石井勇義が園芸を志した大正初期の辻村農園での活動についての回顧 昭和九年

※新潟におけるチューリップ球根の産地化がはじまるのは、欧州大戦(1914~1918)が終わった影響が大きい。それまで、球根の輸入がしばらく途絶えていた。新潟では、小田喜平太が大正8年(1919年)に本格的な栽培を開始しており記述と合っている。

※その後、23年の関東大震災で横浜港が使えず神戸に荷揚げされた東京農産商会のチューリップ球根の多くが新潟に回って産地化を進める一つの事件となった。

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『実際園芸』第17巻第6号 昭和9(1934)年増刊号


球根栽培の発達と普及


石井勇義


 筆者が花卉園芸の実務に従ったのは大正二年からであったが、当時小田原なる辻村農園の圃場にオランダから輸入の多くの球根草花類を取扱って、その色と香とに陶酔したものであった。それらの球根草花は当時に於ては未だ今日よりも珍らしきものであり、その頃辻村農園はオランダから球根を輸入する量に於ても一、二番であったが、今日に比すれば微々たる数であったに違いない。その後間もなく、欧洲大戦乱が起り、球根の輸入も年と共に減ずるに至り、大正六、七年頃からは全く杜絶するに至った。筆者は欧洲開戦については一つの懐古がある、園芸の労働に従事して間もなかった筆者は、殆んど十二時間の労働なのに、園芸について全く無知識であった為めに毎夜大抵十二時から二時頃まで園芸書を読みふけったものであった。その時には現代のベーレーの園芸辞典はなく、辻村農園の図書からその前版である米国園芸辞典を借りて来て辞書と首引で勉強したものであったが、過労が原因で腸チフスに冒される事になり、夏中病臥し安静を続けている間に欧洲戦乱が勃発したので、新聞を読む事を全く禁じられて居た筆者は餘程おくれてそれを知ったのであった。この事は球根栽培とは少しも関係はないが、始めて園芸に従った当時の思出の一つであった。

 かくして欧洲戦乱が年と共に拡大し世界の経済界、海運界に非常なる影響を来すようになって来るに従って、球恨の輸入は殆ど絶望に陥り、内地産の貧弱な球根で僅かに需要を満たしていたに過ぎなかった。大正十年前後から、その球根の輸入も復活し、内地に於ける栽培も本格的に進んで来たように記憶している。林脩已氏が千葉県に球根試験場を起し、爾来輸出の目的にて多大のチューリップをオランダから輸入して栽培を始められたのもその頃であった。一方新潟県下に於ても球恨の生産に着眼されて、ここでは一つの産業としての栽培が起り、今日の端緒が開かれた様に記憶している。

 一方関東大震災直後から一般花卉園芸が急速なる発達を見るに至って、球根栽培も一つの産業として、堅実なる地歩(ちほ)を歩み出すようになって来た。その当時より新潟県下は他に先んじて一つの産業として発達せしむべく、栽培の奨励、品評会の開催等に、県当局と民間当業者とが協力して行われた結果今日の基礎をなすに至り、全く立派なる一つの花卉産業としての地歩を確立するに到った。県当局の多くは花卉園芸を以て道楽視して居るものが多く、当業者のかかる企てに対して特別の補助をなすが如きは未だ例を見ぬところであるが、その事あってか今日では兎に角内地の需要を充す外に、海外に輸出するの域にまで達したのである。園芸生産品は現在五億に達し、蔬菜が三億、果実一億、加工品及び花卉で一億という統計になっているというが、農林省には園芸課というものがなく、副業課の一部に属している有様で、農林省の上司に於てすらも園芸を一つの道楽業視して居るものが多いとは関係専門家の嘆声である。国立園芸試験場の予算が一億の試験場の予算より著しく少額であったり、県農事試験場で花卉を栽培するが故に県会に於て農事試験場予算の減額が提出されて居るという様な滑稽さえある。我国は趣味としての花卉園芸の発達は世界にその類例を見ないところであるが、最近はまた帝大に花卉の講座が開かれ、高等園芸学校は勿論、高等農林学校等に於ても順次に花卉の研究に開心を持つ様になって来ている事は欣ぶべき趨勢である。

 花卉園芸の綜合的の進歩に伴って球根栽培の科学的研究を要すべき事は亦極めて多い。球根の研究は内地の需要品にも無論必要であるが、まづ第一に輪出品に向けられなければならない。我国に於ける球根の輪出品と言えば百合類である。これに対しては国家当局が早くより改良進歩の方策を講ずべきであった。偶々(いよいよ)輸出植物の改良事業が企てられたとすると、その結果は輸出当業者から見てはあまり見込みなき結果であった様に聞き及んでいるが、そうした花卉よりも真に国産の増加を計り、園芸をして輸出産業たらしめんには、現在輸出されて居る百合、チューリップ等の如き方面より着手すべきで、品種改良の如きも全く輸出向きという事に最初より目標を定めて進むべきであると考える。

 そうした輸入品としての球根の進出を計るという事は、急速には出来ぬとしても国家事業として決して等閑に附すべきではないと考える。我国からのすべての輸出品が世界の市場に大飛躍をやっている今日、園芸品の世界的進出も企てて然るべきであると考える。

 今回の増刊にあたりては、産業としての球根栽培の一層の普及を計ると共に、家庭園芸者に対して十分に球根花卉の取扱方を普及せしめんとしての企てである。故に球根の営利栽培として、発達している新潟県下及び富山県下に於ける実際を紹介すると同時に、夫々の球根に対して、出来得るだけ多方面の経験を集める事につとめた。大阪府下の水仙とアネモネ、長崎県下の輪出百合、埼玉のアネモネの如きもその一例である。その他のものは多くすでに本誌に発表された事があるので省略する事にした。

 球根を主としたる家庭園芸について、もっと徹底的に述べるつもりであったが、それが実現出来なかった事は遺憾であって、筆者の発表のみで責めを塞いだ次第である。

 

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