンダ」種がこれまでにないモダーンな色で花壇の色を変えて「ばら新」時代の三十年前のバラ花壇とはまったく異った様相を呈するに至ったが、それでなおわたくしは「フラウ・カール・ドルシュキー」や「バタフライ」やマクレディ家の古い伝統的なバラの清純高貴を愛し、花壇には必ずそれを植えてきた。クライミング・ローズも、「チャップリンス・ピンク・クライマー」など古いつるバラの古雅な味はやはり棄て難いものである。「ドロシー・パーキンズ」のような古い小輪の味もいいものである。それから、苦心して一重のバラを集めた時代がある。わたくしは花弁の多過ぎるバラはうっとうしくて好かない。可憐な、さっぱりした一重や二重のバラが好きである。一重で「ヴェスヴィアス」というバラがある。火山の炎の色だ。凄い色があるものである。
齢をとるにつれて淡い色を好むようになったらしいが、しかし、このごろの新種のもつ複雑な美しさにはやはり圧倒される。「スーパー・スター」という「ファッション」系統の色のバラが新時代をつくろうとしているといわれると、その苗を入手したいと思ったりする。
それぞれのバラには思想がある。そしてどんなバラにも美しさがある。そしてわたくしにとって、それぞれのバラには思い出がある。今は庭に植えていなくとも、或る時期に、夢中になったバラが多い。わたくしの人生の三十年間に心をこめて育てたバラは一つ一つ、わたくしの生活、苦しかった、或いはたのしかった生活の思い出の断片と結びついて、追憶のなかで、いつまでも炎が燃えるように、いまも生きているのである。
●並河亮(なみかわ・りょう)
著者略歴
一九〇五年島根に生まる
一九二九年東大法学部卒
NHK上海放送局長。MBS、TBS編成参与プロデューサーを経て
現在 日大芸術学部教授、日本放送作家協会理事、CM教室室長。
アメリカ文学の翻訳放送台本多数
受賞
第一回読売演劇文化賞。日本民放連賞、芸術祭奨励賞、芸術祭賞(団体賞)、モンテカルロ国際テレビ祭賞等
※並河氏のご子息は写真家の並河萬里氏